華水の月

16.優しい雨、霞む月

「あ……雨……」
 店を出ると、鼻をつく独特な匂いと、しとしとと規則的で静かな水音が耳に響いた。
 美緒の後を追いかけて店を出た泉も、もう暗くなりつつある空を見上げて、小さく溜息をつく。けれど、その表情には、そんなに気落ちした風は感じられなかった。
「天気予報じゃ雨が降るなんて言ってなかったのにな」
「……うん」
「降るってわかってりゃ、車で来たのに」
 スーパーで買い物を終え、ケーキ屋につくまでの道のりでは、雨が降る気配なんて少しもなかった。ということは、泉が何個もケーキを注文していた時に降り出したということなのだろう。そう激しくはない優しい雨だ。
「どうした? 美緒」
「……え?」
「ボーっとしてるからさ」
 空をじっと眺めては微動だにしない美緒を、泉が不思議な瞳で見つめていた。そんな彼を、微笑みで返す。
「ううん……別に何でもないよ」
 ――雨は。
 雨は、ハルカを思い出させる。
 特にこんな優しい雨は、カレを感じて仕方がなかった。
 雨の日に出会って、雨が二人の距離を近づけて。でも、雨の日にカレの想いを拒絶した……。それでもハルカは、美緒に優しさの雨を降らせ続けた。そして、今もその雨はやまない。受け止めきれなかったハルカの優しい雨は、とても切なくて。けれど、とても美緒を穏やかにする。ずっと降られていたいくらいに……。
「ねえ、タクシーで帰ろうか」
 そんなに強くない雨と言えど、家にたどり着くまでには濡れてしまうだろう。美緒が泉に、そうしよう? と提案した。けれど泉は、美緒の言葉をやんわりと遮った。
「濡れて帰っても悪くないと思わない?」
「でも……風邪引いたらどうするのよ」
「これくらいの雨で風邪なんかひかねーよ。それに俺、濡れるの好きなんだよね」
 そう言って、雨の中へ飛び出した。無邪気に笑う彼は本当に楽しそうで、だからなのか、美緒は泉の言葉を否定できなかった。泉から、あの笑顔を奪う理由を、見つけられなかった。
「アイスクリーム溶けちゃわないかな」
「大丈夫だろ。しっかり保冷袋も買って、ドライアイスまで入れて万全なんだし」
「早く帰らなきゃね」
「少し遊んで帰ろう。どうせ今帰ったって、薫はまだ仕事中だよ」
「でも夕飯の準備もあるし」
「そんなの後でいいじゃん。ほら、美緒もこっち来いよ。霧雨みたいで気持ちいいよ」
 泉の明るい声に、思わず美緒も無邪気な心が背を押して飛び出そうとした。
 だが、そこで一旦躊躇する。少しだけ、自分の体を心配した。元より、人よりも体が弱く、熱を出しやすい体質だ。あまり無理をしてはいけないと、いつも薫に言われていた。異常を感じた時には、すぐに言うように、と。今はそう体調が悪いなどと感じてはいないが、急に訪れる不調はいつも美緒を悩ませている。
 どうしようか。たかが雨だ。霧雨のような柔らかい雨で、体調を壊すなんてそんなことは……。
「ほら、行くぞ」
 美緒が決断するよりも先に、泉が彼女の腕を強く引いた。躊躇う美緒の背をポン、と押すように。楽しそうに笑う泉に、美緒はもう悩むのをやめた。


 ハラハラと舞い降りるようだった優しい雨は、急激に叩きつけるような激しい雨へと変わった。衣服を身に着けることも、もはや意味をなしていない。それくらい、直接肌を刺すような雨の衝撃が体中に走る。アスファルトの上を雨が踊っては、流れる。視界は雨のせいで白く霞み、まともに目を開けることもかなわなかった。
「……なんだよ。急に激しくなりやがって」
 チッと舌打ちをして、小走りに家路を急いでいた。優しい雨の中を二人で楽しく歩いていた時の雰囲気は、もうそこには残っていない。
 やはり、美緒の言う通り、タクシーで家に帰るべきだったと、今更ながらに少し後悔した。けれど、美緒との時間は泉にとって本当に楽しいものだったのだ。たとえ、雨に濡れても、彼女といる時間は、温もりが彼を包む。ほんの些細なことでも、美緒と色々と話していたくて、思わず彼女を雨の中へと誘い出していた。彼女の気持ちなど関係ない。
 ただ――。ただ、泉が美緒と二人の時間をもっと長く過ごしたい、と思う感情だけで。
「美緒! 大丈夫か?!」
 振り返って、美緒の様子を覗う。荷物を持って先を走る泉の後を、美緒も小走りに追いかけていた。雨をよけるように俯いているせいで、彼女の表情までは読み取れない。時折ふらつく足取りに気付いて、彼女にも容赦なく叩きつける雨を憎らしく思った。
「だ、大丈夫。びっくりだね、こんなに降るなんて……」
「本当だよな。さっきまでは、あんな霧雨だったくせに」
 少しだけ立ち止まって、美緒が泉の元へ来るのを待った。すぐさま追いつき、美緒が泉に微笑みかける。
「どうしたの? ほら、大丈夫だから、行こう?」
「……なあ、怒らないのか?」
「怒るって何を?」
「おまえの言うとおりに、早く帰ってたらこんなことには……」
 激しい雨が、二人の肌を刺す。けれど、そんな痛みの中でも、美緒は鮮やかに笑った。
「別にいいよ。だって、泉くん楽しそうだったもん」
 微笑まれているのに、なぜ、こんなにも胸が苦しくなるのかわからなかった。
「おまえのことだから、また怒るのかと思ったんだよ。泉くんのせいよ! とかさ」
「アハハ。じゃあ怒れば良かったかな」
「いや、別にいいんだ。ただ拍子抜けしただけだから」
 激しい雨に変わる直前くらいから、美緒の雰囲気が少し変わった。普通なら反論しそうなことも、ただ穏やかに微笑みで返してくるのだ。そう、今のような。返事もささやかで、ただ泉の言葉に微笑んで相槌を打っているような、そんな雰囲気に、泉は少し拍子抜けした。
「……寒い」
 軽く目を閉じて、美緒が自分で自分の体を抱き締めた。
 その姿を見て、こんな雨の中をただ突っ立っていたという現実に、急に引き戻される。
「早く帰ろう。せっかく買ったもんも、ダメになる」
「……うん」
「ほら、行くぞ?」
 ただ小さく返事をして動こうとしない美緒。泉は、両手に持っていた荷物を片手だけで持ち替えると、空いた方の手で美緒の手を握った。寒い、と口にした美緒の言葉とは裏腹に、彼女の手は、とても温かかった。


「どうしたんだ?! 一体」
 玄関のチャイムをけたたましく鳴らす音に、薫がすぐさま玄関へと駆けつけ扉を開いた。その先にあった光景は、出て行く前の二人とは思えないほどに代わり映えした姿だった。二人とも、絞ったらものすごい量の水が出るのではないかと思うほど、濡れきっている。髪からはポタポタと雫が落ち、美緒の白いワンピースの裾からも、雫が落ちていた。
 泉は、手に持っていた荷物を下ろすと、困ったように微笑んだ。ズシッと音がした荷物は、とても重そうな音を奏でる。
「途中から、急に強く降りだしちゃってさあ」
「傘は持っていってなかったのか」
「だって天気予報じゃ降るなんて言ってなかったし」
「でも、強くなる前から降っていただろ? タクシーでもなんでも使えばよかったじゃないか」
 美緒と同じ事を言う薫に、泉が苦い顔をした。やはり、それが最善だったのだと、嫌なほど思い知らされる。ポタポタと雫を落とす前髪を鬱陶しそうにかきあげて、小さく溜息を零した。
「いやさあ、霧雨くらいだったし、ちょっと遊んで帰ろうかなと思ったんだよね。そしたら急に降られちゃってさ」
 右手で無造作に髪を弄りながら、薫に言い訳をする。
 さすがに、びしょ濡れになって帰ってくる二人を薫が歓迎するだなんて思っていない。むしろ、濡れて帰るなど言語道断だと、怒られる覚悟さえしていた。泉だけならともかく、美緒も一緒なら尚更だ。
「まさかこんなに強く降るなんて思ってなかったんだよ。本当最悪だよ」
 けれど、薫は、そんな泉の言い訳を聞いてはいなかった。泉の後ろに立つ美緒をじっと凝視している。泉も薫の変化に気付いて、話すのをやめた。
「美緒……?」
 美緒の前に立つ泉を腕で押しのけて、薫が美緒の元へと歩みよる。
 その時初めて、ここへ帰ってきてから美緒が一言も喋っていないということに、泉は気付いた。
「おまえ……熱があるんじゃないのか?」
「え……」
「そうだろう? どうしてこんなになるまで外でウロチョロしてたんだ」
「熱なんて……」
「顔を見ればわかる。普通なのか、そうじゃないかくらい」
 濡れていることなど気にもせず、薫は美緒をやんわりと抱き締めると、大きな手の平をそっと美緒の額に当てた。熱がある、と言った薫の言葉に、泉はまったく反応を示さなかった。いや、示せなかったと言った方が正しいのだろう。今までそばにいたのに、美緒の体調の変化になど、泉は全く気付いていなかったのだ。一目見ただけで、何もかもを悟った薫とは、違った。
「すごい熱じゃないか」
「大丈夫です。ほら、元気だし」
「大丈夫なんかじゃないだろ。立っているのもやっとじゃないのか」
 小刻みに、足が震えていた。腕も、肩もどこもかしこも小さく震えていた。少し乱暴に扱えば、折れてしまいそうな弱い体を必死に奮い立たせて、美緒は薫に心配させまいと微笑む。けれど、薫は、そんな美緒の強がりなどでは誤魔化されなかった。
「こんなに濡れて……。あれほど体調には気を遣えと言っているのに」
「本当に大丈夫なんです。これくらいの雨、全然平気……」
「俺は、雨がどうこうと言ってるわけじゃない。おまえは人より体が弱いんだぞ。自分でも自覚しているだろう?」
「……はい」
「頼むから、無理をしないでくれ。もしも無理をして肺炎なんて起こしたらどうするんだ」
 普通の人間にならば、肺炎などというそんな仰々しいことは薫も口にしない。けれど、美緒の体のことを一番気にかけてきた薫だからこそ、本当に美緒のことが心配だった。気管支が弱い美緒にとっては、肺炎もけして無視できるものではない。口にすることは、全て美緒に起こり得る可能性のあるものだ。
 本人よりも、薫が一番わかっている。美緒の体は、心配しすぎるくらいがちょうどいいのだと。命に関わるほどの大病を患っているわけではないが、美緒の体はこれまでにも色々と病に冒されていた。本人はそれをわかっていると思っていたのに、思わぬ誤算に苛立った。
「泉」
 薫が、背後に立つ泉に振り返る。冷ややかな、感情のない視線が、泉を捉えた。
「おまえ、今まで美緒と一緒にいて何も気付かなかったのか」
「え……いや、普通に元気そうだったから……」
「なぜすぐに帰ってこなかった。どうして雨の中をずっとウロチョロしてたんだ」
「俺が……美緒を引っ張りまわしたんだ。少し遊んで帰ろうって……」
「連れまわすだけ連れまわして、そのくせに美緒の変化に少しも気付かなかったのか」
 低く響く声が、薫の怒りを表していた。静か過ぎるくらい落ち着いた声。けれど、それが余計に周りの空気を緊張させた。僅かでも薫の空気に触れれば、肌が切れてしまうのではないかと思うほどに。静かな声とは反対に、目は泉を捕らえて離さず、その奥に怒りの色を漂わせはじめる。泉もそれを敏感に感じとったのか、急に焦りを見せ始めた。少し、怯えさえ感じさせながら。
「何も変わらなかったわけがないだろう。それとも、おまえの目はそんなこともわからないくらい節穴なのか」
「普通に明るかったし……笑ってたから……」
「美緒は、つらい時ほど無理をする女だ」
 そう言われて、何かが泉の中で音を立てて弾けた。美緒と一緒にいた時の違和感。ただ優しく微笑んで、言葉少なに泉の話を聞いていた。何を言っても怒らず、ただ微笑んで……。今思えば、ちゃんと感じていた美緒の変化。なのに、ただそれだけの態度としか感じられなかった。寒い、と小さく呟いた声。冷え切ったはずの体には不釣合いな、温かな手。わかるべきなのに、わからなかった。後悔が、ただ胸の中で渦巻いた。
「悪かったよ。まさか、美緒が熱出すなんて思ってなくて……」
「普通なら、想像できることだ。たとえ美緒の体が弱いと知っていてもいなくても」
「そ、そうだけど……」
「おまえにはいつも配慮が足りない。ただその時さえ楽しければいいと思っていたんだろう。美緒に対する優しさや気配りを忘れていたんじゃないのか。自分勝手に美緒を振り回して、美緒の体のことなど気にも掛けていなかったはずだ」
 図星を指されて、何も言い返せなかった。薫の言うことは、あまりにも正論すぎて、言い返す隙さえなかった。それに、あの冷ややかな目は、相手の心を萎縮させ、言葉を奪い取っていく。
「もういい。おまえに美緒を預けたのが間違いだった」
 氷のような冷たい視線を、泉に投げ、会話を切った。薫は美緒の方に向き直ると、ブルブルと震えては立っているのもつらそうな美緒の体を、フワリと抱き上げた。熱のせいですでに意識が朦朧とし始めている美緒は、ただ薫に体を預けるのがやっとで、薫と泉の会話をまともに理解できていなかった。頭の中にもやがかかったように、ボーっとする。
 薫は美緒の額に軽くキスをして彼女の熱を確かめると、心配そうな目で彼女を見た。靴を脱がせ、抱き上げたまま美緒を部屋の中へと運ぶ。途中、薫の脇に立っていた泉には一瞥もくれず、ただ冷ややかな言葉を彼に残した。
「帰ってくれ。おまえを見てるとイライラする」
 青い炎を思わせる、静かな怒り。理性とは違った激しい感情をその言葉から感じとって、美緒が急に意識を取り戻した。普段優しすぎるくらい優しい薫が零したトゲのある言葉。他人を傷つけることを言わない薫の言葉だからこそ、泉に向けて言い放ったこの言葉は、救えないほどに深いものだとわかった。そんな薫の気持ちを泉も悟ったのか、青い顔をして、俯くしかなかった。
「……怒らないで」
 腕の中で震えていた小さな体が、ポツリとそう呟いた。目を開けることもつらいだろうに、まるで泣いてしまいそうな目をして懇願する美緒の目を、薫は凝視した。
「泉くんが悪いんじゃないよ? ……私が悪いの。わかっててすぐに帰らなかった私が悪いの」
 薫の胸元をギュッと掴んで、弱々しく言葉を綴る。けれど、言葉には、必死で泉を守ろうとする強さが見えた。
「先生の言い付けを守らなかったのは私。無理したのも私。……私、途中から自分の体の変化に気付いてた。けど、それを泉くんには言わなかったの」
 そんな美緒の言葉に、すかさず泉も答える。
「美緒……いいんだ、俺が悪いんだから」
「泉くんは悪くないの。私が悪いの。だから怒らないで。……お願い、怒らないで」
「美緒……」
 薫の腕の中で、小さい体を一生懸命奮い立たせて、必死で泉を庇った。泉の言葉を遮り、全て自分が悪いのだと。自分のせいで、薫と泉の仲が険悪になるのは耐えられなかった。悪いのは、体の弱い自分のせい。それ以外にないのだから……。
 泉は、そんな彼女の姿を見ながら、胸を引き裂かれる痛みにじっと耐えた。
「お願い。……先生、怒らないで」
 それまで何も言わなかった薫が、美緒を抱く腕にギュッと力をこめた。そして、美緒の額に頬を寄せると、小さく溜息を零した。
「……楽しかったか?」
「え……?」
「泉との買い物、楽しかった?」
 それまでの怒りを含んだ声とは違う、いつもの優しい声が美緒の耳に響いて、美緒は心底安堵した。震えていた体が、自然と落ち着きを取り戻す。寒いはずなのに、薫に抱かれていると、温もりしか感じられなかった。
「うん……楽しかったです」
「そうか。良かったな」
「……はい」
 見上げると、優しく微笑む薫の視線とぶつかった。その瞳から、美緒を本当に心配していたという気持ちが伝わってくる。泣いてしまいそうなくらい、本当に彼女を愛しく思う薫の気持ちが……。
「泉」
「……ん?」
「美緒の相手してくれてありがとうな」
「……別に、そんなこと」
 泉の方を向くことはなかったが、怒りはもう収まっていると声を聞いただけでわかった。いつもの優しい兄の声。ひどく安心したのと同時に、どう言葉を返せばいいのかわからないという戸惑いも生まれた。
「おまえも風邪をひく前に早く風呂に入れ。おまえまで熱を出したら、看病が大変だ」
 言葉の端に、苦笑いを零したことを、感じ取った。全く、ダメな弟なのだから、と、いつも泉を甘やかす薫の声。許されたという証拠。それなのに、なぜなんだろう。許してもらったはずなのに、なぜこんなにも複雑な気持ちになるのだろう。いっそ、怒りをぶつけられ、殴られでもした方が、気持ちに整理がつくような気がした。
「泉くん……ごめんね」
 薫の肩越しに、泉を見る美緒の目を見つめる。申し訳なさそうに、謝る彼女を見ていられなくて、ふいっと視線を外した。薫は美緒を抱きかかえたまま玄関を後にし、部屋へと入っていった。けれど、泉は少しの間、その場を動くことはなかった。
「バカ……なんで謝るんだよ……」
 やりきれない想いが、泉を包む。右手で顔を覆い、壁にもたれかかった。崩れ落ちるように、床に座り込む。
 美緒に庇われた瞬間、愛されているかもしれないという錯覚を起こした。見てはいけない甘い夢。彼女が泉を守る姿を見て、甘く疼いた心。甘いのに、とても痛かった。美緒の小さな手が、泉の心をギュッと掴まえて離さなかった。こんな衝動は初めてだった。愛しいと、本気で思った。
 ――欲しい。
 想いが形になって、泉の耳に囁きかけた。
 けれど、泉の前に立ちはだかる大きすぎる存在。海のように広く揺らめく存在は、けして泉には超えられない。一目で美緒の全てがわかる薫と、美緒の表面しか見えていなかった泉。この差が、薫と美緒の絆の深さを思わせた。
 けして望んではいけない月。美緒は、触れそうで触れられない、月のようだった。

 未だに降り続ける雨は、月を望む手を遮る。
 まるで、月を隠してしまうかのように……。

Copyright (C) 2006-2011 Sara Mizuno All rights reserved.