華水の月

17.甘く疼く嫉妬心

 ひどく朦朧とした意識の中。起きているのか、寝ているのかさえ区別の付かない体の感覚が美緒を包む。慣れていることとはいえ、やはり高熱に冒された体は、美緒の思い通りには動かなかった。
 体中が痛い。全身が重い。
 けれどなぜだろう。フワフワとした温かさが心地よい。それはまるで、薫に抱かれている時の心地よさにとても似ていた。
「……起きた?」
 耳元で聞こえる薫の声に、美緒がゆっくりと目を開けた。
 暗い部屋。ベッド際に置かれた間接照明がぼーっと明るさを灯して、オレンジ色に染めていた。隣には、美緒の体を抱きかかえるようにして、薫が寄り添っていた。大きな枕を背もたれにして、半身を起こした薫は、自分の胸の上に乗せるように美緒を抱え上げる。フワフワとした心地よさの理由は、現実にも薫そのものだった。頭の中で想像したことと、現実が一緒であったことに、少しだけ嬉しさを感じた。
「良かった。熱は少し下がったみたいだな」
 額に手が触れる。その大きさと、温もりに安堵を覚えて、小さく溜息を零した。その手を髪に滑らせて髪をすくと、さらさらとした感触が指に残る。美緒は、薫の胸の中にいる心地よさに、また夢の中へと誘われていきそうになった。
「……先生」
「ん?」
「いつから隣にいるの?」
「おまえが、寒い、って言った時からかな」
 寒いなどと、言った記憶は美緒にはなかった。けれど、今目覚めるまでの記憶もない。熱に冒されている間の記憶は、朦朧とした意識の中に溶け込んでいたようだった。
 かろうじて覚えているのは、美緒を抱きかかえて部屋まで連れてきた薫に、服を着替えさせられ、濡れた体を優しく拭かれたことくらいだろうか。その間も、ぴったりと薫に寄り添っていたように思う。今も、その時も、薫の温かさが美緒を包んでいた。
「もう寒くないだろ?」
「うん……寒くないです」
「暑かったら言え。離れるから」
「……やだ。寒いから離れないで下さい」
「おまえ、今さっき寒くないって言ったじゃん」
 クスッと薫が笑った。抱き締める腕に、力がこもった。人肌が、こんなにも心地よいものだとは思わなかった。体を包む薫の温もりも、額に触れるキスも、全てが溶けてしまいそうなほど心地よかった。熱のせいで不思議な感覚を覚える体は、いっそうその意識をクリアにする。
「少し、起きられそうか?」
「え……?」
「薬飲まないといけないだろう?」
「あ……そうですね」
「本当はもう少し寝かせてやりたいが、薬は早めの方がいいからな」
 無意識に、時計を探した。窓の外は暗く、それが夜の闇によるものなのか、暗い雨によるものなのかわからなかった。少ししか経っていないようにも思うし、かなり時を飛び越えているようにも思う。
 けれど、見渡す限り、時計らしいものは見つからなかった。
「先生、今何時ですか?」
「八時くらいかな」
「夜の?」
「もちろん」
「八時……そうだ。私夕飯作らないと」
 急に、頭の中が現実感を取り戻した。
 買ってきていた食料はどうなったのだろう。美緒が料理をするために揃えた材料と、泉のデザート。特にアイスクリームなどは、時間が経ってしまえば全く意味がない。
「いいよ。料理なんかしなくても。おまえは大人しく寝てろ」
「え……でも、買ってきた材料はどうなったんですか?」
「ああ。あれか? 泉が冷蔵庫に入れてたけど?」
「泉くんが?」
「アイスが溶けそうとか騒いでたみたいだよ。まあ、風呂から出てから入れてたみたいだから、そうとう時間経ってるだろうしな」
 薫の言葉に、その時の泉の様子が脳裏に浮かんだ。その光景がやけにおかしくて、微笑が零れる。薫に冷たくされた時の、傷ついたような目をした泉を心配していただけに、なぜかひどく安心した。そして、そんな風に泉のことを話す薫にも、もう恐ろしさは感じなかった。
「ていうか、なんなんだ、あのお菓子の量は」
「あ……あれは泉くんが……」
「一晩で食いきれる量じゃなかったけど」
「いえ、あの、ここに常備するために買っとくって……」
「泉がそう言ったのか?」
「え? ……あ、はい」
 全くあいつは……。と小さく愚痴を零して、薫が溜息をついた。その姿がやけに兄らしくて、美緒はクスッと笑った。
「何が可笑しい?」
「いえ。なんだか、先生がお兄ちゃんらしいなあって思って」
「……まあ、実際兄貴だからな」
「本当に仲がいいですよね」
「そうか?」
「だって、泉くんのこと大事でしょ?」
「まあ、大事だけどさ」
「泉くんも、先生のことが大好きなんだなってことがすごくわかります。だっていつも先生のこと話してるもの。自慢のお兄さんなんでしょうね」
 ニッコリと微笑んで、薫を見上げた。
 ただ単にそう言っただけなのだが、薫は美緒の言葉を受け取ると、怪訝そうな顔をした。
「……やめてくれ。なんかすごく居心地が悪い」
「え?」
「泉と一緒にされちゃたまらない」
「どういう意味ですか?」
「あいつはいつも、薫、薫って俺に付きまとうが、俺はあんなんじゃない」
 本当に嫌そうに表情を歪める薫を見て、その可笑しさに美緒が吹きだした。
「確かに、泉くんはいつも先生のそばにいますよね」
「どこかへ行けと言っても聞かないからな。いちいち言うのも、億劫になるくらいだよ」
「いいじゃないですか。それだけ愛されてるってことでしょ?」
「弟に愛されても、嬉しくないよ。どうせなら、おまえに愛されたい」
 ギュッと抱き寄せて、目元に唇を落とした。その何気ない仕草が、美緒の心を掴む。全く、いつも不意に訪れる薫の強引な仕草には参ってしまう。抱き締めることも、キスをすることも、何もかもを自然にやってのける薫。そんな彼の行動に、気持ちが追いつかなくて、いつもドキドキするのに大変だった。甘い言葉も、薫が口にすれば風のようにささやかで、そして心の中に甘く跡を残す。本当に、彼は不思議な人だ。
「でも、元々は、そこまで一緒にいるわけでもないよ」
「え?」
「泉のこと。……最近は毎日一緒にいるけど、少し前までは、女遊びばっかりしてたし、夜も友達と遊びにばかり行ってたみたいだしな。夕飯は一緒に食べることが多いけど、毎日必ずというわけでもなかったから」
「そうなんですか?」
「ああ。こんなに頻繁にここに来るようになったのは、最近のことだよ」
 正確には、泉が美緒と出会ったその日から、ということになる。
 偶然にも、美緒と泉が出会う機会は多くあったし、それと同時に、泉の美緒への関心も深まっていった。何かにつけて、美緒のことを聞いてくる泉の気持ちを、薫がただ素直に受け止めていられたのは最初の内だけだった。
 日に日に増していく、泉の美緒への想い。泉自身は、気付いていないのかもしれないが、薫にはそれが手にとるようにわかった。それまで、女に関心を示さなかった弟が、純粋に女性に惹かれている。その感情は、紛れもなく、恋であると……。弟の想う相手が、自分の恋人であるなんて、神はなんて意地悪なのだろうと恨みさえした。
「なあ、美緒。俺、おかしいのかな」
「何がですか?」
「泉は弟なのに、とてつもなく疎ましく思ったよ」
「え……?」
 美緒の表情が曇る。薫はそんな彼女を抱き寄せて、軽く髪に口付けた。
 美緒が泉を庇った瞬間、やりきれない想いが胸を切り裂いた。ただでさえ、美緒の体を気遣えなかった泉に対して怒りを感じたのに、美緒の言葉は更に薫に追い討ちをかけた。その瞬間、一体誰にこの怒りをぶつけていいのかわからなくなった。
 いつもなら、素直に聞けたはずの美緒の言葉。それなのに、その言葉は、ひどく薫の心を傷つけたように思う。恋人だけが与えられる特権のようなものを、泉に取られたように思った。
 拍車がかかる泉への怒り。けれど、美緒が腕の中で震えていたから……だから、理性を取り戻すことができた。守るべき人を、思い出した。たとえ、どんなに怒りを覚えようとも、美緒のためならば我慢しようと、そう思った。
 優しすぎるくらい優しい女を、好きになったのが運の尽きだ。所詮、美緒の優しさを一人占めすることなど、できはしないのだから。自分の弟に向けてくれる優しさを嬉しく思わないなんて、きっとひねくれた人間なのだろう。
 でも……
「嫉妬したんだ……実の弟なのに」
 溜息交じりに零した薫の言葉に、美緒の心は掴まれ、そして言葉を失った。


 看病の甲斐あって、美緒の熱はほとんど平熱だと言っていいぐらいの落ち着きを取り戻した。
 薫は結局、朝まで美緒の隣に寄り添い、小さく震える体をずっと優しく抱き締めていた。
 初めて迎えた二人の夜は、けして期待していたようなものではなかったが、けれどとても満たされていた。セックスなど、特に必要とはしない。大事なのは、心が共にあること。寄り添う二人の体がそこにあれば、他には何も必要がなかった。
 隣で静かな寝息を立てる薫の様子を、時々起きては覗い、こみあげる愛しさに彼の体をギュッと抱き締める。すると、無意識にも、薫も美緒の体を抱き締め返した。そんな些細なことさえも、美緒にとっては特別に幸せなことで、本当に愛しくて愛しくてたまらなかった。
 薫に愛されている。それはまるで、深い深い海のように……。体全てで感じる愛を、美緒はけして手放したくはないと強く願った。
「先生もう仕事に行ったの?」
「ああ。……でも昼過ぎには戻ってくるって言ってたよ」
「そうなんだ」
 朝早くから、昨日作り終えた資料をもって薫は仕事に出た。代わりに、結局昨日実家には戻らずに泊まっていた泉が、美緒の看病に付き添う。テレビも何もない広い寝室では、美緒が退屈してしまうだろうと、薫が泉に看病を頼んだのだ。
「なんかその……悪かったな。俺が振り回したせいでさ」
「別に泉くんは悪くないよ。だから、気にしないで?」
「でもさあ……」
「何よもう、泉くんらしくないなあ。いつもなら、おまえが熱出すのが悪いんだよ! とか言いそうなのに」
 クスッと美緒が微笑む。いつもの彼女らしいその物言いに、泉はホッとした。昨日感じた違和感は、もう美緒には残っていなかった。おかげで、美緒の体がもうつらくないのだということを、聞かずとも悟った。
 己の非力さを思い知った昨日の夜。薫と自分との差を見せつけられたあの瞬間、泉の中で湧き上がった自分への罪悪感。既に思い通りにならない感情が走り出していることを自覚している中、美緒への心配は尽きることがなかった。自分を責めさえもした。
 けれど、今こうして彼女の笑顔を見ていると、そんな気持ちも救われる。たった、目の前で微笑んでいるに過ぎないのに……。
「わかった。じゃあもうこの話はやめだな。それよりおまえ、ゴハンは?」
「え? 食べたけど」
「食べたって何を?」
「先生が……夕べも今朝もお粥作ってくれたから、それを……」
 シンプルな料理は、シンプルだからこそ作る人の腕が試されるように美緒は思う。昨日と今朝と、薫が作ってくれた卵粥は、本当に美味しいとそう思った。たかがお粥だ。料理ともいえないようなものなのに、それでも何かが普通とは違っていた。
「えー。なんだよ薫の奴。美緒にはゴハン作って俺にはないのかよ」
「食べてないの? 泉くん」
「全然食ってねーよ。薫にゴハン作ってくれって言っても、この材料は美緒の料理に合わせてわざわざ買ったものだから、勝手に使えないとかなんとか言いやがってさあ。結局俺に食わせるのが面倒臭かっただけじゃん」
「アハハ。なんか、いつもの先生らしいね」
「……まったくだよ。美緒にやる優しさ、少しくらいはわけてくれっての」
 大げさに、泉が肩を竦めた。いつもの彼らしい姿に、思わず美緒も微笑を零す。泉と話していると、本当に不思議なくらい楽しくなる。実際に泉が兄であってもこんな感じだっただろうか、なんて、そんなことさえ思った。美緒にとって泉は、友達とは違う、不思議な感覚を覚える人だ。
「じゃあお菓子食べればいいじゃない。あんなにケーキも買ったんだし」
「アレはアレ。ゴハンはゴハン」
「でもケーキ七個も買ったんだよ? どうすんのよ」
「とりあえず昨日三個食っただろ? で、今日も食うから別に問題ないよ」
「え?! 昨日三個で今日もって……全部一人で食べる気?」
「心配すんな。一個くらいやるよ」
 誰も、私の分は? などと聞いていない。それだけの量を一人で食べてしまうのか、と驚いて問うただけなのに、泉には全くそれが伝わっていなかった。
 七個も買っていた時点で、絶対食べきれないと思っていた美緒の考えはあっさりと打ち消された。どうやら、泉を甘く見ていたようだ。
「でも、ケーキとかアイスじゃ腹が膨れないんだよなあ。やっぱゴハン食べないとさ」
「あ、じゃあ、私作ろうか?」
「アホ。そんなことさせたら、俺が薫に殺されるだろ。つーか悪いのは薫なんだよ。薫が俺にちゃんとゴハンさえ作ってくれたら、こんなことには……」
「自分で作ればいいじゃない」
「……怪我するからヤダ」
 まるで子供のように理不尽なことを言う泉を見て、呆れたように笑った。
 本当に自由奔放だ。
「しかし、薫は昼には帰ってくるのかな。あいついないとゴハン食えねーじゃん」
「私作るよ。もう元気だから」
「絶対ダメ。おまえは俺に死んで欲しいのか?」
「別にそういうわけじゃ……」
「それよりさあ、美緒。おまえ、何が好き?」
「ん?」
「ゴハンだよ、ゴハン」
 キラキラした少年のような瞳で、泉が美緒の答えを待った。
「そうだなあ。オムライスとか好きだけど?」
「オムライス? お子様だなあ、おまえ」
「そ、そういう泉くんは何が好きなのよ」
「ハンバーグ」
 即答する泉に、美緒は一息置くと、急に笑いを堪えられなくなった。
 子供なのは、どちらも一緒だ。

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