花影恋歌

6.キミが好き

 あれからどうやって英語準備室を後にし、教室まで戻ってこられたのか覚えていない。とりあえず一つだけ覚えているのは、薫と話をして美緒のところに戻ってきたときの麻里の表情が、いつもよりも綺麗で、女であったことくらいだ。やっぱり麻里の想い人は、薫だったのだと悟った。
 胸に痛烈に痛みが走り、無意識に美緒は自分の胸元をギュッと掴んだ。こんなにも心が締めつけられるほどイタイのは初めてだ。涙なんてでない。そんな余裕さえないのだ。現状を認識するだけで、この少女には精一杯だった。
「そうだ……帰らなくちゃ……」
 あれからどれだけの時間をこうやって机の前に座っていたのだろう。空はもう真っ暗で、教室に美緒の影を作ることさえできなくなっていた。朧気な思考と足元は、ぐらついている美緒の心を象徴しているようで、誰かがそばに寄り添っていなければ倒れてしまいそうな印象を与える。
 ――なぜ。なぜ相手が麻里なのだろう。
 心の中で、美緒は自問自答していた。誰が相手であっても、苦しかったに違いない。薫にだって過去があることはわかっているし、そのことを知った時に多少なりともショックを受けることはわかっていた。それはわかっているけれど、でも麻里でなくても良かったのではないか。そう思えてならなかった。
 育ちすぎた恋心と、膨らみつつある麻里への憧れは、どう上手に受け止めればいいのか、もうわからない。問うても問うても、答えなどでるわけもなく、ただ一層美緒の心を苦しめるだけだった。


「藤井、真中は休みか?」
「ああー! 櫻井先生。どうしたの? 珍しいじゃん、教室に顔出すなんて」
「いや、ちょっと真中に用事があってな」
 昼休みがそろそろ終わろうかとする頃、薫が美緒の教室を訪れた。別に用事があったわけではないのだが、前日美緒の顔を見ていなかったし、最近美緒が体調を崩していたこともあり、気になって様子を見に来たのだ。しかし、愛しい美緒の姿は一向に見えず、しかたなく美緒と仲の良いえみに聞いて見ることにした。本当ならば、疑われては困るので、聞かずに終わらせたかったのだが、美緒への恋心はそんな理屈などどうでもいいほど募っているらしい。
「美緒だったらお昼前に帰ったよ?」
「帰った?」
「うん、朝は来てたんだけどね、調子悪いみたいで帰っちゃった。先生んとこ来なかったの?」
「ん? ああ……」
「ふーん。珍しいよね。いつもなら少し保健室で休んで戻ってくるのに」
 確かにいつもの美緒なら、調子の悪い時だけ保健室で少し仮眠をとってから、又授業に戻るようにしていた。しかし今日は姿を見ていない。別に薫が保健室に在室していなかったわけではない。なんだかいつもとは違う美緒の様子に、薫は一抹の不安を覚えた。
「まあ、家で休んでるんなら別にいいんだが……。最近調子悪そうだったからちょっと気になってな」
「先生ってばそんなに美緒に甘かったっけ?」
「べつに?」
「なんかあやしいー。もしかして、恋?」
 茶化すように顔を覗きこまれる。ただでさえ身長の高い薫を更に覗きこむように。だが、ポーカーフェイスの薫は、そんな問いかけも、さらりと交わすだけ。
「ついでに藤井の頭の方も大丈夫かなあーと思っただけだよ」
「はあ? どういう意味?」
「ほら、春ってちょっとおかしい奴が増えるだろ? だから」
「失礼だなー。私の頭がおかしいって?」
「いつも頭ん中ピンクとかオレンジっぽいじゃん?」
 クスッと皮肉っぽく微笑んだ。そんな薫に対し、えみもわざと怒って見せる。別段気にしているわけではなく、二人にとってはただじゃれているだけなのである。
「まあ、いないんならしょうがないか。じゃあ戻るかな」
「今頃保健室、女の子でいっぱいかもよ?」
「んー? なんだ? 羨ましいのか?」
「まっさかー。私の周りはいい男でいっぱいだから」
「それは失礼しました。じゃあな」
 またねー、と手を振るえみを教室に残し、薫は保健室へと向った。その間もずっと頭の中は、美緒のことばかりだ。ただでさえ顔を見られないというだけでも不満なのに、校医である薫のところへ頼ってくることもせず帰ってしまったとなると、これは不安に思わない方がおかしい。
 そんなに体調が悪かったのだろうか? それとも、自分が何か悪いことでもしたのだろうか?
 考え出したらキリがなく、思考は悪い方向へとばかり向いてしまう。だが、そんなに深く悩むのは薫の性に合っていない。明日また会った時に聞けばいいと自分に言い聞かせ、重かった足取りを直していつもの自分に戻った。
 その時のことだ。
「カオル」
 学校では聞きなれるはずもない、自分の名を呼ばれ、ふと足を止めた。この名前を呼ぶ女なんて、この学校に一人しかいない。深くため息をつくと、声のした方に、顔を向けた。
「校内で名前で呼ぶのはやめてくれない? 結城先生」
「大丈夫よ。誰も聞いてないもの」
「そういう問題じゃないんだけどなあ……」
 ニッコリと微笑んで、自分の名を呼んだ麗しい女性は、今日も色っぽい出で立ちで、佇んでいた。名前で呼んだことを嗜めたはずなのに、麻里は悪びれた風もなく、子悪魔っぽい笑顔を浮かべたままだ。昔から、どこか憎めない雰囲気を持っている麻里に、薫はそれ以上強く言えなかった。
「さっき保健室行ったんだけど、薫待ちの女の子たちがわんさかいたわよ」
「それは、嬉しい報告をありがとう」
「本当は困ってるくせに、相変わらず女の子には優しいわね」
「生憎フェミニストなもんでね」
「そんなところも好きよ」
 どこらへんまでが本気なのか。
 昔から心の読みづらい女だったな……と再認識する。こんな言葉たちをまともに受けとめていては、火傷しかねない。それは付合っていた時の二年間で痛いほどわかっていた。
「ねえ、薫。今日暇?」
「なんで?」
「暇ならデートでもしないかなあと思って」
「おいおい。俺たちもう付き合ってないんだぞ? デートってのはおかしいだろ?」
「付き合ってなきゃデートできないっていう方がおかしいわよ」
 どういうつもりで誘ってるのだろう。ニコッと微笑む瞳の奥に、薫は彼女の本心を探ろうとするけれど、全然わからない。ただ、好意でデートを申し込んでいることはわかる。彼女は、他人から誘われて遊びに行くことはあっても、自分から誘うことはあまりしない人だということを理解しているからだ。
「デートは無理」
「どうしてよ?」
「今日は放課後に行きたいところがあるんだよ」
「ふーん、彼女?」
「どうかな」
 あえて彼女とは言わない。本当なら彼女だと公言したいほど美緒のことを愛しく思っているけれど、美緒の気持ちを強く感じたわけではないし、まだ恋人と呼べるほど付合ってもいないからだ。それに、麻里にこのことを教えるには、あまりにも危険な香りがしていた。
「じゃあ明日は?」
「明日もダメだな」
「明後日は?」
「明後日も」
「じゃあいつならいいの?」
「悪いけど……結城先生とデートする気はないよ」
「麻里って呼んでくれないのね……」
「呼ぶ方がおかしいだろ?」
 麻里も女だ。薫の心の中に新しい女性がいることは薄々感じていた。だが、今でも薫を愛している麻里には、そのことをまともに聞く勇気はなかった。そして、いつその現実をつきつけられるのか、ビクビク怯えていた。昨日の準備室の時だって、抱きついた麻里を抱きしめることを、薫はけしてしようとしなかった。
 それだけでなぜだかわかったのだ。顔を埋めたその胸の中に、もう自分はいないことを……。
「なんか……やだな」
 自分がかつていた場所に、誰か違う女がいることへの嫌悪感。嫉妬。麻里は知らず、ポツリと零していた。
「……すごくやだ」
「何が?」
「……ううん。なんでもなーい」
 そんな醜い気持ちを薫には知られてたくなくて、麻里は作り笑いを浮かべ、大げさに首を振った。
「なんだよ、それ」
「櫻井先生があんまり寂しそうに歩いてるもんだから、優しい結城先生は、声をかけずにはいられなかったのよ」
「…………」
「それだけのことですよーだ」
「誰が寂しそうだって?」
「櫻井先生が」
 茶化さないと泣き出しそう……。
 麻里は無理に笑顔を作ると、あえて『櫻井先生』と呼び、自分の心を封印した。薫と呼んでしまえば、昔愛されていた時にフラッシュバックしてしまいそうだったのだ。一年前、自分が薫を振ったことに非があるとわかっているのに、離れてみて初めてわかる愛の深さというものもある。会えなかった時間、そして自分から薫が離れていくことを感じつつある今、もうどうしようもないほど恋に堕ちているのだ。
 でも、麻里の中にあるプライド。そして優しさが、強く薫を望むことをさせなかった。そんなプライドも優しさも、いざ薫を前にすると、ズタズタに切り裂かれそうだけれど。
「結城先生?」
「何?」
「なんて言っていいかわかんないけど……大丈夫か?」
「大丈夫よ?」
「本当に?」
 一緒にいた二年という月日は、薫が思っていたよりも長く、麻里のちょっとした表情の変化、声色で、考えていることが読めてしまう。今、麻里が無理に笑顔を作っていることを、薫はわかっていた。一度でも愛した人だ。気にならないわけがない。ましてや好きだったのに別れた人だ。思わず手を差し伸べたくなるのは、逆らいようのない本心だった。
「相変わらず優しいね。その優しさが罪よね」
「そうかな……」
「今、いい恋愛してるのね」
 心が引き裂かれる想いで問いかけた言葉。
「そうだな……。誰よりも愛しいよ」
 本気で問われた言葉に、薫もあえて誤魔化さなかった。
「愛しい……? なんか櫻井先生からそんな言葉が出るのって変な感じね」
「笑うなよ」
「だっておかしいんだもん」
「おまえのことも、愛しく想ってたよ」
 ――残酷。
 こんな時に欲しい言葉はそんな優しいものじゃなくて、いっそもっと傷付けてくれる言葉の方が良かったのに。愛されていた事実を今頃打ち明けられたって、もう遅いということを再認識させるだけじゃないか。
 でも、そんな優しさを好きになったのだと、麻里は改めて感じていた。
「そういう……そういう優しすぎるところがキライなのよ」
「結城先生?」
「……ううん、なんでもないわ」
 無理に作る麻里の笑顔に、薫の心は締め付けられた。
「新しい恋、上手くいくといいわね」
「え? あ、うん。ありがとう」
「私も新しい男捜さなきゃなー」
「生徒には手出すなよ?」
「あはは。いい子がいたらどうかなあ」
「おいおい……」
「じゃあ私もそろそろ教室戻らなきゃ。またね、櫻井先生」
「ああ」
 何の未練もなくすぐさま背を向ける薫を、麻里は泣きそうな目で見送ることしかできなかった。
 新しい恋を探すなんて嘘。薫が好きだ。好きすぎて身体が焦げてしまうんじゃないかと思うほど。いっそ、この恋心で全てが燃え尽きてしまえばいい。
 麻里が薫への想いを深めていく反面、薫も少なからず麻里のことが気になり始めていた。肝心な時ほど無理をする女だとわかっているからこそ、心配せずにはいられないのだ。それはもう恋心とは違うし、今愛しているのは美緒だと断言できるけれど、彼の持つ残酷な優しさが、三人の歯車を明らかに狂わせ始めていた。

 時に優しさは、愛よりも残酷である。

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