華水の月

20.憧れの残像

 薫の部屋を飛び出して、街をぶらついた。
 特に目的があったわけではなかった。いっそ、目的があった方が良かったかもしれない。
 寝室で、抱き合う二人をあれ以上見るのは耐えられなかった。
 美緒の悩ましげな息遣い。時折漏れる嬌声。普通の男なら、そんな彼女に欲情したかもしれない。
 けれど、泉にとってそれは、切なさを掻き毟るだけのものでしかなかった。美緒の感じている声も、自分ではなく薫の与えたもの。けしてこれから先、泉が耳元で聞けることはないその声。そう思えば思うほど、耳の奥でざわめいて、心が痛くて痛くてたまらなかった。
 街に出れば、可愛い女の子はいくらでもいる。泉が声をかければ、誘いに乗る子もけして少なくはないだろう。むしろ、女の方が、泉を放ってはおかない。実際、泉はそういう才能に秀でていると言えた。
 ざわつく体。
 美緒への気持ちに気付いて、苛立つ心を誰かにぶつけたかった。誰でも構わないから、無茶苦茶に抱いて壊したかった。それで、美緒への気持ちを隠すことができるのなら、本当にどんな女が相手でも良かったのだ。
 けれど、街で見かける女の子たちを見ても、無意識に美緒と比較した。何かが足りない、何かが違う、と、比較していた。結局、美緒以外の女には何一つ心が揺れなかった。抱きたいなんて……思うはずもなかった。
 今こうして、隣に座る女に出会うまでは。
「どうしたの? 彼女と喧嘩でもした?」
「別に。彼女なんかいないし」
「たくさん居過ぎてわからないだけじゃないの?」
 運転席に座る彼女が、クスッと笑う。細い指にタバコを絡ませ、小さく吸っては、ゆっくりと吐いた。
 大人の女。そんな印象を受ける仕草。
「ちょっと前までならいたけどね。麻里さんに再会してから、どの子も霞んで見えて、会わなくなっちゃったな」
「相変わらず口が上手いわね。でも、そんな嘘通じないわよ」
「嘘じゃないし。麻里さんが俺に全然なびいてくれないから、つまんないよ」
「あら、誘ってもいないくせによく言うわね」
 街でふらついているところを、麻里に拾われた。最初は、泉を見つけた麻里が彼を呼び止めただけだったのだが、いつもと少し雰囲気の違う彼が気になって、思わず車に乗せていた。とりあえず、彼の家までという名目で。
 麻里にとっての泉は、ただの薫の弟でしかない。薫を愛しているからと言って、薫と泉はそれぞれ別の人。今は、教育実習で泉と顔を合わせることが多いからか、とても可愛くは思うけれども、結局それ止まりだ。特に、泉に対して何かを思うことはなかった。そしてそれは、泉にとっての麻里も同じように思えた。
「じゃあ、誘ったら乗ってくれんの?」
「前に言わなかった? 好きな人がいるって」
「覚えてるよ。自分の意志とは関係なしに、好きでたまらない人でしょ」
「そう。本当に仕方ないくらい貪欲に好きなのよね……。勿体ないわよね、隣にこんなに可愛い男の子がいるっていうのに」
「そんなに好きなんだ」
「うん。……好き」
 そう言って、頬を赤らめる麻里は、いつもの大人の女じゃなくて、ただの恋をする少女のようだった。
 恋が女を変える。まさにその通りだ。
「ふーん。……嫉妬するなあ、薫に」
 何気なく口にした泉の言葉に、麻里がドキリとした。思わず隣に座っている泉を見ると、その後理由もなく笑いが零れた。
「……さすがね」
「何が?」
「いえ、さすが薫の弟だけあるな、って思ったのよ。察しの良さは兄にも劣らないんじゃない?」
「さあ。似てるようで、似てない兄弟だけど」
「そうね。似てるようで、似てないわね。ふとした瞬間、そっくりだなって思うときはあるけど」
 顔立ちそのものは、きっと似ているのだろう。けれど、性格が違う分、纏う雰囲気も変わってくる。薫が、シャープさと妖艶さを感じさせる分、泉は無邪気さと愛くるしさを漂わせる。対極的とも言える彼らの特徴が、全く別の人間を主張していた。
「それに、薫に似てたら、麻里さんは俺になびいてるはずだし」
「それとこれとは別よ」
「そうかな……」
「似てればいいってものじゃないわ。その人じゃなきゃダメなの。それが恋よ」
「恋、ねえ……」
 ハァ……と小さく溜息をついて、窓の外に目を向けた。麻里の言うことが、痛いほどよくわかった。街で女の子を物色していた時、無意識に美緒を彼女たちの中に求めた。似ていたとしても、けしてそれを認めないくせに。結局、美緒自身でなければ、納得などしないくせに。
 それを恋だと、麻里は言う。もう、疑うことはなかった。泉自身、それを徐々に受け入れつつあったからだ。
「今の溜息は、恋の溜息かしら」
「何それ」
「さっきから、泉くんの様子が普段とは違うなあって思ってたんだけど、なんで違うのかなんとなくわかっちゃった」
 いつもの泉なら、麻里を前にすると、途端に明るく話し掛けてくる。話題が途切れないように、麻里が退屈することのないように、けして笑顔を絶やさないように……。自分が好かれているという意識は、麻里にもあった。それが、恋ではなく、ただの憧れであるという認識も。
 けれど、今日の泉は自分自身のことで精一杯のようだ。溜息は、重く深刻なのに、その瞳の奥には切なさが見える。誰かを想う、そんな切なさが。
「ねえ、麻里さん」
「なあに?」
「薫のこと、いつから好きなの?」
「そうね……別れる前から、ずっと」
「別れる前から?」
「別れてから、本気で好きだったんだってことに気付いたのよ。……バカよね。失って初めて気付くなんて」
「じゃあ、もう何年も好きで居つづけてるってこと?」
 泉が、眉をひそめて麻里に問い掛けた。信じられない、とでも言いたげに。
「そんなに難しいことじゃないわよ。ただ好きなだけだもの。もちろん、薫と別れてから、何人かの男の人とは付き合ったりしたわよ。でも……続かなかった」
 自分を誤魔化そうとしても、誤魔化せないのが恋。
「ねえ、じゃあ何で今は何もせずにただ想ってるだけなの? 好きって言えばいいじゃん。手の届くところにいるのに」
 自分で言っていて可笑しくなる。簡単にそんなことができないのは、泉自身が一番よくわかっていることなのに。けれど、麻里の口から、その答えが欲しかった。何かに、縋りつきたかった。
「……知ってるんでしょ?」
「何が?」
「薫の彼女のこと」
「え?」
「薫の一番大事にしてる、可愛い彼女のこと」
「あ……うん」
 切なげに微笑む麻里を見て、彼女も美緒のことを知っているのだと悟った。酷な質問をしたことに、少しだけ後悔する。配慮が足りないと薫に言われたばかりなのに、全然変わっていなかった。
「薫の彼女があの子じゃなかったら、きっと今も猛烈アタックしてるわよ。でも……敵わないの。あの子には」
「そんなこと……わかんないじゃん」
「わかるわ。ていうか、既に玉砕済み。完敗しちゃってるの。……神様も酷いわよね。何もあんな可愛い子、ライバルにしなくてもいいと思わない?」
「それを言ったら、麻里さんを敵にする他の女の子も同じ事を言うと思うよ」
「ありがと。フェミニストな所は、本当に兄譲りね。それとも、優しくしてくれるのは、セックスするまでかしら?」
 タバコを、灰皿に押し付けながらクスクスと笑った。
 泉の恋愛観は、麻里にはお見通しのようだった。泉も、そんな彼女の物言いに、あえて否定することもしない。敵わない人だと、心の中で呟いて、苦笑を零した。
「最近は、そんなに遊んでないよ。女の子とも寝てないし」
「あら。意外ね」
「本当だよなあ。せっかく教育実習に来たんだから、可愛い女子高生とか美人の女教師とか、たくさん楽しんでやろうと思ってたのに、全然そんな気起きないよ」
 事実、関係を持ったのは、樹多村綾乃だけに過ぎない。彼女とのことも、泉にとってはほとんど未遂のような形で終わった。最後まで交じり終えることなく、美緒に出会い、心囚われ、そしてあれからずっと、他の女に目もくれなくなってしまった。
「それもこれも、好きな子の影響?」
「今になって思えば……そうかもね」
「ふーん、やっぱり恋してるんだ。泉くん」
「わかんないや……」
「わからない?」
「これって恋って言うのかな……こんな風に人を思ったのって初めてだから、よくわかんない」
 恋愛に対して、自分はもっと積極的なのだと思っていた。けれど、今のこの気持ちは、優柔不断そのものだ。気持ちを押し通すことも、諦めることもできない。美緒のことを想うと、どうしたらいいのかわからない。自分の感情が……コントロールできない。
「ねえ、麻里さん知ってる? 俺さ、麻里さんに初めて会った時、一目惚れしたんだよ」
「……知らなかったわ」
「あの時からさ、何かにつけてずっと麻里さんのことが忘れられなかった。だから、再会した時はすごく嬉しかったよ。あの時よりもずっと綺麗で、大人の女の人になってたから」
「ありがと。お世辞でも嬉しいわ」
「お世辞じゃないよ。本当に、憧れたんだ。貴方に」
 初めて麻里と出会った時の、あの甘い衝撃。自分の理想を絵に描いたような女が、そこにいた。あの時から、泉の中の麻里は、憧れの残像として心の中から離れない。
「もしかしたら、そういう気持ちが恋なのかもしれないって、ずっと思ってたんだ。だって、他の女の子に対する気持ちと、麻里さんに対する気持ちは違ったから」
「どう違うの?」
「なんていうか……触れちゃいけない女神、みたいな?」
「女神? 言い過ぎよ、それ」
 クスクスと麻里が笑う。
 けれど、泉にとってその表現は、しっかりと的を射ていた。麻里が、女神のように神々しいというわけではない。ただ、触れたら何かが崩れそうな、そんな気がした。女神は女神のままでいなくてはいけないのだ。その裏にある悪魔の顔を、知らないほうがきっと身のためだと。
「でも今になって、それは恋じゃなくて憧れなんだってことがわかったよ」
「そう……」
「あいつに、触れたくてたまらないんだ。笑わせたくて、泣かせたくなくて、ずっとそばに居たい」
「……恋、したのね」
「恥ずかしいんだけどさ、こんな風に誰かを思うのって、俺、初めてなんだよね……笑うでしょ?」
「笑わないわ。……とっても素敵なことじゃない?」
 けして馬鹿にするでなく、落ち着いて答えてくれた麻里のその言葉に、酷く安心した。自分の中にある心の蟠りが、少し和らいだ。ある意味、泉と麻里は同志なのかもしれない。けして、振り向いてはくれない人を、好きになるという。
 けれど、泉の方が圧倒的に不幸だ。何せ、好きになった人は、最愛の兄の恋人なのだから。
「あーあ。どうせだったら、麻里さんを好きになってりゃ良かったよ」
「思ってもいないことを口にするもんじゃないわ。それに、泉くんの恋は、まだ始まったばかりでしょ?」
「……終わってるよ、とっくに」
「え……?」
「絶対叶わないんだ。……だから、終わってる」
 恋をした瞬間から、絶望がそこにあった。
 けして叶わない思い。けして届かない愛しさ。
 麻里とは違って、想いを伝えることも叶わないだろう。もしも伝えたら、三人の関係も、薫と泉の関係も、そして美緒と薫の関係も、何かが崩れだしそうな気がする。
「好きになっちゃいけない人でも好きになった?」
「……うん。最悪だよ、全く」
「もしかしたらそれは……英語がとっても流暢で、とびきりの美少女で、誰にも負けないくらい格好いい彼氏を持ってる女の子かしら?」
「……ご明察」
 呆れたように笑った。すると、隣で運転している麻里もクスクスと笑う。
 二人揃って、本当に滑稽だ。叶わない片思いを、引きずってなんて情けないのだろう。しかも、想い人が、偶然にもあの二人だなんて。
「なあ、麻里さん。いくら好きな人がいてもさ、時々寂しくてたまらなくならない?」
「なるわよ。一人の夜とか……無性にね」
「誰でも構わないから、隣にいて欲しいって思うことって、普通?」
「少なくとも、女遊びの激しかった頃の泉くんに比べればね」
「麻里さんも、寂しい?」
「……とっても」
 黄色い信号が、赤に変わって、車がゆっくりと止まった。
 二人を包む微妙な静寂。数秒待って、泉がポツリと零した。
「ねえ、麻里さん……」
 信号が、青に変わった瞬間。
「……セックスしようか」
 感情が、何かに向かって、走り出した。


 表情も読み取れないほどに、闇を纏った空は、二人を優しく包んで離さない。
 薫の腕の中に抱かれたまま軽い眠りに落ちていた。うっすらと瞳を開けると、隣に規則正しい寝息が聞こえてくる。滑らかな素肌が、頬に当たって、思わず摺り寄せたくなった。薫と抱き合い、眠りに落ちてからどれくらいの時間が経ったのだろう。昨夜と同じく、時計を見つけられなくて、美緒はふと外に目を向けた。薄い闇。けれど、漆黒までとはいかない。そんな色に、夜はまだ深まっていないことを悟った。
 抱き締められたままの薫の腕をそっと解いて、床に散らばった下着と、薫のワイシャツを身につける。寝室のドアをゆっくりと開けると、リビングや廊下は暗いままだった。
 泉が、いると思っていたのに。
「泉くん……いないの?」
 いないとわかっていて、あえて小さい声で泉を呼んだ。シンと静まり返った部屋は、何も返事を返さない。
 美緒は、少し安堵したような、寂しいような気持ちを胸に抱きながら、キッチンへと向かった。泉が片付けたという食料を確かめに、冷蔵庫へ向かい扉を開ける。意外と綺麗にしまわれている食料を見て、安心した。もしかしたら、昼食を作った時に、薫が整頓したのかもしれないが。ざっと食料を見渡して、大丈夫だと頷いた。これだけあれば、アレを作るのに問題ない。
「美緒……? 何してるんだ、そんなところで」
「あ、先生。起きちゃったんですか……」
「ああ。今、何時だ? ……六時か」
 壁にかかってある時計を見ながら、虚ろな目で佇む薫はやけにセクシーで、その姿を直視できなかった。さっきまで、激しく抱き合っていたことを思い出すからだ。やはりまだ、こういうことには、美緒は慣れていない。
 水、と一言口にした薫に、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、手渡す。その瞬間、薫が美緒の髪をクシャッと弄った。
 いつもの彼のクセ。なぜか、それさえも卑猥だった。
「ねえ、泉くんは?」
「泉? ……さあ。いないのか?」
「うん、いないみたいです」
「コンビニに行って来るって出たっきり、それから姿は見てないけど」
「じゃあ、まだ帰ってきてないのかな」
「さあ。どうかな。もしかしたら、俺たちがしてるの見て逃げたのかも」
 クスッと薫が笑う。
 美緒は、薫のそんな言葉を真に受けて困惑しているようだった。頬が、少しずつ赤みを帯びていく。
「そ、そんなの絶対ないもん」
「わかんないじゃん。もしかしたら、おまえのエッチな声も聞かれたかもなあ。俺ともあろうものがしくじったな」
「その割には、楽しそうですけど?」
「そう? まあ、今は美緒を抱けて気分がいいから」
 派手にチュッと音を立てて、美緒の頬にキスをした。そんな、彼の軽い行動さえも、美緒を翻弄する。もう、重症だ。
「いないのなら仕方ないかな……」
「どうした? 泉に何か用だったのか?」
「ううん……ただ、晩御飯、作ってあげようと思ったんです」
「晩御飯?」
「そう。昨日作れなかったでしょ。でも泉くんすごく楽しみにしてたから……」
 美緒の料理を目の前にした時の泉の表情。本当に美緒を嬉しくさせるあの笑顔を、もう一度見たいと思った。外食よりも何よりも、美緒のゴハンがいいと言った泉のために、作ってあげようと思ったのだ。
「せっかく、ハンバーグ作ろうと思ったのに……」
 泉が一番好きだと言ったハンバーグ。
 彼のために、作ってあげようと思ったのに、彼はここにいない。
 急に静けさを取り戻したこの空間を、寂しいと思わずにはいられなかった。

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