花影恋歌

2.シンデレラの予感

 軽やかに白衣を翻して、颯爽とあるく一人の青年。彼とすれ違うたびに、振りかえる女生徒も少なくは無い。いつでも注目を浴びるほどの存在感。誰もが、彼を無視できない。
「さて、と。早く返しに行かないと司書の先生怒るからなあ」
 片手に分厚い本を持ち、何気なく肩に沿えるようにしながらぼやいてた。足早に図書室へと向かう。途中、声をかける生徒もいたが、それをにこやかな笑顔で軽く交わし、ただひたすらと歩いていた。

「遅くなってすみません。……はい、これ」
「もう、なるべく期限内に返してくださいね?」
「本当ごめんね。また、借りにきてもいいかな?」
「もちろんっ! 先生ならいつでも来て下さい。時間外でも開けておきますから」
 薫よりも少し年下の司書の先生が、嬉しそうに微笑みかける。小柄で髪は肩ほど、シンプルなメガネをかけており、その奥に見える表情はとても愛らしい。はっきり言葉にしたことはなくとも、薫に対する好意はありありとわかるほどで、返却期限が過ぎたと怒って見せているものの、会って話せていることがよほど嬉しいのであろう。女の表情を見せている。
 薫も、この司書が嫌いなわけではない。けれど、今興味があるのは、彼女ではないのだ。
「時間外なんて、なんかVIP待遇だな」
「櫻井先生ですから! いつでもいらして下さいね。私ならいつでも大丈夫ですから」
「そんなこと言ってたら、変な期待しますよ?」
「え……いやっ、あのっ、そのっ、変な意味じゃなくって……」
「じゃあ、また今度、楽しみにしてます」
 司書が、慌てふためき真っ赤になる。変な意味、とはどこまでのことを言うのかは別として、薫と二人きりになれるのを期待していたのは確かであろう。だが、純情な女性だ。率直に言うと、やはり照れるらしい。薫も、そんな彼女の気持ちをわかっていて言ったわけだが……。その気もないのにからかってしまうのはこの男の悪い癖だ。
 一人真っ赤になり困惑している司書はさておき、薫は専門書の並ぶコーナーへと足を踏み入れた。高校のわりにはあらゆる数の本が揃っており、退屈凌ぎにはピッタリの場所である。校舎の離れに建てられたこの建物は、もはや図書室と言うよりは図書館と呼ぶに相応しかった。普段生徒たちに囲まれ賑やかにしている薫にとっては、このような静寂な場所は癒しそのものである。
 薫は何気なく一冊の古い本を手にとると、その場で呆然と立ち尽くしたままページをめくった。すると次の瞬間、ガタッ! と大きな音がした。
「……真中? 何してんだ、おまえ」
「いったあ……」
「大丈夫か?」
「あ、櫻井先生……」
 自分がいた場所よりももっと奥。誰も踏み入れないような一角で、美緒がうずくまっていた。こんなところにある本、一体誰が読むんだろうというものばかりだ。その証拠に、なんだかホコリっぽい。
 小さな窓から差す光に照らされて、美緒の苦痛に歪む表情がはっきりと見える。どうやら、踏み台から足を滑らせて落ちたらしい。まったく何をやってるのやら……、と内心薫は思い、笑ってしまった。
「ドジだなあ。ほら、手貸してみろ」
「大丈夫です。起きられますから」
「相変わらずの警戒心だな……」
 よほど痛かったのか、美緒は地面に手をつきゆっくりと立ちあがる。でもその格好は不自然で、まるで左足を庇っているかのように見えた。その瞬間を見逃すはずもなく、薫は咄嗟に美緒が左足を捻挫していると判断した。
「左足、痛むのか?」
「大丈夫です、これくらい」
「大丈夫じゃないだろう、どれ、見せてみろ」
 跪き、美緒の左足にそっと触れる。その瞬間、美緒の体が竦んだ。靴を脱がせ、靴下をめくると、足首は今ひねったばかりだというのに、もう赤くはれ上がっていた。見ているだけでとても痛々しい。
 美緒はというと、薫の姿に昨日の保健室での出来事を思い出したのか、足首に触れられただけなのに、ここから逃げ出したいような感覚に襲われていた。痛みよりも、思考ばかりが駆け巡る。鼓動が激しい。この光景を直視さえできない……。
「おまえ、何やってたんだ? 普通落ちたりしないだろう」
「落ちたんじゃありません」
「は? どう見ても落ちてたじゃん」
「落ちたんじゃないです、踏み台が急に……」
 美緒の言っている意味がわからなくて、薫がその問題の踏み台とやらに手を伸ばした。
 ――ああ……木や釘が古すぎて、壊れたんだなあ。
 くっついているはずの、板と板が、無残にも古い釘でかろうじて止まっているだけだった。きっと美緒が乗った拍子に、外れたか折れたかしたのだろう。
「これ、壊れてるよ。おまえが重いから」
 板を手で弄びながら、薫が美緒をからかった。
「お、重くないですよ!」
「嘘だあ。おまえが重いからきっと壊れたんだって」
「もお……失礼ですよお……」
「つーか、普通片足乗っけてみて、安全かどうか確かめない? 本当におまえってドジだなあ」
「ドジドジ言わないで下さい……」
 ケラケラと笑いながら、薫が美緒をからかう。自分の言葉で、くるくると表情を変える美緒を見ているのが楽しくて仕方が無かった。そして、自然に話せている状況に、甘んじている自分にも気付いていた……。
 一方美緒はというと、重いとからかわれて、真っ赤になり憤慨している。しかし、優しい性格からか、食って掛かるというわけではなく、からかわれればからかわれるほど、ただひたすらに恥ずかしくなり、泣きそうになってしまうのだ。目にうっすらと浮かぶ涙が、愛らしさを増徴させる。逃げ出したいと思っていたのはどこへいったのか。気さくで親しみやすい薫の微笑みで、自然と打ち解けていた。
「それじゃ、保健室まで行こうか? お姫様」
「へ……キャッ!」
 急に薫が美緒を抱き上げた。膝の下と、背中に手を添えて。
「ほお。本当だ、思ったより軽いな、おまえ」
「やだっ! 先生、下ろしてください!」
 いわゆる、お姫様ダッコ、というやつである。
「だめだね。こんなに腫れてるんじゃ、こうやって運ぶしかないじゃん」
「でも、こんな格好いやです」
 よほど恥ずかしいのだろう、強い抵抗は見せないものの、顔を手で覆い、言葉で拒否をする。そんな美緒の姿を見ているのが楽しくて、薫としては下ろしてやるつもりなど更々ありはしないが……。
「先生、お願い! こんな格好、他の子たちに見られたくないの!」
「えー。いいじゃん、別に見られたって。減るもんじゃなし」
「やだあ……お願い、せんせえ……」
「……はいはい。わかりましたよ、お姫様」
 生真面目な性格からか、人目をかなり気にする美緒の言葉を受け入れ、薫は渋々腕から解き放した。途端、もれる安堵の溜め息。でも、ただで解放してやるのも癪だな、なんてイジワルな考えがまた脳裏をよぎった。
「下ろしてやったかわりに条件」
 薫が口の前に人差し指を立てた。
「俺の言うこと一つ聞けよ?」
「そんなあ……先生が勝手に抱き上げたくせに」
「文句いうなら、またダッコするけど?」
 ニヤニヤと、楽しそうに美緒を見つめる。美緒は、そんな薫のことが憎らしくて仕方ない。昨日といい、今日といい、どうしてこの校医が自分に絡んでくるのか、さっぱりわからない。
 ただ、昨日でわかったことが一つ。この校医には、逆らっても無駄だということを、体で覚えた。
「何すればいいんですか……」
「うん、いい子」
 落胆し渋々承諾する美緒に、にっこりと微笑み、子供にするように頭をなでる薫。
「目瞑ってじっとしてて」
「ええ……どれくらいですか?」
「いいって言うまで……ほら」
 嫌々ながら、美緒が目を閉じる。途端包む暗闇と静寂は、これから始まることを予想するのには十分すぎるほどで、昨日の淫靡な出来事がまた頭の中をよぎった。
 ――また、あんないやらしいことされるの……。
 不安になりながらも、どこかで変な期待もしてしまう。イヤなのに、イヤじゃない。おかしな感覚が美緒を満たしていた。
「声、出すなよ?」
「……はい」
 隔離されたような一角とはいえ、いつ誰が来るかもわからない。声は届かないとわかっていても、秘密めいたことをするとなると、やっぱりどこか後ろめたい気持ちになるものだ。
 薫は、再び跪き、美緒の腫れた足首に触れると、そこにゆっくりと舌を這わせた。途端、美緒の身体がビクッと反応する。その姿はさながら、シンデレラにガラスの靴を差し出す王子の光景のようだった。恥ずかしそうに目を閉じたまま、何かを我慢している美緒を見上げながら、薫はいやらしく舌を這わせる。熱を帯びた部分を冷ますように、ゆっくりとゆっくりと……。
 恥辱と快感に濡れた美緒の表情。男を刺激するのに、こんなにもうってつけのものはない。こんな表情を自分以外は誰も見たことがないと思うと、いっそう独占欲に駆り立てられた。最初足首だけにとどまっていた舌を、段々とふくらはぎに沿い、上へ上へと這わせる。
「……あっ」
「声、出すな」
 出すなと言われれば出てしまうのが、自然の常。出してはいけないと思えば思うほど、より快感が増し、どこか疼くような感覚になる。こんなところ舐められたことなんてないのに、と思いつつ、美緒はもう快感の芽を出し始めている。ビクリと身体を振るわせつつ、必死で薫の愛撫に耐えていた。
 次第に、昨日のようにもっとしてほしいという思いが、無意識にも美緒を蝕んでゆく。薫の髪を掴み、顎を上げ、背を仰け反らせて、声に出せない喘ぎに悶える。荒い呼吸が、図書室を充満していく。
「……先生……まだ?」
 少女が女に変わって行く様を見つめながら、薫はさらに愛撫を続けた。優しく優しく。まるで、壊れ物に触れるかのように。肌の味は、蜜のように甘く、夢中になってしまいそうになる。
 まったく、男のことなど何も知らないくせに、こんなにも惹き付けてしまうのだから、美緒には参ってしまう。そんなことを思いながら、お尻に手を添え、脚の付け根まで舌を這わせたところで止めた。
「はい、終わり」
 え、もう終わり? という考えが美緒の胸中を駆け巡ったが、口にはしない。そして、続きを期待してしまっていたと不覚にも思ってしまったことに、美緒は羞恥を感じる。
「……ふう」
「どう?」
「もう、こんなことやめてください!」
「だからどうだった? っての」
「どうもこうも、昨日もこんないやらしいことばっかりして……わたし……」
 消え入りそうな声で、美緒が困惑する。イヤなわけじゃない、でも戸惑ってしまうのだ。どうして自分にこんなことをするのかわからない。好きだといわれたわけじゃない。でも、薫のすることだから拒めない自分がいて……。自分の力じゃ、なぜか抵抗できないということを美緒は悟り始めていた。
「足、少しは痛いの忘れられただろ?」
「え……?」
「おまえ、あんまり痛そうだったから、ちょっと忘れさせてやろうと思って」
「だ、だからって、こんなやり方……」
 自分が期待していたものとは少し違って、美緒は拍子抜けしてしまう。自分に対し欲情してやったことではなく、一つの痛みを忘れさせる手段としてだったなんて、少しプライドが傷つけられた気もしていた。でも、それ以上に、自分への羞恥でいっぱいでしかたがなかった。
「なに? もっとしてほしかった?」
「そんなこと言ってません!」
「でも、少しは思っただろ?」
「思ってません!」
「あんなに可愛い顔して我慢してたくせに」
「もお……イジワル言うのやめてください」
「続き、やっぱりして欲しくなった?」
「……知らない」
 最後の最後まで嘘をつけないのは、美緒のいいところ。自分が拒まれているわけではないとわかっている薫にとっては、それが可愛くてしかたがない。
 未だ、これが恋なのかはわからないけれど。薫が愛しく思うのは、きっと美緒だけのようだ。
「次は、最後までしような?」
 耳元で小声で囁く。脳髄まで響くような色気のある低い声。男でありながら、なぜにこれほどまで色っぽいのか。耳打ちされただけなのに、美緒の欲情を煽る。
 美緒は何も言えなくなって、ただ立ち尽くしてしまうだけ。心臓が、壊れてしまいそうなほど高鳴っていた。してはいけない期待を、またしてしまう。身体の奥がジンとして、スカートを強く掴んだ。
「後で、ちゃんと治療しにこいよー」
 そう言い残して、薫が美緒のそばを後にする。チラリと残した眼鏡越しのシャープな微笑が、美緒の瞳に焼きついた。
 そんな薫の行為があんまりにもあっさりしすぎていて、美緒はまた不安になるけれど。
 未だ鳴り止まない胸の高鳴りは、『恋』を予感させていた。

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