花影恋歌

10.指先に秘めた恋

 最近、噂が絶えない。
『結城先生と櫻井先生って付き合ってるみたいだよ』
 そんな言葉がちらほら聞こえてくる。聞かないように拒んでも、あまりに肥大しつつある噂は、美緒の抵抗をもいとも簡単にすり抜けて届いてしまうのだ。
 噂になった根本的理由は、麻里の態度の変化にあった。それまで、誰からも好かれていた麻里は、その反面誰とでも一定の距離を置いており、特定の人間に対し特別扱いをするなんてことは絶対になかった。しかし、最近は目に余るほど、薫にべったりなのである。抱き合ったりキスをしたりしているわけではない。ただ、いつも薫の元にいては、熱心に話しかけ、笑顔が絶えないのだ。周りにいる女生徒へのあてつけ? そうとも取れるほど、麻里の薫への行為はあからさまだ。
 美しい一対の男女。確信できるほどの行為を見せられたわけではなく、どちらかというと麻里が一方的に薫に寄り添っている感じではあるが、お似合いの二人はこうして二人でいるだけで、カップルなのだと周りに思わせる存在感があった。
 櫻井が相手ならと、ため息交じりの男子生徒と、櫻井先生に手出すなんてと、憤慨する女生徒。
 今この学園では、この話題以外ありはしない。


「それにしてもびっくりだよね」
 前の席の椅子を後ろに向け、足を組んで座るえみが、突拍子もなく話題を切り出した。またか……と思うものの、美緒はあえて顔には出さず、受け答えをする。
「結城先生綺麗だもんなあ。やっぱ櫻井みたいな男がお似合いだよね」
「……そうだね」
「でも、私もちょっぴり櫻井狙ってたからショックー。そういや美緒って櫻井と仲良かったよね?」
「別にいいってほどじゃ……」
「あれ? そうなんだ。よく保健室にいるし、この間櫻井も美緒のこと探したりしてたから、てっきり仲いいんだと思ってた」
 探してたとはいつのことだろう? ふと疑問に思ったけれど、途端いつのことか気付いた。麻里と薫が抱き合っているのを見た次の日だ。思い出したくなかった出来事を無理やり穿り返された気がして、美緒は少し落ち込んでしまう。
「でも、私はどっちかっていうと、結城先生よりは美緒の方が櫻井に似合うと思うんだけどなあ」
「どうして?」
「なんつーか、櫻井って格好いいんだけど、何考えてるかわかんないとこあるじゃん? 良く言えばポーカーフェイスで格好いいんだけど、悪く言えば誰にも心を開いてない感じ。だから、美緒みたいなさ、癒し系で可愛い女の子の方が合うと思うんだよね」
「私が癒し系?」
 思いもかけない褒め言葉に、うっかり笑いが零れてしまった。癒し系など今まで言われたことはない。薫に言われていた言葉も、『どんくさい』とか『ほっとけない』とか、どちらかというと癒し系とは程遠い言葉ばかりだ。
「あ、自分じゃやっぱ自覚してないんだね。なんかね、美緒って一緒にいて安心するんだよ。そういう雰囲気持ってんの。だから櫻井みたいなタイプも美緒が相手なら心開いてくれそうじゃん? それに、学園一の美少女だったら、櫻井と並んでもつり合っちゃうと思うけど」
「褒めすぎだよ。それに、櫻井先生とは本当にそういう縁ないし」
「ま、結城先生っていう美人の彼女がいたら、誰も入る隙はないよね」
 ――彼女。
 薫の彼女は自分ではなかったのかと、胸の中に問いかけてみても、はっきりした答えは出ない。キスはしても、抱かれたことはない。愛していると、言われたわけでもない。不安で不安でどうしようもなかった。
 やっと見つけた美緒の居場所をあっさりと奪っていった麻里。彼女を嫌いじゃないから余計に苦しいのだ。何においても自分より勝っていると、いつも思っていた憧れの女性。その女性が相手で、なぜ勝てるなどと思えようか。
「あ、噂をすればなんとやらだ」
 えみがこっそりと耳打ちをした。小さく指をさした先は、さっきまで話題の中心だった薫と麻里だった。往来の激しい廊下だというのに、人目も憚らず二人一緒に歩いていた。
「でも、櫻井も隅におけないよねえ。結構女の噂が絶えないやつだったけど、あれが全部本当の話なら、これから結城先生苦労するなあ」
 長身の薫を見上げる感じで、麻里が隣に立っていた。白く小さな左手は、薫の白衣を掴んでいる。横顔しか見えなかったけれど、麻里が幸せそうに微笑んでいるのがわかった。
 やはりあの噂は本当なのかもしれない。過去に愛し合っていた二人だけあって、しっくりくる感じがある。お似合い、そんな言葉がぴったりなのだ。今まで二人が一緒にいるのをあえて見ようとしていなかったけれど、こうして目の当たりにした今、認めざるをえなかった。
 しかし、なぜか美緒の中でひっかかるものがある。
「いっそキスとかしちゃえばいいのにねえ」
「ええ……それは……」
 麻里を見つめる薫の視線。いつも自分を見る時と違う? ふと、そんなことが胸を過ぎった。麻里のことを迷惑がっている風もなければ、どちらかというと笑っているように見えるのだが、どこか冷たい感じがした。美緒をいつも見るときの、あの溶けてしまいそうな優しい瞳じゃない。どちらかというと、感情を隠しているときのあのポーカーフェイスの瞳だ。
 もしかして、結城先生とはなんでもないのだろうか? 自分に都合のいい考えが一瞬浮かんだ。いつもなら謙虚な美緒が、他人と自分を比べて自分の方が優位だと思うことはない。ましてや、憧れの女性である麻里と比べてなど、ありえない。
 けれど、薫に優しく見つめられていたこの数日間を、美緒は心の奥底で忘れてはいなかった。無意識といえば無意識。言葉にはしなくとも、視線で、指で、薫の纏う風全てで、包まれるような温かさで慈しまれていた日々は、美緒の心の中に、確かに『愛されている』という充実感を残していたのだ。心も体も覚えている。薫がちゃんと、美緒を愛していてくれたことを。それが薫の愛し方なのだということを、今の美緒はまだ気付いてはいないけれど。
「やばっ! じーっと見てたの気付かれたかな」
 薫が急にこちらを見た。少しびっくりしたような目をして、こちらをじっと見る。その視線がいたたまれなくて、美緒はすぐさま目を伏せた。
 ――気にしているなんて思われたくない。
 おかしなプライドが脳裏をよぎる。『自分にとっての花』だと薫に言われたのはつい最近のことだ。だから、ある程度愛されているという自信を持ってもいいはずなのに、薫に対して追及したり嫉妬したりする風は絶対に見せたくなかった。麻里が昔の彼女だと知っていても、ずっとそのことを薫に言うつもりはなかったし、それは過去なのだと割り切ろうとしていた。
 でもやっぱり――。
「やだ……」
「どうしたの美緒?」
「私って、こんな女だったかな……」
 麻里と昔関係があったことを考えると泣きそうになる。頭ではバカだとわかっている。だけど心が……心が薫を独り占めしたいと願っていた。過去も今も、全部欲しいと。
「あ……櫻井先生」
 そうえみが呟いたと同時に、いつも安心してため息がでてしまう優しい手が、美緒の頬を触れた。その感触に、ビクリと体がすくむ。
「真中、大丈夫か?」
「……先生」
 いつここに来たのか。美緒の目の高さまでしゃがみこみ、顔を覗き込むようにして見つめている薫がいた。
 そう、この目だ。さっきまでとは違う、何もかもを許してしまいそうな優しい目で、美緒を見つめる愛しい男。
「え……あの……」
「体調悪かったら、保健室来るんだぞ?」
「あ……はい……」
「おまえはすぐ無理するから」
 頬に触れる指先から、愛情を感じた。軽く触れているだけなのに、心のわだかまりを溶かしてくれそうな薫の指。嫉妬でおかしくなりそうだった美緒の心が、触れられただけで少し和らいでいた。
 もしかしたら、誰にでもこうやって優しくするのかもしれない。その指で、自分以外の誰かをも慈しむのかもしれない。でも、この一瞬の優しい瞳は美緒だけのものだから……。麻里にもけして見せていなかったこの瞳だ。誰にもあげたくないと、美緒は内心呟いていた。
「先生、私も保健室行っていい?」
「なんだ藤井。とうとう頭が病気になったか?」
「なにそれ。私は至って普通ですよーだ。頭もばっちり作動中」
「ほー。俺はてっきり、藤井の頭が修復不可能なくらい壊れたのかと思ったよ」
「修復って……私の頭は機械じゃないんだから」
「まあ、機械の方がマシだよな」
「ひっどー。女の子相手に櫻井ったらひどすぎ」
「おいおい、校医を呼び捨てにするなよ」
 他愛もない話で、笑いあうえみと薫。とても楽しそうにしている間も、薫の指は美緒の頬を撫で、いつもの癖で美緒の髪をクシャクシャと弄り、まるで『大丈夫、心配しないで』とでも言っているようだった。
 泣きそうになる。薫のことが、好きで好きでたまらない。
「じゃあ真中。本当に無理するなよ? 俺は、いつも元気な真中の方が好きなんだから」
 今言った『好き』は、薫がわざと美緒に残した一言だった。美緒もそれをわかってか、途端に顔を上げる。えみとじゃれあっていた時の笑顔を消して、薫は本当に心配そうに美緒を見つめなおした。
 泣きそうなくらい好きなのは、薫も同じなのだ。たとえどんな状況に置かれていたとしても。見つめるだけでどれだけ愛しているかを伝えられたなら、どんなに楽だろう。――美緒、ここで抱きしめて連れ去りたい。もどかしいほどの想いを、薫も抱えていた。薫は美緒をじっと見つめ、眼鏡越しに『好き』と、無言で伝えた。

 薫が美緒の元から去った後、美緒が廊下の方を見遣ると、じっとこっちを見ている麻里の姿があった。いつも浮かべている笑顔はなく、睨むようにこちらをじっと見ている。どこか、威圧感のあるその視線に、美緒は不安を感じた。
「まさかね……」
 自分と薫のことがばれるはずがないと思い込んでいる美緒は、この時何も考えていなかった。
「美緒、体調悪かったの?」
「ん? 悪くないよ?」
「櫻井が心配してたから、悪いのかと思っちゃった。そういやさっきも元気なかったよね」
「そんなことないよ。ほら、元気元気」
「なーんか、ご機嫌?」
「うん、ご機嫌」
 ふふっと笑みを零す。
 たとえどんな噂が流れようとも惑わされない。それが事実でも誤解でも構わない。美緒が右手に望む手は、薫以外の誰でもないのだから。
 ――好き。
 次会った時は必ず伝えよう。あなたから、知らず知らずに注がれていた愛情を心に咲かせて。


 放課後の校舎に、アナウンスが流れる。
『二年○組、真中美緒さん。至急、英語準備室に来てください。繰り返します、真中美緒さん、至急英語準備室に……』

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