花影恋歌

16.最高のプライド

 美緒がこの学園をあとにしてから、早一週間が経とうとしていた。
 美緒が旅立った日、彼女が留学したことを告げられたクラスメートたちは、動揺し、悲しみ、今までいたはずの空席をただ見つめるばかりだったのに、今となっては、誰もその空席に振り向きもしない。彼女がいないという現実が当たり前と認識され、誰もがその環境に慣れてしまうのだ。けして、美緒のことを親しく思っている人がいないわけではない。少なくとも、彼女がいなくなったことで、えみをはじめ多くの友人が涙し、悲しんだ。
 時の流れというものは、人の心まで奪っていくようで、そう考えると少し悲しいような気もする。その様はなんだか、一気に打ち寄せた波が、サーッと引いていく感じにも似ていた。

 一方、現実にまだいる人々の噂というのは絶えない。最初は小さな噂に過ぎなかったのに、今では教師たちもが気にするほど、薫と麻里とが恋愛関係にあるという噂は肥大していた。
 美緒がいなくなってからというもの、会う機会はほとんどなく、お互い別れをきちんと受け入れてからはあえて疎遠な雰囲気でいたのにも関らず、人の考えることというのは面白いもので、『付き合ってるのがばれたからわざと会わないんだ』などと、勝手に解釈する人間も少なくはない。いくら繕っても、人の口に戸はたてられない。わかっているからこそ、薫はあえて黙秘し続けていた。
 保健室に訪れては、麻里とのことに文句をつける女生徒。噂話が大好きで、追及したがる男子生徒。校医としての立場を危ぶみ、やわらかく注意しにくる教師。どれに対しても、特に否定をするわけでもなく、上手に交わしていたのだ。否定したところで、余計に真実めいた印象を植え付けてしまうだけで、あまり効果はない。人の噂など、放っておけばいつかは消えていくのだから、と、薫は長い目でこの状況を見ていた。
 今思えば、美緒がこの学園にいたときから、麻里との噂話を耳にしていたに違いない。いったい、どんな気持ちでこのことを受け止めていたのか。考えれば考えるほど、苦悩が、薫を縛り付けていた。

 抱いてほしいと泣きながら懇願したあの日。別れを決意してのことだと気づいていたならば、けして離しはしなかっただろう。いつまでも胸に閉じ込めて、どこへも行かせはしなかった。たとえ泣き叫んで嫌がったとしても、キライだと言われたとしても、離れていなければどんな可能性だって拓けたに違いないのだ。でも、こんな風に離れてしまったら……。
 抱いた肌の温もりと、香りだけを薫の記憶に残して、愛し合った日々はあっさりと連れ去ってしまった美緒。まるで今まで二人が一緒にいた日々は嘘だったかのような、あまりに早すぎた別れに、愛されていた記憶も、自分が本当に愛していたのかという記憶も、そして甘く好きだとささやいてくれた愛らしい声さえも、忘れてしまいそうで怖かった。
 君がいなければ何もない……。そう思うほど、美緒の存在は薫の中で大きなものになっていて、彼女のいなくなった穴を埋められる術など、何も思いつくわけもなかった。
 いつも近くにいることが当たり前だったから。いつも愛されていることが当たり前だったから。君が離れていくだなんて思ったことは一度もなかったから。離れてしまってから気づく喪失感。いつだって、目の前にいる君だけでいっぱいだった心は、記憶に残しておくほどの余裕もなくて、今となっては、何もない。
 痛いほどの心の乾きに、薫は苦痛に喘ぎ、そして、それを潤すかのように心で涙を流す。そんな毎日が、今日で一週間。だが、段々と心の整理がついてくるなり、薫の中である決心が固まっていた。
 過去の悲劇はもう繰り返すまい。もう二度と、愛する人を手放したりしたくはない。
 だって君は、運命の人だから。


 薫の様子が、以前とあまり変わりのないことに少し不安を覚えていた麻里は、ぼーっと遠くを見つめながら、デスクにひじをつき、ため息をついた。
 美緒とあんな形で別れてしまったというのに、薫の様子は、以前のポーカーフェイスのまま変わらない。感情をあらわにしたのは、空港の一度きりだった。それ以来は、麻里が自ら会わないようにしているということもあるが、傍から見る限りでも、とりわけ変わった様子もなく、女生徒や、教師たちと談笑している様子さえ見られた。改めて、自分が薫のうわべしか知らなかったのかということを思い知らされる。
 正直、空港でのあの取り乱し方を見た時、初めて薫の本性を見た驚きと、そこまで美緒のことを愛しているという真実に、ショックを受けた。もう昔のこととは言え、薫のことを何も知らなかったという虚しさ。一年前、自分が別れ話を切り出した時も、薫は特に顔色を変えることなく、麻里の言い分を優しく受け入れてくれた。今思うと、あれは本心からではなく、ポーカーフェイスだったのかもしれない。麻里には、けして本心を見せない人だったのだ。結局、麻里には薫の本心を暴けるほどの影響力はなく、美緒には到底かなわないのだと、思い知らされるだけだったに違いない。
 一方、麻里自身はというと、薫ときっぱり別れを決意してからは、モヤモヤした心の闇が晴れたようで、新しい生活を目の前に希望さえも胸に秘められるようになっていた。あんなに好きだったのに、吹っ切れてからは薫のことを想う時間も少しずつ減ってきているのがわかる。というよりは、愛していても尚、そんな気持ちに縛られることなく前を見て歩けるようになったのだ。精一杯愛した。だから後悔は――ない。次に恋をする人は、もっともっと愛し合える人を見つけたい。
 そんなことを思いつつ、両腕を上に伸ばし大きな伸びをした。それと同時に、朝礼の開始を告げる予鈴がなった。
「そっか……今日は朝礼があったんだよね」
 時計に目をやりつつ呟くと、
「おいおい、今朝教頭が言ってただろ?」
「そうだっけ?」
 すかさず、隣の席の佐伯祐介がつっこみを入れ、麻里はふふっと笑みを零した。
 なぜだか、目を合わせただけでも微笑みがこぼれてしまう人。落ち込んだ心を、簡単に掬い上げてくれる人。傷ついた麻里の心さえも、癒してくれるような祐介の存在。麻里の新たな恋も、そう遠くはない。


 長い長い朝礼が、終わろうとしていた。
 目の前に広がる整然と並んだ人の群れは、なんだか機械的な印象さえも与える。集団の中という独特の蒸し暑さ。人の熱気とでも言おうか。人ごみが苦手、と豪語する人の気持ちがこの場に居ては大きく頷けてしまうほどの空間。壇上での長い校長の話に、ぐったりしている生徒たちの様子を見るだけでも、気が滅入ってしまいそうである。
「……それでは、今日の朝礼を終わります」
 教頭のこの一言で、生徒たちの顔が一瞬明るくなったように見えた。別に笑っているわけではないのだが、肌の色が明るくなるというか、なんというか。早く、『解散』の言葉を待っているのは一目瞭然。だったのだが――。
「教頭、ちょっと待ってください」
 男の声が、解散を遮った。そして、壇上へと駆け上る。その姿に、体育館にいる全員の目が釘付けとなった。
 軽やかに翻る白衣。キラリと光る眼鏡のせいで、表情は読み取れなかった。
「櫻井先生。どうかしましたか?」
「ちょっと私にお時間をもらえませんか?」
「え?」
 同じく壇上にいる教頭の元へと近寄ると、少しの間で構わないから時間をくれと告げ、返事を待たずしてさっきまで校長が立っていたマイクの前まで早足で駆けた。台に手を付き、目を閉じ、息を軽く吸う。皆がしんと静まり注目する中、薫はゆっくりと目を開けながら、落ち着いた声で話し始めた。
「私は、今日でこの学園の校医をやめます」
 初めに言い放ったその一言は、体育館中の人間を驚かせるのに十分だった。
 薫の言葉に、生徒だけでなく、教師たちもが騒ぎ出す。ヒソヒソと、隣同士で顔を見合わせ、それと交互に薫へと視線を流す。『やだ……』とか『なんで?』などの、驚きと不満の声が体育館中を満たした。そんな中一人の男子生徒が、
「結城先生と結婚するからやめんのー?」
 と、皆に聞こえるほどの大声で叫んだ。
 途端、麻里に集中する視線。麻里は、どう対応していいのかわからず、ただ戸惑いの表情を見せるだけだった。だが、そんなことは予想の範囲内だったのか、薫は戸惑うことなく
「いや、違うよ」
 とマイクを通して、喋り始めた。
「このことに関しても、皆に話しておかないといけないと思ってる。今までその質問に関して黙ってたのは、こういった大勢の場で公言できる機会がなかったからだ」
 薫が喋り始めた途端、さっきまで麻里に集中していた視線が再び、薫へと戻った。皆知りたかった真相。その真相が明らかにされようとしている今、皆息を飲んで薫の言葉を待った。
「おまえたち噂話大好きだろう? だから、一人一人の質問に答えたところで、それがまた噂になって、今度は尾ひれつけて本当とは別の事実になりかねない。俺が喋ったっていう事実さえあれば、その噂がどんな風に変わっていったとしても、皆それが本当のことだって信じるだろ?」
 薫が、今まで口にしなかった理由。美緒を苦しめた噂を、自分の声で、自分の言葉で拭いたかった。だから、安易に口にはしなかったのだ。
「断言して言う。俺と、結城先生との間には、何にもない」
 その言葉を聞いた瞬間、さっきまで静まり返っていた生徒たちが再びざわめきだした。信じられない、そう言いたそうに。教師たちは薫の破天荒な行動に戸惑い、顔を見合わせるばかりで、肝心の教頭は後ろから『何やってるんですか、櫻井先生! 戻ってください』と小声で言うばかりだった。
 そんな言葉は聞こえているのか聞こえていないのか。薫は気にも止めず、言葉を続ける。
「まあ、おまえたちのことだから、そう簡単には信じないと思うけど」
 あたりまえじゃん、とでも言うような生徒たちの表情。やっぱり一筋縄ではいかないか、と薫も苦笑する。
「とりあえず、絶対に結城先生とはなんでもないってことは信じてほしい。結城先生にも迷惑がかかるしね」
「でもさー、どう見たって仲良かったじゃん」
 薫の言葉に対して、前列にいた男子生徒がすかさずつっこみを入れた。麻里に好意を抱いているがゆえか、少し責めるような声色を帯びていた。それでも薫はやっぱり苦笑した。
「バッカだなあ。本当に付き合ってんなら、隠すっつーの」
「本当かよ」
「あたりまえだろ。じゃないと、俺の彼女が可哀想じゃないか」
 『彼女』。その一言に、女子生徒は悲鳴を上げ、男子生徒は口笛を鳴らす。もうあえて隠す必要はあるまい。自分はこの学園を去り、そして美緒はこの場所にいないのだから。
「付け加えて言うなら、この学園での俺に関する恋愛の噂は、全て嘘だ。おまえらが思ってること全部、どれも全部噂にすぎない」
 数多くの噂があった。どれも全て本当のことではないけれど、女好きな薫の行動が招いたものでもあった。だからと言ってはなんだが、あえて否定もしなかったし、噂自体泳がせていた。だが、もう自分の気持ちを誤魔化すことはしたくない。美緒を苦しめる噂なら、放っておく義理もない。
「彼女ってだれー?」
 どこからともなく、また生徒からの声が飛んでくる。皆、誰だか知りたくてたまらない。笑顔の男子生徒も、悲しそうな顔の女子生徒も。
「だーかーらー。さっきも言ったけど、本当のことは隠すっつーの。でも一つだけ言うなら……」
 大きく深呼吸し、息を整える。まっすぐ前を見て。
「俺は今、人生で一番最高の恋愛をしてるよ」
 はっきりと、宣言した。
 途端、ヒューとなる口笛。そして、悲鳴にも似た声。
「誰よりも幸せにしたいし、誰よりも彼女と幸せになりたい。好きで好きでたまらないんだ。だから、何を捨てても俺は最愛の彼女と一緒にいたいんだよ」
 賛辞と非難の声が飛び交う。けれど薫は、何かを企む少年のように、嬉々とした表情で爽やかなまでに語り続けた。
「人生で最高の恋愛なんて、誰もができるわけじゃない。見つけただけでも儲けもんだと思う。そんなチャンスを逃すなんて愚かだ。おまえたちも、勉強は大事だと思うけど、人生悔いのないように生きろよ」
 後ろで、『何を言うんですか、櫻井先生!』と嗜める教頭の声が聞こえた気もしたが気にはしない。
 それも当然だ。何せここは名門進学校なのだから。
「誰の前でもはっきりと『好き』って言えることほど、格好いいことってないと思わないか。もちろん口先じゃなくて心から。今までは、そんなこと全然思ったことなかったけど、でも俺の今一番の誇りは、誰よりも愛してる彼女だよ。彼女と一緒にいられることが、最高のプライドだ」
 自分が今言っていることはとても恥ずかしくなるようなことだとわかっているけれど、こうやって公言することで固まる意思。そして、今まで隠していることで曇っていた心の中を、柔らかな風がサァーっと吹き飛ばしていくようだった。
 それは美緒。君がいつも身に纏っていた、柔らかい風。君は知らないだろう? 僕がずっと、その風に包まれて守られていたことを。傷ついた心を癒してくれた、もう一度愛することを思い出させてくれた、君の優しさに……。
 傍から見ていた麻里も、『あなたには敵わない』と小さく呟き、苦笑していた。
「だから俺は今日でここをやめる。今度会う時は彼女と一緒かな。……じゃあな!!」
 軽くウィンクして、白衣を翻し背を向けた。
 守るものはもう何もない。ただ一つだけを残して……。
 
 ――美緒。今君の元へ。

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