華水の月

21.不可侵の女神

 部屋に上がるなり、泉は麻里を壁に押し付けて、夢中で唇を貪った。息も絶え絶えに、吐息を交じり合わせる。手は彼女の体中を弄り、荒々しく衣服を脱がせにかかった。
「ちょっと、待って。……ここじゃ嫌よ。痛いから」
「じゃあどこ? どこで抱かれたいの?」
 麻里が少しの抵抗を見せて、泉の胸に手を置いた。
 けれど、そんな彼女など目に入っていないのか、壁に押し付けたまま、首筋や胸元に唇を這わせた。泉の手が、足の間を弄って、下着に伸びる。まだスカートも脱がされていない状態で、下着だけが荒々しく引き下ろされた。
「あっ、もう、ここじゃダメだってば」
「寝室どこだよ。早く教えてくれないと、ここで抱くから」
「あの扉の向こうよ……あっ、ダメ」
「何がダメなんだよ。自分がするって言ったんだろ」
「……なんか、いつもの泉くんらしくないわね」
「そう? これが本当の俺だけど」
 再びぶつかるような激しいキスを麻里に浴びせて、彼女の体を抱え上げ、寝室への扉を開けた。セミダブルのベッドに、放り投げるように麻里を寝かせる。その衝撃に麻里が一瞬顔をしかめたが、次の瞬間、すぐに泉が彼女に覆い被さった。優しさなど忘れて、ただ求めるためだけに彼女の衣服を無理矢理脱がせると、目の前に揺れるその素肌を容赦なく貪る。
 荒々しすぎるくらいの泉の愛撫が、麻里には少し心地良かった。優しく抱かれなどすれば、薫のことを思い出して、このセックスに後悔を感じるかもしれない。けれど、犯されているくらいに感じる泉とのセックスは、自分の切なさを紛らわせるのには、丁度良かった。
 
 ――最初はそのはずだった。
 体中を、泉の感触が這い回る。
 心は泉と寝ることを、普通に受け入れているのに、なぜか体に違和感があった。愛撫され、体は悦んでいるはずなのに、なぜか満たされない。触れられて息が上がるのに、なぜか脳裏をあの人が掠めた。
 そんな麻里の変化を、泉が感じないわけがない。今まで何人もの女を相手にしてきた泉なら、尚更だ。
「気持ちよくないの?」
 胸を弄くっていた泉が、ふと動きを止めて麻里に問い掛けた。それまで荒々しく呼吸をしていた麻里も、一息置いて泉を見る。
「え……どうして?」
「だって、全然濡れないから」
「……気持ちいいわよ。でも……」
「でも、何?」
「なんでもない……」
「薫じゃないから、濡れないとか?」
 図星だった。泉に抱かれようとしている今、思い出すのは薫とのセックスだ。付き合っていた二年という月日の間、何度となく薫に抱かれた。毎回、彼の愛撫に酔わされ、そして快感の果てへと誘われた。泉に触れられているのに、思い出す。薫の手を。唇を。呼吸さえも――。
 相手が泉でなくても、同じ事だった。事実、薫と別れてから付き合った男とは、最高と思えるセックスを味わえたことはなかった。
「別にいいよ。頭ん中で、薫のこと考えてても」
「え?」
「俺も……一緒だから」
「一緒って……」
「こんなこと言ったら悪いけど、麻里さんのこと抱きながら、頭の中は美緒のことばっかり考えてる」
「そう……」
「美緒の代わりに抱いてるって言ったら、怒る?」
 申し訳なさそうな顔をして、泉が麻里に問うた。そんな彼の切なさが、彼女にも伝わったのだろう。優しく彼の頬に手を触れると、弱々しく笑って、答えた。
「怒らないわ。だって、私もきっと、そうだから」
 泉に抱かれながらも、頭の中は薫が離れない。触れる指が、唇が、薫のものであったならと望んでやまない。
「……じゃあ、仲間だね」
「ええ。本当、おかしな仲間ね」
「ごめん……。こんな素敵な人を前にして、こんなこと言ってる俺って本当バカだよな」
「それは、お互い様でしょ」
 クスッと麻里が微笑んだ。その微笑が本当に柔らかくて、許されているような気がして、泉の胸が締め付けられた。
 この女の前ならば、自分は丸裸だ。彼女が、泉に対してもそうであるように。
「ねえ、麻里さん。こうしよう」
「え……?」
 ベッド脇にあるドレッサーの前に置いてあった彼女のスカーフを手に取った。それを、彼女の目の上に覆いかぶせて、後頭部でキュッと縛る。途端、麻里を暗闇の世界が包み込んだ。
「俺に抱かれてる間、薫を想像すればいい。薫に抱かれてた時を思い出して、ただ感じればいいから」
「そんな……」
「その代わり、俺も今から麻里さんを抱いてるとは思わない。……美緒を、思い浮かべるから」
 突拍子もない提案だった。互いを、互いと思わず、ただ好きな人だけを想いながら抱き合うなどと。他人なら、そんなことは狂っていると罵るかもしれない。けれど、今の泉と麻里にとっては、その提案が甘美にさえ思えてならなかった。
 叶わない、最愛の人とのセックス。
 泉にとって、相手が麻里でなければ成り立たないし、麻里にとっても泉が相手でなければ、叶わない。目の前で甘く揺れる禁断の果実を、今、もぎ取ろうとしていた。
「わかったわ。泉くんの好きなようにして」
「……ごめんね」
「どうして謝るの?」
「酷いこと……してるかなって思うから」
「それは、お互い様だって、さっきも言ったでしょ」
 見えない視界の先で、響いた泉の声は、とても小さかった。
 再び、体中を泉の愛撫が包んでいく。胸に触れられ、一番敏感な秘部を愛され、思わず声を漏らした。慣れすぎているとも言える泉の愛撫は、女の体を悦ばせるのには申し分なかったし、それが逆に、薫を彷彿とさせた。薫も、泉と同じく、女の愛し方を充分過ぎるほど心得ていた。
 視界が遮られている分、全身の神経が泉の触れる部分へと誘われる。快感に耐えられず声を漏らし、足の間で愛撫を続ける泉の髪を強く掴んだ。その間も、脳裏に浮かぶのは、薫に抱かれているときのことだった。
「すごいね……。急に溢れてきたよ」
 麻里の秘部を舐め上げながら、皮肉に泉が微笑む。
 目の前にある女の体が、悦びを露にしている。泉の愛撫に反応して、トロトロと蜜を零す。この瞬間が何とも言えず好きだった。自分の思い通りに女を支配していると感じられる瞬間。よがり、泣き、懇願する女を見るのが快感だった。
 泉にとって、セックスは、ただ交じり合い果てるだけの行為ではない。こうして、自分に堕ちていく女を見られる瞬間。その過程さえ、泉にとっては、快楽の一時だ。
「そんなに、イイの?」
「あっ、……イイ。凄く」
 麻里が苦しげに声を漏らす。
 けれど、今目の前にある女は、泉にとっては美緒だ。視線を絡み合わせなければ、何も見透かされることはなく、そして、何の感情も伝わらない。麻里の風貌を感じさせる栗色のウェーブの髪や、唇などといった部分はなるべく避け、体だけを愛した。無我夢中で、貪った。愛している女を抱いているのだと。けして叶わない最愛の人を、自分の手で慈しんでいるのだと。
 胸が、切なくて切なくてたまらなかった。
 触れているだけなのに、それが美緒だと想うと、指先から痺れが走る。震えて震えて、そして不安でたまらなかった。自分のこれまでの抱き方で、構わないのか、と。無理矢理抱いて、傷つけはしないか、と。それくらい、今までの女とは勝手が違った。
 抱きたい、というよりも、交じり合いたい。分かり合いたい。そして、慈しみ、愛したい。
 これが、美緒の言っていた抱き合うことの『意味』だろうかと、脳裏を掠めた。なるほど、彼女の言う通り、堪らない感覚だ。心が痺れてくる。果てることよりも、交じり合うことを待ち望んでいる。それは、泉が初めて感じる感覚だった。
「んっ、あっ……」
 麻里の中を掻き回していた指が、強く締め付けられる。息も絶え絶えに喘いでは、もっと奥へと誘うように泉を取り込もうとする。光を遮られ、麻里の耳に届くのは、彼女が奏でる卑猥な水音と、荒々しい呼吸の音。
 泉は、あえて喋ろうとはしていないようだった。それが、麻里の想像を余計に膨らませる。脳裏に、昔愛されていた時の映像が流れ、無意識にその当時と今をリンクさせた。触れる体温さえも、今は薫にしか感じられない。何度となく愛された、あの時の体温と同じだと。
 体中が、快感で蝕まれていく。男の体を抵抗なく受け入れられるくらい、自分の体が悦びで満たされていることが容易にわかる。指だけでは足りない。唇だけでは、超えられない。麻里は、泉の髪を掴むと、溶けるような甘い声で懇願した。
「お願い……もう、もう来て」
「いいの?」
「はや……く、我慢できな……っ」
 執拗に愛撫を続ける泉を言葉で制した。泉は、彼女の体から離れると、自分の衣服を脱ぎ、桜色に火照る彼女の体の上に覆い被さった。
 目は、見ない。髪も、唇も。
 最初あれだけ激しく交わしたキスは、今の二人には禁忌だった。
 足を大きく広げて、その間に割り入ろうとする。近付いてくる、男の体の気配に気付いて、麻里が泉に抱きついた。
 耳元で、甘く囁きながら。
「愛してるわ……薫……」


 夜の十時を回ろうとした頃。薫のマンションの鍵穴に遠慮がちに合鍵を差し、ゆっくりと扉を開ける泉の姿があった。中の様子を覗いながら、音を立てないように部屋へと上がる。
 できれば、薫には会いたくなかった。携帯電話を薫の家に忘れていなければ、来るはずもなかったこの部屋。リビングからは何の物音もしないが、明かりだけはついていた。恐る恐るリビングへと足を踏み入れると、ソファに横たわって眠りに落ちる薫の姿があった。
「そっか……仕事ばっかしてて、美緒のこともあったからあんまり寝てないんだよな……」
 寝顔はとても穏やかだった。それでいて、とても綺麗な……。いつも優しく接してくれる兄を思うと、胸が少し痛くなった。
 泉にとって、薫は、理想を超えるほど出来た人間だ。自分の兄にするには、勿体無いと思うほど聡明で、そして優しく、見目麗しい。だからこそ、いつも薫の幸せを願っていた。それなのに……。
「ごめんな……なんで俺、いつも薫の邪魔ばっかりするんだろうな……」
 想うだけでも許されないものがある。絶対に触れてはいけない孤高の人がいる。
 ――最愛の兄の恋人。
 わかっていた。泉の人生において、その存在だけは、恋愛対象として見てはいけないことくらい。
 それなのに……それなのに……もうどうしようもないほど、美緒が恋しくてならない。
 薫にとって、美緒を想う男が他人ならば、何も問題はないだろう。美緒を想う気持ちは揺るがないだろうし、そして彼女を絶対に離しはしない。香月ハルカの時と同じように……。でも、相手が泉なら、きっと薫を傷つけるに違いない。美緒を渡すことはないにしても、泉の心を思いやり、そして苦しむだろう。そんな想い……させたくないのは他ならぬ泉自身だった。
 でももうこの気持ちは、止められそうにない。
「ごめん……」
 薫の寝顔を見ながら、もう一度呟いた。
 すると、泉の気配を感じ取ったのか、薫が一瞬顔を顰め、そしてゆっくりと目を開いた。目の前に映る弟の姿に、そう驚いた様子は感じられなかった。
「……おかえり」
「ただいま。悪いな、起こしちゃってさ」
「いや、おまえを待ってたんだ。……ほら、携帯忘れてただろ?」
 手近に置いてあった泉の携帯を手にとって、彼へと渡す。まだ気だるそうな体を起こすと、泉に向かい合うように立ち上がった。そこには、いつもの優しい微笑が浮かんでいた。
「サンキュ。……じゃあ、俺帰るから」
「まあ、待てよ。おまえ、夕飯は?」
「……食べてないけど」
 そう答えると、薫はニッコリと笑ってキッチンへと向かった。レンジの中に何かを入れ、スイッチを入れてるようだった。何をしているのか気になって、泉もキッチンへと向かう。
「美緒がおまえのためにハンバーグ作ったんだ」
「美緒が?」
「もしかしたら泉は帰ってこないかもしれないぞって言ったんだけどさ、それでもいいって。……よっぽどおまえにハンバーグ食べさせたかったんだな」
 昼間、美緒と何気なく交わした会話。
 彼女は、そんな泉の些細な言葉さえも覚えていて、そして喜ばせようと料理までしてくれて……。思わず、涙が出そうになった。情けなさと、申し訳なさと、そして彼女に対する痛いくらいの愛しさと……。
 薫は、そんな泉の様子に気付いたのか、泉のそばまで近寄ると、髪に手を触れ、そしてクシャクシャっといじった。
「何をそんなに暗い顔してるんだよ。せっかくのおまえの好物、嬉しくないのか?」
「……うれしいよ。凄くね」
「じゃあ、もっと喜べよ」
 そして、ニッコリと笑い、再度髪を弄られた。まるで、幼い頃に戻ったかのようだった。弟を励ます時、薫は必ずと言っていいほど、泉の髪に触れ、そして少し強引なくらいに弄った。それだけで、なぜか心落ち着いていた。自分には、誰よりも頼りになる兄がいるのだから、と。
「それ、薫の癖だよな」
「ん? 何が?」
「髪の毛をクシャクシャって弄る癖」
「……そうかな?」
「美緒にもしてたじゃん。それされるとさ、なんか落ち着くよ」
 美緒も、きっと同じように思っているに違いない。薫の手は魔法の手だ。触れるもの全てに安心を与えるように思う。
 やはり、何が起きても、泉にとって薫は、絶対的に尊敬する兄に違いない。
「気色悪いこと言ってないで、ほら、さっさと食えよ。美味かったぞ、美緒のハンバーグ」
 弱々しく笑う泉に居心地の悪さを感じて、薫が泉の頭を軽く叩いた。バーカ、と苦笑して呟きながら。
 レンジから取り出されてテーブルに並べられていく料理。ハンバーグだけでなく、他にも様々な種類の料理が並べられた。美緒が一生懸命作ったであろう料理の前に座る。香り立ついい匂いが、泉の中にあったもやもやとした感情を少しずつ和らげた。
「うっわ、すっげー美味そうじゃん!」
「だろ? 美味そうじゃなくて美味いから」
「俺、手作りのハンバーグなんか久しぶりだよ。めちゃめちゃ嬉しい」
「……なるほどね、この笑顔か」
「何?」
 惜しみなく笑顔を放つ泉を見て、薫が関心深く頷いた。
 その様子に疑念を抱いて、泉が問い返す。
「いや、美緒がさ、『泉くんは私の料理をすごく喜んでくれるから、嬉しい』って言ってたんだ。その笑顔が、見たかったらしい」
「……ふーん」
 薫の言葉に少し恥ずかしくなって、泉は笑顔をかみ殺した。
「なんだよ、笑顔終わりか? いいぞ、もっと嬉しそうに食べても」
「そんなの言われたら、笑って食えねーよ」
「笑えよ。いつもの気色悪い笑顔で」
「気色悪いって言うな! ……ったく、大体薫はこんなにも可愛い弟がいるのに、それを全然わかってないんだから困るよ」
「可愛い? ……そういうところが気色悪いんだよ。自分で言うな、鳥肌が立つ」
「うわ、何それ。超ショック。美緒もこんな冷たい男に騙されて、可哀想だよなあ……」
「つべこべ言ってないで早く食え。どうせおまえ後片付けしないだろうが」
「お? さすが薫、よくわかってんじゃん」
 えへへ、とイタズラっぽく笑う泉を見て、薫も呆れたように微笑んだ。何もかもを許してくれる、そんな優しい兄の笑顔。やっぱり、最愛の兄だと、心の中で呟いた。
 美緒や麻里が惚れてしまうのが、容易に頷ける。自分が女でも、きっと薫に恋をしていたかもしれない。目の前にある笑顔が、消えないことを望んでやまない。愛しい美緒の笑顔が消えないのと同じくらいに。
 麻里との関係に下した決断は、やはり間違っていなかったと、心底安堵した。
 あの時、あの決断を下していなかったら、きっと後悔して余計に苦しかっただろう。


 ――ゴメン。
 麻里と交わろうとした動きを止めて、泉が小さく謝った。
 その声色に、急に現実に引き戻されたのか、麻里が目元に巻かれたスカーフを外し、そして彼の様子を覗った。
「どうしたの?」
「ごめん……やっぱ、できないよ」
 麻里が、薫の名を口にした途端、一気に夢が覚めた。それは、目の前にいるのが、やはり美緒ではなく麻里なのだと意識したのか。それとも、薫に抱かれている時の美緒を思い出したのか。
 どちらにしろ、目の前にいるこの女を抱いてはいけないと、一瞬そう思った。自分の大事な気持ちを、踏み躙っているような気がしたのだ。
「ごめん……ここまでしといてやっぱり出来ないなんて俺、酷いよな」
「泉くん……」
「本当に、本当にごめん。……でも出来ないんだ。ごめん、麻里さん……」
「……バカな子ね」
「麻里さん……?」
「バカ正直というか何というか。……やっぱり恋する男の子なのね」
 戸惑うような表情を浮かべていた泉の頭を、麻里が優しく抱き締めた。胸の中に閉じ込めて、慈しむように彼の髪を撫でる。その行為は、恋人と言うよりは、母親のような、そんな優しさを受けた。
「いいのよ。……というか、ありがとう」
「え?」
「泉くんとセックスしなかったこと、やっぱりそれが一番良かったと思うわ」
 抱き締められた胸がとても温かくて、泉はその時初めて麻里自身の温もりを感じたような気がした。その温かさに、余計に切なさが募って、後悔の念ばかりが募る。
「最初は、泉くんと寝たら、少しは薫への気持ちを紛らわせるかもしれないと思った。……でも違った。余計に自分が惨めになったの」
 かき上げるように、麻里の指が泉の髪に絡む。彼女の呼吸は、とても落ち着いていた。
「きっと、あのまま泉くんと繋がってたら、私は後悔してるわ……純粋に薫を想う気持ちを汚した、ってね」
「麻里さん……」
「泉くんもそう思ったんでしょう?」
 彼女の言う通りだった。
 寂しさを紛らわせるためのセックスは、ただ自分の気持ちを惨めにするだけだと。結局、誰と交じり合ったって、脳裏を霞めるのは愛する人。本当に、愛しい人。その人しかいないのだ。
 誤魔化せない。気持ちも体も全て……。
「でも、甘い想いもさせてもらったわ。泉くんのおかげで思い出せたの……本当に薫を好きだっていう気持ちを。だから、貴方には感謝してるわ」
「……本当に、ゴメン」
「何で謝るの? バカな子ね」
 そう言ってクスッと微笑む麻里は、本当に大人の女で、出会った頃に感じた彼女の印象をより強くした。
 やはり、麻里は泉にとって理想の女だ。こんな格好いい大人の女、普通じゃ見つけられそうにない。
「やっぱ麻里さんを好きになってりゃ良かったなあ」
「憧れは、憧れであるからいいのよ。本当に好きになったら、きっと粗も出てくるわ」
「……そう?」
「あたりまえじゃない。私だって、悪いところいっぱいあるのよ?」
「例えば?」
「そうね……愛する人がいるのに、可愛い男の子にフラフラってしちゃうとことか?」
「それ、俺にはすごくいいことじゃん」
 互いにクスクスと笑いを零した。淫靡な雰囲気はそこにはもうなくても、他の何かが二人を包んでいる気がした。やはり、麻里が相手で良かったと、そう思った。
「ありがとう……麻里さん」
「こちらこそよ」
 少しタバコの香りのする女神。
 泉にとって、彼女の存在は、昔もこれからも、やはり触れてはいけない女神だった。



−第一部完−

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