花影恋歌

17.異国の風に吹かれて

 この土地に訪れてから、二週間。
 あまりにも日本とは環境の違うこの地で、今目の前にある現実の全てを理解しようと頭がいっぱいになっていた。でも、訪れた当初に比べれば、少しずつ余裕が持てるようになっていた。幸い、言葉の壁はそう感じることはなかった。
 ホームステイ先の家族は、美緒にとても優しく、本当の家族の一員にしてもらえたかのように、自然体で振舞ってくれる。学校の仲間は、皆フレンドリーで、美緒のことを日本から来た異国人という特別な目で見ることはなく、昔からの友達のように接してくれ、不安だった学校生活にも徐々に慣れていた。
 見上げる青空は日本とは違いどこまでも高く、けれど、どこかで日本と繋がっているという感じがしてならない。自然って偉大だなあ、と思わずにはいられない瞬間。だからなのか、最初は誤魔化してこられた恋愛感情を、沸々とまた心の中に感じていた。新しい土地は、環境に対応していくことの忙しさから、過去を考えずにいられる時間もあるけれど、その反面、ふと寂しくなった時、日本に置いてきた一番濃い思い出を思い出してしまう。
 ――先生。今頃何してる?
 異国の匂いのする風に吹かれながら、ふとたそがれる時は、薫のことばかり思い浮かんでしまう。美緒をいつも優しく見守っていた笑顔。時折見せる心配そうな笑顔。イジワルばかりする、悪戯っぽい表情。それを見ていた時は何も感じなかったのに、離れてみるとわかる愛しさ。段々と薄れていく記憶を、どうにかして引きとめておきたくて、わざと思い出すこともしばしばだった。そんなんじゃ、いつまでたっても忘れられないとわかっているけれど、忘れてしまう方が、怖かった。
 麻里から聞かされた真実は、あまりにも衝撃的なもので、受け入れるにはすぐというわけにはいかなかった。麻里がいるから、離れることを決心したというのに。どこか置き去りにされたような、宙ぶらりんになったようなこの気持ちは、いったいどうすればいいのだろうか。
 日本に帰って、やっぱり好きだからと、薫に打ち明ける? いや、そんな簡単な覚悟でこの土地に来たのではない。寂しいけれど、もしかしたら美緒の後に別の女の子が出てくるかもしれないけれど、自分で決めた道を簡単に投げ出すなんて、美緒にはできなかった。
 運命ならばまた会える。


「ミオ! そろそろ帰るよ」
 ホームステイ先の家族で、同級生でもあるアリスが美緒に話しかける。ブロンドの柔らかそうな髪に、ブルーグレーの瞳。ひときわ目立つ美少女で、男子生徒からの人気も高かった。それなのに、ツンとした様子も気取った風もなく、人懐こい性格から、美緒はすぐにアリスに打ち解けていた。この土地で、こんなにも自然に振舞えるようになったのは、彼女のおかげといっても過言ではない。
「うん。ちょっと待って」
「今日寄り道して帰ろうよ」
「寄り道?」
「そう。連れて行きたいところがあるんだ」
「へえ……どこだろう」
 異国の地で、自分が慣れ親しむ場所はあるはずもなく、連れて行かれるところが全て未知の世界ばかりで、美緒は興味深々だった。アリスが連れて行くということろだ。きっと素敵なところに違いない。

 二人並んで歩き、涼しい異国の風を受けながら、緑いっぱいの草原を歩いてゆく。少し小さめの丘というか、高台にある場所へ連れてこられ、遠くを見渡すと、街の様子が一望できた。この街はこんなに広かったのかと思うほど、視界に広がる世界は広々としていた。
 誰もいない。誰も来る感じがしない、シンとした緑の丘の上には、一本の大樹があり、アリスがそこへ座ろうと提案してきた。
「ごめんね。こんなところ連れてきて」
 アリスが、笑顔を浮かべて美緒に語りかける。
「ううん。すごいねー。こんな場所があるなんて知らなかったよ」
「そりゃ、私のとっておきの場所だもん」
「教えてくれてありがと。でも……なんで急にこんなところ連れてきたの?」
「ミオと内緒話しようと思ったから」
「内緒話?」
「ねえ、ミオ……」
「ん?」
「ミオは……何が一番大事?」
 ブルーグレーの瞳が、美緒の瞳を捉えて離さず、真剣なその眼差しに、美緒は心の中をのぞかれているような気分になる。アリスは何が言いたいのか。最初は何を言われているのかよくわからなかったけれど、それが、アノヒトのことを意味していることは、張り詰めていく緊張感の中で段々とわかってきていた。
「うーん……家族かな? もちろん、イギリスの家族であるアリスのことも一番大事だよ」
「そう。私も家族は大事」
「じゃあ一緒だね」
「でもね、私は、大好きな彼が一番大事だよ」
 大好きな彼――。この二週間一緒にいて、アリスからこんな話題が出たことは初めてだった。アリスに彼氏がいたとは知らなかった。
「なんだ、アリス彼氏いたんだ。あまり男の子に興味なさそうだったから、いないのかと思った」
 ふふっと笑って、自分のことは答える気はなかったのかもしれない。できるなら、話をはぐらかせることができれば……。そんなことばかり考えている。
「今は遠くにいるんだけどね……。でも学校卒業したら会いに行くよ」
「そうなんだ。早く会えるといいね」
「彼とはね、しかたなく離れてしまったんだあ。本当なら、ずっと離れたくなんてなかったけどね」
「ふーん」
「ミオ……時々哀しそうな目するね」
 アリスから目を逸らした。もしかして、今そんな目をしていた? まさか――。
 自分の中で誤魔化しつつ、でもアリスの目を見るのはなんだか怖い気がしていた。
「私と話してるとき、とっても楽しそうだよ。でも一人でいる時、別の人のこと考えてるよね。それが好きな人のことだってことぐらいわかるよ。だって私も同じ目をしてると思うから……」
 アリスが少しでも悲しい目をしていただろうか? と記憶をたどるけれど、全然思い当たる節はなかった。それどころか、自分と一緒にいる時以外のアリスの様子さえ思い出せなかった。
 ――そうか。私は余裕を感じているつもりでも、全然余裕なんてなかったんだ。いつも、先生のことばかり考えていたから。
「どうしてここへ来たの?」
「どうしてって……」
「勉強のためだけの留学? 違うよね。ミオは何かから逃げてるもん」
 違う、と美緒は首を振った。その懸命さは、アリスにしてみれば肯定としか感じられないだろう。
「ミオは贅沢ものだよ。私と違って、ずっと近くにいられるくせに、そんな幸せから逃げて……」
「逃げてなんかないよ。ただ、こうするのが一番良かったから……」
「本当に? じゃあどうしてそんな哀しそうな目するの?」
「どうして……かな」
 そんなこと聞かれたって自分にだってわからない。アリスの言う言葉一つ一つ、どれをとってみても、美緒が柔らかく隠していた感情を突き刺すようで、居たたまれなくなる。
 逃げていた。そういわれれば、否定はできない。自分でも、逃げていることはわかっていた。元々留学を決めたのは、薫から離れるためだったわけだから。でも別に、ここへ来たことを悔やんでいるわけではない。アリスと出会って毎日を楽しく過ごせているし、勉強になることだって多くある。薫のことを除けば……後悔なんてない。
「ごめん、ミオ……」
「ん?」
「泣かせて……ごめん」
 アリスが、自分のもっていたハンカチをそっと美緒の目の押し当てた。自分が泣いていると気づいたのは、その時だった。薫のことを考えると自然にあふれ出る涙。もう、止める術さえわからなかった。
「ねえミオ。私ね、ミオのこと本当の姉妹みたいに思ってるよ」
「ありがと」
「だから……後悔するような恋だけはしちゃだめだよ」
「うん」
「会いたいから会いたい。好きだから好きって言いたい、言われたい。それって普通のことなんだよ」
「うん」
「悪いことじゃないんだよ。恋するって……悪いことなんかじゃないんだからね」
 日本にいたとき、誰も美緒の恋になんて気づかなかった。ずっと一緒にいたえみさえ、異変は感じていても、こんなに苦しい恋をしていることに気づきはしなかったのだ。でも、似た恋愛をしているからか、アリスは誰よりも美緒の心に敏感に反応し、そして心から心配してくれている。初めて隠してきていた心の痛みに触れられた気がして、とめどなく涙が溢れた。
『悪いことじゃないんだよ』
 アリスの言ったその一言で、自分が全て許されたような気持ちになる。知らず知らず、自分が悪いことをしてるというコンプレックスを抱えていることに初めて気づいた。校医と生徒、だから許されない、いけないことなのだと勝手に決め付けていた。それが感情の枷となり、美緒を縛っていたのだ。
 アリスは、美緒の髪を優しく撫で、泣き止むまで黙ってそばにいてくれた。頭を引き寄せ、肩に乗せ、母親がするように優しく抱きしめる。他人に許してもらえたことで、楽になる感情。アリスに、感謝せずには、いられなかった。

「私先に帰るけど、ミオはもう少しいる?」
「うん……もうちょっといようかな」
「じゃあ私先に帰るね」
「うん」
 アリスは立ち上がり、お尻についた草を払うと、いつもどおりの優しい笑顔を浮かべて、バイバイと美緒に手を振った。少し早足に、下っていく。その可憐な軽やかさは、アリスの性格そのもののようだった。
 アリスに教えてもらったこと。あたりまえのことなのに、全然気づいていなかった。好きだから好きって言いたい。一緒にいたいから、一緒にいて欲しい。恋をすることは悪いことじゃないんだと。大人になるということは、窮屈になることなのかもしれない。いろんなものに縛られて、あたりまえのことが見えなくなる。
「あんまり、思ったことを口にしたことはなかったなあ……」
 大樹の近くに咲いていた小さな花を手に取る。
「今までに、好きって何百回、何千回って思ったのに、好きって言ったのはほんの数回だけだったな」
 もっと、素直に伝えれば良かった。嫉妬したときも、抱きしめて欲しいと思ったときも、好きだと強く感じたときも。
 いつまでも薫のことで残していた後悔は、自分の思いを伝えられなかったことなのかもしれない。
「好き」
 花びらを一枚取って、風になびかせる。
 青空に誘われるように、軽やかに飛んでいった。
「好き」
 この好きは、櫻井先生が初めて笑ってくれたときの好き。
「好き」
 先生がいつもの癖で髪をクシャッと弄ってくれた時。
「好き」
 帰り際、まだ離れたくないと思ったとき。
「好き」
 誰にも先生をあげたくないと思ったとき。
「好き」
 私の名前を呼んでくれた時。
「好き……」
 ギュッと抱きしめてくれたとき。
「好き……好き……好き……好き……」
 こんなにも好きと思う場面があったのに。薫にスキと言ってもらえることは、ほとんどなかった。
 ”おまえが百回言ってくれたら、一回言うくらいかな”
 確か、そんなこと言っていた。
 大空を見上げると、空に薫の顔が浮かんだ気がして、ふと涙が溢れてきた。そんな優しい思い出も、今はもう蘇ることのない過去だ。それでも、告げられなかった自分の気持ちが、飛んでゆく花びらとともに空を超え、あなたに届いたら――。
「好き」
 九十七。
「好き」
 九十八。
「好き」
 九十九。
「好き」
 百。

『好きだよ』

 百一回目の好きは、私じゃない。
 振り向くと、そこには異国の風が連れてきた愛しい人がいた。

Copyright (C) 2005-2006 Sara Mizuno All rights reserved.