花影恋歌

4.花霞

 コトン……と、古い木の床が鳴る。
 乾いた音は、紅に染まった少し埃っぽい教室に響き、楽器にも似た雰囲気を作り出す。そして、懐かしさと落ち着きを覚える、少し鼻につく本の匂い。その一角に誰がいると思えようか。
 ひっそりと息を潜め、誰にも見つからないように。夕日が作り出す幻想的な陰影は、背の高い男を背に、すっぽりと二人を覆い隠していた。
「あっ……んっ……」
 喘ぐ呼吸。
「……んっ、せんせ……」
「黙って」
 絡まる舌。
「先生……もう……」
 全身の力が抜け落ちるほどの快感に頭の中が朦朧となる。自分が何をされているのか、わからなくなるほどに……。

「はい、終わり」
 夕日の影に隠れていた男の顔が姿を見せる。掴んでいた少女の肩をそっと離し、微笑を浮かべた。
「ふ……っ」
「気持ちよかった?」
 顔は少し上気し、はあ……っと小さなため息をつく少女に、男はその顔を覗き込むようにした。そしてあからさまな質問をぶつける。
「よくありません」
「嘘つけ。口ではそんなこと言ってても、体は正直なもんだよ」
「言ってる意味がわかりませんけど……」
 薫の膝が美緒の膝をつんと突っつくと、必死に立っていた美緒がガクッと倒れそうになる。咄嗟に肘をつかみ、危うく倒れこむところをとめた。
「ほら、な。口では生意気言ってても、体はちゃーんと気持ちよかったって言ってるじゃないか」
 どこまでも意地悪な男だ。そんな薫に素直に感想を述べるはずもなく、美緒は言葉を見つけられずただ黙って見つめ返すだけだ。
「そんな膨れっ面してたら、可愛い顔も台無しだぞ」
 柔らかい頬をからかうように摘むと、美緒の手がやんわりと遮る。
「可愛くなんてないから大丈夫です」
「自分で可愛いと自覚してる人間ほど、あっさり否定したりするもんなんだよなあ」
「そ! そんなことないです! 私は本当に……」
「ウソウソ。ったく、真中はすぐ怒るんだから。ま、そんな真中も可愛いんだけど」
「先生が言うとなんだか信用性ないですよね?」
 不服そうに睨み付けても、優しさに覆われた瞳は美緒の言葉など軽く交わしてしまうのだ。
「ひどいなあ。本当に思ってるけど?」
 ケラケラと笑う。不思議だ。薫のこの笑顔を見ると、美緒もつられて笑ってしまうのだから。少し悔しいけれど。
「やっぱり真中は笑ってる顔が一番だな」
「あんまり見ないでくださいよぉ……」
 赤くなった頬を手で覆う。照れ隠しに、また膨れっ面を見せると、薫がいっそうケラケラと笑った。
「おまえ見てるとまるで百面相だよ。もっとクールな女の子かと思ってたら、全然違うんだな」
「そうですか?」
「いつもニコニコしてはいたけど、あんまり怒ったり泣いたりしない子かと思ってたよ」
 そんなに表情を変えるだろうか? と、ふと考え込むと、薫が、フワリと笑って美緒の髪をくしゃっといじった。いつもの癖なれど、触れられる度にドキリとする。男の人の手は大きくてこんなにも安心させるのだから、不思議だ。指は細く骨っぽくて少し乾いていて、それでいて大きく、美緒とは全然違う手。まあ、ほかの男の人に触られたことのない美緒にとっては、これが好きな人だからこそできる特別なのだとわかっていないのだけど。
「よくよく見ると、睫毛も長いし、肌の色も透き通るように白いし、唇だってリップ塗ってるのかと勘違いするほど綺麗だし、文句つけるとこのない美少女だな。ま、ぱっと見でも十分美少女だけど」
 美緒が、怪訝な面差しで薫を見上げる。
「その不信な目は何? 俺が嘘ついてると思ってんの?」
「何も思ってないです……」
「本当だって。いつ他の男に取られるかヒヤヒヤしてたっての。その前に俺が奪っちゃわないとなあって」
 どこからどこまでが本心でものを言っているのか、未だわかりかねる薫の言動に、いつもは冷静な彼女もついついペースを崩してしまう。友達の間では、いつもにこやかで優しく明るい女の子、というイメージなのが、薫の前ではそれが通用しない。薫の言動、行動に過敏なまでに反応し、時に怒って見せたり泣いて見せたり……。こんな美緒の表情は、きっと薫しか知りえないだろう。
 しかし、その反面、薫の前では素直になれない美緒がいた。
「先生は……いつも何を考えているのか私にはわからないです」
 思い悩むようにつぶやく。長い睫毛が、伏目がちの瞳に影を作った。それに対し薫はクスリと微笑を浮かべ、
「なに? 俺のこと気になる?」
「そんなんじゃ……ただ、先生はいつも同じ調子で、全然変わらないから」
「そうかなあ。まあ、時と場合によるけど、今は真中が可愛いなあって思ってるよ?」
「だからそういうところが! ……そういうところが、全然わからなくて」
「そっかあ? 別に複雑に考えなくてもいいんじゃないの」
 美緒の真剣な言葉など、右から左へとスルーしているかのような態度に、美緒はいっそう不安を募らせる。それもこれも、薫の今までの行動のせいなのだ。初めてお互いを意識し始めた放課後の保健室のあの日から、度々会う機会の多くなった二人ではあるが、薫は『次は……』という思わせぶりな言葉を言いつつも、一向に美緒に手を出そうとしなかった。したとしても、今日のようなキスに留まるだけ。軽いキスの日もあれば、激しく、ある意味体を重ねることよりも濃厚なキスもあるのに、指先で触れたり唇で触れたりすること以上のことはしない。ましてや、美緒の口から『してほしい』なんて言えるはずもなく……。
 それが、より美緒の心中を悩ませていたのだろう。言葉とは裏腹な態度。本心なのかわからない言動。薫という男が、段々と見えなくなっていくような気がしていた。
「私、帰ります」
「え? もう帰るのか?」
「これ以上いても、別にすることないですし」
 元より、今日二人がこの場所にいるのは、放課後一人で図書委員をしていた美緒のところへたまたま薫が現れただけなのである。
「俺がいるのに、それはひどいんじゃない?」
「先生だってひどいじゃない」
「何が?」
「もう……わからない」
 これ以上何かを言おうとすれば涙があふれ出そうになる、そう思い、震える足を奮い立たせて駆け出そうとすると、そんなことは最初からわかっていたかのごとく、薫がすばやく引き止めた。つかまれた腕の力強さに、一気に涙がこみ上げてくる。
 強く求められることもないのに、離してもくれないなんて。
「真中……?」
「好きでもないくせに……」
「え?」
「好きでもないくせに、私に関わるのやめて下さい。私は先生ほど大人じゃないの。自分の心だって全然わからないの。先生みたいに、誰かと恋することにも慣れてないの。先生みたいに……」
 純粋だからこそ、気持ちを誤魔化すことを知らないからこそ、止まらない不安と、募りすぎる想い。彼をいつから好きなのかわからない。そんなこともわからないくらい、純情で子供で……。そんな自分が歯がゆくて。
 悔しいのだ。いつも軽く心を奪っていく薫が憎らしい。
「先生なんて嫌いよ……」
 あまりに憎らしくて、思ってもない言葉を口にした。しかし、次の瞬間、もう慣れ過ぎてしまった腕にギュッと抱きすくめられる。何も言わず、ただギュッと……。
 この男は卑怯だ。肝心な時に、女を黙らせる方法を知っている。心も身体も逃がさず、そして自分のところへ留めておける方法を。
「なんで泣くの?」
「先生が泣かせたんじゃない」
 耳元で囁く甘い声。その声に反応して、余計に溢れる涙を見られまいと、咄嗟に薫の胸に顔をうずめた。小さな二つの手は、しがみつくように薫のシャツを掴む。
「こんなに優しくしてるのに?」
「優しくなんかない」
「そうかなあ」
「そうですよ」
 すがるようにしがみつく美緒を見て、薫の心の中に愛しさが芽生える。
 大事で可愛くてしかたがないのだ。美緒と初めて唇を重ねたあの日から。だから何もできない。抱きたくても、無理矢理になんてできない。嫌われるのが怖いから……。素直になれないのは、薫も同じだった。
「どうしたら泣きやんでくれる?」
「先生が本心を教えてくれたら」
「本心?」
 優しく美緒の髪をなでる。どこまでも優しい。優しすぎるほど、彼は美緒に対して優しいのだ。それくらい美緒にだってわかっている。ただ……。
「先生はずるいよ……。いつもはぐらかして、本当の気持ちは何も教えてくれないじゃない」
「そんなことはないと思うけど」
「そんなことあるの。私は先生の本当の気持ちが知りたい。どうして私にかかわるの? どうして私にキスするの?」
「そんなの聞かなくてもわかるじゃん」
「子供だからわかんない。このままじゃ、私、一人で勝手に自惚れて、先生はもしかしたら……って勝手に期待して。もうそんな自分嫌なの」
 なぜだろう。いつもは言えなかったことが、薫の胸にうずくまっていると言えてしまう。あふれ出す涙が、今まで素直じゃなかった自分を溶かしているようだった。
 そして、言っているうちに気づいてくる。美緒自身が、薫に対してどう思っていたのか。どう思ってほしいのかが……。
「自惚れていいんじゃない?」
「え?」
 顔に手を添えてそっと離し、優しく見つめながら薫が呟く。その声色には、いつもの意地悪さはなく、慈しむようだった。
「もっと自惚れろよ。もっと期待してもいい」
「どういう意味?」
「おまえは俺が軽い男だと思ってるみたいだけど、俺は特別な女にしかこんなことはしない。最初の時も言ったはずだけど」
「嘘。だって、いつも女の人の噂絶えないじゃないですか」
「もしその噂が本当なら、おまえとのことも噂になっていいんじゃないの?」
「……でも」
 実際、美緒とのことは噂にもなっていなかった。一緒にいるところを見られないわけではない。ただ、病弱な美緒だから、皆の目には薫といることが不思議ではないのだと思っていたけれど。
「俺、前におまえのこと『特別』だって言っただろ。俺にとって『特別』はおまえだけだよ」
「それって……」
「全部言わせるのか?」
「好きってこと?」
 声が震える。こんなにも優しく微笑んでくれる眼差しがずっと前からあったのに、なぜ今まで素直に受け入れられなかったのだろう。この優しさが美緒だけのものだとはまだ信じられないけれど、でも……
「それは言えないな」
「どうして?」
「俺よりおまえの方が卑怯者だから」
 言われている意味がわからなくて美緒が首を傾げる。薫はいつもの悪戯っぽい微笑を浮かべた。
「おまえの方が全然言わないじゃん、そういうこと」
「だってそれは……」
「俺は、『可愛い』とか『特別』だとか、思ってること言ってきたけど、おまえは『イヤ』とか否定的なことばっかり。そんな意地悪な女に本心なんか言えるかよ」
「だって、そんな言葉、本心だとは思えなかったから……」
「これでも結構傷ついたなあ。さっきなんて『嫌い』だもんな」
「ごめんなさい……」
「まあ、おまえは口より身体の方が正直だから、何を思ってるのかなんてすぐわかったけど」
 ニヤリとほくそえむ。
「わ、私が何も言えないのは、先生がそうやって意地悪ばかり言うからでしょ!」
「はいはい。そういうことにしときましょう」
 顔を真っ赤にして恥ずかしそうに怒る美緒に対して、ヤレヤレと大げさに肩をすくめる薫。
 結局幼い恋心は、この男を前にしては敵わないのかもしれない。けして届かないわけじゃないとわかった今、残るのは不安だけでなく光の見える希望もあるけれど。
「あ……ごめんなさい、先生」
 シャツ越しに感じる体温の暖かさと、それに似合わぬ冷たさに、美緒がふと気づいた。
「ん?」
「涙でシャツ汚れちゃった」
 珍しく白衣を着ておらず、ワイシャツ一枚でいた薫の胸元に、さっきの涙のしみができていた。でも、たかが涙だ。気にするほどでもないのだが、律儀な美緒は、本当に申し訳なさそうな顔をしている。
「いいよ、こんなの。ほっときゃ乾くし」
「え……でも」
「気にすんなって。本当、そういうとこ律儀だなあ」
 コツンと、美緒の額を小突いた。いくら馴れ合っても、こういう律儀な優しさは変わらない。一生懸命に心配したり、悩んだり、そんな姿も愛らしいと思うようになったのは最近のことだが、そんな美緒のことを知ってからは、わざとからかったりしたくなったりするものだから、薫の意地悪っぷりも困ったものである。
「そんなに気になるなら、洗濯する? もちろん今すぐ」
 そう言って、急にボタンに手をかけようとした途端、美緒が、真っ赤になって手を遮った。
「い、いいですよ。だってかまわないんでしょ?! なら、いいです。脱がなくて」
「ええー。だっておまえ汚したって気にしてたじゃん。気に病ませるのもなんだしさあ……」
「だから脱がなくていいです! 先生がいいならもういいの!」
 真剣になって止める彼女を見て、『はいはい』と薫は苦笑した。本当に可愛いんだから……と心の中でつぶやいて。
「じゃあ、そろそろ図書室も閉めようか」
「あ、はい。そうですね、もう閉めなきゃ」
「俺はまだ仕事あるから帰らないけど、ちゃんと気をつけて帰るんだぞ」
「大丈夫です。まだ明るいし」
「いや、おまえの場合、明るくても危ないじゃん」
 わけが分からず薫を見上げると、綺麗な彼の指先が美緒の額をツンと突いた。
「どんくさいから」
「ど、どんくさくないですっ!」
「はいはい、そういうことにしときましょ」
「んもお……」
 突かれた額を両手で覆って怒って見せると、薫はケラケラと楽しそうに笑っていた。


『……それでは、本日から本校で指導をしていただくことになった、新任の先生方を紹介します』
 体育館中に響き渡る声。春の匂いがやけに鼻につく。この季節は嫌いだ。
『地理担当の……生。……担当の……先生……』
 壇上で並んでいる新任の教師どもも、紹介している教師の声も、やけに遠く耳に響く。
 ――なのに。
『英語担当の、結城麻里先生』
 懐かしい姿に、薫の目が釘付けになった。
 ゆるいウェーブのかかった長い髪。少しきつめの切れ長の瞳。通った鼻筋。
 見間違いない。
「麻里……」
 思わずつぶやいた懐かしい名に、蘇る甘くて苦い過去の記憶。
 全身の血が凍り、動けない――。

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