花影恋歌

3.天使が舞い降りる街

 二度目の冬は、去年見た雪よりも優しく二人に降り注ぐ――

「寒くなってきたなあ」
 少しでも寒さを凌ぐように両手で腕をなであげた。細くて長く骨っぽい指先は、さっきまでとは違い冷たくかじかんできている。白衣越しにも伝わる冷たい温度に、身を震わせる。普段あまり寒さを感じない薫でさえ、今日の午後からの冷え込みは感じずにはいられないようだった。
 ――まあ、今は誰もいないし、もうすぐ下校だし、暖房付けるまでもないかな。
 誰か生徒が一人でもベッドで寝ているなら、空調をしっかり整えるのは然りだが、今はしんと静まり返った保健室で一人パソコンに向って座っているだけである。時計を見やると後十分足らずで学校が終わるということもあり、薫はそのまま仕事を続けることにした。しかし、何故か集中できず、外の様子に目を奪われる。
 どんよりとした空模様は、冬を象徴するように、灰色の空が低く落ちそうで、どこか物悲しい雰囲気を醸し出していた。歩く人を見れば、背中が寂しく見えてしまうのは、気のせいじゃない。
『人は、冬になると寂しくて誰かを腕の中に欲しくなる……』
 そんな言葉がぴったりな、そんな空の色をした日だった。今にも雪が降りそうな……そんな空の色。薫の瞳に映る空は、いつか見た懐かしい空と同じ空だった。
「しかし、人恋しく思うなんて、俺ももう歳かあ?」
 苦笑いを浮かべて、目を伏せた。昔、確かにこの腕の中にあった温もりを、幻を掴むかのように抱きしめる。薫の心には、誰の姿が浮かんだのだろう……。
 少し考え込んだ後、雪が降り出さない内に帰ろうと、身支度を始めた。白衣をさっと脱ぎ、上着に腕を通し、一旦眼鏡も外し、いつも持ち歩いている鞄を持ち部屋を出る。保健室にはもう誰もいないか、確認するのも忘れずに。
 通りすがりに出会う生徒達は、元気よく『さようなら』と薫に声をかける。それに軽く受け答えしつつ、駐車場へと向かった。今にも雪が降りそうな空模様を気にしつつ、家路へと急ごうと車にキーを差そうとした時。間に合うと思ったはずなのに、冷たく柔らかい感触が頬を触れた……。
「あーあ。降ってきちゃったかあ……」
 薫自身も心の中で呟いたセリフ。でも、聞こえてきたのは、薫の声でも男の声でもなく、最近になって聞きなれるようになった愛らしい声だった。
「もお……傘持ってきてないんだけどなあ……」
 困った表情の中にも、雪を見て心躍らせる少女の表情も忘れない。手のひらを上に向けて、空を仰ぐ美緒の佇む姿が、自然と薫の目にも触れる。雪と戯れ、無邪気に喜ぶ少女の姿。ただそこに立っているだけ。ただそれだけなのに、一つの絵のようにその光景だけがくっきりと切り取られ、視覚に入ってきた。
 そして思い出す。この光景を見るのは、この景色を見るのは初めてではないと……。
 手のひらに落ちた雪が、体温で溶けてしまうのを見つめながら、美緒は優しい笑顔を浮かべていた。大事そうに手を握り締め、まだなお降り注ぐ白い天使たちを優しく受けとめる。そして何気なくふりかえり、その視線はあっさりと薫を捕らえた。
「あ、先生……」
「今帰りか?」
 美緒は恥ずかしげに目を伏せた。
「あ、はい……」
「雪降ってきたから、早めに帰った方がいいぞ」
「……はい」
「おまえはぼけーっとしてるからなあ。ほっといたらいつまでもそこに突っ立ってそうだけど」
 薫がけらけらと笑うと、美緒は途端に口を膨らませた。
「ぼけーっとなんてしてませんよ」
「あはは。気付いてないところが、また可愛いんだけどね」
「も、もお……からかうのやめて下さいって言ってるじゃないですか」
「だって楽しいんだもん」
 いつもの何気ない会話。美緒をからかって、薫が楽しんで。美緒が怒り出せば、薫が『可愛い』となだめて。美緒が恥ずかしがれば、薫が優しく包み込むように微笑んで……。
 だけれど、今の薫には、優しく包み込む笑顔を作ることは無理だったらしい。『楽しい』と言いつつ、浮かべる表情はどこか悲しげで、美緒を通して誰かを思い出しているように、遠くを見つめていた。
 ――マダ キミハオレノナカニイルノ? ソレトモ……
 それに、気付かないほど美緒も鈍感ではなく、複雑そうな薫の表情を見て心配に思う心が芽生えた。普段なら、卑猥なことをされるのに抵抗があって、薫に自ら近づこうとはしないけれど、美緒の中にある母性が、薫を守ってあげたいと思わせたのかもしれない。
「先生?」
 黒目がちの大きな瞳が、薫を見上げていた。
「……ん?」
「どうかしましたか?」
 心配そうな瞳からは、優しさが溢れ出す。
「どうもしないよ」
「なんだか、泣きそうだから」
「泣きそう? 俺が?」
「はい……」
 美緒の指先が、そっと薫の頬に触れた。こんなにも指先は冷たいのに、なぜだろう……触れた指先からは温かいものが溢れてくる。普段は怖がって近づこうともしないくせに。本当は触れて欲しいのに、臆病な心がそれを言わないくせに。あまりにも無防備に、そして簡単に心の中に入ってくる。いつも控えめな少女なのに、どうしてこんなにも愛の大きな女性に見えるのか。
 そして思い出す。一年前、彼女とこうやって出会った時のことを。


 一年前――。
 黒のロングコートを身に纏い、空から落ちてくる雪に目もくれず、ただひたすら街の中を歩いていた。雑踏の中に身を置けば、自分の心も紛らわすことができる。そんなことを思いつつ、でも心は今もあの人のことを忘れられずにいる。瞳を閉じれば、今も鮮明に浮かぶ姿。
 叶わなかった。永遠を願った人だった。心から愛した。全身全霊をかけて。ずっと笑顔でいさせてあげたいと思っていたのに、思い出すのは最後に会った時の、あの人の涙だけだ……。
 自分では何が悪かったのかはわからない。一生懸命だったといえるほど、愛情を注いだのに。誰よりも幸せにしてあげたいと願ったのに……あの人はもう隣にいない。そしてそれが、薫の心を未だ蝕み、苦しめている。
『ナゼ?』
 その言葉だけが、耳の奥で繰り返し鳴り響いていた。もう戻ってくるはずのないあの人を思いながら……。
 どれほどの時間をこうやって歩いたのだろう。さっきまで灰色だった空は、これ以上ないほどの暗闇で空を覆い、落ちてくる雪はまるで自分の涙のような幻覚に心捕らわれる。いっそ、この雪に紛れて消えてしまえばいい。もう人を愛することは、ないだろうから……
 おぼつかない足取りは、真っ直ぐ歩くことさえ困難でただひたすら道の上を彷徨うだけだった。誰も彼に声をかける人などいない。こんなに人の多い街の中でさえ、誰も彼に気づくことはない。彼の心の闇など、見えるはずもない。都会は、自分を取り巻く人間が多い分、孤独を感じずにはいられない世界だ。
「痛っ!」
 耳の奥で女の子の声が聞こえた気がする。肩がぶつかった気がする。けれど、薫は気にすることなく、ただ立ち止まるだけだった。
「あの、すみません私、全然前とか見てなくて。お怪我ないですか?」
 少女はすぐさま薫の元へ近づくと、薫の様子を心配そうに窺っていた。
「大丈夫です」
「本当、すみません……あれ? あのお……どこかでお会いしたことありますか?」
 互いに、不思議そうな視線で探り合う。だが、薫には思い当たる節はなかった。
「……知らないけど」
「あ。私の勘違いみたいですね、すみません」
「いや、構わないよ」
「私、いつもぼーっとしてて、ごめんなさい」
 えへへ、とイタズラっぽく笑う少女の笑顔に、どこかあの人の姿を見ていたのかもしれない。でも何か違う。あの人とは……。何が違うのかはわからないけれど。
「君こそ大丈夫?」
「はい! 大丈夫です」
「そう。……それじゃ」
「あ! ちょっと待って。あの……余計なお世話なのかもしれないけど」
 呼び止められ、薫が振り返ると、彼女はポケットの中から何かを取り出した。
「何?」
「これ」
 手渡されたのは、白いハンカチ。なぜそれが渡されたのか薫にはわからなかった。ただ戸惑っていると、美緒は、一度渡したハンカチを再び手にとって、そしてそっと薫の頬へと押し当てたのだった。
「雪……ほっぺの上で溶けて、濡れちゃってるから」
 その時薫は気付いた。自分が、泣いていたのだと。
 頬が濡れている原因が、雪ではなく涙であったことに美緒が気付かなかったわけはないだろう。濡れているのは頬だと言いつつ、美緒がハンカチをそっと押し当てたのは目元で、ただ何を聞くわけでもなく優しく微笑みながら涙を拭っていた。初めて会った人間なのに、自分は愛されているのだと錯覚して、自分がバカだと思いつつも、今目の前にいるこの少女を愛しく思わずにはいられなかった。
 どうしてこの少女は自分に優しく微笑みかけてくれるんだろう。不思議に思うのに、この少女の心に自分を委ねてしまいたい、とそう思う。そして、思い出させてくれた。自分がずっと笑顔を忘れていたことに。
 不思議な少女だ。なぜかこの少女の笑顔を見ていると幸せになる。この笑顔が自分を幸せにしてくれる。そして、自然と愛情で満たされた心が笑顔を呼んでくる。
「余計なことしてごめんなさい。……でも、笑ってくれて良かった」
「ごめん、このハンカチ、汚しちゃったみたいで……」
「いいんですよ。私も雪が大好きだから、よく空を見上げながら歩いちゃうんですよねえ。そしたらほら、私のほっぺも濡れちゃって」
 クスクスと笑いながら、自分の頬にも落ちた雪をハンカチでそっとぬぐっていた。何気なく、薫が泣いていたことをはぐらかしてくれた。何を聞くわけじゃない。ただ、そばにいてそうやって微笑んでくれていることが、薫にとっては何よりも幸せに思えた。
「俺も雪は好きだよ」
 正確には、君に今日出会ったおかげで好きになったのだけど。
「ずーっと見てて飽きませんよね。私ってば、いつもこうやって雪をじーっと見てて寒いのも忘れちゃうから、すぐ風邪ひいちゃうの」
 無邪気な笑顔に幸せにされている。それは、薫にとって初めての感覚だった。
 あの人を幸せにしたいと思ったことはあっても、幸せにしてほしいと願ったことは一度でもあっただろうか……。
 今になって気付くなんて遅すぎると後悔するのが当然だろうに、なぜか心は清々しく、目の前の少女の笑顔にただ自分も笑顔を向けるだけだった。根拠なんてない。ただ、今は後悔ではなく、改めて未来を見ることに怯えを感じていない自分がいた。それもこれも、この少女のおかげだ。
「君は……不思議な子だね」
 胸の奥から、ホッと温かい溜め息が零れた。
「え?」
「いや、なんでもない」
「じゃあ、私そろそろ」
「あ、わざわざ足止めして悪かった。君もあんまりぼーっとしてないで、気をつけて帰るようにね」
「どうかなあ。自信ないかも」
 自信なさげに首を傾げて見せる。可愛らしいその仕草に、薫の口元に笑みが浮かんだ。
「じゃあ、気をつけてね」
「はい、それじゃ」
 あの頃からずっと薫を支え続ける笑顔。
 舞い降りたのは雪ではなく、薫に愛を教えた白い天使。


「今思えば滑稽だよなあ。俺はともかく、こいつは自分の学校の校医の顔もわかってなかったみたいだし」
「何がです?」
「やっぱおまえはぼーっとしてるよなあ」
「はあ?」
「いや? なんでもない」
 あんな出会い方、普通そうそうあるもんじゃない。あったとしても、ただのすれ違っただけの人に過ぎず、その後の人生に影響を及ぼすだなんて、どれほどの確率があると言えるのか。
 でも、それが運命と言うものなのかもしれない。
 出会った頃は、彼女はまだ中等部で、薫もこの学園に赴任していたわけではない。けれど、赴任前から時折学園に訪れていた薫の存在は、美緒にも知れていたはずだ。それくらい、この眉目秀麗な校医は、人目を引くのに充分の存在なのだから。
 薫が彼女に気付いたのは、最近になってからのことであるが、気付いてからも特に特別視していたわけではなかった。ただの生徒の一人として一目置いてたにすぎない。あの時のことは、今の立場とは関係ないから。だが、やはり引きつけ合う運命には逆らえないらしい……。
「はあ。先生っていつも何考えてるのかわからないですよね」
「そう? 俺はいつも真中のこと考えてるんだけどなあ」
「もお! またそうやってからかって」
「疑うんなら、俺の心の中覗いてみれば?」
 そう言って、頬に触れていた美緒の手を取り、自分の胸に押しあてた。
「も、もう! そういうことやめて下さいって言ってるじゃないですか」
「だって、なんでも触れてみなきゃわかんないじゃん」
「わからなくてもいいです!」
 美緒は手を引っ込め、口を一文字に結び怒って見せた。
「またまたー。本当は知りたいくせに」
「知りたくないです!」
「やっぱ面白いなあ、真中は」
 真っ赤になって怒る美緒を目の前に、薫はクスクスと笑みを零す。その姿を見て、憤慨していた美緒も、優しい笑顔を浮かべた。そう。一年前、薫に向けて微笑んだ時と同じ、幸せを運ぶ笑顔。
「良かった。いつもの先生に戻って」
「んー?」
「なんでもない」
「なんだそりゃ」
 無邪気に微笑みながら、空を仰ぐ美緒。雪が本当に好きだと伝わってくるその姿の愛くるしさに、薫も心が満たされていた。あの頃からずっと、薫の心を占めるのは、悲しい恋の結末ではなく、舞い降りてきた天使。
「あの人には悪いが、あの時から俺はもうこの子に夢中みたいだ」
 今この腕の中に願うのは、あの人の温もりではなく、小さな少女の温もり。でも、言わない。美緒にそのことを言ってしまうのは勿体無いから。それに、自分だけ思ってるだなんて、不公平じゃないか。
 未だ恋なのかはわからない。昔愛したあの人ほどの、燃えあがる愛情があるわけじゃない。ただ、美緒に幸せにして欲しい。そしてそれが美緒にとっても同じであって欲しい。できることなら、互いに幸せになれればと……。
「おおーい。真中ー。ずっとそうやってぼーっとしてたら風邪ひくぞ」
「ぼーっとなんてしてないって、さっきも言ったじゃないですかあ」
「嘘ばっかり。ぼーっとしてすぐ風邪ひいちゃうんだろ?」
「ええー? なんて言ったんですか?」
「冷え切ってもしらないぞ」
「いいんですー。もうちょっと雪見てたいから」
「ふーん。そうかそうか。体冷え切らせて、俺に体で温めて欲しいんだろ?」
「なっ! 何言ってるんですか! そんなわけないじゃないですかっ!」
「またまたー。美緒ちゃんはわかりやすいねー」
「美緒ちゃんなんて呼ばないで下さいよ。もお。……キャッ」
 雪の下でおどけて空を仰ぐ美緒を、奪うように抱きしめた。
「……美緒」
 一言――。
 ただ一言だけ、美緒の名前を呟いて……。一瞬だけ、雪のように軽い口付けを美緒の唇に落とした。
「なっ……」
「可愛いなあ。すーぐ真っ赤になっちゃって」
「そういうことするから、先生は嫌なんです!」
 美緒が薫の胸をポカポカと叩く。それがなんだか愉快で、薫は楽しくてたまらない。
「はいはい、真中は天邪鬼だってちゃんと認識してるから、大丈夫大丈夫」
「私のこと、好きでもないくせにそんなにからかって楽しいですか?」
 どこまでも真意が掴めない薫の行動に、美緒は戸惑ってうなだれてしまう。キスされるのがイヤなわけじゃない。ただ、同意の上でしてみたいとも思うのだ。乙女なのだから、そう思うのも仕方ない。
「大人の恋」
「えっ?」
「大人の恋、しよう」
「し、しません」
「大丈夫。おまえは俺を好きになるよ」
「なりません」
「俺より先に、ね」
 何かを企む悪ガキのような笑顔を浮かべるものだから、また美緒は不安になって……。けれど、どこまでも心掴まれてしまう。この男に。
「先生が先でしょ?」
 見上げる視線は、そうであって欲しいという願望が見え隠れしていて。
「ほー。まあ、どっちが先だとしても、真中は恋するのに賛成ってことね」
「そういう意味じゃないです!」
「はいはーい」
「また、適当な返事なんだから……」
「おまえ、このままここに置いてたら絶対風邪ひくから、俺が送ってってやるよ。ほら乗って」
「いいですよお……」
 薫が美緒の手をとって優しく引くと、美緒は恥ずかしそうに頬を染めていた。
「遠慮すんなって」
「何もしないって約束しますか?」
「するするー」
「はあ……信用できない。……けど、まあいいか」
 まだ言わない。まだ君には言わないよ。僕が、ずっと前から君と恋をする予感を感じていたことを。
 僕に舞い降りて来た天使。今度は君に愛を教えてあげる番だから……。

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