花影恋歌

5.恋愛の法則

 新学期の風は、慌しく時間を運び、徐々に学校の雰囲気に馴染みつつある新入生の制服の匂いをも風化させていく。満開だった桜は徐々に散り、新緑が芽生え始め、初夏の風がもうそこまで来ていることを思わせていた。そんなあまりにも早い時の流れは、ただ単調に過ぎていくだけで、今まで何一つ不安を覚えることのなかった美緒に、これから迫り来る切ない日々の訪れを知らせもせずに。

「結城先生って、マジでいい女だよなあ」
「女子高生にはない色っぽさっていうの? 美人教師ってああいう人のこと言うんだろうな」
「うんうん。オレも色々教えてほしいー!」
「何をだよ……」
「そんなんわかってんじゃん」
 もう五月に差し掛かるというのに、新しく赴任してきた英語教師『結城麻里』の話題は絶えない。
 その美しい外見もさることながら、フランクな性格が一層生徒たちの人気を得ている。このままいくと、この学校の英語の成績もぐんと上がるのではないかと思えるほど、生徒たちに影響を及ぼしている。それは、女子生徒たちからの支持もあるものの、やはり圧倒的に男子生徒からの支持によるものだった。ただでさえ、大人の女性に憧れる年代の少年たちにとって、結城麻里という女性は、恰好の性的対象とでも言おうか、刺激的な異性であることに間違いはないだろう。
 偶然麻里の授業を受けることになった美緒にとっても、彼女は『大人で素敵な女性』、それだけのイメージでしかなかったのだが……。この時まだ、彼女がもたらす暗雲に気づいてはいなかった。


「ねえ、美緒。放課後ケーキ食べにいかない? 美味しいケーキ屋さん見つけたんだよねー」
「えみ、昨日も食べてなかった?」
「いいのいいの。そんなん気にしてたら、何も食べられないじゃん?」
 机の上でパラパラとめくられる雑誌。どうやら今日の目当ては、その中の一つらしい。美緒は目の端でチラッと親友の藤井えみを見ると、すぐ視線を背けた。
「ちょっとは気にした方がよくない? 毎日だとさすがに……」
「んもおー! 行くの? 行かないの? どっち?!」
 バン! と勢いよく机を叩いて、顔を覗き込むようにえみが悪戯っぽく睨んできた。こう強く誘われては行かないわけにもいかず……。
「わかった。行くってば」
 渋々美緒は承知してしまうのである。
 まあ、えみとの放課後デートも楽しいから、嫌なわけではないのだが。あまりに強い誘いに、苦笑いしてしまった。
「オッケー! やったね、美緒とデートだ」
「じゃあ行こうか」
「うん、もう本当に美味しいんだからー」
 机に入れていた教科書たちを無造作に手にして、鞄に放り込む。早く、と急かすえみを宥めながら、美緒自身も浮かれ気分で用意を整えた。さあ行こうと勢いよく立ち上がった。のだが……。
「真中さん、ちょっといい?」
 艶っぽい大人の女性の声にふと足を止められた。いつも軽やかなまでに流暢な英語を話すあの声だ。
「この間休んでたでしょ? その時のことでね、ちょっと渡したいものがあって」
 声がする方を見遣ると、教室の入り口で、片手に教科書を抱き、黒の洒落たスーツとハイヒールを履いた女性が立っていた。栗色の長いウェーブの髪が、肩に柔らかくかかっている。唇には、美緒にはまだ似合わないような、赤いルージュ。大人の女性の雰囲気の中に、まだ少女っぽさも残す笑顔が、憎めない愛らしさを醸し出している。誰もが振り返るその姿に、美緒も憧れに似た感情を抱いていた。
「結城先生……」
「ちょっといい?」
 ニコッと笑って、美緒に手招きをした。
「ああー。結城先生のお誘いがあっちゃ、無理やり攫っていくわけにもいかないか」
 麻里とは反対側、美緒の背後から、ポンとえみが肩を叩いて、残念そうにそう呟いた。
「今日は諦めるかな。先生も呼んでるしね」
「ごめん……この埋め合わせは今度絶対するから」
「あったりまえじゃーん! じゃ、私先帰るね」
「うん、また明日ね」
 本当に残念そうにしていたえみに申し訳なさそうに謝ると、えみはニコリと明るく笑って、手を振り教室を後にした。こういったサバサバしたところは、えみのいいところである。
「もう大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
「そう。じゃあちょっと英語準備室の方に行こうか。プリント忘れてきちゃったんだ」
 無邪気な笑顔を浮かべ、顔をクシャッとして笑う。そんな自然っぽさが、麻里の魅力なのだろう。普通、男子生徒に人気のある女教師というものは、女生徒から非難されがちだが、麻里にはイヤミなところなどなく、誰に対しても気さくなことから、ほとんどの生徒たちから好かれている。美緒も、麻里と出会い授業を受けてきたこの一ヶ月、以前よりも確実にこの女教師に好意を抱いていた。

 カツン……カツン……と廊下に響くハイヒールの音について歩く。
 通された英語準備室は、閉め切ったカーテンと、少し埃っぽい匂いが、閉鎖的なイメージを与えた。
「ごめんね。ここあんまり使ってないから、なんか陰気臭いのよね」
 ふふっと麻里が笑う。パチンと電気を付けると、教室中に積み上げられたプリントや本類があらわになった。
「そういえば、ここって先生たちもあまり利用されてないですよね」
「そうなのよ。まあ、科学とか生物とか、そういう教師と違って、英語の教師なんて準備室を使うこと自体あまりないからね」
 確かに。器具の準備をするわけじゃなし、この教室の使い方というのは、問われてもわからないかもしれない。せいぜい物置か何かだ。
「私も、昔使ったプリントとか、職員室に置いておくには邪魔な分をここにおかせてもらってるんだけどね」
「そうなんですか」
「真中さんがこの間休んだときに配ったプリントもね、ここに置いてあるはずなんだけど……。よいしょっ」
 積み重なったダンボールを持ち上げ、山積みになっているプリント類から美緒に渡す分を探している。スカートからスラリと伸びた脚が、やけにセクシーに見えた。
「あ、私も探しましょうか?」
「ああー。そうしてくれると助かるー。自分で片付けたくせに、私ったらどこに置いたのか忘れちゃって」
 そう言いつつ零した苦笑いに、麻里の愛らしさを感じた。
「じゃあ私も探しますね」
「うん、ありがとー」
「いえ、こちらこそすみません、私のために……」
「ううん、いいのよ。気にしないで」
 麻里に背を向け、反対側の本棚を探し始めた。かなり昔のものもあり、これは探すのに一苦労しそうな感じだ。でも、退屈な感じはしなかった。きっとそれは、麻里と他愛のない話をしながらの作業だったからなのだろう。最初は放課後は何をしているとか、そんな軽い話にすぎなかったのだが、段々と入りこんだ話にも足を踏み入れるようになり。
「真中さんて、彼氏とかいるの?」
「えっ……?! いませんけど……」
「ああー。今ちょっと動揺した? てことはいるでしょ?」
「いえ、本当に……」
 美緒にとっては、聞かれたくない質問だった。いると言えばいるし、いないと言えばいない。ただでさえそのことに不安を抱えている美緒にとって、その質問は思い返させるだけで胸が痛いのだ。
「ほら、真中さんて、他の子たちより飛びぬけて可愛いじゃない? まあ、この学校の女の子って皆可愛らしいんだけど、その中でも目立つっていうか。私、初めて真中さんのこと見たとき、すっごい可愛いから目が離せなかったもん」
「そんなことないです。それを言うなら、先生の方が綺麗で人気もあって……」
「そんなの、女教師だから目立ってるだけだって。女の子はある程度年を重ねるとお化粧もお洒落も覚えて、綺麗になっていくものなのよ。私だって、元がそんなにいいわけじゃないわ」
 フッと零す溜め息は、自分を卑下しているように聞こえ、美緒はすぐさま否定する。
「そんなことないですよ。先生は私の憧れだし」
「あはは。ありがとう。でも、真中さんは、お化粧なんかしなくても元からダイヤみたいに綺麗だと、私は思うわよ?」
「そうでしょうか……」
 自慢げに自分の容姿について言うわけでもなく、本心から美緒を褒める麻里の態度に、美緒も照れてしまって、どう対応していいかわからなくなる。自分に奢ることなく、他人の良さを素直に褒められるその心を、見習いたいとそう思った。
「先生こそ、付き合ってる人とかいないんですか?」
 麻里は、少し考え、首を傾げた。
「んー。今はいないかな」
 今は、という返答は、更なる疑問を美緒に投げかける。
「じゃあ、ちょっと前は?」
「一年ちょっと前くらいまではいたんだけどね。まあ、別れたんだけど、なんだかんだで今も忘れられないていうか……」
「そうなんですか……」
「私が振ったんだから、今更どうしようもないんだけどね」
「え……好きなのに振ったんですか?」
「んー。色々あってね……」
 寂しそうに笑う麻里を見て、美緒もそれ以上聞いてはいけない気がした。
 ただ好きなだけじゃ成り立たない。それが恋愛であり、内情は二人にしかわからない。それは美緒自身も痛いほどわかっていたし、元々他人の心の中にずかずか入りたがらない性格もあって、これ以上聞く気にはなれなかった。
 でもなぜだろう。恋愛で悩む麻里に、生徒ではなく、女として親近感を覚えた。
「私も色々不安なことばかりで……。恋愛て難しいですよね」
 ふと、美緒が本音を零してしまったのは、麻里の気持ちに同調してしまったせいだろうか。
「そうねえ。方程式とか、決まったものがあれば楽なのにね」
「私は先生みたいに大人じゃないから、方程式があっても無理かも」
「恋愛に年は関係ないわよ。だって私も、高校生の時と比べて全然成長してないもん」
 さっきまでの寂しそうな笑顔ではなく、爽やかなまでに微笑んだ。つられて美緒も微笑んでしまう。
「それに、真中さんみたいに若い女の子でも、本気で恋してるなら、それがどんな愛し方でも、立派な恋愛だと思うよ?」
「そっか……そうですね。なんだか先生のおかげで頑張れる気がしてきました」
「そう? 良かった。じゃあ私も頑張ってみちゃおうかなあ」
「先生も頑張って下さい。私、応援してますから」
 互いに微笑み合う。教師と生徒でありながら、こんな話に花開かせるだなんて、少し滑稽だ。でも美緒は嬉しかった。
「ありがとー。じゃあ、暗くならない内に探しちゃおうか」
「あ、そうですね。忘れてました……」
「あはは。じゃあ真中さん、奥にあるダンボールの中探してくれる?」
 麻里が指をさした先は、もう一つ奥の部屋へと続くドア付近。入り口からは死角になるところに、ダンボールが積まれていた。美緒は言われるがまま、そっちへ向かうと、積み重ねられたダンボールを下ろし、中を探る。探すのに夢中になっていたこともあって、誰かが入ってきたことにも気づかなかったのだが、少し低めの男の声が聞こえた気がして、そちらに神経を研ぎ澄ました。
 すると、微かに聞こえる、麻里の声と、聞きなれた優しい声。
「――……ってんだ」
 薫の、声だった――。
「プリントが見つからなくて探してるところなのよ」
「プリント?」
「そう、授業で使ったやつなんだけどね。この間この辺に置いておいたんだけど、私が片付けた後に他の先生が物を動かしちゃったみたいで、どこにあるかわからないの」
 昔からの知人のように、やけに親しそうに話す麻里と、そして声の主である薫の声に、鼓動が止まりそうなほどびっくりした。
 しかし今は、そんなことよりも別のことに不安を覚えた。自分が見つかってはやばい……と。別に悪いことをしているわけじゃないし、美緒のことを薫が知っていたからと言って不思議ではないのだが、自分と薫のことが麻里に知れるきっかけさえも与えたくない美緒にとっては不安でたまらない。咄嗟に身を隠し、聞こえてくる声に神経を研ぎ澄ませた。
「おい、そこにあるやつ違うのか?」
「え? どれ?」
「それだよ、それ」
「あーっ! これだよこれー。すっごい。よくわかったね?」
「そんな目立つとこにあってわからない方がすごいって……」
「そうかな」
 楽しそうに話す声。やはり二人は昔からの知り合いなのだろうか。息を潜め、じっと二人の会話の内容を伺う。
 でもまだこの時は気づいていない。この先にある絶望を――。
「じゃあ、とっくに下校時間も過ぎたし、さっさと帰れよ。結城先生」
「あら。昔みたいに呼んでくれないの?」
「あの時とはもう違うだろう」
 ――あの時? 美緒の心は不安に落ちた。
「何も変わらないわ。だって私はあの時のまま変わってないもの」
 ガサッと衣擦れの音がした。音だけでわかった。二人が抱き合っているのだと……。
「麻里……?」
 薫がポツリと呟いたその二文字は、誰を呼ぶ時よりも特別な響きを持ち、語っていた。そう。明らかに、麻里を異性と意識している響きを……。そして二人が、過去に関係があったことの事実を……。
 美緒の心臓に、見えないナイフがスーッと突き刺さった。

 女は心に武器を持っている。
 魔女のように男を魅了する力。どんな秘密でも見抜いてしまう心眼のような力。自分で自分を美しく変えていく神秘的な力。数え切れないほどの武器があるのに、こんな時にそんなものを実感なんてしたくなかった。
 どうしてこんな時だけ何もかもを見透かせるのだろう。恋愛の法則なんて知らないはずなのに。
 自分が女であることが嫌になった。女の直感なんて、いらないと思った。
 恋愛の法則がもしも本当にあるのなら、滅茶苦茶に、壊してやりたい――。

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