華水の月

15.小猫の誘惑

 泉と美緒の様子を見に一度はリビングへ来た薫だったが、少しの間美緒のそばでくつろぐと、再び書斎へと戻った。本当なら、せっかく美緒が訪れているのだから、一緒にいたいと思うのだが、こんな時に限ってしなければいけないことは山積みで、少しの暇さえも許される状況ではなかった。明日の朝までに揃えなければいけない書類。泉が美緒の相手をしてくれたことで、少しは順調にはかどったが、まだまだ終わりは見えそうになかった。
「……先生、入ってもいいですか?」
 コンコン、というノックの後、遠慮がちにかけられた言葉。いいよ、と返事をすると、ゆっくりとドアが開いた。その隙間から顔だけをチラッと覗かせる。美緒のその愛らしさに、薫が微笑んだ。
「あの、息抜きにコーヒー持ってきたんですけど、飲みますか?」
「ああ。もらおうかな」
 そう答えると、美緒はニッコリと微笑んで中へと入り、手に持っていたトレイを机の脇に置いた。
 メガネを外し、薫の横に立つ彼女の腰を、軽く引き寄せる。何の抵抗もなくすんなりと腕の中に収まる彼女の体を、惜しげもなく抱き締めた。顔を胸に埋めると、ほお……っと、深い溜息が漏れる。
「疲れた……」
「ずっと、お仕事してますもんね」
「……少し、こうやって抱き締めててくれないか?」
「え……?」
「少しだけでいいから」
 美緒の胸に顔を埋めたまま、ゆっくりと目を閉じた。温かい温もりに、すぐさま眠りに落ちそうになる。疲れは、ほとんどピークにきていた。美緒に触れていると、薫の体が正直になるのを感じずにはいられなかった。
 そんな風に甘えてくる彼はとても珍しくて、美緒は少し戸惑った後、優しく彼の頭を抱き締める。とても愛おしい。好きな人が、弱い部分を素直に見せてくれるということが、こんな甘美なことだったとは。抱き締める薫の髪を優しく撫でる。ゆっくりと目を閉じ、髪に口付け、優しく微笑んだ。
「ごめんな。相手してやれなくて」
「大丈夫です。……それより、私、帰った方がいいですか?」
「いや、迷惑でなければいてくれ。なるべく早くに終わらせるから」
 薫の言葉が素直に嬉しかった。この一言で、美緒は何分でも何時間でも待てるだろう。恋人の言葉は、本当に魔法の言葉だ。
「今、何時?」
「もうすぐ夕方の四時です」
「美緒、門限は?」
「え?」
「今日は、何時までに帰らないといけないのかな、と思って」
 いくら恋人と言えど、美緒は高校生だ。土曜だとは言え、そんなに長居はできないだろう。
 すぐさま答えない美緒を不思議に思って、視線を上げると、美緒は黙って頬を赤らめていた。
「あの……親には、その……えみの家に泊まりに行くから、って」
「藤井の?」
「だからあの……今日はずっと大丈夫……です……」
「……大胆だな、美緒」
 ニヤリと笑って、彼女を見つめた。彼女の首筋に手を絡め、そっと引き寄せる。屈むように近付く彼女の唇に口付けを落とすと、薫の膝の上に美緒を座らせた。
「じゃあ、早く泉を帰らせて、今日は二人きりで過ごそうか」
「……いいんですか?」
「一晩中美緒を楽しめるこんな機会を逃すほど、俺はバカじゃないよ」
 美緒を楽しむ。その言葉には淫靡な風が漂っていた。
 想像するだけでも赤面する薫との夜。体の奥がジンと疼いて、胸がキュッと締め付けられる。色っぽく微笑んでは美緒を見つめる薫の顔をまともに見ていられなくて、美緒は首に腕を巻きつけて抱きついた。
 可愛らしい白いワンピースの裾から薫が指を忍び込ませる。膝からゆっくりと太ももに向かって指を滑らせると、美緒の体が硬直した。固く閉じた足を開かせようと、足と足の間をなぞる。最初は抵抗していた体も、いつしかゆっくりと力が抜け、薫の指を受け入れた。そのまま下着越しに、美緒の秘部をゆっくりとなぞり、唇は首筋を這った。既に湿り気を帯び始めている美緒の体。下着の隙間から、指を差し入れると、クチュッと卑猥な水音が部屋に響いた。
 時折、『あっ……』と声を漏らす美緒の言葉を拾うように、口付ける。舌を絡ませながらも、吐息を漏らす美緒の反応は、指による快感なのか、舌による快感なのか、もうわからない。
「やばいな……。今するわけにはいかないのに」
 キスの合間にポツリと薫が呟いた。
 ただ触れるだけのつもりだった行為が、うっかりと互いの体に火を付けつつあった。
「泉を帰らせてから、って、さっき言ったばかりなのにな……」
 美緒を抱けないことを、本当に悔しそうに呟く薫を見て、美緒は無言で薫の膝から立ち上がると、ドアの付近まで歩み寄った。その美緒の行動を、不思議に思っていた薫だったが、美緒の手の動きで、それがどういう意味なのかを悟る。
 カチャン……。
 美緒の手で、書斎の鍵が閉められた。
「それは、どういう意味かな、美緒」
 薫の元まで戻ってくると、再び彼の首に腕を巻きつけ、膝の上に腰を下ろした。
「……しよう?」
 上目遣いで、ただ小さく、しよう、と呟いたその声は、消え入りそうなほどか細いのに、薫の耳には充分すぎるほど届いた。まるで猫のような、甘え上手の官能的な台詞。
「どこで覚えたんだ? そんな誘い文句」
 クスッと笑って、美緒の背に手を回す。ワンピースのファスナーをジリジリと下ろし、肩を露にさせると、その細い肩に舌を這わせた。ビクリと竦む華奢な体。ブラのストラップに手をかけて、少しずつずらしていく。最後の引っかかりが肩から外れそうな時、急にドアの向こうから大きな声が聞こえた。
『みおー! 腹減った! ゴハンはっ?!』
 扉の向こうまでもあっさりと突き抜ける泉の通る声にびっくりして、美緒と薫が顔を見合わせた。
 薫は、すぐさまククッと笑うと、美緒の体をギュッと抱き締めた。
「どうやら、デザートは食後までお預けかな」
 ポンポンと、美緒の背を叩く。
 さっきまで、余裕がなさげに見えた薫は、そこにはもういなかった。あれはもしかして、演技? とも取れる薫の変わりように、美緒は一瞬自分の目を疑った。
「もう……バカ」
 せっかくの雰囲気を台無しにした泉も、余裕を見せる薫も、どちらも憎らしい。
 美緒の体は、もう引き返せないほど、薫に与えられる快感で火照っていた。


「だから悪かったって。まさかエッチしようとしてるだなんて思わなかったんだよ」
「ちょ、ちょっと! 大きな声で言わないで。ここをどこだと思ってるのよ」
「スーパー」
 しれっと答える泉を横目に、ハァ……と美緒が大きな溜息をついた。
 薫の家の冷蔵庫には、夕飯を作れるほどの食材はほとんどなく、仕方がないので泉と二人買い物へ訪れていた。最初は、一人で行くと言い張った美緒だったが、荷物持ちという名目で泉もついてきたのだ。無論、薫は家で仕事中。
 泉が美緒と薫の情事を邪魔した後、薫は涼しげな顔をして、泉に向かって『せっかくいいところだったのに』と憎まれ口を零した。カンのいい泉は、それだけで二人が部屋で何をしていたのかわかる。何故、あえて薫がそんなことを言うのか、美緒には全く理解できなかったが、泉には少しわかっていた。
 泉が『わざと』邪魔をしたことを、きっと薫は勘付いていた。
「ちょっと泉くん! 何してんの?」
「何って、デザート買ってんだよ」
「そんなにいらないでしょ。一個にしときなよ」
「母親みたいなこと言うなよ。俺だって大人なんだからさあ」
 大人は、そんなにアイスクリームを食べない。
 カートを押していた泉は、アイスクリームのコーナーに入ると、手当たり次第にポイポイとアイスクリームを入れ始めた。どれも、少し高めのものだ。
「お腹壊すよ?」
「壊さない程度に食べるから大丈夫だよ。それに、薫ん家って、デザート系全然置いてないんだよね。お菓子の一つもないしさ」
「先生が食べないんだったら、別にいらないじゃない」
「アホ。俺が食べるんだからいるんだよ。だから常備しとくの」
 アイスクリームだけでなく、プリンやチョコレートなども手当たり次第にカゴの中に入れて、且つ帰りにケーキ屋でケーキも買って帰ると泉は言う。どうせ、一個や二個のことではないのだろう。泉を見ていると、常人が食べる程度というものを、忘れてしまいそうになる。
「ねえ、そんなに買ったら、夕飯の材料が買えなくなるよ」
 既に、カゴの中は泉のお菓子たちでいっぱいだ。
「余裕だろ? 薫に二万も渡されてるんだから、予算は二万じゃないか。余裕余裕」
「二万円も全部食料につぎ込む気? そんな勿体ないことするなら、外食した方がマシじゃない」
「外食より、美緒のゴハンの方がいいもん」
「私のゴハンでも、そんなに材料費はかからないよ」
「別にいいじゃん。薫も腐るほど金持ってんだしさあ。あいつの代わりに全部使ってやろうぜ?」
 呆れた顔を浮かべている泉だが、本気で呆れてしまうのは美緒の方だ。
 弟らしいというか、何と言うか。良く言えば無邪気だが、悪く言えば適当且つ大雑把。これで、憎まれない性格というのが、なんとも憎らしい。泉は本当に得をする性格だ。
「ハルカとは正反対」
 ポツリと呟いた美緒の言葉を、泉は聞き逃さなかった。
 横に並んで歩く彼女の顔を、覗き込む。
「誰と正反対だって?」
「別に。泉くんは泉くんで、それで生きていけばいいんじゃない?」
「うわ、何それ。俺の人生なんてどうでもいいみたいな言い方だな」
「人の人生は、他人が口を出せるものじゃないもの」
 美緒には美緒の人生があり、ハルカにもハルカの人生がある。カレを救ってあげられれば、と思った美緒の心も、人生という大きな波には到底敵わなかった。少なくとも、美緒はハルカを救えなかったと思っている。自分の非力さを、思い知っただけだと。
 実際、ハルカ自身が、どれだけ美緒に感謝しているかは、別として。
「それより、ねえ。そんなに甘いものばかり食べてよく太らないね」
「え? ……ああ。そうだな、全然太らないな」
 美緒が急に話題を振った。カゴに入ってるお菓子類を見ながら、泉は少し考えて答えた。
 確かに泉はスレンダーで、無駄な脂肪など全然ついていない。だからこそ、美緒が違和感を感じるのだ。この異常なまでの甘党というのは。
「ゴハンちゃんと食べてる?」
「食べてるよ。……まあ、外食ばっかだけどな」
「え? 泉くん、実家だよね?」
「そうだけど、うちの両親二人とも忙しくてほとんど家にいないし、手料理なんかほとんど食べないよ。たまに、薫ん家に行って、薫に作ってもらうくらいかな。それも嫌がられるけどさ」
「先生って、料理できるの?」
「すごく上手いよ。でも、薫も一人暮らしだから、あまり料理はしないみたいだけどね。いつも二人で外に食いに行ってるし」
 薫の家のキッチンに揃えられた調理器具の数々。もしかしたら、料理ができるのでは? と思っていた美緒の予感は的中していた。それがわかった途端、少し不安になった。料理が出来る人に、自分の手料理を食べさせるのは、少し引け目に感じてしまう。泉のように、料理に全く無知で、何一つ作れない方が、むしろ楽に感じるだろう。薫は美緒の料理を美味しいと誉めてくれたが、それも何だか自信がなくなった。
 複雑な表情を浮かべて、少し考え込む美緒を泉がチラッと見た。
「心配しなくても、薫はこの間の美緒の料理、本当に美味そうに食ってたぞ」
「……本当?」
 顔を上げて、美緒が心配そうに問うた。
「ああ。味も普通に美味いけどさ、やっぱり美緒の愛情が入ってる分、美味しさが全然違うよな」
「そうかな……」
「一番だって、誉めてた」
「……良かったあ」
 泉の言葉にホッと胸を撫で下ろした。本当に安心した。今回ばかりは、泉に感謝したいくらいだ。
 あまりに心が安堵したせいで、隣で、『俺も一番美味しいと思うよ』と言った泉の言葉など、まったく美緒には届いていなかった。そして、そんな美緒の態度に膨れっ面になる泉の態度も。
「そ、それより、さっきの話」
「あ?」
「ゴハンも普通に食べて、そんなにお菓子も食べて、よく太らないなって」
「ああ。まあ、毎日食べてるわけじゃないし」
「でも、普通の人よりは断然多いでしょ?」
「これくらい普通じゃないのか?」
「普通じゃないよ……」
 真顔で聞いてくる泉に、美緒が苦い顔をする。女の子なら、これくらい食べる子もいるかもしれない。でも、男となると、珍しいとしか言いようがない。
「まあ、太らないのは運動してるからだと思うけど」
「運動? 何かスポーツしてるの?」
「ん? 知りたいのか?」
「うん、知りたい」
「今度相手してくれるって約束してくれるなら教えてもいいよ」
「んー……できるスポーツなら相手するよ」
 運動は、得意でも不得意でもない。なんでもそつなくこなすが、出来ないものも、中にはきっとあるだろう。
「大丈夫。美緒にも出来るから」
「本当?」
「本当。じゃ、約束な」
「うん。で、そのスポーツって何?」
 泉がニヤリと笑う。その微笑に、なぜか美緒は既に遅すぎる後悔を感じた。
「セックス」
 ――絶句。
 サラッと口にする泉に対して、美緒は目を丸くして言葉をなくした。
 何ともいえない表情を浮かべる美緒を見てクスッと笑うと、彼女をその場に置いて、カートを押し始める。少し、立ち止まっていた美緒だったが、すぐさま泉の後を追いかけた。
「……バ、バカじゃないの?!」
「約束したんだからな。ちゃんと守れよ」
「しない。絶対しないもん」
「もう約束破る気かよ。信じらんねー」
「私に出来るスポーツならって言ったでしょ。できないんだから、その約束は無効よ」
「薫の相手してるくせに、よくそんな嘘吐けるな」
「相手って言わないで! なんだか、軽い感じがして、すごく嫌」
「実際、そんなもんだろ」
 泉にとって、女と体を交じり合わせることは、単なる行為の一つでしかない。そう、スポーツをするのと、さほど変わらないように。そこにはいつも感情は伴わなかったし、むしろ感情をぶつけてくるような女とはしたいとも思わなかった。
 快楽を貪るための行為。互いの性欲を高めるだけの行為。泉にとって、セックスはそれ以上の意味を持たない。
「違うわ。私は、泉くんみたいに考えられないもの」
「愛がないとダメってやつ?」
「……違う」
「え? 違う?」
 てっきり、美緒はそう言うに違いないと思っていたのに、意外だった。
「愛がなくてもできると思うよ。でも、愛がないとしたって意味がない」
「意味……?」
「泉くんには、わからないと思うけどね」
 美緒が、少し寂しそうに笑った。
 触れられて、口付けられて昂ぶる恋心。美緒が薫の体を求めるのは、快感を求めているからじゃない。愛されたい、愛したいと思うからだ。時に、言葉や視線だけでは伝わらない思いもある。それを伝える行為として、触れ、口付け、抱き合う、そういう行為があるのだと美緒は思う。
 事実、出会った頃よりもずっと、薫に恋焦がれている。他人と一つになりたいなどと、思ったのは初めてだ。それくらい、美緒の心も体も、薫のために存在していた。
「ねえ、どうして、真面目に女の子と付き合わないの?」
「さあ……なんでだろうな」
「時々、ものすごく冷たい顔見せるよね。泉くん……」
「そうか?」
「この間、彼女に会った時もそうだったじゃない」
 美緒に対する態度とは全く違った、元彼女エリカへの態度。冷ややかすぎるその態度に、美緒が不安を覚えたくらいだ。本当はとても優しく、誰にでも好かれる素敵な人なのに、泉の中には、時々冷たさが見え隠れした。蔑んでいるわけではない。ただ、拒絶するような、そんな冷たさが、彼の中には潜んでいる。
「俺さあ、媚びる女嫌いなんだ」
「媚びる女?」
「こんなこと言ったら悪いけど、美緒も最初はそういう女だと思ってた。男が守ってやらないと立ってさえいられないような、そういう弱い女」
「私はそんなんじゃ……」
「わかってるよ。今はもうわかってる。美緒は薫と対等だもんな。でも、俺の周りには、そういう女、いなかったんだ」
 いつも、泉の外見や、上辺の性格だけで寄ってくる女たち。結局、欲しいのは、泉の心ではなく、泉という存在だった。それは、一つのステータスとして。見てくれのいいアクセサリー感覚で。そうやって泉に近付いてきたくせに、いざそれを泉が感じ取って別れようと言うと、途端に女の弱さを見せつける。全ての原因を泉に押し付ける。私の気持ちをわかってくれない、と泣いて縋り、でも実際は相手も泉の気持ちなど全く知りはしないのだ。
 泉だって、最初からこんな風に遊び感覚ばかりで恋愛していたわけじゃない。本当の恋を求めたこともあった。いつも対等に互いを思いやれる本気の恋をしたいと。けれど、それに至るまでに、女の嫌な部分ばかりを見せられて、いつしか恋をすること自体が億劫になった。結局それは、今の、体だけの付き合いをするような泉を作り上げてしまった。彼女ではなく、どちらかというとセックスフレンドの感覚。
 恋愛は、遊ばれるより、遊んだ方が楽だ。泉の心を求めてくる女には、優しくするより突き放す方が相手のためだと、そう思う。深く愛させてしまえば、より傷つくことになるだろう。どうせ……まともに愛してやれないのだから……。
「その点、美緒は、本当にいい女だと思うよ」
「何よ、突然」
「ほんと……薫が羨ましいよ」
 こんな自分でも、美緒に愛されれば、変われるだろうか。
 そんな漠然とした思いが、心の中で霞んだ。美緒となら、互いに本気で愛し合える、そんな関係になれるかと。
 そして、そんな思いは、いつしか、
 美緒に愛されたい――。
 そんな思いに変わっていった。

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