華水の月

23.彷徨う人魚姫

 人魚は、王子を想い、月に何と願いをかけたのだろう。
 打ち寄せる優しい波。闇の海に沈む月光。
 世界は全て美しく、彼女さえも美しいのに、届かないものが一つだけあった。
 けして触れられない月のように、届かない想いを胸に秘めていた。
 それでも、ただ愛する人の幸せを願った。
 
 切ない物語だとただ漠然と感じていた幼き頃の思い出。
 遠い昔、薫に読み聞かせられたときのことを思い出す。
 あの頃は、人魚の気持ちなどわかりはしなかった。
 
 だが、今。
 彼が胸に宿す思いは、人魚姫、そのものだった。
 いっそ、この身が泡になって消えてしまえばいいとさえ……。



 昼休みの図書館で、美緒を見つけたのは、偶然か必然か。
 ハルカの思い出残るシェイクスピアを小脇に抱え、後もう一冊を物色しようと、本棚の前に立ち、必死に背伸びをしていた。だが、もう数センチ届かない。周りには、踏み台などはなく、どうしようか迷っている様子だった。どうやら、目当ての本を諦めることは、考えていないらしい。
「もお……取れないよ」
 少し怒り気味で独り言を呟いては唇を尖らす彼女を見て、必死で笑いを堪えた。背後にいる彼のことなど全く気付いていないのか、美緒は、大きく背伸びをしたり、飛んでみたり、いろいろと試行錯誤していた。
「ほら、これで取れるだろ」
「えっ?! ……キャッ!」
 彼女の腰を両手で掴んで、ヒョイと持ち上げた。
 突然現れた影に、美緒は驚きを隠せないようだったが、その声色と、優しく触れる感触に、相手が誰なのかをすぐに悟った。
「ちょ、ちょっとダメです。降ろして下さい」
「早く取れよ。腕が痺れる」
「なっ……失礼ですよ、先生」
 本当は少しも重いなどと思ってはいないが、なんとなく美緒を虐めたくなるのは、昔も今も一緒だ。
 美緒は、小声で反抗すると、顔だけをチラッと振り向かせて、相手の目を覗き見た。仕事用にいつもかけているメガネがキラリと光って、口元の皮肉な笑みだけが目に入った。
「ダメ。早く降ろして下さい。こんなところ誰かに見られたら……」
「大丈夫だよ。ここのコーナーに来るのなんか、おまえ以外いないだろうし」
「でも……!」
「早く取らないとここでキスするぞ」
 薫は、やると言ったら本当にそれをやってのける男だ。彼の言葉に、少しばかり本気を感じて、美緒はすぐさま本棚に向き直ると、目当ての本をシュッと引き抜いた。そして、『取ったから降ろして下さい』と、すぐに薫を嗜めた。
「人がせっかく助けてやったのに、冷たい反応だな、おい」
「誰も助けて下さいなんて頼んでません」
「なんだよ。チビなおまえが可哀想だと思ってせっかく抱っこしてやったのに」
「チビじゃないもん」
「チビじゃん。まあ、肝心なところはちゃんとあるけどさ」
 薫が、美緒の胸を指先で突付いた。柔らかい胸に、いとも簡単に指が食い込む。
 それがあまりにも意外な行動で、美緒は一瞬何をされたのかわかっていない様子だったが、気付くとすぐに憤慨した。ポンッと音を立てたかのように、顔が真っ赤になる。そして、胸に触れたままの薫の手を、パンッ! と叩き落とした。
「エッチ!」
「痛っ。なんだよ、そんなに怒ることか?」
「当たり前じゃないですか。だって、だって……胸……ですよ?」
「なんだよ。いつもは触るどころか、もっとやらしいことまでしてやってんのにさ」
「……もお……やだ。こんなエッチな先生やだ」
「何が嫌なんだよ。エッチじゃなかったら男じゃないだろ? 大体、おまえだっていつも俺に触られて感じてるくせに」
「ああー! もうっ! 黙って!」
「……一番うるさいのおまえじゃないか」
 呆れて苦笑を零す薫とは対照的に、美緒は真っ赤になり慌てふためく。薫の声は至って冷静で、周りに聞こえるようなものではなかったが、それでも不安で仕方がなかった。彼の声が聞こえなくなるくらい、少しばかり声が大きくなってしまうのは、致し方ない。
「しかし、もっと歓迎されるかと思ったけど」
「急に現れるんだもん。びっくりします」
「普通は、自分の彼氏に会えたらもっと嬉しいもんだろ」
「なっ……!」
 平然と『彼氏』と口にする薫にギョッとして、美緒は咄嗟に薫の口を手で塞いだ。これ以上薫に喋らせたら、身の危険が迫るような気がしたのだ。
 だが、薫は目元に皮肉な笑みを浮かべると、彼女の手の平をペロッと舐める。手のひらに走るくすぐったい感覚に、美緒は小さく悲鳴をあげて、思わず手を引っ込めた。
「もう!」
「何? もっと違うところ舐めてほしかった?」
「そ、そんなこと言ってません」
「そうだな。おまえはいつも口じゃなくて目で誘うもんな」
「なっ……もう、先生!」
 ニヤニヤと笑う薫が憎らしい。
 美緒をからかって遊んでいることは、その目を見てすぐにわかった。美緒を辱めて楽しんでいるいつもの薫の目だ。こういう時の彼は、本当にイジワルなのだ。何も上手く言い返せず、真っ赤に頬を染める美緒。そして、何を思ったのか、薫の手を取り、急ぎ足で、図書室の奥へと連れ込む。埃っぽいその場所は、普段誰も足を踏み入れていないことが容易にわかるような、そんな雰囲気があった。
 それに、誰よりも二人が一番よく知っている。ここは、秘密を犯すにはぴったりな場所だということに。
「もう! 油断も隙もないんだから」
「もうもう言ってたら牛になるぞ」
「冗談ばっかり言ってないで、少しは真面目に考えて下さい」
「何を?」
「誰かに見られたらどうするんですか?」
「相変わらず心配性だなあ。美緒は」
「先生が、自信家過ぎるんです」
「そう? ……まあ、二人合わせて丁度いいってことで、別にいいか」
 そういう問題ではない。
 そういう問題ではないのだが、饒舌ぶりでは薫に敵うことがないと美緒自身が一番よくわかっているし、仕方なく溜息をつくことで、その話を流した。大体、言い返したら言い返したで、きっとイジワルな答えが返ってくるのだ。そして、そこから先は、きっと美緒が辱めを受けることになる。
「それにしても、思い出すよな」
「何をですか?」
「昔はよくここで逢引してただろ?」
「……あ、そうですね」
 二人がまだ恋人と呼べない頃。図書室の片隅や、保健室の影で、逢瀬を重ねた。毎度美緒を包む淫靡なキスに、翻弄され、酔わされ、心も体も薫に囚われた。
「香月が現れてからは、図書室は使えなくなったけど」
「……イジワルですね、先生」
「だって本当のことだろう?」
 クスッと薫が微笑を零す。眼鏡越しの視線は、微笑んでいるのにとてもシャープで、硝子一枚と言えど、少し距離を感じた。眼鏡をかけている時の薫も格好良くてとても好きだが、やっぱり何も隔てることなく直接見つめるあの瞳が、美緒は何より好きだと、そう思う。見つめられるだけで溶けてしまいそうな、あの色っぽい瞳。その奥にはいつも深い色が揺らめいて、思わず引き込まれてしまう。全くもって、彼は視線だけで女を翻弄する男なのだ。
「どうした? 急に黙って」
「……え? 別に何も……」
「もしかして、思い出してた? 昔のこと」
「そんなんじゃ……ないです」
「俺は思いだしてたよ。あの時のおまえのこと」
「え……?」
 優しい微笑が、美緒を捕らえて離さない。
「天邪鬼で、恥ずかしがりやで、そんなとこは全然変わって無いな」
「そうかな……?」
「こんなに好きになるなんて、思ってもみなかったけど」
「先生……」
 頬に、指先が触れる。冷たいのに温かい、そんな不思議な指は頬を滑ると、髪を絡ませて甘くなびかせた。
 薫は、かけていたメガネをそっと外すと、白衣のポケットにしまいこんで、直接美緒を見つめた。その視線が恥ずかしくて、咄嗟に彼女が目を背ける。少し頬を赤らめて黙り込む彼女がとても愛らしくて、思わず零れる微笑。出会った頃と変わらない、その光景。懐かしさに心囚われて、思わずあの頃へと時が戻った。
 俯く彼女の視線に、彼の吐息が近付く。顎に手を添え、優しく上を向かせると、甘い果実を口にするように、キスを落とした。柔らかいその唇に、重なり合うというよりは、まるで溶け合ってしまっているような感覚に陥る。最初は、触れ合うだけだった唇も、次第に深さを増し、空間を、二人の吐息が満たした。互いの体を抱き締めあい、そして口付け合う。
 あの頃も、今も、二人に注ぐ光はとても甘美で、そして色めいていた。


 夕日と闇が交じり合う紫色の空を窓越しに見つめながら、教室へと続く廊下を急ぐ。パタパタという足音が、ひどく廊下にこだました。
 もう、誰も校舎には残っていないのだろう。人の気配さえない放課後の廊下を、泉は、軽い足取りで歩く。目的の教室の前まで辿り着くと、小さく深呼吸をして、気持ちを落ち着けた。
 昼休みを過ぎた頃。
 教育実習最終日を迎え、無事最後の授業も終え、毎日の習慣で薫のいる保健室へと訪れると、いつものように優しく迎え入れてくれた薫が、思わぬことを口にした。
『泉が無事実習を終えた記念に、美緒と三人で食事でもしよう』と。
 美緒の了解は、昼休みに薫が会って話したとのことで、得られていると言っていた。だが、やはり目立つことはしたくないと言った美緒の手前、放課後、皆が帰った頃を見計らって、三人で学校を出ようということになった。仕事を終えたら、美緒の携帯へ連絡する。それまで、泉は美緒と一緒にいても構わないと、薫に言われ、そして今、こうやって美緒がいるはずの彼女の教室の前へと訪れていた。
 ひどく静かな校舎。
 まだ彼女に会ってもいないのに、鼓動が揺れた。
「……失礼ー」
 ドアをゆっくり開けながら、中の様子を覗った。けれど、返事はなく、廊下と同じくらいひっそりとした空気が漂っている。
「いないのか……?」
 恐る恐る中に入って、教室中を見渡すと、窓際の後ろの方の席に、小さな影があるのに気付いた。
 そう、その席は、いつも泉が教壇から見下ろしていた美緒の席だ。どうやら、泉の気配には全く気付いてないらしい。触れられるくらいまでそばに近付いて様子を覗うと、彼女は机の上に突っ伏して、眠りについているようだった。
「……待ちすぎて寝ちゃったか」
 机の上に広げられた教科書に、ノート。勉強でもしてたのかな? なんて、思いながら、小さく微笑みを零した。
 穏やかな寝顔に、紫の光が差し込む。その光景は、ただでさえ愛らしい彼女を更に美しくして、まるでその光景だけが切り取られた絵のように思えた。
「やべっ。……超可愛いし、こいつ」
 彼女に視線奪われ、思わず触れてしまう指。顔にかかる髪を指で掬い上げると、サラサラとした感触が指に残った。白い頬に、赤い唇、長い睫。閉じた瞼の奥には、いつも泉を捕らえて離さない深い色をした大きな瞳。美少女と呼ぶのに、文句ない容貌。
 最初は、全然タイプなんかじゃなかった。可愛いとは思っても、泉の心を捕らえたりはしなかった。それなのに、今なぜこんなにも心が揺れるのだろう。
 まるで、心の中に海があるのではないかと思う。もしくは、海の中で揺らめいて生きているのではないかと。それくらい、美緒を前にした時の泉の心は揺れて波が立ち、そして溢れ出てしまうのだ。
「美緒……」
 聞こえないくらいの小さな声で、そっと彼女の名を呼んだ。
 こんな女、出会わなかった方がいいと思うのに、やっぱり出会って良かったと思ってしまうのは何故だろう。
 出会ってしまったことの後悔と、出会えたことの喜びと。こんなに恋焦がれてしまうだなんて、思ってもみなかった。初めて抱いた恋が、こんなにも苦しいものだなんて、知らなかった。それなのに……。やっぱり彼女に触れると、後悔や罪悪感よりももっと強い恋しさが、泉を満たした。
 ――このまま起きなければいいのに。そしたら、そしたらずっと、そばに居られるのに……。
 切なく渦巻く感情が、泉にまとわりついて離れなかった。
 昔、薫から聞いたおとぎ話を思い出す。叶わない恋に胸焦がし、そして自らの命を絶った人魚姫の話を。あの頃は、人魚姫の気持ちなど全く理解できなかった。愛するもののために、自分の死を選ぶ人魚姫の気持ちなど。でも、今ならばそれが自然と理解できる。きっとそれは、自分よりも大事なものが出来たという証拠なのだろう。きっと、美緒のためなら、泉はどんな気持ちをも押し殺すことができるに違いない。
 たとえそれが、愛しているという、一番儚い想いだとしても。
「好きだなんて……言えないよ」
 言えばきっと、全てが壊れてしまう。
 尊敬する兄も。最愛の君も。何もかも。
「好きだなんて……言っちゃいけないよな」
 ――ねえ。
 どうして、君は兄の彼女なのだろう。
 もっと早くに出会えたら何かが変わっていた? 薫がいなければ、愛し合えていた?
「……そんなわけ……あるわけないのにな」
 薫がいなければ、今の泉はない。そして、今の美緒も居はしないだろう。いてくれるだけで感謝する。いなければ良かったなんて……そんなこと思えるはずもない。それくらい、泉にとっての薫は、大きすぎるくらい大きいのだ。
「でも……好きなんだよ、美緒……」
 切なさで、胸が押しつぶされそうになった。苦しくて苦しくてたまらなかった。涙が、零れてしまいそうだった。
 愛する人は目の前にいるのに、その人はけして触れてはいけない禁忌の人。でも、焦がれて焦がれてたまらなかった。愛しすぎて、張り裂けそうだった。
「ごめん……薫……」
 泉は、そう小さく呟くと、体を屈めて、美緒へと近付いた。目元に軽く口付ける。柔らかい感触が唇を伝って、愛しい人に触れた喜びに、痺れさえ覚えた。
 愛していると告げない代わりに、自分だけの秘密が欲しかった。美緒に恋をしているという、形が欲しかった。
 それは、人魚姫が声と引き換えに足を手に入れた時と同じくらい、苦しい思いの果てに――。
 
 穏やかな寝息を立てる唇に、そっと近付く。ゆっくりと、けれど確実に触れ合う唇。震えが……止まらない。触れる唇の温もりに、心まで溶けてしまうのかと思った。
 彼女の唇に触れてから、どれくらいの時間が経ったのだろう。泉は、口付けの甘い疼きを胸に宿したまま、そっと彼女から唇を離した。
 人魚姫の物語に、切ない思いを閉じ込めて。

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