花影恋歌

8.絶望と涙の痕

 貴方を本気で好きだと気づいた時にはもう、貴方の温もりを感じることさえ叶わなくなっていた。
 いつも私の左を歩いてくれていた。いつだって、私から離れないように強く手を握っていてくれていた。
 あの日はもう、遠い思い出――。

「おはようございます」
 早朝。職員室の扉を開くなり、誰彼かまわず、麻里は適当に挨拶をした。それに真っ先に気づいてか、中年太りともいえる大きなお腹をした教頭が、にこやかに挨拶を返してくる。
「おはようございます、結城先生。あれ? なんだか今日は疲れた顔してますね」
「そうですか?」
「寝不足ですか? 寝不足は美容に悪いですよー」
「あはは。それなら気をつけなくっちゃ」
 自分では気づいていなかったけれど、どうやら昨日眠れなかったことが顔に出ているらしい。麻里は、軽く目の下に指を添えると、少し浮かない表情を浮かべた後、愛想笑いをしながら自分の席へと向かった。
 いるはずもない人を探す。薫は校医なのだから、職員室になどいないとわかっているのだが、時折姿を見せるのを知ってからは、無意識に探してしまっていた。それは、職員室だけでなく、学校の中どこにいたって。
「いない……か。いるはずないよね」
 ハァ……っと息を吐き、自分に言い聞かせるようにわざと明るく声に出してみた。
「誰が?」
 途端、隣に座る理科の教師の佐伯祐介が声をかけてきた。祐介は麻里と同年代ということもあり、麻里がこの学校に赴任してきてからというもの、良い相談相手であり、そして飲み仲間になっていた。自称彼女無しだが、美形だとはいえないものの、人懐こい笑顔がとても魅力的な男性である。麻里自身、薫という想い人がいなければ、きっと恋愛対象の一人として彼を見ていたに違いない。
「ん? 誰でもないよ?」
「うそつけ。今誰か探してたじゃん」
「探してないって」
「ふーん。俺はまたてっきり櫻……いや、なんでもない」
「なによ。今なんて言いかけたの?」
「おまえが言わないのに俺が言うかよ」
 直接的に薫のことを想っていると聞いたわけではないが、麻里と飲みながら話しているうちに、麻里の想い人が薫なのだと、祐介は薄々感じていた。そう考えはじめると、いつも麻里の視線の先には薫がいることを実感せずにはいられず、彼女の悲しそうな瞳を見るたびに、心配せずにはいられなくなっていた。それが恋心か? と問われれば、ノーと言えるが、ただ、彼女は祐介にとってかけがえのない友人なのである。
「あんまり……考えすぎるなよ?」
 少し遠くを見つめながら、祐介は静かな呼吸で呟いた。
「落ち込むのは悪いことじゃないけど、落ちすぎると上がれなくなるぞ?」
「佐伯くん……」
「おまえはいつも明るいのがいいところなんだから、そんなに落ち込んでるのは似合わないしさ。それに、お前が暗い顔してると、男子生徒たちの活気がなくなるじゃん。言うこと聞いてくれなくなるから困るんだよねー」
「それは、佐伯くんの教え方が悪いから言うこと聞かないんでしょ?」
「お? 言うじゃないですか。まあ、マドンナの結城先生にはかないませんからねー」
 肩をすぼめ、両手をわざとらしく挙げて呆れた表情を作る祐介に、つられて麻里にも笑顔が戻っていた。茶化して励ましてくれたことも、本当は心配でたまらないくせにあえて深く聞こうとしないことも、麻里にとっては救いであり、そして心を開くきっかけにもなった。
 彼は不思議な人だ。人の心にスッと入ってくる天才かもしれない。
「ねえ、佐伯くん」
「ん?」
「薫……櫻井先生ってね、あの校医の。櫻井先生の噂で、何か知ってることある?」
 思い通りに出た名に、祐介はあえてびっくりした表情を作り、言葉を返す。
「櫻井先生? んー。あの人楽しいから俺も時々話すけど、彼女とかそんな深い話まではしたことないからわかんないなあ」
「そっかあ」
「でも、もてるのは確かだな。軽い噂なら数え切れないほどあるよ。ほら、あの人格好いいし、誰とでも気さくに話せるだろ? だから、女の子たちが放っておかないっていうか、生徒だけじゃなくて保護者も教師もみんな夢中だよ」
「ふーん」
「でも、本当の噂っていうのはないんじゃないかな? なんかあの人ミステリアスな感じがするんだよなあ。本当の彼女はいたとしても絶対見せない感じ」
 本当の彼女――。
 確かにいたとしても、薫ならばわからないかもしれない。軽い女遊びなら、昔から絶えずあった。それゆえ、恋愛の噂も絶えなかったのだが、自分を含め、本気になった相手には遊びとはまったく違う接し方をする薫の態度に、周りはそれが本気の恋愛なのだと気づかず、ただ見過ごしていた風があった。絶えなかった噂が、本気の恋愛のカムフラージュをしていた、そんな感じである。
 だが昨日、確かに薫から『カノジョ』という存在を聞いた麻里には、そんなことなどどうでもよく、ただ相手が誰なのか知りたいというそれだけの欲しかなかった。
「もしかして、結城先生が彼女とか?」
 ふと顔を覗き込まれるようにして、祐介に思いもかけない言葉を投げかけられた。あまりにびっくりして、言葉を返すのも忘れキョトンとしていると、
「なーんだ。そうなのか」
 その表情を肯定の意味にとられ、納得されてしまった。そして、慌てて麻里は否定する。否定しなければいけない自分が、少し悲しくもなったけれど……。
「ち、違うわ。私が彼女なわけじゃないじゃない」
「でも気にしてんだろ?」
「櫻井先生とは、以前からの友人なの。それで、ちょっと気になっただけよ」
「へえ……」
「だから誤解しないで。櫻井くんにも申し訳ないし」
 無理に作った笑顔が、痛々しい。祐介は少し哀しげな目で伏し目がちな麻里を見ると、すぐに麻里に笑いかけた。
「てことは、結城先生はフリーってわけだ。こりゃあ生徒たちがまた沸きあがるなあ」
「どういう意味よ」
「結城先生に夢中になっちゃうってこと」
「またあ。そんなわけないでしょ」
 祐介は冗談めかして言ったけれど、本当は、『みんな君の笑顔が好きなんだよ。だから自信を持って』と、心の中で呟いていた。麻里の心を支えてあげられるほど近い存在ではないけれど、自分の周りの人間が沈んでいるのを見過ごせない祐介の優しさが、少しでも麻里の気持ちを軽くしていたことを、彼は知らない。そんな無意識の優しさほど、人を救うのだと、この時麻里は感じずにはいられなかった。
「じゃ、そろそろ行きますか!」
 チャイムが鳴って、麻里は勢いよく腰を上げた。
「おう。頑張れよ、美人の結城先生」
「まかせとけ!」
「その調子その調子」
「ありがとね、佐伯くん」
「俺は何にもしてないさ」
「ありがとう」
 その優しさを胸に、頑張ろう。


 ――放課後。
 今日は、一日に四時間もの授業を抱えていた麻里だが、それも無事に終え、少し晴れ晴れしい気持ちでいた。薫に恋人がいることを知って、昨日はあんなに落ち込んでいたのに、祐介と話したことで、心が軽くなっていたのだ。けして、薫の彼女のことが気にならないわけじゃない。ただ、自分は自分らしくいようと、何か心の中で踏ん切りがついたのかもしれない。今のままの自分で、薫と向き合おうと、そう思っていた。
 カツン……カツン……。
 薫のいる保健室へ向かって、ハイヒールの綺麗な足が音を鳴らす。
 早く会いたい。でも、会って何を話せばいいのだろう。昔、まだ少女だったころに感じていた淡い恋心が、今麻里の心中に芽生えていた。好きな人を思うだけでなんだか幸せになるような、そんな感覚だ。
「……いるかな?」
 保健室のドアの前に立ち、深呼吸をする。わかっているのにもかかわらず、『保健室』と書かれた札をわざと見たりして、気持ちを整えた。すると、深呼吸を終えたころに、中から人の声が聞こえた気がした。
「え……まだ誰かいるの?」
 時間はとっくに六時を過ぎている。もしかしたら薫さえいないと思っていたほどなのに。思いがけない状況に、急に麻里の鼓動が早まった。
 そっ……とドアに手をかけ、開いたか開いてないかわからないくらいに隙間を作った。そして、廊下に誰もいないことを確認すると、その隙間から耳を欹てた。
「じゃあそろそろ帰りますね」
「まだ顔色悪いんじゃないか?」
「大丈夫です。もう普通に歩けますから」
「そうか?」
 聞きなれた声が聞こえた。男の声だけじゃない、女の声もだ。まだ若い女の子の声だったけれど、少し甘さの残るその声に、ピンときた。
「あ……真中さんか。また調子崩してたのかな?」
 美緒ならば保健室にいても不思議じゃない。この間から体調を崩していたのも知っていたし、そういえば今日も英語の授業の時にいなかった。しかし、美緒と薫が話しているのを聞くのは、少し不思議な感じがした。
 なぜだろう。いつも薫と女生徒が話しているのを見るのに、それとはまた違った不思議な感じだ。
 けれど麻里はあえてその不思議な感覚を追求することもなく、隠れてここにいる必要もないと判断し、中に入ろうとドアに手をかけた。が、しかし――。
「じゃあ今日も一緒に帰ろうか」
 今日も?
 ただ一言。薫のその一言に、麻里の体がビクリと反応した。
「でも、誰かに見られたら……」
「困る?」
 どうして誰かに見られたら困るというのか。ただの校医と生徒の関係ではないか。
 ドクン……と心臓が掴まれる。
「あたりまえです。ただでさえいつも気にしてるのに」
「しかたないなあ。じゃあ、帰る前にしてもいい?」
 ――やめて。
 女のカンが、悪い方へ悪い方へと思考をめぐらせる。
「何をですか?」
「わかってるじゃん、そんなこと」
 わかりすぎるほど分かる。だって、麻里と薫は、二年も付き合っていたのだから。
 血の気の引いていく顔を覆って、抜け落ちる足の力を感じながら、麻里はドアを背にペタンと座り込んだ。
「なに? 本当にわからないの?」
「はい」
 しないで。しないで。しないで……。
 麻里は祈るように、何度も心の中で呟いた。
「じゃあ、目閉じて」
 ひっそりとした呼吸が、夕焼けを背に二人を重なり合わせた。心臓が引き裂かれる痛みに、麻里はグッと堪えるしかできなかった。
「もお……またそういうことするんだから」
「恥ずかしいの? 可愛いなあ」
 今どんな目で彼女を見たの? 『愛しい』と言ったときの、あの優しい目?
 麻里にはけして向けたことのなかった慈愛に溢れた薫の眼差しを思い出して、どうしようもなく嫉妬に駆られた。
「じゃ、じゃあ私帰りますから」
「ああ。気をつけてな」
 せっかく積み立てた積み木が、音を立てて崩れ落ちた。恋がこんなにも苦しいなんて知らなかった。
「かおる……」
 そう呼べるのは、今も変わらず麻里だけなのに。どうして今、この名を呟くたびに心が締め付けられるんだろう。あの時はまだ、きっと本気で薫に恋をしていなかったのだ。今になって思い知らされる。愛することはこんなにも苦しいのだと。一人じゃ、立ってさえいられないほど麻里は弱かった。
「まさか真中さんだったなんて……」
 相手が誰でもきっと傷ついていた。けれど、相手が美緒だと知って、『敵わない』と、そう思った。
 女としてまだ未熟な美緒。でも、男を惑わせる不思議な魅力をもった少女。開花していないその魅力が、熟された花にとっては可能性を感じずにはいられない。何よりも一番悔しいのは、薫の相手として美緒を認めてしまう麻里自身だった。
 ドアの向こうにある絶望に、一筋の涙が麻里の頬に痕を作った。
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