華水の月

14.風、恋し

 突然、携帯が鳴った。
 普段、あまり鳴らないはずの着信音に、一瞬我が耳を疑った。
「え? 先生?」
 鳴ったのは、薫指定のメール着信音だ。
 休日である土曜の昼をのんびりと過ごしていた美緒。ウトウトと眠りに落ちそうな時に鳴った携帯音は、夢の中でも美緒を呼び続けた。夢か現か、まだはっきりしない思考の中、携帯を手に取る。
 やはり、間違いではなかった薫からのメールは、美緒の眠気を一気に吹き飛ばした。
「珍しいなあ……」
 普段、あまり薫とメールはしない。
 美緒から送りたくても、彼の忙しさを考えていつも遠慮していた。したとしても、本当に時折のことだった。明日一緒に帰ろう、だとか、体調の悪い美緒を気遣ってのメールだとか。シンプルな文面はとても薫らしかったし、慣れていないコミュニケーションだからこそ、彼からの連絡が携帯に入ると、美緒は極端にドキドキした。ワクワクする気持ちを抑えながら、メールボックスを開くと、ただ、一行。
『今、何してる?』
 とあった。
 少し考えて、返信する。昼寝していただなんて、恥ずかしくて言えるはずもない。
『お休みだから、ゆっくり本読んでました。先生は?』
 可愛らしい絵文字も少し入れて、送り返した。
 ――二分後。
 再度、薫指定の着信音が鳴った。ただの聞きなれた音楽に過ぎないのに、この曲は今では美緒にとって特別だ。
『美緒に会いたい。今から会いに来られないか?』
 絵文字も何もないシンプルな文章。それなのに、ただ短いこの文章が、激しく美緒の心を揺さぶった。薫の一言は、本当に美緒の心を翻弄する。会いたい、だなんて、薫でなければこんなに嬉しく思うこともないだろう。
 ――会いたい。
 ただのこの四文字は、好きだとか、寂しいだとか、恋しいだとか、そういう思いを全て含んでいる魔法の言葉のように思えた。震える胸をギュッと抑えて。
『……会いに行きます』
 それだけ、返信した。


 未だに慣れない薫のマンション。扉の前に立って、小さく深呼吸し、呼び鈴を鳴らした。
 会いに行くとメールを送った後、すぐに洋服を着替えて、少しだけ化粧もして、はやる気持ちを抑えながら家を飛び出した。早く会いたい。けれど、あまりに早く行き過ぎたら、薫に変に思われるだろうか。そんなことを考えながら彼の家へ行く道のりは、とても恋をしている女の子らしかった。
 呼び鈴を鳴らした後、少しすると、扉の向こうに人の気配を感じた。少し緊張して、扉が開くのを待つ。ゆっくりと開けられた扉に、つられるように顔を上げると、目の前に立つ人物に絶句した。
「よっ!」
「な、なんで?!」
「なんでって、そんな失礼な挨拶あるか?」
「なんで泉くんがいるのよ」
 目の前にいたのは、いかにも大学生らしいラフな恰好をした泉だった。
 まるで、美緒が来るのを待ち構えていました、というような雰囲気に、美緒が怪訝そうに眉をひそめた。
「思ったより早かったな。さすが薫効果」
「どういうこと?」
 いかにも楽しそうに笑みを浮かべる泉に、美緒が問い掛ける。
 しかし、泉の返答が返ってくるより先に、玄関に続く廊下に薫が顔を出した。仕事用にかけているメガネがキラリと光る。泉の向こう側にいた美緒の姿を見つけて、驚きに目を丸くした。
「美緒! どうしたんだ、急に」
「どうしたって……先生がメールで会いたいって……」
「俺がメールで?」
「送ったでしょ? 会いたいから、今から来られないかって、言ったじゃないですか」
 自分の言葉に、羞恥を感じずにはいられなかった。自分が鵜呑みにした言葉たちを、薫は全く知らないことが聞かずともわかるからだ。
 一体、何だったのだろう。薫だと思って受け取ったメールに、心揺さぶられた、あの時間は……。
「俺は送ってないよ。それでなくても、今日は朝から仕事してて、携帯なんて触る暇なかったから……」
「じゃあ、一体どうして……」
 互いに顔を見合わせて困った表情を浮かべる美緒と薫の脇を、ソロソロと泉が後ずさりしていた。戸惑うばかりの美緒は別として、薫はそんな泉の態度に気付かないほど、鈍感ではない。
「泉!!」
 リビングへ逃げようとしたところを、薫のきつい声が制した。
「な、何かな?」
「何かな、じゃない。おまえだな? 美緒を呼びつけたのは」
「知らないなあ。俺じゃないと思うよ?」
「ほお……シラを切るなら別に構わないよ。それで、いいんだな?」
 眼鏡越しのシャープな眼差しが、泉を射る。泉は、それとなく視線を泳がせると、急に焦ったような顔つきに変わって、言い訳し始めた。
「だってさ、せっかく薫ん家に遊びに来たのに、仕事ばっかでつまんねーんだもん」
「そんなこと俺の知ったことじゃない。大体、いつもなら友達とばっかり遊び呆けてるおまえが、なんだって最近は俺のところにばかり来るんだよ」
「いいじゃんか。可愛い弟が遊びに来てやってんだぞ?」
「誰もおまえに来てほしいなんて頼んでない」
「うわ、冷たっ! それでも兄ちゃんかよ」
「兄だと思うなら、もうちょっと敬ったらどうだ? 大体、返せと言ったはずの合鍵はどうした。今日だって持ってるはずだろう」
「別に悪さしてるわけじゃないんだから、大目に見てくれたっていいじゃんか」
「大目に見る余地なんかないよ。大体、おまえは……」
「もう、いいかげんにして!!」
 美緒の言葉が、部屋中に響き渡った。
 途端、それまで言い争いに夢中だった二人が美緒を凝視し、ぴたりと声を止ませる。
「やめてよ……もう……」
 情けなかった。
 泉の行動にまんまと振り回され、薫に会いに来たのに歓迎されることなく二人は喧嘩を始め、美緒の立場などこれっぽちもなかった。最悪だ。こんなことなら、来なければ良かった。あれだけ薫に会えることが嬉しくてお洒落までしてきたのに、なんということなのだろう。
 あまりの情けなさに、目の奥が熱くなる。次第に視界は霞み、揺れ動いたかと思うと、温かなぬくもりが頬を伝った。
「ご、ごめん……」
 先に言葉を取り戻したのは泉の方だった。涙を零して俯く美緒を見て戸惑う。
 また泣かせた……。
 そんなことが、泉の胸をよぎって、美緒の方へ歩み寄ろうとする。その涙をこの指で拭いたい。彼女の体を壊れるほど抱き締めて、なぐさめてやりたいと。
 けれど、それよりも先に、薫が美緒の元へと歩みよって、その小さな体を包むように抱き締めていた。まるで、風だ。柔らかな風のように素早く、薫は美緒を心ごと包み込んだ。結局、泉は美緒を泣かすことはできても、慰める腕は持っていない。それを、まざまざと見せつけられた瞬間だった。
「奥に行こう。美緒」
「……イヤ。帰ります」
「どうして? せっかく会いに来てくれたのに」
「……帰るもん。だって……だって、あのメール嘘だったんでしょ」
 抱き締める腕の中で、美緒の小さな肩が小刻みに震える。
 少なくとも、今回のことで美緒の心は傷ついた。たかが小さな嘘。でも、薫への恋心を弄んだ嘘は、予想よりもはるかに美緒を打ちのめした。あのメールに書かれてあったこと全てが、もう美緒にとっては嘘でしかない。たとえ今、薫が愛の言葉を囁いても、全てを受け入れられないだろう。美緒の心を慰めるために言っただけの言葉にしか感じられないだろう。本当に本当に、あのメールが嬉しかったのだ。だからこそ、嘘だと知った時の絶望は、計り知れなかった。
「確かに、俺はメールを送ってない。でも、美緒は俺に会いに来てくれただろ。俺は、それがすごく嬉しいよ」
「でも……嘘は嘘だもん」
「あのメールは嘘でも、俺に会いに来てくれた美緒の気持ちまで嘘になるわけじゃないだろう?」
 美緒をギュッと抱きすくめて、髪を優しく撫でる。震える華奢な肩は、薫の仕草で少しずつ落ち着きを戻していた。
「いつだって会いたいのは、美緒も俺も一緒だよ。その気持ちまで疑わないで」
 たとえ泉の罠だとしても、美緒に会えたことは薫にとって嬉しいことに変わりはない。いつだって、この腕に美緒を閉じ込めていたいのだ。それだけは、疑われたくはなかった。
「……迷惑じゃないんですか?」
「俺がおまえを迷惑がったことなんて、今までに一度だってあったか?」
「ないけど……」
「だったら、俺の言葉だけ信じろよ。それとも、俺は信じてもらえないほど、ダメな男か?」
 覗き込むようにして問い掛けると、美緒が首を横に振った。涙に濡れる目元にそっと口付ける。美緒は、薫のそんな何気ない行動に赤面すると、ただ黙って背に腕を回した。
「ほら、行こう。せっかく洒落込んできたってのに、泣いたら台無しだぞ」
「……お化粧落ちちゃった」
「大丈夫だよ。美緒はそのままで充分可愛い」
 拳で涙を拭う美緒を素早く抱きかかえると、薫は玄関を後にして、リビングへと向かった。
 いつの間に、玄関から姿を消していたのか、困ったような戸惑いの表情を浮かべて、泉がリビングで二人を待っていた。


「みおー」
「…………」
「美緒ちゃーん」
「…………」
「今日も一段と可愛い美緒ちゃん」
「…………」
「おい、美緒!」
 しびれを切らして、泉が少し声を荒げた。
 さっきから相変わらず、美緒はそっぽを向いて返事をしない。二人がけのソファに二人並んで座っているのに、二人の距離感は一向に縮まらなかった。フン、と口を尖らせて泉を挑発する。泉はその挑発にまんまと乗せられて、美緒の機嫌を取るのに必死だ。
「いい加減機嫌直せよ。どうせ退屈な休日過ごしてたんだろ?」
「どうせって何よ。私だって、色々と予定があったんだから」
「どんな?」
「どんなって……」
 美緒が語尾を濁す。本当は、これと言った予定はない。けれど、それを正直に泉に言うのは癪だ。かと言って、上手い嘘が見つかるわけでもなく、ただ黙り込んでしまった。
「薫に会えたんだから、良かっただろ?」
「こんな会い方はしたくなかった」
「可愛い俺のイタズラじゃん」
「……可愛い?」
 泣かせておいてよくもそんな口がきけたものだ。
 泉の言葉に呆れ返ってしまって、その後の言葉が出てこなかった。
「それに、俺にも会えて嬉しいだろ?」
「泉くんに会わない方が嬉しかったよ」
「それ、どの口が言った? この口か?」
 泉が、美緒の小さな唇をキュッと掴んだ。おかげで、話すことができなくなった美緒は、目の前でニヤニヤと笑う泉の頭を軽く殴った。その反動で、泉の手が美緒の唇から離れる。
「いい度胸だな、バカ美緒」
「先にやったのはそっちでしょ。バカ泉」
「バカって言うな。本当のバカになるだろ」
「すでにバカじゃない。今更遅いよ」
「……なにい?」
 片眉をピクリと上げると、じっと美緒を見つめて、急に動き出した。咄嗟に逃げようとする美緒。しかし、そんな彼女の行動など虚しく、あっさりと泉の腕に捕らわれていた。背中から、抱き締められるような格好で。
「離してっ!」
「絶対離さねえ。泉サマをなめると痛い目に会うぞ」
「もう! やめてよバカ泉!」
「だから、バカって言うなって言っただろうが」
「バカはバカでしょ」
「うるさい。おまえに言われるとムカツクんだよ。バカ美緒」
 ニヤニヤと微笑を浮かべて、じたばたと動く美緒を、ありったけの力でギュッと抱き締める。腕の中にすっぽりと収まる小さい体を折れそうなほどの力で押さえつけ、美緒の肩に顎を乗せた。
 途端、急に美緒が大人しくなった。
「なんだよ……反撃は終わりか?」
 もう少し楽しめるかと思っていたのに、急に抵抗しなくなった美緒に泉は拍子抜けした。思わず、込めていた力が緩まる。
「だって、動けば動くほど、強く抱き締めるんでしょ」
 そんなの、嫌。とも取れる言葉に、泉の心は揺れた。
 泉が何気なくやっている行動も、美緒にしてみれば受け取り方が違うのだ。少なくとも、薫という恋人がいる身で、他の男に抱き締められるなど、嬉しくないに違いない。たとえそれが、泉でも……。
 そんな美緒の心の内を察して、複雑な気持ちになった。
「……アホか、おまえは。妹が兄ちゃんにいじめられるのは、世の中で決まってるんだよ」
「なにそれ」
「うるせえ。黙って虐められろ」
 そう言って、片手を体から離すと、美緒の髪をグチャグチャに掻き乱した。
「ちょっ! やめてよもう!」
「俺に逆らうから悪いのー」
「もう……やだやだ。バカ泉」
 再び、美緒が抵抗を見せた。その反応に、泉は内心ホッとして、また美緒を抱き締める腕を強める。
 一時流れた、不安定な時間。泉の心をヒヤリとさせた、美緒の態度。けれど、今こうしてじゃれ合う姿は、泉の言うように兄妹のようだった。
「あんまり酷いことすると、先生に言いつけるから!」
「言いたきゃ言えばあ?」
「……キライキライ! 泉くんなんかキライ!!」
「本当は大好きなくせに素直じゃない奴」
 ケラケラと笑って、美緒で遊ぶ。髪を弄られて必死で抵抗する美緒を見ているのが楽しかった。
 美緒といると、不思議と嬉しい気持ちになる。美緒の笑顔を見ると、自然と泉も顔が綻んで、一緒にいる時間を本当に幸せに思う。美緒が涙を流すと、これ以上ない後悔と戸惑いが生まれた。
 だからだろうか。さっきのような、少し突き放されるような静寂は、恐ろしかった。美緒からの拒絶。一瞬、目の前にいる彼女に、どう接していいのかわからなくなる。女の扱いには慣れているはずだった。なのに、こんなに臆する気持ちを女に与えられたのは、初めてだ。
 嫌われたくない。ただ、それだけの感情が、泉を支配する。
 ひとしきり、美緒をからかって遊んでいると、突然リビングの奥にある書斎の扉が開いた。
「うるさいと思ったら……何してるんだ、おまえたち」
 呆れたように立ち尽くす薫を、美緒と泉が凝視した。
「先生!」「薫!」
 二人に同時に呼ばれて、尚もわけがわからなくなる。
 一人は、今にも泣きそうな顔で薫に助けを求め、そしてもう一人は、抱き締めたままの彼女の髪を弄ってポカンとした表情を浮かべていた。
「先生助けて。泉くんが酷いことばっかりする」
「おい、薫。ちゃんと美緒を調教しないとだめだろ?」
「調教? 失礼なこと言わないでよ、バカ泉」
「ほら、こんな風に生意気な口ばっかり利くんだぞ?」
 二人同時に話し掛けられては、何の話をしているのかさっぱりわからない。
 とりあえず、深刻なことではなさそうなことは、二人の様子を見てわかった。心配して、仕事を中断してきたというのに、無駄手間だ。
「何が言いたいのかよくわからないが、兄妹喧嘩はほどほどにな……」
 薫は呆れて、別のソファに腰を下ろした。瞬時に、美緒が泉の手から逃れて、薫の元へ駆け寄る。そんな彼女をフワリと抱き寄せて膝に座らせ、クシャクシャになった髪を撫でて綺麗に戻すと、美緒は恨めしそうな目で泉を睨んだ。
 そんな、美緒と薫の光景は、恋人と呼ぶのに自然すぎて、何故かしら泉はそんな二人を直視できなかった。

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