花影恋歌

15.色のない心

「留学するって……本当なの? 真中さん」
 担任から話を聞きつけて、麻里が美緒の教室を訪れた。昼休みだけあって人はまばらで、麻里は美緒を窓際の隅に促すと、単刀直入に留学の話を切り出した。
「はい。します」
「なんで急に……もしかして私が原因? 私の顔見るのが嫌で……」
「違います。別に、昨日今日で決めたわけじゃないんです。もともと考えてましたから」
「でも……」
 わざと明るく話しているようにしか見えない美緒を、麻里が怪訝な表情で見つめる。あんな風に美緒と話してから、ずっと会話をする機会がなく、麻里の心中はずっと申し訳ないような気持ちでいっぱいだった。たとえ恋敵だったとは言え、自分の気持ちを押し付けすぎたかもしれない。彼女は、自分の教え子なのに……。そう思わずにはいられなかったのだ。
「結城先生よりも前に勤めてた英語の先生に、いつも留学しないか? って言われてたんです。私も英語大好きだし、語学力を伸ばすのなら、今がちょうどいい機会だなって。いつでも行けるように準備だけはしてたんです」
「でも、いいの?」
「何がですか?」
「薫のことよ……」
「私が留学するのは、勉強のためです。それ以外ないですよ?」
 にこっと微笑んだ。薫の話題をあえて避けているのは、麻里から見ても一目瞭然だったが、そう強く言われては何も言い返せない。これ以上、その話題は口にするなと、暗黙の内に告げられていたようなものだ。
「そう……わかったわ。でも、一つだけ聞いていい?」
「なんですか?」
「このこと、薫は知ってるの?」
「……いいえ」
 美緒はゆっくりと首を振った。
「どうして?」
「櫻井先生とは、関係のないことですから……」
「じゃあ私から……」
「結城先生! お願いです。櫻井先生には言わないで下さい。このことは、担任と結城先生しか知らないことなんです。だから、私が発つまでは、絶対誰にも言わないで下さいね」
 私から薫に言うわ、と言いかけた麻里の言葉を遮って、美緒が目の表情を変えて強く言い放つ。咄嗟に、美緒の右手は、麻里の腕を掴んでいた。
「でも……」
「お願いします」
 美緒は心配そうに見つめる麻里をあまり見ようとせず、深く頭を下げた。これ以上話していると、心が痛い。やっと、薫と離れる決心を付けることができたのだ。このままここにいては何も変わらない。薫を好きな気持ちを増徴させ、そばにいたい気持ちを抑えきれなくなってしまう。だから、絶対に会えないところに身をおこうと決めたのだ。たとえそれが、逃げているといわれても構いはしなかった。薫と離れること以上に、美緒にとって心を深く傷つけることなどもうありはしなかったから……。
 そんなことを考えつつ、知らず知らずのうちに強く麻里の腕を掴む。その力強さに、麻里も、美緒の想いがどれほど強いのか、わかるような気がした。
「わかったわ……」
「先生……ありがとうございます」
 麻里はそれ以上追求しなかった。
 あえて、もう何も言うまい。たとえその容姿は幼い少女でも、心は立派な女だ。対等な立場として、美緒の気持ちを尊重しよう。


 ――数日後。
 そろそろ午後にさしかかろうとする頃。美緒は一人、大きなスーツケースを持ち、空港で佇んでいた。周りのざわめきは、複雑な美緒の気持ちを表現しているようだ。しかし、その逆に、余計なことばかり考えてしまう美緒の気持ちを落ち着けているようでもあった。
 クラスメートには、今朝担任から美緒が留学したことの連絡はされていることだろう。あえて誰にも告げず、今日まで秘密を守り通した。それは、自分自身の保身でもあり、薫への思いやりでもあった。
 薫はとても優しい。たとえ、美緒が本当に愛されていないとしても、旅立つ女を簡単に見過ごせるほど非情でもありはしない。留学のことを知っていれば、きっと引き止めただろう。そうさせてしまうことも嫌だったし、美緒自身、引き止められたら留学するという決意が鈍ってしまいそうで怖かった。
 こうすることが一番いい。抱かれたことの記憶と、今でもまだ胸に残る愛しさを抱いてさえいれば、離れていてもきっと、暮らせるだろう。チクリ、と、心にとげの刺さるような痛みはまだ残るけれど、もう涙はでなかった。自分は、幸せであったと、思うことができるようになったから。
「真中さん」
 雑踏の中にもかかわらず、一際澄んだ声が美緒を呼び止めた。その声に心当たりがありすぎて、美緒はゆっくりと振り返る。そこには、会いたくなかった、麗しい人が佇んでいた。
「結城先生……」
「あなたも本当に頑固ものよね。今日まで誰にも知られずに旅立っちゃうんだから」
「どうしてここに?」
「あなたを見送りによ?」
「そんな……いいのに」
「一人じゃ寂しいじゃない」
 少し寂しげな笑顔を浮かべて、ため息をつくように麻里が呟いた。
 この人は、けして自分が憎かったわけではない。薫との関係にとって、自分は邪魔者であったに違いないのに、いつでも対等に、そしてライバルとして尊重してくれる人だった。敵わない――。そう思うほど清々しく、そして強い女性。自分と違って、この人ならば薫と似合いだろう。そんなことを思いつつ、美緒は初めて麻里をまっすぐ見つめることができた気がしていた。
 何気にずっと逃げていたのかもしれない。薫をいつか奪われそうで、怖かったのかもしれない。けれど、そんな気持ちも、今日でサヨナラだ。
「結城先生」
「ん?」
「私がこんなこと言うの変だと思うんですけど……櫻井先生と幸せになってくださいね」
「え……?」
「私は無理だったけど……結城先生ならきっと……」
「ちょっと待って、真中さん」
 美緒が言葉を綴るたび、何を言われているのかわからないような表情を浮かべていた麻里が、唐突に言葉を遮った。その勘の良さから、美緒が何を言わんとしているか、そして勘違いしているということを悟ったのだ。
「あなたもしかして……」
 ハッと息を呑む麻里に、美緒は戸惑っていた。
「私は、薫とはもう終わりにしたのよ? ……というか、元々何もなかったけれど」
「それ……どういう……」
「あなたきっと勘違いしてるわ。私は、薫に振られたの。最初から、相手にもしてくれなかったけどね。愛しい彼女がいるからって……」
「え……」
「あなたのことよ? 薫は、あなたのことだけ愛してるのに」
 言われていることの意味がわからない。だって、キスしていたじゃないか。あんなに苦しい思いをして、薫との別れを心に決めたじゃないか。それもこれも全部、無駄だというのか……。
「で、でも! 結城先生が、櫻井先生とキスしてたって……」
「それは、私がこれで最後にするからって薫にお願いしたのよ。薫は、あなたを守るために……自分の思いを殺してでも私ときちんと別れることを優先したの」
「そんな……」
 これが運命というものなのだろうか。こんなにも残酷な――。
 その後、延々と自分が知らない間の薫と麻里の話を聞いた。薫が本当に愛しているのは、美緒自身だったということ。美緒を傷つけるかもしれない麻里の激情から、どんなことをしてでも守ろうとしてくれていたこと。麻里が、薫に対し、理不尽なことばかり言っては困らせていたこと。美緒がどれだけ薫にとって大事な存在だったかということ。そして、美緒が、はかりきれないほどの薫の優しさで、ずっと包まれていたということを……。
 無知とは本当に恐ろしいもの。何も知らないからこそ、一人でもがいては、誰も助けられなくなる。底なし沼のように足を取られ、自分では思いもよらない方向へと運命を流される。今頃になって知らされた真実は、幼い少女にとってはあまりにも大き過ぎて、すでに狂い始めていた歯車を戻すことは、できなかった。
「ごめんなさい、まさか知らなかったとは思わなかったのよ」
「いいんです……」
 思いもよらない出来事に、麻里は戸惑い、そして美緒は言葉もなかった。ただぼーっと、今言われたことの全てを認識しようと考え込むだけ。謝られても、そんな言葉は耳には届かず、戸惑うばかりだった。
 けれど、少し時間を置いたあと、静かに目を閉じ心にきめた。これも運命なのだ。そう、割り切るしかなかった。
「今ならまだ間に合うんじゃない? 薫だって、待ってると思うし……」
「いいんです」
「でも……」
「いいんです。私は……私は勉強するために留学することを決めたんです。前にも言いましたよね?」
「それはそうだけど……」
「だから、行きます」
 今、真実を聞いたからと言ってどうなるわけでもない。決めたことを簡単に曲げるほど、美緒はいい加減ではなかった。
「ねえ、真中さん。戻るのは、いつごろなの?」
「まだ決めてないですけど、何ヶ月かは……」
「そう……寂しくなるわね」
「櫻井先生に……櫻井先生に、サヨナラ、と伝えておいてください。何も言わなくてごめんなさいって」
 元々、この恋は叶わなかったと思っていない。この恋は今でも心の中で生き続けている。
「わかったわ……」
「じゃあ、私行きますね」
 最初から心に決めていた。この恋を胸に生きると。叶う叶わないは問題ではなかった。自分が好きなら、それで構わない、そう思う恋だった。
 けれど、本当に愛し合っているなら。これが真実の恋ならば。またいつか、きっと、会える。
 愛している。この想いは、ずっと変わらないから――。


 遠くに見える美緒の背が、もう少しで見えなくなりそうだった時、麻里の背後から勢いよく近づいてくる足音が聞こえた。風のように駆け抜けるその姿を目にし、驚きのあまり凝視する。
 ――なぜ。
「薫!!」
 麻里が見つけたのは薫だった。どこから聞きつけてきたのか。血相を変え、ハァハァと荒い息をしながら、美緒を追いかけてここまでやってきたのだ。
「麻里! おい、美緒は? 美緒はどうした? もう出たのか?!」
「真中さんなら、もう……」
「まだ間に合うだろ? 行って来」
「もう間に合わないわ! もう……」
「な、なんで言わなかったんだよ! なんで、なんで俺だけ知らないなんて」
「ごめんなさい。でも、それが真中さんの願いだったのよ」
 麻里の姿を見つけるなり、肩を掴み、焦った面持ちで美緒のことを問いただした。その表情には余裕などなく、愛しい者を想うあまりに、狂ったように麻里を責めたてた。麻里は、やるせない思いで、瞳に涙を浮かべながら、薫に説明しつつ許しを請う。
「美緒の……願い?」
「真中さん、あなたに何も知られずに旅立とうとしてたのよ」
「なんで、なんで俺にだけ言わないんだよ」
「それは……真中さん、あなたに愛されていないと勘違いしてたみたいで……」
「なんだって?」
「ずっと勘違いしてたみたいなの。私のいい加減な行動のせいで……」
「そんな……あれだけ好きだって言ったのに……」
「知らなかったのよ。そのことを……」
「そんな……」
 麻里の肩を掴んでいた腕から力が抜け、するりと落ちる。焦点は合わず、どこを見ていいのかわからず、瞬きをするのを忘れ、薫はただぼーっと遠くを見つめていた。
 何も言葉にしてこなかったことが仇になった。相手を想うあまりに、何も伝えなかったこと、何も聞けなかったことが、お互いでお互いをすれ違いという鎖で縛っていた。愛しすぎるという思いが、知らず知らずに何もかもを狂わせていたなんて……。
 運命とはこんなにも残酷なものなのか。何もかもを連れ去る嵐の後に、切ない真実だけを残していくのだから。
「美緒……」
 残されたのは、愛した人を失い、抜け殻になった色のない心だけ。
「薫、ごめんね」
「美緒……」
 麻里の言葉など聞こえず、耳に今聞こえるのは、美緒の甘い声と、そして、自分の鼓動の音だけだった。ただただ、愛する人の名を呼ぶことしかできず、狂ったようにその名を呟いた。
「美緒――」
 互いに幸せになれれば、と、そう願ったのに。こんなにも愛したのは君だけだったのに。今でもまだ愛しくてたまらないのに。この腕に残る香りと温もりは、美緒、君以外誰のものでもないのに……。
 胸がひきちぎられてしまいそう。君は……君はずっとこんな思いを胸に秘めていたの?
 言葉にならない悲しみの声とともに、色のない涙が胸の中で零れ落ちた。

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