花影恋歌

11.恋、狂おしく

『ねえ、薫。賭けをしましょう』
『賭け?』
『私は結局不安に負けてあなたを一度手放したわ……。あの子ならどうかしら。――もしもあの子が簡単にあなたから引き下がるようなことがあれば、あの子の気持ちはそれまでってことよ。だからその時は……』
『その時は?』
『その時は、私の勝ち。私と、よりを戻して』
『何バカなこと言ってるんだよ。さっきも言っただろ? 俺は……』
『私は! ……私は、誰よりもあなたのことを好きよ。だから、私よりも大事にしてくれる人しか認めないわ』
『あの子が薫を大事にしてくれるなら諦めるわ……だから……』
『麻里……』

 数日前交わした薫との会話を思い出していた。瞳を閉じれば、鮮明すぎるほど鮮明にあの時の状況を思い出せる。無意識に胸のあたりをギュッと握った。服を掴むと同時に、胸の奥底がじん……と痛んだ。それから先を思い出したくなくて、麻里はそっと目を開ける。目の前に広がる殺風景な景色は、やけに複雑に渦巻く麻里の気持ちを落ち着けていた。
「この部屋も、私と同じね……」
 整理されていない部屋。薫との日々を、未だに整理できない麻里。最初はこんな陰気臭い準備室なんて大嫌いだったのに、今では一人で考え事をする度にここへと訪れていた。アルファベットの並ぶプリントを無造作に手にとってみては、一人ぼそぼそと呟く。
 昔は薫が横でいつも聞いてくれていた。今思えば、麻里が呟く言葉を薫はいつも残さず受け止めていてくれた。離れて初めて気づく薫の優しさの深さ。付き合っているときは、その優しさを疎ましく思うことさえあった。感情を露にしない薫に、もっと本音をぶつけて欲しいと八つ当たりしたこともあった。いつだって自分よりも余裕のある薫を見て、何か遅れを感じていたのかもしれない。この人について歩かなければ、と一人で頑張っていたのかもしれない。そう思う毎日が、麻里を少しずつ追い詰めていた。
 別れなんて、現実はとてもあっけない。ドラマのような、劇的な別れなんて、ありえはしない。いっそ、どこまでも深く傷ついて別れていたならば、今をこんなに苦しく生きることはなかっただろうか。
「失礼します……」
 ドアの向こうに人の気配がして、麻里は咄嗟に目を向けた。だが、聞こえてきた小さな声とは裏腹に、ドアは一向に開こうとしなかった。
 ――思ったよりも早かったな。
 そう思いつつ、麻里がドアノブに手をかけ、ゆっくりと開く。目の前に立つ少女は、少し怯えたような目をして、俯いていた。
「入って」
「はい……」
 後ろ手にドアをしめ、準備室の中へと美緒を促す。デスク一つしかない準備室の中で、美緒は自分の居場所を見つけられず持て余していると、麻里がどこからかパイプイスを持ち出し、そこへ座るように美緒に指示した。
「ごめんね、急に呼び出して」
「いえ。あの……何か用ですか?」
「用ってほどじゃないのよ。ただ、あなたと一度ちゃんと話がしたいなあと思って」
 美緒の正面に麻里が座り、ハイヒールを履いた綺麗な脚をスッと組む。視線は窓の外に外し、あえて美緒が緊張しないようにと気配りをしていた。
 麻里は美緒と薫のことを知っている。でも、美緒は知られていることを知るはずもないだろう。そう思っている麻里は、美緒のことを憎いと思いつつも、薫を愛するという同じ境遇にいる少女に対し、共感を覚える部分もあった。優しいけれど、つかみ所のない男だ。同じところで悩んでいるのではないかと。
「ねえ、真中さん」
「はい」
「私と櫻井校医のこと、どう思う?」
 単刀直入にぶつけた質問。薫のような感情を押し殺した駆け引きなど麻里にはできない。これが私のやり方だ、と麻里が美緒に宣戦布告した。
「どうって……」
「お似合いだと思う?」
「どういう意味ですか?」
「恋人としてどうか? ってこと」
 美緒が言葉に詰まる。まさか、麻里が極端にこういう話題を切り出してくるとは、全く思ってもいなかった。なんて答えればいいのかを考える前に、まず自分と薫のことが麻里にばれているのかが気になってしかたがなかった。
 この言い様だ。確信はなくとも、疑ってかかっているに違いはないだろう。でなければ、あんなに目立つ形で、美緒を呼び出しはしないだろうから。
「いいんじゃ……ないですか?」
「そう? お似合い?」
 顔を覗き込むように麻里が問いかける。口元には微笑みを浮かべて。
「薫ってね……。あ、薫って櫻井校医の下の名前なんだけど。薫って昔から優しいんだけど、今でも優しいでしょ?」
 麻里がわざと美緒の前で薫の名を呟いた。美緒の胸の一部が、千切られる様に痛む。自分にはない権利を麻里がもっている気がした。薫の名を呼ぶだなんて、美緒には絶対にできない。
「あ、はい……。優しいですよ、とっても」
「やっぱりかあ。結構不安なんだよね、他の女の子にも優しくするってこと」
「櫻井先生は、誰にでも分け隔てなく優しいですから……」
「それは、生徒さんには、ってことでしょ?」
 私は生徒とは違うのよ。そうとも取れる麻里の言葉。何を言おうとしているのか、美緒にはわかりかねる麻里の言動に戸惑うしかなかった。
「ほら、薫って、学校の中でもたくさん噂があるじゃない? 図書館の司書さんとか、あと、仲のいい生徒もたくさんいるみたいだし」
「そう……なんですか」
 なぜそれを美緒に話すのかが、美緒には分からない。やはり、薫との関係を知られてるのか。麻里との会話が進むたび、核心が近づいてくる。
「私、これでも結構ヤキモチ焼きなのよね。だから、薫の前にチラチラ女の子がいると不安でしかたないっていうか……」
「あの……」
「もう皆薄々気づいてると思うけど、私と薫って、昔そういう関係だったの」
「そう……ですか」
「ねえ、真中さん知ってる? 薫ってねえ、キスする時、絶対に自分から目を閉じないのよ?」
 この女は知っている。美緒はそう確信した。だから美緒をここに呼び出したのだ。これ以上薫に手を出すなと釘を刺すために。
 わざと薫の癖を口にするのは、『あなたも思い当たる節があるでしょ?』と言いたいからだ。以前の麻里からは想像もできないような変わりように、美緒は少し恐怖感を感じていた。それほど、麻里の薫への強い想いが伝わっていたのかもしれない。肌がピリピリするような空気の中、けれど美緒は胸の奥に秘めた決心を曲げることはしなかった。麻里の想いが本気だからこそ、自分も逃げはしない。そう、思った。
「あの、なんで私にそんな話するんですか?」
「さあ……なんでかな?」
「私には関係ないですから、結城先生と櫻井先生がどんな関係でも」
「ふーん……。じゃあいいんだ?」
 ――薫のこと、盗るわよ。
 睨むような麻里の視線が、無言で語っていた。
「いいも何も、大体先生が私にこんな話をすること自体、意味ないですよ」
 小さい声だけれど、美緒も薫に対して本気だから、想いの丈を伝えることだけはしたい。
「あなたの想いって、それまでだったんだ」
「私の想いって……」
「あなた、薫のこと好きなんでしょ? 結局、盗られてもいいってことじゃない」
 麻里は席を立ち窓際に進むと、縁に腰を軽くかけ腕を組み、美緒を見据えて逃さなかった。
 ――この子の本心が知りたい。麻里の想いは、最初からこれ一つだ。
「好きじゃないの?」
「それは……」
「ふーん、やっぱりあなたも大したことないのね。私が現れたくらいで引き下がるなんて」
 麻里はわざと美緒の気持ちを煽るような言葉をぶつけていた。言い返してこない美緒に安心感を覚えつつ、言い返さないもどかしさに腹が立つ。真っ向から話し合いたいのだ。美緒を傷つけたいわけでもないし、薫から無理矢理引き離したいわけでもない。そんな人として下らない目的で美緒を詰っているわけじゃない。ただ麻里は美緒の気持ちが知りたかった。だってこれは、一生に一度の真剣な恋なのだから。
「……好きです。櫻井先生のこと」
「やっぱり好きなんじゃない」
「でも……本当に結城先生とのことは関係ないですから」
 さっきと同じ言葉を美緒が繰り返す。麻里には美緒の言っていることの意味がわからなかった。
「どうして? 私が櫻井先生と関係あるってあなたに言ったのに、関係ないわけないじゃない。大体、あなたたち好き合ってるんでしょ?」
「先生はどうか知らないけど、私は好きです」
「だったら何? 私なんかいてもいなくても影響ないってこと? 私のことバカにしてるの?」
「違います」
 美緒が、強く言い切った。――逃げない。薫のことが、好きだから。たとえどんなに環境が変わろうとも、どんな邪魔が入ろうとも、自分の薫への気持ちだけは変えちゃいけない。麻里の目を見据え、視線を外すことなく美緒が言葉を続けた。その目には、臆病さなど微塵も感じさせなかった。
「私にとって、櫻井先生の過去とか、今どんな女の子がそばにいるとか、そんなことどうでもいいんです」
「え……?」
「だって、先生は私のことをちゃんと見てくれてる。だから、私も先生の本当の姿だけをちゃんと見ていたいんです」
 どんなに愛情を言葉にしてくれなくても、抱いてくれなくても、そんなことだけで薫の愛情を感じていたわけじゃない。触れられる指先、見つめられる瞳、体も空気も声も、全部で愛されていた。そして今も愛されていると、自覚している。欲しいのは、薫の肩書きでも、過去でも、今でもなく、薫の本当の心。それだけが、美緒の真実なのだ。
「たとえ結城先生が櫻井先生と関係があったとしても、他に彼女がいたとしても、私は先生のことが好きだからそれでいいんです」
「真中さん……あなた……」
「バカだってわかってます。遊ばれてるだけかもしれないって思うこともある。でも、私が櫻井先生への気持ちを曲げちゃったら、そこで何もかも終わっちゃうから」
「本当、バカね」
「バカです。でも、バカになれちゃうほど先生のこと好きなんです。愛されたいから、愛し続けたい。どんなに邪魔をされても、そんなのへっちゃらです」
 自分の気持ちを全て麻里に伝えた。美緒の顔から、思わず笑顔が零れる。こんなにも素直に自分の気持ちを言ったのは初めてだった。言葉にすることで、想いが確信へと変わった。
 私は先生が好きだ。今は、それだけでかまわない……。
「そんなの綺麗事よ。そのうち全て欲しくなるわよ」
「そういう気持ち、以前はありました。でも、私、そんな薄っぺらい愛情で櫻井先生と向き合ってるわけじゃないから」
 『薄っぺらい愛情』という言葉を聞いた途端、麻里の体がビクリと竦んだ。薫と同じく美緒も口にした。まるで、麻里の過去の恋愛が、薄っぺらいものだったと指摘されているみたいで心苦しい。でも、間違ってはいないという現実からは、麻里は逃げられはしなかった。
「そう……」
 美緒の強い思いを前にして、麻里はもう言葉がなかった。こんなにもはっきりと告げられると、なんだか居た堪れなくなる。ふいっと視線を外し、窓に向き直り、落ちつつある夕日を眺めた。
 思っていたよりも、遥かに強い少女だった。見た目はあんなにもか弱くて愛らしいのに。その小さな胸に秘める想いは、ダイヤモンドでも砕けはしないだろう。麻里と一番違うのは、追いつこうとする気持ちで頑張って付き合っているのではなく、自分なりの愛し方で薫と対等に立っていたことだった。
 ――負けた。認めたくないけれど、心のどこかで認めざるをえない自分がいた。嫉妬に狂うだけの麻里は、あんなに鮮やかな笑顔なんて、できない。

「じゃあ、失礼します」
 少しの間の後、美緒が麻里の背に小さく告げた。バタン、と美緒が去る音だけが準備室に響き渡る。
 賭けは完敗だった。もう、すがるものさえありはしない。それでもまだ募る思いに、麻里は自分自身を持て余していた。


 時はさかのぼる――。
『ねえ、薫。賭けをしましょう』
『賭け?』
『私は結局不安に負けてあなたを一度手放したわ……。あの子ならどうかしら。――もしもあの子が簡単にあなたから引き下がるようなことがあれば、あの子の気持ちはそれまでってことよ。だからその時は……』
『その時は?』
『その時は、私の勝ち。私と、よりを戻して』
『何バカなこと言ってるんだよ。さっきも言っただろ? 俺は……』
『私は! ……私は、誰よりもあなたのことを好きよ。だから、私よりも大事にしてくれる人しか認めないわ』
『あの子が薫を大事にしてくれるなら諦めるわ……だから……。――賭け、乗ってくれるわよね?』
『バカじゃないのか? あいつの気持ちなんか関係ないんだよ。俺があいつを大事で、俺があいつを好きなんだ。おまえにどうこう言われる筋合いはないし、ましてや、賭けに勝とうが勝つまいが、俺があいつ以外を好きになったりしない』
『わからないじゃない……』
『わかるよ。だって俺は、今まで愛した誰よりも、あいつのことを愛してる。薄っぺらい愛情なんかで、あいつと付き合ってるわけじゃない』
『……賭けに乗ってくれないなら、私何をするかわからないわよ。私だってあなたの気持ちなんて関係ないわ。好きなのよ! あなたを手に入れるためなら何だってやるわ。たとえあの子を傷つけたって』
『おい、あいつに余計なことしたら……』
『だから関係ないって言ってるじゃない!』
『もしもあいつに何かしたら、俺はお前を殺すよ』
『殺すって……あなたがそんなことできやしないわよ』
『殺すよ。あいつを傷つけるものは、何一つ許さない。たとえ相手がお前だろうと』
『……殺されてもかまわないわよ……好きなのよ、薫。どうしようもないくらい……』
『泣くなよ……』
『私に少しくらいの望みをも持たせてくれないの?』
『ごめん』
『ひどいわ……』
『俺はあいつ以外いらない』
『優しいくせに、どうしてこんなときだけはっきり言うかな……』
『ごめん、麻里……』
『じゃあせめて、普段話してくれるくらいはしてもいいよね?』
『ああ。おまえは大事な友達だからな』

 ――薫。どうやら賭けをしていてもあなたの勝ちだったみたいね。こんなに強い思いをもった女の子、見たことない。最初から、私の入る隙なんてないほど、貴方たちの愛情は見えないところでつながっていたけれど。
 お互いにこれだけ強い想いで結ばれているということを知ってるのだろうか……。何か見えない糸のようなもので、引き裂いても引き裂いても離れない運命を二人に感じた。

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