花影恋歌

7.咲き誇る花

 ――ピンポーン。
 誰一人家族のいない静まり返った家の中に、澄んだベルの音が鳴った。そういえばさっきからずっと鳴っている気がする。美緒はその音を聞かなかったことにして、気だるそうに寝返りを打った。
 体調が優れないからと、午前中で早退した美緒は、帰ってからというものずっとベッドに突っ伏している。電話も、来訪者も全て無視して、何も考えずただ一人になりたかったのだ。でも静寂は意地悪で、静かであればあるほど、余計なことを考えさせるものである。その証拠に、美緒もさっきからずっと昨日の準備室での光景が頭の中を離れなかった。

 衣擦れの音がした後、こっそりと麻里と薫の様子を伺った。薫の表情は、背中を向けていたために見られなかったが、麻里は薫の背へと腕を回し、しっかりと抱きしめていた。白衣を掴む、マニキュアの綺麗に塗られた華奢な指。その光景が頭から離れない。
 今思い返せば、薫の方は腕を回していなかったように思えたけれど、その後の会話さえ覚えていないし、美緒にとっては、その一瞬の光景だけでもショックを与えるのに十分だったのだ。
 薫が自分の恋人だと胸を張って言えたのなら、こんな時すぐに聞くことができるのに。こんなことなら、しっかりと薫を捕まえておくんだった。置かれている自分の立場と、そしてその立場に今まで甘んじていた自分に、美緒は後悔せざるをえなかった。募るのは、罪悪感、不安感、そして孤独感だけだ。

 ――ピンポーン。
「しつこいな……」
 もうずっと鳴り続けているベル。最初は無視を決め込むつもりの美緒だったが、あまりに長いベルに、しかたなく重い腰を上げ、一階へと下りていった。誰が来たのかわざわざインターホンで確認するのも面倒くさくて、直接ドアを開ける。すると、そこに立っていたのは、紛れもなく美緒が恋しくてやまない人だった。
「よっ。大丈夫か? 体調は」
「せんせ……」
「何びっくりした顔してんだよ。俺が来るのがそんなに不思議か?」
 片手にケーキの箱を持って、にっこりと佇む薫に、美緒は驚きを隠しきれない。
 だって、薫は担任ではないのだから家庭訪問であるわけがないし、学園の校医がわざわざ生徒一人のために家まで来るだなんて不自然だ。だったらなぜここにいるのか、美緒でなくとも理解し難い光景である。
「なんでこんな突然に来るんですか?」
「どうせ親御さんいないんだろ? おまえ俺んとこ来ないでそのまま帰っちゃったからさあ、どうしてるか心配になったんだよ」
「別に、もう大丈夫ですから。……じゃ」
 どんな顔をして薫に会えばいいのかわからない。今会って、何を話せばいいのかわからない。薫に会いたくなかったわけじゃないけれど、困惑でどうしたらいいのかわからない美緒は、ただ薫とこれ以上一緒にいることに耐えられなくなって、この場から逃げ出そうと、薫を追い返そうとした。適当なところで話を切り上げて、ドアに手をかけ閉めようとする。
「おいおい、俺を追い返す気か?」
 だが、寸でのところで、薫にそれを遮られる。男の力に勝てるわけもなく、閉めようとしたドアはあっさりとまた開かれるだけだった。
「本当にもう大丈夫なんで……」
「おまえなあ、俺が顔見るだけのためにここに来たと思ってるわけ?」
「だって、様子見にきたんですよね?」
「そりゃあ、確かにそれがきっかけではあるけど、会ったら今度は触りたくなるし、触ったら次は抱きしめたくなるし、抱きしめたらキスしたくなるのが普通じゃん?」
「そんなの先生だけですよ」
「そうかな?」
 相変わらず軽いノリというか、調子がいいというか、薫の様子は変わらない。美緒が今何を思っているかなんて知るわけもなく、そんな薫を前にして、美緒はなんだか苛立ちを覚えるだけだった。
 ――私がこんなに悩んでるのは先生のせいなのに。
 そう口にできたならどれだけ楽だろう。そんな風に、薫のことが好きだと言ってしまえたなら、どれだけ気持ちが救われるのだろう。でも、いつだって他人の気持ちを最優先に考える美緒は、あの時の状況が、麻里が一方的に抱きついただけで薫に非がないことは重々承知していたし、あえて責める気もなかった。
 ――先生は自分のものじゃない。
 そんな余計な大人の理性が、少女の恋心をストップさせていたのだろう。
「やっぱおまえ顔色悪いな」
「大丈夫です……」
「どれどれ。熱は?」
 大きくて骨っぽい乾いた手が、美緒の額にそっと触れる。冷たいようで温かい、そんな不思議な薫の手。ただ、額に触れられただけなのに、美緒はほっと安堵のため息をついた。どんなに心の中では抗っても、体は素直。薫と出会ってから、自然と覚えるようになった。自分にとって、薫のそばが一番安らげる場所なのだと。
「熱は……ないみたいだけど、まあ、顔色も悪いし、もうちょっと休んだ方がいいな。部屋はどこだ? 上か?」
「あ、私一人で戻れるんで、先生もう帰ってください」
「まあまあ。俺だってもうちょっと真中のそばにいたいんだよ」
 そう言って軽く微笑むと、美緒をフワリと抱き上げて、二階へと上がっていく。相変わらず薫は美緒の言葉など意に介することなく、自分のやりたいようにやるのだから困ったものだ。そんなマイペースさに振り回されるのにだいぶ慣れた美緒とはいえ、昨日のことがあるからか、素直に受け止められなかった。
「先生、本当にもうやめて……」
「……どうした?」
「お願いだから帰ってください」
 部屋に着き、ベッドに優しく下ろされる。その後も薫はベッドの淵に寄り添い、美緒の髪を撫でていた。でも、その優しさが心苦しくて、美緒は薫を拒み続ける。
「私はただの生徒だし、先生にここまでしてもらうのなんておかしいから」
「おまえはただの生徒なんかじゃないだろ?」
「でも、恋人でもないでしょ?」
 不安なままの心は、あえて核心をつく質問をさせた。
「んー。恋人かあ。恋人じゃないのか?」
「私が聞いてるんですけど……」
 髪をなでていた手を胸の前で組み、薫は少し考え込むと、美緒を見ながら言葉を続けた。
「おまえの場合、恋人とか彼女っていう大人な言葉よりは、俺だけの大事な小さな花だな」
「花?」
「何よりも愛しくて大事で、俺が守ってやらなきゃ、しおれてしまったり踏まれてしまったり、時には雨に降られたり。そんな心配で心配で仕方ない花だよ」
「花……」
「その花を見たら癒されてさ、なんつーの? お互いがいて初めて意味のあるような、そんなかけがえのない花」
「ふーん……」
「ま、おまえにはどうせわかないんだろうけど」
「どうせって何ですか?」
 美緒が口を膨らませる。本当は照れで美緒をからかってしまったのだけど、おかげでいつものように反応してくれた美緒を見て、薫は少し安心した。何が美緒を不安にさせているのか、原因こそはわからないけれど、自分が今どう思っているのか、少しでも伝えられたことを薫は嬉しく思った。
「ねえ、先生」
「ん?」
「花ってどんな花?」
「んー。さあ、どんな花だろう」
「薔薇みたいに綺麗?」
「おまえ、自分で自分が薔薇の柄だと思うのか?」
「それ、どういう意味ですか」
「べっつにー。意味はないけど」
「もう! せっかくちょっと先生の気持ちが聞けたと思ったのに」
 自分がどう思われているのか。好きだとか、そんな率直な表現ではないけれど、少しでも薫の口から聞けたことで、美緒の気持ちも幾分か和らいでいた。自分がどう思われていてもいい。わずかでも、薫の心の中に自分の居場所を見つけられたことで、さっきまでの不安が嘘のように薄まっていた。
 薫の心の中に咲く花。それはどんな色をしていて、どんな形をしているのだろう。そう考えると少しわくわくして、そして自分がいつだって明るく咲いていられるように、努力しようとそう思った。
「さて、真中がいつもの調子に戻ってきたところだし、イチャイチャしますか」
「えっ……きゃっ!」
「ほらほら、本当は抱きしめられたかっただろ?」
「そんなことな……んっ」
 抗う美緒を唇で封じる。唇が触れると、美緒は大人しく薫を受け入れ、広い背に腕を回した。途端、昨日の麻里とのことを思い出したけれど、今はそんなことどうでもいいと、口付けに夢中になる。
 今見えるのは、この現実。目の前にいる櫻井薫という男だけだから。
「美緒」
 唇がかたどる名は、自分だけであってほしいと、そう願ってやまない。


 いつまでも心に咲き続ける花。出会ったあの日に種を撒き、思いを伝えたあの日に咲いた愛しい花。
 いつだって、枯れないように、つぶされないように守ってやりたい。自分なしでは生きられなくなればいいのに……なんて、酷いことまで思うほど。そして僕のそばで変わらず咲き誇ってほしい。
 柔らかい花弁のように優しくて脆い心。甘い香りのように、愛らしいその姿。君の全てが、僕の中で彩られていく。
 愛しくて愛しくてたまらない。
 いつだって誰よりも慈しむから、その愛情で綺麗に色づいて。

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