花影恋歌

1.恋鎖

 放課後の保健室。
 夕暮れに染まり静まり返った校舎とは裏腹に、保健室は今日も賑やかな声で満ちていた。女子高生たちの嬉々とした声が、ドア越しにまで響く。それは、今に始まった光景ではなく、この学園ではほぼ日常化している光景だった。
「ねえ、櫻井先生。もう学校終わるんでしょ? 私たちと一緒にこれからどこか行こうよー」
「そうだよ。昨日も用事があるとか言って逃げちゃったし」
「うーん……でもまだベッドで寝てる子がいるからね。おまえたち先に帰れ」
「ええー! 今日もだめなのー?」
「じゃあもうちょっと待ってるから、その後ならいいでしょ?」
 女生徒が強請るように白衣の袖を掴む。だが、その手はやんわりと遮られた。
「もう暗くなるのも早くなってるんだから。ほらほら、とっとと鞄持って出てけって」
「ちえーっ。なによー。彼女いるわけじゃないのに、先生だって放課後暇じゃん」
「暇じゃないよ」
 そう言いつつ、薫は眼鏡越しに白いカーテンが夕日に照らされた一角を見た。そこには、一人の少女が眠っているはずなのだが、やけに静まり返った雰囲気が、寝息さえひっそりと潜めてこちらを窺っているように思わせる。
 ――きっと聞こえてるな……。
 病人が訪れる静かな保健室とは名ばかりの、ただの雑談室になりつつある放課後の保健室。昼休みもその賑やかさは大して変わりないが、放課後とはまた別物。昼休みの場合は、午後からの授業が始まるまで、という時間制限があるだけまだマシなのだ。
 だが、放課後の場合はきつく注意を促さない限り、制限はないに等しい。年頃の女子高生とはどうしてこんなにも引き際をわきまえていないのだろう。薫が彼女達をいくら部屋から追い出そうとしても、簡単に聞き入れてはくれない。
 しかし、ポーカーフェイスでいつも穏やかな笑みを絶やさない麗しの校医、櫻井薫は、そんなことを思っているだなんて微塵も見せたりはしないが。
「寝てる子なんて放って行っちゃおうよー」
「そうだよ。起きたら適当に帰るって」
 一瞬、綺麗な薫の眉がピクッと上がった気がしたが、女子高生たちはそれに気付きもしない。ただひたすら、この校医を外に連れだそうと必死である。
 彼女たちがそれほどまでに薫に夢中になるのは無理もない。まず、このルックス。長身ですらっとした出で立ち。そして驚くほどに整った顔立ちは、無表情にしていれば氷のような冷たいシャープな美貌をしているものの、いつも浮かべている優しい微笑と、落ち着いた大人の雰囲気、そして誰とでもすぐに打ち解けるフランクな性格のせいもあって、周りの人間を不思議なまでに惹き付ける美青年だった。それ故、いつも女性の影がちらついては離れない。
 しかし、はっきりとした浮いた話は一つもなく、それがいっそう女生徒たちの競争心を煽っている。今現在保健室から離れない彼女たちの他にも薫に夢中な生徒は大勢いるし、同職の女教師たちが薫を色仕掛けで誘うこともけして珍しいことではなかった。美形の校医がいるという噂は校外でも有名で、わざわざ学校まで見にくる人間までいるほどだ。
 だが、薫にしてみれば、どの女性たちも薫の中身を見て好きになっているわけではなく、その外見を気に入り、彼氏にすることのステータスを狙っているだけのようにしか思えてならなかったのである。正直なところ、本気で恋愛に溺れるということはなかった。――今のところは、だが。
「私、寝てる子に、調子が戻ったら適当に帰るよう言ってくる」
「おい。ちょっと待て」
「痛っ」
 無理矢理にカーテンを開けようとした女生徒の腕を、咄嗟に薫が掴んだ。無意識に掴んだ手の力が強かったのか、女生徒が一瞬顔をしかめた。しまった、と心の中で呟き、すぐさま手を離す。そして、一瞬わきあがった怒りから平常心を取り戻した。
「あー、ごめん。でも、そんなに聞き分けのない子は、先生は嫌いだな」
 わざと困った風に見せる表情は、彼女のたちの気持ちをやんわりと抑制した。
「だって……、じゃあいつになったらデートしてくれるの?」
「もうちょっと大人になって、いい子にしてたらな」
 そう言って、薫はにっこりと微笑み、女生徒の額をピンと指ではじいた。女生徒は、はじかれた額を指で覆って、すぐさま真っ赤になる。そんな愛らしい姿は、やはり聞き分けがないとは言え、女の子である。
「だから今日は帰れ。おまえたちは聞き分けのいい子だろ?」
「……はい」
「よし、いい子だ。ほらほら、じゃあ二人ともまた明日な」
 女生徒たちを促し、保健室の外へと追いやった。手をヒラヒラと振り、極上の笑顔で見送る。『また明日ねー』と、遠くでまだ声が聞こえていたが、その声が聞こえなくなったところで、パタンとドアを閉めた。

 瞬間、さっきまでの賑やかさとは逆の、怖いくらいの静寂。静寂の中で、ひっそりとしていた息遣いが、姿を現した。
「あの……先生。……私もう大丈夫なんで帰ります」
 カーテンに細くて白い指がかかり、ゆっくりと開かれる。サラリと靡く、綺麗な長い髪。そしてベッドからしなだれ落ちる細い足に、一瞬ゴクリと薫の喉がなった気がした。
「どうもありがとうございました」
 俯き加減で影を落としていた顔をゆっくりと上げる。その面立ちは、透き通るように白い肌に、大きく愛らしい瞳、紅を差さずとも紅く零れそうな唇、どれをとっても美少女という名に相応しいものであった。
 ――真中美緒。
 この学園で、一番と称されている美少女だ。誰も言わずとも、その容姿を一度見ただけで納得するほどの愛らしく美しい少女。薫も例外でなく、美緒の美貌にはいつも惹きつけられるものがあった。生憎、午後からずっと体調を崩しているというだけあり、顔色は未だすぐれなかった。
 自然と見惚れていた薫が、『ありがとう』という言葉にハッと我に返る。さっきまでのポーカーフェイスが少しだけ崩れ、慌てた表情に変わった。
「真中。まだ顔色が良くないじゃないか。もう少し寝てろ」
「でも……もう放課後だし、帰ります」
「しかし……ほらっ。まだ足がふらついてるじゃないか」
 帰ると言い張る美緒は、ベッドから下りて靴を履き立ちあがると、途端立ちくらみに襲われたのか、またベッドに座りこんでしまった。
「大丈夫、です」
「たとえ放課になったとしても、まともに歩けない生徒を帰すわけにはいかないんだよ」
 頼りなげな声には、説得力など皆無だ。薫は咄嗟に美緒の横へと寄り添った。
「先生にはご迷惑かけられません」
「そんなことは気にするな。俺も別にすることがあるわけじゃないし、いくらでもおまえに付き合うよ」
「いいです。そんな、私だけ先生を引き止めておくわけにはいかないから」
 やっぱり聞いていたのか。内心薫が思った。そして、なぜか後ろめたい気持ちが薫の心中を駆け巡る。
 生徒を差別することもなければ、誰にでも分け隔てなく接する薫ではあるが、なぜか美緒にだけは勝手が違った。特に多く話したことがあるわけではない。美緒は元々病弱なこともあり、保健室で休むことは頻繁にあるのだが、過ごす時間のほとんどは眠っているし、授業を持ってるわけではない薫にとっては、それ以上美緒と接する機会はない。他の女生徒とは違い、薫が気軽に話しかけても、同じように軽く返してくるのではなく、校医と生徒という立場をわきまえている大人しくも賢い生徒なのである。礼節をわきまえ、優しく控えめで。だからこそなのか、薫は美緒に対して一目置いているのと同時に、どこかしら近寄りがたく、そして興味深く思ってさえいた。
 本人はそれが恋なのだと、未だ気付いているわけではないけれど。
「おまえはあの子たちと違って、ここにいる理由があるんだから、そんなの気にするな」
「……嫌なんです」
「何が?」
「なんとなく……」
 美緒が俯く。言わずともわかっている。他人の目を気にする美緒にとってみれば、薫の周りにいる女生徒の視線というものは、鬱陶しいより他無い。気にするな、と言われても気にするのもわかっていた。授業中の、保健室に誰もいない時はともかくも、放課後にまでその場にいるのは居た堪れなかったのだろう。もちろん、仕事の邪魔をしたくない、という気持ちも含まれているが。
 他の女生徒達とは、本当に真逆だ。そんな控えめな美緒の性格が、尚、薫の興味心をくすぐる。
「まあまあ。いいからおまえはもうちょっとここで寝てろ。俺もおまえが良くなるまでここにいるから」
「でも……」
「でもじゃなくって、寝てろっての」
 無理矢理美緒をベッドに押しやる。少し抵抗を見せる美緒も、その力強さにトン、とベッドに身を倒した。あまりに簡単に倒れたものだから、その反動で薫の身体も、美緒の上に覆い被さるようになる。
「あの……先生?」
 なぜなのかはわからない。わからないけれど、下から見上げる愛らしい瞳に、薫の視線も外せなくなる。
 こんなにもしっかりと美緒の顔を見たのは初めてかもしれない。その深い色をした瞳に惹きつけられ、一瞬何もかもの思考が飛んでしまう。
「先生……?」
 美緒に呼ばれて我に返った。再び薫の視界に映る美緒の瞳。何をしていたのだろう、そう考えるとなぜか自分で自分が恥ずかしくなった。
「あはは。真中があんまりびっくりした顔するから見入ってたよ」
 無理矢理な言い訳で薫は自分を誤魔化した。大人気無くも、ドキドキと胸が高鳴っているのがわかった。だが、ポーカーフェイスの薫の表情からは、美緒には少したりともそんな本心は読み取れない。
「もう……からかわないで下さい」
「ごめんごめん。でもおまえ力弱いんだな」
「そんなことないですけど……男の人がこんなに力が強いなんて知らなくて」
「何? 今まで彼氏とか作ったことないのか?」
 美緒は大きく頭を振った。
「ないですよ! ……というか、男の人とこんなに近づいたこともないです……」
 意外な美緒の台詞に、薫が瞬間呆気に取られる。まさかこんな美少女に男性経験が一度もないとは思っていなかったのだ。赤くなった頬を手で覆って恥ずかしがる美緒はとても可愛らしく、純真そのものな姿が薫の男心を刺激した。薫の胸の中で、男の本能とも言える鬼畜な感情が火を灯す。
 ――いじめてやりたい、と。
「じゃあ、触ったことも無い?」
「……え?」
「男の身体」
「……何言ってるんですか、先生」
「教えてやろうか。俺が」
 戸惑うように薫を見上げる美緒の視線が、曖昧に揺れていた。その瞳の中に自分を見た瞬間、薫の中に潜むいつもとは違うサディスト的な本能が、見え隠れしていた。
 誘いに乗れば、触れたいなどとは思わなかったのかもしれない。拒否されれば、理性を取り戻せたのかもしれない。けれど、美緒の心が揺れたから、薫の平常心も奪われる。

「冗談言ってないでどいてください」
「逃げたいなら逃げれば?」
「……っ!」
 挑発され、美緒の瞳がまるで睨むように薫を捉える。美緒の身体の両脇を薫の両腕が上から覆い被さるようについており、薫がどかない以上、美緒は身動き一つとれない。ましてや、吐息がふれそうなほど近くにある薫の顔のせいで、置きあがるなんてことは絶対にできない。
「どうした? 逃げないのか?」
「いじわるしないで……」
「意地悪してるのはどっちだ? そんな可愛い顔して、まるで襲ってくださいと言わんばかりじゃん」
「そんなこと、私知らない……」
「ちゃんとこっち見て。ほら、何もしないから」
 美緒の顎に手をかけ、正面を向かせた。眼鏡越しの薫のシャープな瞳が、美緒を逃がすまいと射る。
 ──こんなに色っぽい男の人、見たこと無い。
 美緒がそう思ってしまうほど、薫の切れ長の瞳は彼女を見据えて離れず、そして美緒もそこから逃れられなかった。いや、女の直感が、心の奥底に眠る本能が、この男を欲していたのかもしれない。絡みあう視線に、美緒の中の女の部分の何かが、動き出した気がした。
「なんでそんな泣きそうな目するわけ?」
「だって……先生が無理矢理こんなことするから」
「まだ何もしてないけど?」
「……まだ?」
 何を考えているのかがまるで分からず、美緒は知らず薫の瞳の中を探ってしまう。怯えているかのように黒目がちの瞳が揺れ、そこには薫の表情が映し出されていた。
「そんな顔しないで。抑えられなくて、おまえに色々してみたくなる」
「何をですか?」
「ん? ……さあ、なんだろう」
 美緒の潤んだ瞳に、欲情が刺激される。触れてはいけない女神に、自ら触れる禁忌を犯す、甘くも痛い感覚。
 分かっている。校医と生徒という関係でありながら、こんなことをしてはいけないことくらい。なのに、触れてはいけないという気持ちよりも、汚してみたいと思う気持ちの方が、薫の中で勝った。
「……っ! イヤッ!」
 薫の手のひらが、美緒の細い足をなぞり、滑る。スカートをまさぐると、脚の間に容赦なく手を差し込み、美緒の一点の蕾に指を押し当てた。途端、美緒の身体がビクリと跳ねる。悲鳴に少し似たような、そんな小さな声をあげる。だが、弱々しく薫の胸元を掴む美緒の手は、拒んでいるようには思えなかった。
「ん? 何がイヤなの?」
 耳元で囁くと、美緒が固く口を閉じる。
「本当にイヤなの?」
 だが、それもすぐに声とともに崩れていく。
「あっ……先生っ……」
 優しく、紳士的なまでになであげる。触れているか、触れていないのかほどの加減は、初めての美緒に対する優しさからだった。最初は抵抗を見せた美緒も、徐々に脚を開き、薫を受け入れ始めた。白衣を掴む腕に力が篭り、吐息に妖艶さが混じる。
 やっぱり女の身体は神秘だ、と薫は思わずにはいられなかった。そして、少女を恥辱する快感に、心がうっとりと満たされる。
「こんな風に触られたことないだろ?」
「あ、あたりまえ……ですっ……」
「どんな感じ?」
「やだぁ……先生やめて……」
「やめていいならやめるけど?」
 やめろ、という言葉とは裏腹に、美緒の身体は確実に薫を受け入れ、触られている部分は少しずつ湿り気を帯び始めていた。触られるたびに身悶え、そして控えめな甘い声をあげる。息遣いは荒く、さっきまで青白いほどだった頬は、上気している。
「やめようか?」
 いじわるな質問。やめる気などないくせに。やめてほしいなどと思ってないこともわかっているくせに、あえて美緒に答えを求めるだなんて。
「……っ」
 しかし、純真な美緒には、自分から懇願する言葉を口にはできなかった。口にしようものなら、きっと恥ずかしすぎて死んでしまいそうになる。喘ぎ声さえ、必死で拒もうとしているのに。ましてや、頭の中は快感で霞んでおり、何もまともに考えられない。
「可愛いなぁ……おまえ」
 そんな美緒の気持ちを察してか、薫はそれ以上は求めず、ただひたすらに美緒を優しく愛撫した。薫の腕の中で身を捩る姿が、愛くるしくてたまらなかったのだ。言葉こそいじわるだが、見守る眼差しは恋人を慈しむようだった。そして、恋人同士の『特別』を、美緒にしてみたくなる。
「なあ、真中。おまえ、キスは?」
「……え?」
 ハァハァと喘ぐような呼吸をしつつ、美緒がうっすらと瞳を開けて薫を見上げた。
 ──キス?
「キスしたことあんの?」
「なんでそんなこと……」
「キス、したいなと思って」
 キスってなんだっけ。と、美緒はそんな簡単なことも考えられなくなっていた。
「いい?」
 薫は、美緒の許可を得るまでもなく、ゆっくりと屈み、彼女へと身を寄せた。軽く触れるだけのキスを、美緒の唇にそっと落とす。初めて触れ合った感覚に、二人の唇が軽く震えた。
「んっ……」
 まるで眠りから覚めるように、美緒がはっきりと意識を取り戻した。見上げた美緒の視線の先には、身震いするほど美しい薫の美貌。それがやけに、現実離れして見えていた。
「先生、今……」
「ん? もっかいして欲しい?」
 薫が優しく微笑んで、曖昧な美緒の視線を優しく絡めとる。そして確かめるように、もう一度優しく。二度目に触れ合った唇は、やけに熱を持ち、まるで溶け合ってしまうかのようだった。
「どう? 俺の特別」
 唇を離してにっこりと微笑む薫を見て、美緒が途端に真っ赤になる。今まで虚ろだったのは嘘だったかのように。
「えっ……今、キス……」
「そう。キスしたんだよ。おまえがあんまり可愛いから、したくなった」
「か、からかわないで下さいっ!」
 キスだけは特別だと思っていたのに……。
 美緒は唇に両手を当て、薫を凝視した。
「いやだったか?」
「いやとか、そういうことじゃなくて……」
 気持ちも確かめたわけじゃないのに、奪われた唇。初めてのことばかりで、美緒の心はその現実に追いつくことができない。
「先生は私をからかって楽しいのかもしれないけど、私は、私は……初めてだったのに……」
「わかってるよ」
「わかっててしたなんて、ひどい……」
 ひどいことをしただなんて、薫は思っていない。あの瞬間、美緒を欲した薫の気持ちは確かだった。愛しい、と、そう思った。それは、美緒だけの『特別』であることには変わりないから。
「やっぱ、怒る顔も可愛いな。いつも穏やかな真中のこんな顔見れるのなんて、俺だけかも」
「見ないで下さい……」
 今にも泣きそうな顔をして、美緒が顔を覆う。からかうな、なんて無理な話だ。こんなにも愛らしくてしかたないのだから。
「イヤだった?」
「……え?」
 美緒は顔をあげ、核をつく質問に耳を傾けた。
「俺とキスするの、そんなにイヤだった?」
「イヤ……じゃない……」
 ――先生は、ずっと憧れの人だったから。
 そう言いかけて、美緒は言葉を飲みこむ。本当は、出会った頃からずっと憧れていた。美しい容姿も、優しい雰囲気も、薫の持つ全てに惹かれて仕方がなかった。でも、けしてそれは言わない。なんだか負けるような気がして。
「こんなに可愛い真中を知ったからには、俺ももっといじめたくてしかたなくなるよ」
「どうして?! 私のこと好きじゃないのに……」
「おまえは俺の特別。さっき言っただろ?」
「え……どういう意味……」
「言っとくけど、俺は特別な女にしか、こんなことはしない。……おまえにしかしないから」
「それって……」
「つーか、顔色良くなったなあ。良かった良かった」
 戸惑う美緒の頭に手を乗せ、クシャクシャと髪を弄った。薫のその手の感触があまりにも優しいことを、美緒は無意識に感じていた。
「先生、特別って……」
「外も暗くなってきたし、もう帰るか」
 美緒の質問をはぐらかすように、薫が話題を変える。外に目をやるともう薄暗く、保健室を照らしていた夕陽は姿を消していた。
 やはり、冬は陽が落ちるのがはやいな……。
 そんなことを考えつつ、薫は美緒からそっと身体を離す。
「先生……あの、私……」
 混乱するのも無理はない。男として薫を意識していたかどうかは別として、初めてのことばかりで戸惑っているのだろう。愛しているとか、恋だとか、そんなことを自覚するのはもっと先でもいい、と薫は思っていた。ただ、これからももうちょっと、美緒と関わってみたい。そんな気持ちを確かに感じていた。
 特別が、恋に変わるかどうか、これから楽しみだ。
「また、明日も来いよ?」
「え……」
「続きはまた今度、だな」
「も、もう来ませんから!」
「おまえはまたしてほしくなるって」
「なりません! もう、先生とは会いませんから」
 そう言い残して、美緒は小走りにドアへと向かった。なぜか泣きそうだった。イヤだったとか、そんな感情ではない。これがなんなのかわからない。
 ただ、憧れだった人に辱めを受けた。その事実が彼女を困惑させていた。
「真中! 続き、してほしくなったらいつでもおいで」
 後ろから楽しむようにかけられる声に返事も返さず、美緒はバタンとドアを閉め、そしてその場に立ち尽くす。
 イヤなのに。イヤなはずだったのに。イヤでなくては、いけないはずなのに――。
 『特別』という言葉が、ずっと頭の中でかけめぐる。甘い麻酔のように、美緒を麻痺させる。
 奪われた唇は熱く。触れられた女の部分は溶けそうで。なぜかわからないけれど、またここへ訪れてしまう そんな予感がしていた。

 それが、二人の恋の始まり――。

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