花影恋歌

18.君という永遠

 絶句した。
 自分は幻を見ているのではないか? と、そう思うほどありえない現実に。
 ――なぜ、此処に。

「美緒」
 その幻は、見つめ返す美緒の瞳を優しい微笑みで返して、軽く腕を広げ、おいでとするように立っていた。
 バックに広がる広大な自然の景色がやけに似合う。異国の地に来ようとも、その出で立ちの美しさから、どんなシーンにも溶け込んでしまう。どんな場所にいても、彼の風を吹かせてしまう不思議な人。そう、彼は、美緒の愛した人。その人だった。
『好きだよ』
 百回、好きだと言った瞬間返ってきたその言葉。待ちわびすぎて、記憶の隅でかすれていきそうだった愛しい声。離れていた期間はあろうとも、恋する心は、そう簡単に忘れさせてはくれなかったみたいだ。
「な……んで……」
 戸惑うように足を一歩、また一歩とゆっくり踏み込む。駆け出して、薫の胸に飛び込みたい衝動を抑え、幻を確かめながら掴むように、少しずつ近づいた。そんな美緒の臆病な姿を見て、今までに見たことのないような優しい表情を浮かべ、薫は大きく腕を広げ、
『おいで』
 と、声には出さず唇だけ動かして伝えた。
 そんな全てを受け止めてくれそうな薫の大きさに、美緒は反射的に駆け出し、思い切り抱きついた。飛び込んでくる美緒を隠すように包み込み、華奢な体を掬い上げるかのように、強く強く抱きしめる。久しぶりに感じる互いの感触に、胸が締め付けられた。
「先生……」
 確かめるように、耳元に名を囁いてみる。丘に吹き込む優しい風が二人を包むように、緩やかに髪を揺らしていた。
「先生……?」
 その広い背中に、腕を回して、ジャケットを強く強く握った。途端、反射的に強くなる抱きしめる腕の力。
「ばーか」
「え?」
「おまえは、本当にバカだな」
 返ってきた言葉は、出会った頃と変わらない言葉だった。美緒をからかいながらも、その言葉の端に優しさを帯びただせた、そんな声色。その言葉にやけに安心して、美緒はほっと息を吐いた。失くした時間が戻ってきた、そんな気がした。
「おまえは本当にバカすぎて……バカすぎるから、ほっとけない」
「バカバカ言わないで下さい」
「うるさい。本当にバカなんだからしかたないだろ」
 会話とは似つかないほど、二人の間に流れる雰囲気は甘い。離れまいと二人強く抱き合い、離れていた時を探るかのように、互いの懐かしい匂いに心落ち着かせる。
「どうせ俺がいなくてピーピー泣いてたんじゃないのか」
「な、泣くわけないじゃないですか……」
「どうだか。いつも強がってるばっかりだけど、俺がいないとダメなくせに」
「そんなことないです。だって、ここまでだって一人で来たんだから」
「そうだったな……俺がいなくてもおまえはここまで来たんだもんな」
 少し哀しげな風を言葉の最後に残して、薫は美緒の首筋に深く顔を埋めた。
「――会いたかったよ」
 寂しかったのは、きっと美緒よりも薫の方だったに違いない。美緒が旅立ち、一人置き去りにされた恋心を抱えて、ずっと日々をすごしてきたのだから。
「寂しかった……。おまえが俺の前からいなくなって、どれだけおまえが俺の心の中にいたのかわかったんだ」
「先生……」
「こんなに小さな女の子でも、心の中は強い大人の女だったんだな……。子供だったのは、俺のほうだったのかもしれない」
 ずっとずっと、美緒はまだ子供なのだと薫の心の中で高をくくっていた部分があった。自分がいなければダメな少女なのだと。だからこそ、心のどこかで自分からはけして離れていかないという自信と、守ってやることは容易いという曖昧な自覚があったのかもしれない。けれど、思っていたよりもずっと美緒は大人で、自分の気持ちよりも他人の気持ちを思いやれるほどの心の大きさと、自ら異国に旅立つ決心をするほどの勇気を持っていた。いつの間にか、美緒は薫の隣を歩いていたのだ。手を引いて歩く少女ではなく、一人の女として。
「そんなことないです」
 美緒が、ずっと閉じていた口を開く。
「私は、先生から教わったの。誰かのために、強くなるっていうこと。いつだって、人の気持ちを大事にするっていうこと」
「そんなこと……おまえがしなくてもいいことなのに……」
「先生はね、いつも私のことをからかってばっかりだったけど、でも、いつだって守ってくれてた。私が傷つかないように、私が先生に恋することに罪悪感を抱かないように。いつだって、私の見えないところでさりげなく守ってくれてた」
 言葉を綴りながら、瞳には、涙が溢れて仕方ない。時折声が涙でつまって、苦しい。
「私、知ってたよ。先生にちゃんと愛されてるってこと」
「美緒……」
「じゃないと、私、こんなに先生のこと好きにならないもん」
 好きで好きでたまらない。こんなに誰かを愛することは、これから先、けしてないだろう。たとえ自分が死のうとも、この人を守るためならば、死を選ぶことさえ容易いくらいに。
「先生……会いたかった……」
 もう耐え切れず、涙が瞳から溢れ落ちる。離れてからもずっと、薫のことばかりを考えていた。記憶を追いかけすぎて、気が狂ってしまいそうなほど……。顔をクシャクシャにしながらも、薫の顔を見つめたくて、美緒は少し体を離し、見上げた。
「バカ……」
 美緒を見つめた薫の表情は、今にも泣いてしまいそうなほど哀しげで、美緒も初めて見る表情だった。そんな表情がさらに涙を煽る。
「バカだな……。おまえがそんな風に大人にならなくたって良かったのに」
「だって……だって……」
「おまえは俺に守られてればそれでよかったのに……。守ってやれるだけで、俺は幸せなんだから」
「でも……」
「俺は、今よりももっともっとおまえのことを大事にしてやりたい。できることなら、何の不安も抱かずに、哀しいことは考えずにすむように」
 男の身勝手な我侭が脳裏をよぎる。強くなることが悪いことではないことぐらいわかっている。優しく強く成長することが、どれだけ素敵なことかくらいわかっている。けれど、自分の前でだけは一人の弱い女性でいてくれてもかまわない。自分だけには弱みを見せてくれる、そんな女性でいて欲しい。理不尽な欲だとはわかっていても、それが男というものなのだ。
「強くなんかなるな」
「どういう……意味?」
「そのままでいい。おまえはおまえのままで。泣きたいときに泣ける女の子でいればいい」
「大丈夫だもん……」
「無理するな」
 薫と一緒にいるときの美緒が多少の無理をしていることはわかっていた。大人の薫とつりあうようにと、背伸びをしていることくらい。
「でも……私だって、先生を守りたいの」
「俺はおまえが自然なままで、何も変わらず、俺を必要としてくれれば、それだけで強くなれる。美緒のために、強くなろうと思える。おまえが笑えば嬉しいし、おまえが泣けば、涙を拭いて慰めたいと思うよ。好きだといわれれば、抱きしめたくなる。だからそれは……」
「……それは?」
「俺がいる意味は……おまえ以外にはないってことだよ」
 美緒のいない世界なんて、生きていたって意味がない。愛する人がそばにいること、それが自然と薫を守るのと同じことになっていた。イジワルを言うたびに、怒ったり笑ったり、べそをかいたり、そんな美緒の姿を見られることの幸せ。それ以上に欲しいものなんて、ありはしない。
「だから……俺の前からいなくなるな」
 今にも泣きそうな声を絞り出すように、美緒の耳元で小さく呟いた。まるで捨てられた子供のように、震えた声で……。
 ――愛おしい。どうしよう、こんなにも誰かを愛おしく思ったことなどないほど、焦がれている。
 二人、ただそれしか考えられないほど、愛していた。
「ごめんなさい……」
「謝ったって許さない」
「ごめんなさい……」
「俺から離れるなんて許さない。もう絶対に、おまえを離してやらないから」
 もう二度と離さない。けして、この手を離したりしない。
「好きです……先生」
「あと九十九回」
「……え?」
「百回に一回の約束だからな」
「よく覚えてましたね、先生」
 互いにふと笑いが零れる。微笑んだ瞬間にふと体が離れ、すかさず薫が美緒の額にキスをした。そのまま唇は下へと辿り、頬へ、唇へと――。
「この唇は嘘つきだから、百回好きって聞くまでには時間がかかりそうだけどな」
 ニヤリと、いつものイジワルな笑顔で呟く。そういわれると、本当に美緒が素直に好きと言えなくなるのを知っているのだ。
「そ、そんなことないです」
「じゃあ言ってみ?」
「……っ」
 勝ち誇ったようなイジワルな笑顔のままの薫を、恨めしそうに美緒が見つめる。そんな表情があまりに可愛らしいから、薫はまた余計にいじめたくなるというのに。
「いいもん、別に聞けなくても」
「素直じゃないなあ……」
 フンとそっぽを向いていじける美緒に、苦笑いを浮かべた。
「おまえを迎えにきたんだ。いつでも、俺のとなりにいて欲しい」
「先生……」
「一緒に帰ろう。無理やりにでも連れて帰るけどね」
「うん……」
「おまえがいないと、俺には何もないんだ……」
「うん……」
 抱きしめて、柔らかい髪を指に絡め弄ぶ。心の底から願うことを言葉にしたら、美緒は優しく応じてくれた。
 ――美緒。やっとキミをつかまえた。
「愛してるよ、美緒」

 泣きたいくらいに愛しい人。
 君と一緒に見る景色はこんなにも美しいのに、隣に君がいないだけで同じ景色は無になってしまう。手の届く距離にいる君はあんなにも愛しいのに、もう会えない時に思い出す君は、死んでしまうことのように遠い存在で……。
 愛していると、いつでも伝えられるほどそばに、一緒にいたい。言葉にしないことで君を手放してしまったから、今度は言葉の鎖でいつまでも離れないように……。
 君が隣にいること。それが、唯一、最高に誇れるものだから――。


 ボクが見つけたのは可憐で愛らしくて、強い風にすぐにでも折れてしまいそうな小さな『花』。
 そんなキミを少しでも守ってあげたいから、キミはキミのままでずっと咲いていて。
 キミはボクの『影』。ボクはキミの『影』。離れることなんてできはしない。
 愛おしくて『恋』しいボクだけの花
 ボクはキミのためだけに キミの好きな『歌』を詠い続ける

 『花影恋歌』


−完−




 最後までお読み下さり、ありがとうございました。走り出した二人の恋、これから先もずっと幸せであり続けるよう願って頂ければ幸いです。連作として、氷花、華水の月、その他SSの掲載もしておりますので、興味のある方はご覧頂ければと思います。このお話を通して、貴方の心に少しでも花が咲き、恋歌が響きますように。

水野 沙羅 拝
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