華水の月

12.秘められた感情

「ハルカ!」
 懐かしくも愛おしい声に名を呼ばれた瞬間、何故自分がここにいたのかにハッと気付く。美緒の声に反応して、ハルカはゆっくりと振り返った。わずかな笑みを浮かべただけの表情は、相変わらず不器用なハルカらしかった。
「久しぶりだね。どうしたの?」
 駆け寄ってきた美緒は、背の高いハルカを見上げて微笑んだ。同じように笑顔を返せたらといつも思うのに、感情表現の苦手なハルカは、ただぶっきらぼうにしか返事ができない。
「近くまで来る用事があったから、ついでに」
「ついで?」
「ああ。もしかしたら、会えるかなと思って」
「私を待っててくれたの?」
 ハルカに会えた嬉しさを隠さず表現する美緒をまともに見ていられなくて、ハルカがふいっと視線を外した。彼の気持ちを考えず、無邪気に振舞う美緒の様子も相変わらずだ。
 ハルカが転校して以来、電話やメール以外のコンタクトは取っていなかった。とは言っても、元々口数の少ないハルカだけあって、携帯での連絡も淡白なものだった。それでも、今でもどこかで繋がっているという感覚はお互いを支えていたし、忘れたりすることは片時もなかった。たとえそれが、恋人という関係ではないにしても、美緒とハルカの関係はとても深い。
「元気そうだな」
「うん。元気だよ。ハルカは? ちゃんと勉強してる?」
「ああ。頑張ってるよ」
「せっかく転校までしたんだもん。お医者さんになる夢、叶うといいね」
 進学に適した学校に行くために転校したという嘘を、美緒は今でも疑わずに信じているらしい。
 本当は、美緒を守るための転校だった。そして、ハルカ自身が、愛しい彼女から離れて自立するための。けれど、それを美緒には知られたくなかったのだ。
 今でも尚、疑わずにいてくれる美緒を見て、彼女に何も言わなかった薫の優しさに感謝した。
「全然会いに来てくれないんだもん。忘れられたかと思ったよ」
「櫻井先生に泣かされたら、って言っただろう?」
「でも、私が会いたくなったら、とも言ったでしょ?」
 私はずっと会いたかったよ。と言っているようにもとれる美緒の言葉に、ハルカは複雑な気持ちになる。胸にこみあげる愛しさと、けして届かない切なさと。無邪気な彼女の振る舞いは、愛らしく、そして残酷だ。いとも簡単に嬉しさの中へ引き上げるかと思うと、現実という残酷な海に容赦なく突き落とす。
 全く……出会った頃から変わらない彼女の魅力に、今も振り回されているのかと思うと、苦笑を零すしかなかった。
「ねえ、今日は時間あるの?」
「え? ……ああ、あるよ」
 今日だけと言わず、美緒のために割く時間ならいくらでもあるが、けしてそれは口にしない。
「久しぶりだから、たくさん話そう? あ、そうだ。櫻井先生のところへも寄っていく?」
「そうだな……」
 少し考えるように、顎に手を当てた。無邪気にハルカを見つめる美緒の視線とぶつかる。
「……ハルカ?」
 何が、ハルカをそうさせたのかはわからなかった。けれど、無意識にカレの腕が美緒を求めた。
 彼女の腕を引き、柔らかく彼女を包んだ。腕の中にすっぽりと納まる美緒の小さくて華奢な体。美緒は、上目遣いでハルカに問いかけたが、抱き締められたことを拒んだりはしなかった。ただ、カレの気持ちがわからない、そんな風だった。
「ごめん……ちょっとだけ、このままでもいい?」
「いいけど……どうしたの? 誰かに苛められたの?」
「いじめっておまえ……俺、高校生だけど」
 美緒の言葉に、ハルカが困ったように苦笑を零した。
 強く美緒を望んでいたときは拒まれたハルカの腕。今も美緒への気持ちは変わらないのに、美緒の中では何かが終わっていたようだった。一人の異性として見てくれていたあの時の美緒はもうそこにはいない。ハルカを本当に友の一人として見ている。そんなことを感じ取った。
 少しの間の後、美緒から腕をそっと解き放つ。ふと、ハルカが美緒の背後に視線を向けると、こちらへまっすぐと歩いてくる男性の姿が目に止まった。まさか、とは思ったが、彼はそのまま、ハルカの前までやってきた。
「美緒。何やってんだよ。帰るんじゃなかったのか?」
「あ、泉くん」
「暗くなるぞ」
「んー……別に少しくらい大丈夫だよ」
 美緒の肩に手を置いて、泉が彼女に話し掛ける。目は、ハルカをじっと見つめていた。明らかに怪しむような、そんな目だ。
 明らかに高校生ではなく、かと言って教師にしては若すぎる泉をチラッと目の端で捉えた後、ハルカはそっぽを向いた。それが気に入らなかったのか、泉は片方の眉をピクリと上げると、美緒に問い掛けた。
「で、美緒。こちらさんは?」
「え、ああ。香月ハルカくん。少し前に転校したクラスメートなの」
「へえ……昔のクラスメートがわざわざねえ」
 泉が意味ありげに言葉を口にしても、ハルカは顔色一つ変えず、涼やかな表情で視線を外したままだった。
 両極端な二人だ。一方は寡黙で、一方は多弁。人付き合いの下手なハルカと、社交的な泉。元々、相容れないのが普通かもしれない。
「ねえ、ハルカ。この人はね、櫻井先生の弟の泉くん。今教育実習で学園に来てるんだよ」
「櫻井先生の弟……?」
 こいつが? とも取れる、ハルカの怪訝な眼差しに、泉が一瞬苛立ちを見せた。ハルカには、特に他意はない。美緒に馴れ馴れしい態度が好きではないが、泉のことなど眼中になかった。ただ、櫻井薫の弟、と聞いて、信じられなかっただけなのだ。それが、泉のプライドを刺激してしまったけれど。
「おい、美緒。行くぞ」
 美緒の腕を掴み、泉が強く引っ張った。その力強さに、『痛っ……』と小さく呟き、美緒が顔をしかめる。すかさず、ハルカが泉の腕を美緒から引き剥がした。
「もう! 痛いじゃない」
「うるさい。いいから俺と一緒に薫のところへ行くんだよ」
 泉が少し怒った表情で焦りを見せ、美緒の腕を再度掴もうとする。
 けれど、その行為はハルカの手によってあっさりと遮られた。美緒を捕まえる前に、ハルカが彼女を自分の後ろに隠したのだ。
「悪いけど、美緒と話があるから」
 冷ややかな声色が乾いた空気の中に響いた。
「あ? ……美緒、そうなのか?」
「そうだよ。……もう、急になんなのよ、泉くんったら」
 美緒は、掴まれた腕を擦り、ハルカの背後から恨めしそうに泉を見た。
 一斉に向けられた二人の視線に、泉はばつが悪そうにふいっと視線を外した。
「悪かったな、邪魔して」
 つまらなそうにそう呟くと、ぴったりとくっつくように並んでいる二人を一瞥して、泉はその場を去っていった。


「薫!」
 保健室のドアを開けるなり、泉が大きな声で言い放った。声色は、少し苛立ちを帯びている。
「ここは保健室なんだから、少しは静かにできないのか?」
 小さな溜息をつきながら、薫がゆっくりと答えた。視線はデスクに向いたまま、泉の方へは一瞥もくれていない。
「なんだよ。こんな時間に生徒でもいるのか?」
「いや? 別に誰もいないよ」
「じゃあ、問題ないじゃん」
「おまえの場合、誰がいてもいなくても大声を上げるだろうが。さっき入ってきた瞬間だって、生徒のことなんて少しも考えてなかっただろう?」
 左手で頬杖をついて、呆れたような仕草を見せた。
 泉は、少しも振り向かない薫のもとへ歩み寄ると、頬杖をついたままの薫を見下ろすように脇に立った。あまりにものんびりと構えている薫を、苛立ちまぎれに捲し立てる。
「んなことはどうでもいいんだよ。それより、薫。美緒が浮気してるぞ」
「美緒が……浮気?」
 顔をゆっくりと泉の方へと上げた。何言ってるんだ、こいつは。とでも言いたげな疑わしい視線に、泉は苛立った。
「ああ。さっき、校門によその学校の男が来てて、随分仲良さげにしててさ。なんかまるで、高校生のカップルみたいだった」
「へえ……」
「へえ、って。気にならないのかよ」
 最初は疑わしい目を泉に投げていた薫だったが、泉の話す内容を少し聞いただけで、なんとなく状況が掴めた。あえて確認するまでもなかったが、一応泉の気持ちを沈めるためにも、聞いておく必要があるように思えて、泉に問い掛ける。
「その男って、どんな奴?」
「え? ……えっと、女みたいな顔したやつで、やけに愛想がなくて、背は俺くらいで……」
「ああ。それって、香月ハルカだろう?」
「知ってるのか?」
 最初から、香月ハルカだとわかっていたが、泉の言う特徴で確信した。美緒がやけに懐いていたとしたら、もう完璧に彼に違いない。薫は苦笑して、泉から視線を外すと、自分のデスクの上のある書類に再び目を通し始めた。
「知ってるも何も、香月は元々うちの生徒だからな」
「それは美緒からも聞いたけど、それより俺が言いたいのは、美緒がその香月とかって奴と仲良くしてるのが気にならないのかってことだよ」
「別に?」
「別にって……薫は美緒の彼氏じゃないのかよ」
 冷静なまま、態度一つ変えない薫に、泉は焦りを募らせていく。
 泉にしてみれば、美緒が他の男と仲良くすることを、薫がどうして黙っていられるのかがさっぱりわからないのだろう。
「別に香月だったら、そんなに心配しなくても大丈夫だよ」
「は? 大体、なんなんだよ、その香月って奴は」
「んー……美緒の元カレ?」
 自分でそう口にしたのに、その可笑しさについつい笑いが零れた。美緒が聞いていたら、きっと必死で否定するんだろうな、なんて考えながら、薫がクスクスと笑う。だが、ただの友達としては、美緒にとってのハルカは軽すぎるように思うし、実際薫が美緒を置いて渡米していた時は、ハルカがずっと美緒のそばにいて支えていたわけで、当たらずとも遠からずな表現に思えた。
 まあ、本気でハルカが美緒の元カレなどと思っているわけではないが。
「も、元カレって、美緒にとって薫が初めての男じゃないのか?!」
「そうだよ」
「そうだよって……。はあ?! もうわけわかんねえ。ちゃんとわかるように説明しろよ」
 やけに楽しそうにニコニコと笑みを浮かべる薫に苛立ちを募らせ、泉の我慢も限界に来ている。
 美緒にとって初めての男は薫で、今の彼氏も薫で、でも薫はハルカを美緒の元カレだと言う。わけがわからないのも当然かもしれない。でも、混乱している泉の様子が、薫は愉快でもあった。
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。美緒は香月になびいたりしない」
「薫がそんなに余裕なのが俺にはわからないよ。元カレだっていうなら尚更だろ? なのに、なんでそんな涼しい顔してられるんだよ」
「別に、香月のことを嫌ってるわけじゃないしな」
「俺は嫌いだね。……なんか嫌だ」
「何が嫌なんだよ」
 そう問うた薫の言葉を、泉は顔を歪めて飲みこんでいた。


「まるで自分の彼女みたいに、自分の後ろに隠してさ。……あいつは、違うのに。そんなんじゃないのに」
 美緒を守るように自分の後ろに隠したハルカのことを、泉は鮮明に思い出した。あの瞬間、美緒が遠い存在に感じた。いつも泉といる時の美緒ではない。明らかに、泉よりもハルカを優先していたと感じられた。
 その瞬間、胸を突くような感覚が泉を襲った。その感覚が、一体何なのかはわからないが。
「なあ、薫。美緒を連れに行こう。俺、なんか嫌なんだよ、あいつと美緒を一緒にいさせるのは……」
「バカか、おまえは。俺と美緒のことは学校内では秘密なんだ。軽々しくそんなことできるわけないだろう。大体、そんなことしたって美緒が喜ばない」
「どうしてだよ」
「きっと今頃、香月と会えたことに喜んでるだろうしね。あの二人は、昔から本当に仲が良かったんだ。俺は香月の内面も知り尽くしてるし、余計な心配は無用だよ」
 自信があるのだろう。だからこそ余裕を装っていられる薫の姿に、泉の焦りは更に募った。奪われてからでは遅いのだ。不安でたまらなかった。
「俺は嫌なんだよ。なんか、美緒を取られそうでさ……」
「泉」
「……何?」
 どうしても譲れない泉の言葉を、薫の冷たい声が制した。冷ややかで凛としたその声に、一瞬泉が構える。
 薫が言おうとしているその先の言葉は、なぜか自分にとっては良い言葉ではない気がして、不安が胸を曇らせた。
「おまえが嫉妬するのは別に構わないが、それを俺にぶつけないでくれないか」
「……嫉妬?」
「ああ。美緒と香月が一緒にいるのが耐えられないんだろう? それを嫉妬と呼ばずになんて言うんだよ」
 ――嫉妬。
 薫の発した言葉は、あまりにも今までの泉とはかけ離れていて、一瞬何を言われているのかわからなかった。
 少なからず、今までの泉は、女がらみで嫉妬心を抱いたことはない。彼女がいたとしても、縛らず、縛られないのが当然であったし、それが彼なりの恋愛観だった。嫉妬や束縛など、無駄なものとしか思えなかったのだ。
 しかし薫は、泉が嫉妬心を抱いていると言う。胸を突いたあの感情を、嫉妬だと。それを素直に受け止められなくて、言い訳を必死で探した。
「ち、違うよ。俺はただ、薫のためを思ったんだ。美緒は薫の彼女だから……」
「いや、それは違う。おまえは自分自身で香月に嫉妬したんだ。美緒が香月と仲良くするのが許せないんだろう。取られたくないって思ったんだろう。兄の彼女だから、とかそういう理由じゃないはずだよ」
「違う、俺は、美緒が薫の彼女だから……薫が嫌がるだろうと思って……」
「俺が嫌なんじゃない。おまえが嫌なんだ。俺がいてもいなくてもおまえはそう感じたと思うよ。……別にいいじゃないか。ただ嫉妬しただけだろう?」
 薫の言葉一つ一つが、泉の心に突き刺さった。
 今まで気付かずにいた感情を、脳内に植え付けられる。知りたくなかった感情が、心を蝕む。
 嫉妬――。
 そうだ、泉はハルカに嫉妬した。美緒を、自分の手から奪ったハルカに……。
「この間、おまえ言ってたじゃないか。美緒は自分にとって妹みたいなものだって」
「ああ……。言ったけど……」
「そうとうなシスコンだと思えば、別にいいんじゃない?」
「シスコン? 俺が?」
「可愛い妹を他の男にはやれない、ってことだろ」
 ――妹。
 薫の言葉はどれも受け入れられなかったのに、妹と言った彼の言葉だけは、泉にとって救いの言葉だった。あえてそう思い込んで、心の中で整理をつける。確かに、そういわれれば、そういう感情なのかもしれない。妹のいない泉にとっては、すぐさま理解できる感情ではなかったが、そう思い込むことで心の中に落ち着きを取り戻していた。
 しかし、その反対に、心の中ですりかえた他の感情には気付かないフリをしたけれど……。
 まだ戸惑いを隠せない泉を横目でチラッと見ながら、薫も無表情になった。
 きっと、泉の中にある秘めた感情が暴かれれば、何かが壊れ始めることを、この時の二人は無意識に感じ取っていたのかもしれない。

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