花影恋歌

9.優しすぎる抱擁

 女はある日怖いほど『女』になることがある。
 止められない愛欲。こみあげる嫉妬。それも全て愛しい人のため。


 彼以外誰もいるはずのない保健室に凛とした声が響く。
「ずいぶんと趣味が変わったのね」
 美緒が去り、自らも帰り支度を整えていた時、思いもかけない声が薫を呼び止めた。途端、薫の肩がビクッと跳ねる。
 とてつもなく悪い予感がした。理屈では説明できない、悪い予感。背後に感じる雰囲気は、他の誰でもない。振り返らずとも誰なのかわかっていた。麻里なのだと――。
 しかしなぜ麻里がここに……。薫は瞬時に思考を巡らせたが、それよりも先に彼女の声が再度響く。
「まさかあなたがあんな子供を相手にするとは思ってなかったわ」
「……なんのことやら」
「しらばっくれたって無駄」
 嘲笑うような麻里の声に、薫の背筋に一筋の冷や汗が通る。予想通りの悪夢。どこから見ていたのか。どうはぐらかせばいいのか。頭の回転の早い薫でさえ困惑せざるをえない状況に、心臓が飛び出しそうなほど高鳴っていた。とりあえず、麻里の言う薫の相手は、美緒のことを指しているのだと確信して間違いはないということだけは理解できる。
「薫に恋人がいることはわかってたけど、もうちょっと大人な女だと思ってたのになあ」
「誰が恋人なのか、何も知らないだろ?」
「あら、まだ誤魔化すの?」
「誤魔化すもなにも、別に隠すことなんてないよ」
 麻里は皮肉な笑顔を浮かべていたが、薫も負けじとポーカーフェイスを崩さない。
「あなたは考えてることを顔に出さない人だけど、私だって馬鹿じゃないわ。あなたと付き合ってた二年間、あなたの全てを見てたのよ?」
「だから?」
「全部お見通しってこと」
「生憎、おまえに全部見透かされるほど、俺は薄っぺらな人間じゃないんだ」
 背後に立つ麻里の言葉に、薫は一つ一つ言葉を拾いつつ返していく。一つでも言葉を間違えれば、それこそ揚げ足を取られるに違いない。まあ、もうすでに取り付く島もない感じではあるが。
「何をそんなにイライラしてるの?」
「イライラなんてしてないけど?」
 少し笑いを含んだ麻里の声。気をつけてはいたものの、どうやら麻里の言葉に過剰に反応していたのかもしれない。言葉一つとってみても、苛立つ雰囲気を言葉の端々に残したのなら、それは薫の過失だ。
 振り返り、彼女の目を見て話すことはできそうになかった。ポーカーフェイスには自信のある薫だ。だが、麻里の鋭い目は、きっと真実を見据えて逃さないような気がしてならなかった。
「彼女、可愛いものね」
「俺の彼女は可愛いよ」
「私もあれくらい可愛ければ薫に相手にしてもらえる?」
「さあ……。俺は別に見た目が可愛いから好きになるとか、そんなくだらない理由で人を好きにはならないから」
「格好いいことばっかり言っちゃって。どこまでが本心?」
 一度は愛し合った女性だ。誤魔化すことが容易でないことはわかっている。そして、その逆に、薫にとっても麻里が何を言わんとしているのか大体検討がついていた。麻里はそうそう他人の恋路に口を出す女ではない。だからわかったのだ。彼女はまだ、薫を忘れられずいることを……。
「おまえのことも、見た目で好きになったわけじゃないよ」
「それは……喜んでいいのか悪いのか微妙な意見ね」
「理屈で人を好きになれるほど、簡単なものじゃないだろ?」
「そうね……」
 麻里が、少し苦笑いを浮かべた。
「冗談じゃなく、結城麻里という女を好きになったんだ。ちゃんと愛してた」
 振り返り、麻里の目を見据えて語る。嘘のない言葉だけを、彼女に残した。だから、今の恋愛に口をだすな……とでも言うように。あえて、はぐらかすでなく、冗談でもなく、真剣に。
 今は違えど、昔愛していたことを思い出すと、薫の胸がチクリと痛んだ。その瞳も髪も、全て愛しかったのはもう遠い日のことだけれど。
「バカ……」
「誰がだよ」
「なんで今になって言うかなあ」
「昔も結構言ってたけど?」
「違うわよ……本当、分かってない」
 さっきまで薫の視線から本心を探ろうとしていた麻里の目が、急に陰りを見せ、伏せた睫毛が頬に影を作った。
「今は聞きたくなかったってこと……」
「何を?」
「私がちゃんと愛されてたってことをよ。そんな台詞言われたら、もう愛してもらえないのが分かっちゃうじゃない」
 後ろでに手を組み、薫から逃げるように背を向けると、少し顎を上げ空を見上げるようにして、麻里が小さくため息をついた。”愛されてる”と、”愛されてた”の違いはなぜこんなにも大きいのだろう。
「本当のことって、時に残酷なこともあるのよ」
「おまえに嘘はつけないんだろ?」
「……そうね。でもまさか、こんな悲しくなる真実を聞かされるだなんて、思ってもいなかったのよ」
 泣いているかのような微笑を麻里は少し浮かべていた。さっきまでは豹のように攻めの姿勢をゆるめなかったのに、途端女の弱さをちらりと見せる。人を好きになると、強くもなり弱くもなるのだとは、よく言ったものだ。いつだって麻里は薫の一言一言に翻弄されては変わる人だった。
 今にも泣きそうな麻里を目の前に、薫も少し心配に思う気持ちが心を満たしていく。やはり、一度愛した女性の泣き顔は見たくはない。
「ねえ、薫」
「ん?」
「私ね、今でも薫が好きよ……」
「そっか」
「私バカだから……薫と離れてから気づいたの。彼女がいるって知った今なんて、もっともっと好きになっちゃって困ってるわ。なんで別れたのかな……。本当にバカよね」
「泣くなよ……」
 麻里の瞳から涙が一粒零れ落ちようとした瞬間、薫はその涙を拭うかのように抱きしめていた。立ち上る香りに、懐かしさがこみ上げる。一瞬、腕の中に戻ってきた懐かしさに、薫の胸の中に愛しさが滲んだ。美緒に感じる愛しさとは違うけれど、確かに昔愛していた時のことを思い出していた。
 ――泣かないで。
 ただそれだけの想いで、薫は麻里をぎゅっと抱きすくめていた。
「薫……私ね、まだ薫が好きなの」
 薫は、麻里の告白を否定するわけでもなく、受け入れるでもなく、ただ彼女の気持ちを聞いていた。柔らかいウェーブのかかった髪に、指が触れる。麻里は、薫の背中に腕を回すと、誰にもやるまいと強く抱きしめた。
 優しすぎる男だ。ここで、突き放してくれたら、きっともっと好きになることはなかったのに……。だけど、そんな残酷な優しさも、麻里にとっては死んでもいいくらい嬉しかった。
「離れて気づいたの。私バカだった。だって薫のこと愛してるんだもん」
「俺も……ちゃんと愛してたよ」
 麻里が薫を今でも好きなことはわかっている。抱きしめたら、余計麻里を傷つけることになるかもしれないとわかっていた。でも、懐かしさと愛しさが、泣いている麻里を抱きしめずにはいられなかった。そこには、美緒に対する恋しい想いのようなものがあるわけではない。どちらかと言えば、麻里に対する情だろう。一度愛し合った故に抱いてしまう、残酷な同情。
 けして『愛している』とは言わない薫の心の強さと、『愛してた』と言う残酷な優しさが、麻里の胸の中で複雑に渦巻いていた。
「でも、今はもうあの子のものなのよね……」
「ごめん」
「謝らないでよ……元はといえば、私が理不尽に別れを切り出したのが始まりなんだから」
 そう。あの時別れずにいたら今頃。
「おまえのこと、他の女友達の誰よりも大事だよ。でも……俺はあいつ以上に大事だと思う女はいない」
「はっきり言うのね……」
「俺は、あいつしか好きにはなれないから……」
「……わかってる」
 ため息混じりに、麻里は薫の胸に顔をうずめつつ呟いた。薫が美緒のことを愛しく思っていることはわかる。自分が昔見つめられていた優しい瞳以上の眼差しで、美緒を見ていたから。
 だが、漠然とした不安が、麻里の心に引っかかった。
「でもあの子にとっての薫はどうなの?」
「どうって?」
「教師と生徒でしょ? そんな……簡単にいくわけないじゃない」
 そっと体を離し、薫の目をまっすぐ見て問うた。
 薫が美緒を好きならしかたがない。でも、美緒が薫を大事に思っていないのなら……。そう考えると、自分が薫にとって一番なのだと思わずにはいられなかった。それもこれも、誰にも負けないほど、薫を好きな自信があるからだ。麻里から見た美緒は、どこかしら薫に愛されているだけで、自ら積極的に愛している様子など窺えなかったのだ。
「簡単にいくなんて思ってないよ」
「そんなに甘くないわよ。あの子、ちゃんと薫のこと愛してるの?」
「さあ……どうかな」
「どうかなって、恋人なんでしょ?」
「……まあな」
 はっきりしない薫の返事。少し見せた寂しそうな薫の表情が、ただ幸せではないのだということを、麻里に悟らせた。
 なぜだか、無性に腹が立つ。自分よりも薫のことを好きじゃないくせに、薫のことをつなぎ止めている美緒のことが少し憎かった。
 ――私ならもっと大事に薫を愛せるのに。
 理不尽だとわかっていても、そんな考えが脳裏をよぎる。汚い女だとわかっている。自分がとても嫌な女だと。しかし、好きな男を前にした時、女としての体裁なんてもう……どうでもよいのだ。
「私ならもっと上手に愛せるわ」
「……結城先生?」
「私、薫のこと誰よりも好きなのに、引き下がるなんてできない。自分勝手だってわかってる。でも好きなのよ。あんな子よりずっとずっと」
「あんな子って……。俺にとっては誰よりも大事なんだから、そんな言い方するなよ」
 普段の薫なら、そんな本心絶対に口にするはずないのに。少し怒りを帯びた声で美緒をかばう言葉を麻里に投げつけた時、とてつもない嫉妬が芽生えた。
 なぜ引き下がらなければいけないの? あの子よりも自分の方が薫を愛しているのに……。
 麻里がそう思ってしまうのは、当然のことなのかもしれない。
「ねえ、薫。賭けをしましょう」
「賭け?」
 これはかけひきだ。恋愛のかけひき。
「私は結局不安に負けてあなたを一度手放したわ……。あの子ならどうかしら」
 バカげた提案だとわかっていても、薫のことが愛しくてたまらないのだ。麻里はもう引き下がれなかった。
「もしもあの子があなたから簡単に引き下がるようなことがあれば、あの子の気持ちはそれまでってことよ。だからその時は……」
「その時は?」
「その時は、私の勝ち。私と、よりを戻して」
「何バカなこと言ってるんだよ。さっきも言っただろ? 俺は……」
「私は! ……私は、誰よりもあなたのことを好きよ。だから、私よりも大事にしてくれる人しか認めないわ」
 認めるも認めないも、薫の恋人でない麻里がこんなことを言うのは筋違いだとわかっている。だけど、言わずにはいられなかった。
「あの子が薫を大事にしてくれるなら諦めるわ……だから……」
「麻里……」
 どれだけ汚い女になっても構わない。あなたの隣を歩くのは、私じゃなくちゃ許せない。キスをするのも抱くのも、あの子じゃなく私でなければ……。もしもあなたを取り戻せる希望があるのなら、私はどこまでもすがってみせる。

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