花影恋歌

13.願うは君の香り

 最後に捧げたキスは、麻里の恋を終わらせてあげるため。自分にけじめをつけるため。そして、何より美緒のためだと言ったら、あの子は信じるだろうか。
 自分がこんなにも臆病だとは思わなかった。あの子の泣き顔を見るくらいなら、何もかも捨ててしまってもいいと思うほど、自分で自分の心がセーブできないでいる。時々、自分勝手な考えが一番正しいと信じてしまって、間違いを犯してしまうこともある。
 恋はとても残酷だ。こんなにも、人の性格を、人生そのものを狂わせてしまうなんて。いや、残酷なのは恋ではなく、美緒。君なのかもしれない。瞳に映る笑顔も、泣き顔も、全て愛しい。瞳を閉じても蘇る君の姿を思い出すたび、穏やかで温かな気持ちになるのはなぜだろう。ドキドキするだけが恋じゃない。そばにいて、ぬくもりを感じるだけで満たされ、落ち着く心。そんな君の温もりをずっと感じていたかった。
 あの日麻里が言い放った言葉。『何をするかわからない』という言葉が怖かった。その言葉が本当でも嘘でも、その時脳裏を駆け巡ったのは、美緒を守ること、それだけだった。普段なら恥ずかしくてできないくらいに感情を曝け出し、プライドなんて微塵も考えず、ただ君を守るために。
 最後のキスは、麻里を想っての行動でもある。けれど、何よりも優先したのは、美緒を守るため。それだけだった。たとえそれが、君を傷つけることになろうとも。
 ――俺は、愚かだ。


「ニュース! ニュースー!!」
 バタバタと勢いのよい足音がけたたましく近づいてきた。聞きなれすぎたほどの声は、まだ本人の姿も現さないうちから、廊下を通り抜けて聞こえてくる。勢いよくバン! と教室の扉を開けると、美緒をめがけてその声の持ち主は駆け寄ってきた。
「ど、どうしたのえみ?!」
 びっくりするのも無理はない。えみは、美緒の座る机に近寄るなり机に両手を突き、前のめりで美緒の顔を覗き込んできたのである。
「ニュースなんだってば!」
「だから、何が?」
「見ちゃったのー!!」
「だから、何をよ……」
 興奮して、なかなか話が進まない。宝物を見つけたかのような輝く瞳でにやけているえみを見て、美緒は一歩引いてしまった。噂好きのえみほど、美緒はゴシップに興味があるわけではない。いつもこの手の話題は、聞き役に終わるのだが……。
「櫻井だよ!」
 今回ばかりは、スルーだけでは終わりそうになかった。
「櫻井先生?」
「あっ……。とびきりビッグな情報だから、美緒にだけ教えようかなあ」
 急に声のテンションを下げ、えみは美緒の耳元に手を添え唇を近づけると、ボソボソと呟き始めた。
「あのね、私準備室で見ちゃったのよ」
「何を?」
「櫻井先生と、結城先生が……」
 結城先生。その言葉を聞いて美緒の胸がチクリと痛んだ。できれば、その話題は聞きたくなかったのに……。
「知りたい?」
「だから何を?」
「んー。んふふ」
 もったいぶって先を話そうとしないえみに、美緒も少しイライラしていた。いつもなら、こんな展開でも好きなだけもったいぶらせているのだが、薫の話題となるとそうもいかない。焦る気持ちを抑えきれず、えみを急かす。
「してたのー」
「ん?」
「チュー」
「ちゅう?」
 はあ? と一瞬疑問に思ったが、その後のえみの言葉で、全てが明らかになった。
「んもおー。美緒ってば鈍いんだから。キスだよ、キス!」
「え……」
「やっぱりあの二人できてたんだねえ。これですっきりしたよー」
 コソコソと耳うちしていたのをやめ、体を離すと、スッキリした表情でえみがそう言った。ドキドキ、と、美緒の鼓動が急に打ち始める。まるで全身が心臓になったの如く、耳には鼓動が響いていた。
「ねえ、えみ。それって、本当なの?」
「あったりまえじゃーん。私が嘘言うと思ってんの?」
「ううん。そうじゃないけど、でも、見たの?」
「それがさー、聞いてくれる? さっき美緒教室にいなかったでしょ? で、また呼ばれて準備室に行ってるのかなあって思って行ってみたら、ちょうどキスの現場目撃しちゃたのー」
 キラキラと煌く瞳で楽しそうに話すえみとは反対に、美緒は必死で表情が壊れるのを耐えていた。今にも、泣き出しそうだった。嫉妬、とは違う。どちらかというと、ナイフで胸を刺されたような、そんな衝撃を受けた。あまりにもスッと突き刺さり、美緒の急所を捉えたかのような痛み。
 どうしてだろう。わかっていたことじゃないか。薫と、麻里が恋愛関係にあったことは……。
「そ、そうなんだ……」
「うんうん。櫻井が腰に手回してさー、結城先生の顔は見えなかったんだけど、あれは絶対キスしてたよ。お邪魔かなって思ったから黙って帰ってきちゃった」
「そうだね……邪魔しちゃ悪いよね……」
「やっぱりお似合いだと思ったんだよね。まあ、付き合ってるとは思ってたけど、これで確実だね!」
 麻里に、『どんなことがあっても好きだという自分の気持ちは変わらない』と断言をした。それは、今でも堂々と言える。たとえ片思いで終わろうとも、美緒の気持ちは変わらない。恋人になることを望んでいるわけではないから。
 でも、傷つかずにはいられなかった。噂や、過去の話とは比にならない。これほどまでに、現実は衝撃的で、鋭利なものなのか。
「美緒? 美緒ー?」
「……ん?」
 目の前で、えみが手を振っているのに気づいて、顔を上げる。
 自分は今、ひどい顔をしているに違いない。そう思った。
「どした? 体調悪い?」
「ううん。大丈夫だよ」
「本当? 顔色悪いよ? 目も潤んでるし、熱あるんじゃない?」
 えみが、美緒の額に手を当てようとした時、咄嗟に美緒の手がえみの手を弾いた。その瞬間ハッとして、我に返る。
 嫌だ。こんな自分を見られるのは。
「あ……ごめ……」
「びっくりしたー。別に謝らなくてもいいけど、大丈夫?」
「うん。急に触られたから、ちょっと驚いただけ」
「それならいいけど。……って、美緒? 全然大丈夫じゃないじゃん?」
 頬に生温かい感触を覚える。自分が泣いていると認識したのは、それよりも少し後のことだった。えみの瞳にうつる自分の酷い表情を見て、いてもたってもいられなくなる。嫉妬じゃない。これは嫉妬じゃないと、そう思うけど。
 ――嫌!!
「ごめん、えみ……」
「美緒? ……どこ行くの?! 美緒?!」
 思わず、その場から駆け出していた。


 気づけば、屋上にいた。ぼーっと、遠くを見つめる。心の中の暗雲とは反対で、空は憎らしいくらいの青空で澄み切っていた。
 薫のことを好きだという気持ちは今でも変わらない。今も、狂おしいほど愛している。自分を触れていた指も、唇も、体温も、匂いも、いつでも思い出せるくらい体中に残っていた。だからこそ余計なのか。愛しいと思えば思うほど、憎くて憎くて仕方がない。
 麻里に言い切った言葉は、どれも全部嘘ではなかった。薫の周りに誰がいようとも、自分の気持ちは変わらないし、独り占めしたいだなんて、そんな欲張りなことは思っていない。自分が薫を好きだから、それで構わない。薫も、自分をちゃんと見てくれているから、それだけで構わない。そう思う気持ちは、今も変わらない。
 けれど、今、思うのは、そんなことじゃなかった。
「私、どうすればいいのかな……」
 何が憎いのか。それは、自分自身への憎しみだった。麻里の薫への強い気持ちを目の当たりにしてしまったから、薫と麻里の関係を現実として突きつけられた時、自分の居場所を見失ってしまった。いや、自分の居場所を持ってはいけない、そう思った。薫が誰のことを好きでも構わない。けれど、その相手が麻里だったなら――。
 麻里と話し合ったあの時、まだ薫と麻里は恋人同士ではないと女の直感ながら感じた。だからこそ、麻里の薫へのつらい気持ちはよく分かったし、自分も本音を隠してはいけないと思っていたのだ。相手が本気だからこそ、自分も本気で答えなければ、と。けれど、えみの言葉を聞いてから、戸惑いだけが美緒の気持ちを蝕んでいた。
「私、櫻井先生のこと好きになっちゃいけないの……?」
 美緒と、麻里は違う。麻里は、自分の好きな相手の周りに他の女の子がいることを許せないと言い切った。愛する人は、自分だけのものでないと気がすまない、そういう女性だった。とても強い女性。自分の気持ちをはっきりと伝えられる強い女性。誰よりも誰よりも薫を愛しているのだと、そのとき感じた。
 今、その時の麻里の気持ちを聞かなければよかったと後悔している。薫と麻里が好き同士なんだとわかった今、自分は麻里を傷つけるだけの存在だと、自覚せずにはいられないからだ。薫のことは今でも好きだ。でも、麻里のことも、一人の女性として嫌いにはなれないでいた。
 誰が周りにいても構わない。そばにいられればそれだけで……。でも、麻里にとっては、美緒という存在が苦痛でたまらないだろう。
「先生……私、そばにもいられないのかな」
 優しすぎる気持ち。薫に対しても、麻里に対しても優しすぎる美緒の心。自分のためだけにわがままになれない、そんな優しすぎる少女の小さな胸は、一人で耐えるには重過ぎるほどの痛みを感じていた。スーッと一筋の涙が頬を伝って、地面に落ちると、アスファルトに小さな涙のシミを作った。なんだか泣いてしまうのが悔しくて、こぶしで涙を拭う。
 ただ、恋をすることも許されないなんて……。現実を突きつけられた少女はこの時、『諦め』という気持ちを胸に抱いていた。
「真中」
 左側。屋上の入り口付近から、愛しい人の声が聞こえた。あまりにびっくりしすぎて、美緒は彼を凝視してしまう。
「ここにいたのか……。藤井が心配してたぞ?」
「せんせ……」
「……おっと。どうした?」
 思わず薫の胸に飛び込んでいた。イヤイヤ、とするように、薫の胸に顔を埋めて首を振る。懐かしい匂いがする。白衣からほのかに香る保健室の匂い。この匂いを嗅ぐといつも安心した。この香りが、だんだんと自分と薫を近づけていた。
「おい、真中? 誰かに見られたらやばいんじゃないの?」
「いいんです」
 いつもなら、薫が美緒に抱きついて、それを美緒が諌めていた。『誰かに見られたらどうするんですか?』と、そう怒って見せつつ、内心抱きしめられてときめいていた。抱きしめられるたびに、恋心が募っていた。それも、もう、叶わない……。
「よくわかんないんだけど、藤井がさあ、『もしかしたら美緒って櫻井のこと好きだったのかもしれないのに、私余計なこと言っちゃった』って形相変えて言ってたぞ」
「えみが?」
「おまえ、ばれないようにしなきゃダメじゃん」
 ツンツンと薫が苦笑しながら美緒の頬を突付いた。いつもと変わらないその口調に、美緒の涙が一層溢れ出す。絶対に見られたくなくて、余計に顔を埋めた。抱きしめられながら、このまま息が止まって、死んでしまえばいい。そんなことを思っていた。
「どうしたのかなあ? なんか今日は甘えん坊だな」
 薫が美緒の腰に腕を回して、軽く揺すった。まるで子供をあやすように、優しい声で。薫は美緒の髪に鼻を埋めると、そっと瞳を閉じた。泣いているのを気づいていないわけじゃない。でも、自分の腕の中で素直に抱きしめられる少女を、愛しいと感じずにはいられなかった。美緒を抱きしめながら、彼女の香りを感じつつ、優しい気分で満たされる。
 美緒が、決心していることも知らずに――。
「甘えん坊じゃ悪いですか?」
「いや? いいんじゃない? たまには。甘えん坊の真中も好きだよ」
 ――好き。
 そういわれたのは何度目だろう。恥ずかしくてたまらないのに、言われるたびに嬉しくて、不思議と自分で自分が好きなっていた。まるで薫に魔法をかけられたように、もっと頑張ろうと、そう思うようになっていた。でも、こんなにも泣きたくなる『好き』は初めてだった。叶うなら、これからもずっと好きだと言われたい。それが、嘘でも本当でも、美緒にとっては揺るぎない真実だから。
「美緒、って……呼んで下さい」
 もう、名前で呼ばれるのは今日が最後かもしれない。
「美緒」
 声色は優しく、それだけで美緒の世界は全て薫だけになる。
「……先生」
「ん?」
「……好きです」
 今日が最初で最後。もっと早くにあなたに好きだと伝えたかった。いつも強がってばかりいた自分は、なんてバカだったんだろう。好きだと伝えることが、こんなにも嬉しいことだなんて。
「好きです、誰よりも。本当はね、ずーっと好きだったよ」
 胸に埋めていた顔を上げ、美緒は涙を零しながら笑顔で呟いた。
「好き、先生のことが好き……大好き」
「……ばーか。そんなに連発したら、もったいないだろ?」
 今にも壊れそうな笑顔で、好きだと何度も呟く美緒に、まるで言葉をさえぎるように薫が小さなキスを落とした。それは照れ隠しだろうか? キスした後、美緒の顔を見ることなく、ギュッと抱きすくめていた。今までにないほどの、強い力で。
 華奢な美緒は、男の力で折れそうになってしまうけれど、その痛みが余計に愛しさを募らせる。お互い、離れまいとするように、強く、強く抱きしめあっていた。
「おまえなあ。急にそんなこと言い出すなんて卑怯だぞ」
「え?」
「俺がどれだけその言葉待ってたと思ってんの? それを急に連呼されたら、ヤバイっつーの」
 抱きしめられ、顔を埋めるその胸は、ドキドキと鼓動が聞こえるほど高鳴っていた。美緒にもその気持ちが伝わってくるようで、頬が赤くなった。
「俺……いい歳して本気で嬉しいんだけど」
 美緒の言葉が嬉しくてたまらない。ただ『好き』と言われただけだ。それだけなのに、この少女はあっさりと心を奪っていく。
 ずっと待っていた。美緒に好きだと言われることを。最初から美緒のことをこんなに愛していたわけではないけれど、日に日に募っていく愛しさに、逆らえなかった。欲しくて欲しくてたまらなかった美緒の心。あまりに愛しすぎて、大事すぎて、手を出せなかった。それだけ欲しかったこの少女が今、自分の腕の中にいる。できるなら、壊れるほどのありったけの強い力で、抱きしめたい――。
「やばい。チューしていい?」
「……んっ」
 問いかけて、不意に顎をあげた少女の唇を強引に奪った。抱きしめられ、優しく口付けられながら、美緒の頬を涙が伝う。
 今日だけ。今日だけ、薫にわがままを言っても許されるだろうか?
 好きで好きでたまらないのだ。たとえ、麻里が薫を好きでも。薫が、麻里を選んだとしても……。
「このままどっかに連れ去りたいなあ」
 唇を離し、美緒がはあ……と小さなため息をつくと、薫がコソッと耳打ちをした。耳に息がかかる。ゾワっと背筋を快感が駆け巡った。
「……先生」
 先生が好きです。たとえ先生に誰がいたとしても、全然構わなかった。でも、それじゃ私、悪い子だよね?
 最初で最後のお願い。それを聞いてもらえたら、私はあっさりと身を引こう。
「先生。私と……」
 最初で最後の、私のお願い。
「私を、抱いてください」
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