花影恋歌

14.夕日の影に沈む記憶

『私を、抱いてください』
 最初で最後の、私のお願い――。

「おまえ、それ本気で言ってんの?」
 目を丸く見開いて、抱きしめている美緒をそっと離した。薫が問い返すのも無理はない。まさか、美緒の口からそんな言葉が出るなんて思ってもみなかったのだ。
「本気、です……」
 でも、その言葉が嘘でないことは、美緒の態度でわかった。俯き、頬を赤らめ、何かに怯えているかのように肩は小刻みに震えていた。きっと、必死で勇気を振り絞ってこの台詞を口にしたのだろう。その意図はわからないけれど、嬉しいと思う反面、薫はどう答えればいいのかわからなかった。
「えーと……そりゃ抱いて欲しいって言われればいつでも抱くけどさ……」
「……うん」
 顎に手を当て、少し悩むように上目がちで言葉を綴ると、美緒がその声色に不安になってか、少し震え気味な声で返事をする。そして何を言おうとしてか、薫がじっと美緒の瞳を覗き込むと
「男を誘う時は、もうちょっと色っぽくないと駄目だろ?」
 軽く、そう言った。
 それは薫の照れ隠しだったのだけど、美緒はそんな態度に傷つきまた涙が溢れ出す。
「そんな……私、真剣に言ったのに……」
「ああー。ごめんごめん。ちょっと意地悪が過ぎたな」
「もお……」
「ばか。泣くなよ」
 トン、と美緒の後頭部を薫の大きな手が引き寄せて、胸に顔を埋めさせた。その表情には、少し苦笑が浮かんでいた。
 あまりに美緒が可愛かったのだ。だから、ちょっぴり意地悪を言ってみたくなった。だってしかたないじゃないか。本気で好きな相手に自分を求められたのだ。嬉しくないわけがない。昔なら、こんな軽い会話、なんとも思ってなかったけど……。愛する人に自分を求められることが、こんなにも胸が震えることだなんて、知らなかった。
「どう言えば……いいの?」
「ん?」
「どう言えば……お願い聞いてくれるんですか?」
 意地悪で言った薫の言葉を真に受けて、美緒が真っ赤になりながら上目がちで問い返す。冗談で終わらせるつもりだったのに、こんな風に可愛く聞き返されちゃ、薫もそれに応えないわけにはいかないだろう。『抱いて欲しい』という言葉だけで充分だったけれど、薫はニヤリとほくそえんで、また美緒に意地悪を言ってみたくなる。
「じゃあもう一回ちゃんとお願いして?」
「どうやって?」
「自分が俺に何をどうして欲しいのか、ちゃんと言ってみて」
 コソっと耳に唇を近づけ、色っぽく囁く。耳に吹きかかる優しいほどの微かな息遣いが、美緒の背筋に快感を呼ぶ。ゾクッと腰の辺りから駆け上る快感に、逆らえずにいた。俯いていた顔が、思わず顎を上げてしまう。
「えと……その……」
「どこを、どうしてほしいの?」
「あの……」
「あー。やっぱやめた」
「え?」
 急に美緒を抱いていた手を離すと、薫がぶっきらぼうにやめると言い出した。さっきまでの色っぽさはどこへいったのかと疑うほどの変貌っぷりに、美緒も驚きを隠せない。顔から火が出るほど恥ずかしかったことも忘れるほどに。でも、やはり、薫は簡単にやめてくれるほど、善良な人間ではない。
「ここでするのも乙だけど、やっぱりベッドじゃなきゃ嫌だろ?」
 妙に色気のある『男』の顔で、そう言い放った。
「最初くらい、俺のやり方を見せたいしね」
「キャッ!」
 美緒の前に屈みこむと、右腕を美緒の腰に回し、体ごと持ち上げるように肩に抱きかかえた。美緒の抵抗も意に介さず、その場から連れ出すように歩き始める。
「先生、待って! 下ろして!」
「ばーか。誘ったのはおまえだろ? 今更何言ってるんだよ」
「でも……でも……」
「俺は、好きな女を前にして、何でも我慢できるほど上手にできてないんだよ」
「先生……」
 茶化すわけでもなく、真剣に言った最後の一言は、美緒を黙らせるのには充分なほど本気の色を含んでいた。この人になら何をされても、構わない。そう思えるほど……。
 二人とも、胸の高鳴りが、おさまらない。


 レースのカーテンの隙間から、夕日が顔を覗かせる。
 美緒の表情は覆いかぶさる薫の影になって暗くみえるけれど、ずっとこうやって見つめている薫にとっては、光などいらないほど美緒の表情が露に見える。何かを我慢するような美緒の表情を見るたび、薫も欲情を刺激され、段々と余裕がなくなってくる。
 唇に。頬に。首筋に。胸に。余すところなどないほど、優しくキスを落とした。その度に、美緒の身体はビクンと反応し、初めてとは思えないほど色っぽい声をあげ、身体をくねらせ、男を誘った。
「先生……なんで……カーテンちゃんと閉めてくれないの?」
「そんなことしたらもったいないだろ?」
「何、が?」
「おまえの綺麗な身体、見られないだろ」
 本当なら、もっと明るいところで見てみたい。そう思うほど美緒の身体は美しく、夕日が作る体の陰影に目が奪われずにはいられなかった。
 身体を重ねあわせるだけが快感ではない。目で見、指で触れ、快楽に溺れていく女を、瞳で記憶するだけでも満たされていた。もうずっと何十分も、こうやって美緒に触れ、抱きしめ、温もりを感じることで快感を与え合っている。唇を触れるか触れないほどの距離感で重ねあわせて、隙間から少しだけ舌を出して美緒の唇を舐めると、無意識にか、美緒も求めるように舌を出してきた。
「エッチだな、おまえ」
「え……」
「本当に初めて?」
 つい意地悪を言ってみたくなるほど、美緒は女としては充分すぎるほど魅力的で、経験の豊富な薫さえも虜にしていた。艶っぽく、虚ろな瞳は、時々うっすらと瞳を開けては薫の姿を見つけ、そしてまた閉じては快感をその瞳の奥に浮かべる。無意識に薫の背に腕を回しては、自ら引き寄せる。柔らかい女の肌に、薫も逆らえはしない。ただただ、求められるままに、快感を与えていた。
「あたりまえじゃないですか……」
「本当に?」
「あっ……ん……そんなにしたら……」
「そんなにしたら?」
「意地悪……」
「褒め言葉だな」
 湿り気を帯び、男を誘っては逃さないその秘部に指を突き入れる。もうずっと愛撫していたからか、初めてにしては充分すぎるほど潤っている蜜壷を、細く長い指がかき回した。そのたびに美緒は、言葉にならない声をあげ、無意識に指を締め付け、自ら奥へと引き込もうとする。たちのぼる甘い香りに、薫の我慢も限界に来ている。
「ここ、どうして欲しい?」
「わかんない……」
 美緒が大きく頭を振る。落ち着かせるように、唇を重ねた。触れたま喋ると、唇が震えた。
「わかんなくないだろ?」
「……あっ……ん……」
「言わないなら、このままずっとやめない」
「そんな……」
 かき回す指を一層強くした。美緒は薫の髪を強く掴むと、自分の首筋へと引き寄せ、体中を強張らせて快感に耐えた。――これ以上の快感に耐えられるだろうか。求めたいけれど、その奥にある未知の世界に、不安を覚えずにもいられなかった。
 薫のことは好きだ。誰よりも好きだと言えるし、身体ごと求めたこの気持ちは嘘じゃない。でも、怖いのも、嘘じゃないのだ。カタカタ、と肩が震えだす。瞳をギュッと閉じ、言葉にならない思いを胸に抱えていた。
「美緒?」
 美緒の異変に気づいてか、薫も、指の動きを止め、美緒の表情を見つめる。少し怯えたような表情に、美緒の気持ちを察してか、両手で優しく美緒を抱きしめた。
「バカだな……何我慢してんだよ」
「我慢なんて、してないもん」
「怖いなら、そういえばいいだろ?」
「でも……」
 なぜか申し訳ない気持ちでいっぱいな美緒。そんな美緒を愛しく思いながら、薫は苦笑を零す。
 怯えたって構わない。いつだって美緒は、本気の気持ちで薫と向かい合ってくれている。『抱いて欲しい』と言ったその言葉も嘘ではないだろう。その時その時の気持ちを、一番に大事にしたいと思っているし、無理強いをする気もない。第一、拒まれたくらいで、気持ちが冷めるほど軽い気持ちではないのだ。むしろ、怯えた子猫のような美緒をぎゅっと抱きしめて、温もりで癒してあげたい、とそう思うくらいだ。それくらい、愛していた。
「おまえが『したい』って言ってくれただけで嬉しいんだから、それ以上無理強いはしないよ」
「でも……したいって思ったのは本当なの」
「わかってるよ」
 ゴロンと、美緒に覆いかぶさっていた身体を仰向けにして、美緒の隣へと寝転んだ。右腕に美緒の頭を乗せ、身体ごと右半身に乗せるように抱きしめる。優しく、美緒の額へと口付けた。
「怒りましたか?」
「怒るわけないだろ。俺はそんなに子供じゃないっつーの」
「ごめんなさい……」
「ばーか」
「うん……」
「でも、好きだよ……」
 初めてまともに言われた。薫の口から『好き』と。
「もう一回」
「ん?」
「もう一回……言ってください」
「……好き」
 胸が痛い。ギュッと掴まれた様に、甘く心地よい痛み。思わず、泣きそうになる。ただ、二文字。
 ス キ
 と言われただけなのに……。
「もう言わない」
「え? どうして?」
「生憎、俺の言葉は高いんだよ」
「どれくらい?」
「そうだなあ。おまえが百回言ってくれたら、一回言うくらいかな」
「イジワル……」
 初めて想いが通じた気がする。『スキ』って、魔法の言葉だ。その一言に、こんなにも心が満たされるのだから。
「先生……」
「ん?」
「やっぱり……して下さい」
「無理すんなって……」
「無理じゃない」
 愛しくてしかたがない。好きを通り越して、もう愛しいとしか言いようがない。これが、愛しているということなのだろうか。自分の与えられる全てのものを彼に捧げたい。この人のためなら、身体も、声も、心も、全部あげてしまいたいくらいだ。
「痛いぞ?」
「いいの」
「本当に?」
「好きよ……」
「バカ……だから急にそれを言うのは卑怯だって言っただろ」
 苦笑を浮かべつつ、美緒をもう一度押し倒す。慣れていないからか、美緒から好きだと言われるたび、薫もドキドキしてしまうのだ。できるなら、壊れるほど、抱きしめてしまいたい。壊して壊して、自分のものだけでいてくれたなら……とおかしな考えが浮かぶほど、美緒に恋焦がれていた。言葉にならないほど、愛しかった。
「好き……好き……す」
「黙って……」
 言葉を封じるように、甘いキスを落とす。段々と喘ぐような呼吸が、部屋中を満たしていた。柔らかい胸の膨らみに手を添えると、うっすらと汗ばんだ肌の向こうに、ドクドクと鼓動が聞こえた。波打つようなその身体に、導かれるまま身体を重ねる。息を止め、耐えるように、美緒の体中に力が入る。薫を拒んでいるわけではない。だけれど無意識に、初めての美緒の身体が、薫を受け入れようとしていなかった。
 そんな美緒を見て、薫が耳元で囁く。
「好きだよ……美緒」
 魔法にかかったように、身体から力が抜けた。何もかもを受け入れてしまう神秘な女の身体は、自然と薫を受け入れる。押し迫る男の身体に、言葉にならないほど苦しく身悶えた。苦痛に満ちる表情の奥に、かすかに感じ始める快感。
「あっ……ん……っ」
 甘い痛み。愛しい人を誰よりも近くに感じるために与えられたような、そんな痛みだった。痛くてたまらないのに、もっと痛みを感じたい、そう思うほどに。
 痛みの先に感じる不思議な快感に、うっすらと涙が浮かび始める。目の前で、快感に歪む薫の表情を見て、愛しいと思った。男の人が可愛いと思ったのは初めてだ。きっと、自分の身体が、この男に快感を与えている、そう思ったからだろう。
 最初で最後。本気で好きな人と、繋がることができた。そう思うだけで、嬉しいような、哀しいような、美緒を満たす感情が涙を呼ぶ。
 身体に刻んでおきたかった。この恋は、間違いではなかったと。
 けして忘れたくはなかった。初めて愛したのは、あなただったから。
 そして、これから先、誰を愛そうとも、あなた以上愛せる人はいないだろうから。

 痛いほど、燃え上がる恋をした。誰にも負けないほどの恋をした。あなたを見つけるたび、泣きそうなほど嬉しくて、自分ではどうしようもないほど恋に落ちた。それが、花のように短い恋だとしても、叶わなかったとは思っていない。だって、こうやって愛されながら抱かれた記憶を、身体に、心に刻んで生きていくことができるのだから。愛しい声も、体温も、肌の感触も、汗の匂いも忘れはしない。
 私は、あなたに守られて咲いた花。願うなら、ずっと咲いていたい。
 だから、あなたの胸の中から枯れて散ってしまう前に、私はあなたへの恋心を攫って去っていこう。
 愛され、慈しまれ、あなたに守られて育ったこの恋を胸に。
 ――愛している。それを言うのは罪だから、その言葉も連れて……。


「なんだって? 急にどうして……」
「急にじゃないです。ずっと前から考えてたことです」
「だが、真中……」
 次の日。担任の教師を前に、迷いなく告げた。
 私は、ダラダラとはびこる雑草じゃない。綺麗に咲いて、綺麗に散る花だから。
「イギリスへ、留学します」
 あなたへの恋も、決着を付ける。

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