花影恋歌

12.涙のキスを君に

「おまえ、あいつに何かしたのか?」
 扉を開けるなり言い放ったその一言に、麻里の眩暈が一層深さを増した。薫がやってきたのは、美緒が去ってほどなくのことだ。
「何よ……急に。大体あいつって誰のことかしら」
「決まってるだろ。真中だよ」
 ずかずかと準備室に乗り込み、血相を変え、いつもの沈着冷静な薫からは想像もつかない激しい口調で麻里を責め立てる。だが、ついさっき美緒との会話を終え、意気消沈している麻里には、そんなことなどどうでもよい。薫の相手をしなければと思うと、途端に億劫な気分になる。
「なんでわざわざ真中を呼び出したんだ?」
「真中さんを呼んだらなぜ悪いのよ」
「なぜって……今更しらばっくれる気か?」
 だらだらと答える麻里に、腹が立ってくる。薫が知りたいのは、美緒に何をしたかということと、美緒を傷つけてやしまいかということ。それだけが知りたいのに、麻里には質問に応じるような風がない。窓際の縁に腰かけ外をぼーっと見つめ、まるで生気をなくしかのような目なのだ。
「なんで、真中さんを呼んじゃ悪いの?」
 あからさまにやる気も答える気もない風を見せた。口元には皮肉っぽい微笑を残して。
「真中は……真中は俺の一番大事な女だ。だから、真中を傷つけたらたとえおまえだろうと許さない」
「ふーん。やっと真中さんが彼女って断言したわね」
 断言しなくとも、二人の間では美緒のことを言っているのはわかっていた。でも、あえてここで断言しなければ、麻里は何もしゃべってはくれないだろう。そう判断した薫は、あえて美緒の名を出し、正面をきって話そうとしたのだ。
「真中をここに呼び出して何した?」
「別に何もしてないわよ……」
「おまえが用もないのに呼び出したりしないだろ?」
「うるさいわね……。気になるなら真中さんの口から聞けばいいじゃない」
 確かにそれも一理ある。しかし、美緒から話を聞きだそうとしても無駄だと、薫は判断していた。きっと優しい美緒のことだ。真実を包み隠し、もしも麻里がひどいことをしていたとしても言いはしないだろう。むしろ、自分が悪いのだと言いかねない。自分を主張したがる麻里とは正反対の、他人ばかり思いやる美緒からは、真実を聞けることを期待していないのだ。
「それはできない」
「なんでよ?」
「真中が傷つくかもしれないことを、俺はできない」
「私からは真実を穿り出して傷つけても、真中さんは傷つけたくないってこと?」
「それも……あるかもしれない。けど、真中はおまえを絶対に庇うだろうし、本当のことを聞けるとは思えないんだよ」
「へえ……。どこまでもいい子なのね。なんか、腹立つのよね、そういういい子ちゃんなとこ」
 わざと作ったいい子ちゃんならどれほど良かっただろう。嘘ではなく、美緒が本物の優しさを持つ女だと認識してしまったから、もう苦しくてしかたなかった。薫が彼女に惹かれる理由もわかる。麻里が勝てないほどの優しさを持っていることもわかってしまった。もう……こんな皮肉な言葉を綴るしか、麻里に逃げ道はなかった。
「真中を、悪く言うな」
「真中さんのこととなると、あなた本当に余裕がなくなるのね。いつもの貴方と大違いだわ」
「ああ。ないよ。余裕なんて、あいつを目の前にしたら全然ない。おまえには悪いけど、こんなに誰かに恋焦がれるのは初めてだ」
「そう……。しかたないわね、じゃあ教えてあげるわ」
 それまで視線を合わせようとしなかった麻里が、縁から腰を下ろし、ツカツカと薫の前まで歩いてきたかと思うと、首に両腕を回し、見上げるように見つめながら呟いた。
「真中さんにね、私とあなたが、恋愛関係にあったことを教えてあげたのよ」
 どう? とでも言うように、憎らしい笑顔で微笑んだ。
「おまえ……なんでそんなこと」
「だって、真中さんだけ知らないなんてフェアじゃないでしょ? だから、教えてあげようと思って」
「ふざけるな。おまえとは、今はもうなんでもないんだぞ? なんでわざわざ真中にそんなこと言う必要があるんだよ」
 そのことを知った時、美緒はどう思っただろう。
 傷つきはしなかった? 泣いたりしなかった? 自分のことを、嫌いになった?
 とめどない不安感が、薫を襲った。不安と同時に、こみあげる愛しさと、切なさ。別に隠していたわけではないけれど、できれば美緒には知られたくなかった。それは薫にとっても同じことだ。もしも美緒に過去の男がいたとしても、できることなら聞きたくはない。
「あなたには昔のことでも、私には違うのよ」
「これは、俺とおまえの問題だろ。真中を巻き込むのは筋違いだ」
「真中さんに、知る権利はあるわ」
「たとえそうでも、俺はあいつを傷つけたくないんだよ」
 願って叶うのなら、真綿のようにふんわりといつも包んでいてあげたい。不安も、恐れも感じない世界で、いつでも愛を注いであげたい。エゴだとはわかっていても、自分の優しさでできた世界でいつも笑っていてくれたら、と思わずにはいられないのだ。
「相変わらず、女をわかってないわね、薫……」
 今にも泣きそうな微笑で、麻里が小さく呟いた。
「あなたが思ってるほど私は強くないわ。一人で生きられるほどの強さも、好きな男を目の前に我慢できるほど自制心もない。いつも強がってばかりの私の表面しか見てなかったの? 私、とっても弱いわ。それこそ、あなたがいなければこの世に生きてる意味さえないくらい」
 切ない微笑みの中で、涙がこみ上げてくる。麻里の目尻に知らず知らずたまった涙は、今にも零れ落ちそうだった。
「でも、あの子は違った。……あの子、見た目はとっても弱そうで、意思も全然主張しなさそうな子なのに、私に断言したのよ」
「なんて……?」
「たとえ過去に何があっても、今も周りにどんなに女の子がいても、櫻井先生を好きな気持ちは変わらないって」
 ズキン……と鷲づかみされたような胸の痛みが薫を襲った。単純に、美緒の言葉が嬉しかった。本人から聞けたら、と思ったりもしたけれど、麻里を通じての言葉だったからこそ、嘘のない言葉だと余計に思える部分もあった。
 目の前に、今にも泣きそうな女がいるというのに、こんな時でも心に願うのは、今美緒が目の前にいたら……と、そんなことばかりだった。残酷なほど、薫にとっての美緒は絶対だった。
「嬉しい? 嬉しいでしょうね」
「そんなことないよ」
「悔しいけど、負けたわ。あなたがあの子に惹かれる理由もわかっちゃったし。私が男でも、あの子のこと好きになったかもしれない。だって、清々しいほどあの子可愛いもの」
「そう……だな」
「でもなんでかな。分かっていたってまだあなたのことが……好きなのよ」
 目尻に溜まっていた涙が一粒、ポロリと零れ落ちた。皮肉でもなく、嘘でもなく、薫に告げた愛の言葉は、今までよりも一層麻里を美しくさせていた。全てを受け入れてもなお思う恋しさに、麻里も嘘はなかった。そんな鮮やかな笑顔に、薫も麻里を愛しく思わずにはいられなかった。
 叶わぬ恋で苦しむ麻里の気持ちを、薫も痛いほどわかるから。愛してあげることはできないけれど、できるなら、麻里の痛みを少しでも取り除いてやりたいと、そう思った。
「ごめん、麻里……」
「わかってるわ」
 何か言葉を続けようとした薫の唇を、麻里の細い指が封じた。薫の気持ちはわかっている。だけど、もうこれ以上聞きたくはない。
「だから、私ももう諦めなきゃ駄目よね?」
「ごめん……」
「私、あなたを好きになって良かった。だって、こんなに誰かを真剣に愛せる人だもの。私も愛されてたって、自信がもてるから。……私、愛されてたよね?」
「ああ。愛してた」
 薫――。本当はあなた以外誰も欲しくはないけれど、それでも前に進まないといけないから。
「じゃあ、薫の過去は、もらってもいい?」
「いいよ」
 何もないわけじゃない。愛されていた過去は、事実だ。それだけは、独り占めさせて欲しい。
 麻里の頬に、笑顔と涙が零れた。
「好きよ、薫。今もこれからもたぶん……ずっと好きだから」
「ありがとう」
「最後にお願いがあるの」
「何?」
 見上げた先にある薫の瞳に映る自分を見つめながら、麻里は呟く。
 終わりにするのは哀しいけれど、でも私は私としてちゃんと立っていたいから。あの子なら、きっと薫を幸せにしてあげられるだろう。私にはできなかったけれど……。
「キスして……」
「え……」
「これで終わりにする。だから、私に最後のプレゼント、ちょうだい」
 麻里が瞳を閉じる。
 ――薫。誰よりも愛しくて、心から欲した人だった。別れる前に、本気で愛していると気づけばどんなに良かったと後悔するけれど、今あなたをこんなに愛していることを誇りに思える自分がちょっと好きだったりする。
 本気で愛する人との最初で最後のキス。たとえ愛されていなくても……。寂しくて涙が出るけれど、愛しくても涙が出るなんて、初めて知った。いつまでもあなただけ。

 薫が麻里の腰に腕を回す。引き寄せられ、麻里も薫の肩へと手を添えた。
 近づく吐息に、鼓動が跳ね上がる。少し冷たい唇が、涙の味のする柔らかい唇に触れた時。
 零れる涙とともに、麻里の恋も零れ落ちた。

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