華水の月

29.薄紅に煌めく

 週明けから薫が大阪へ発つと聞いてから早二日目の夜。
 せっかくの日曜だと言うのに、ほとんど何も手につかず、ただぼんやりと一日を過ごした。
 一人部屋に閉じこもって、携帯を弄っては溜息を零す。何の音沙汰もない携帯電話は、なんだか一人置き去りにされたような寂しささえ感じさせた。
 実際に薫が大阪へ発つのは、火曜日ということらしい。そして、戻るのは翌週の金曜の夜。明日の月曜は別件の仕事で、学校には顔を出さないということだった。
 理由のない不安が胸を過ぎったあの時。言葉では説明できない暗雲のようなものが、押し迫る感覚に襲われた。たかが二週間会えないだけのこと。そう大したことではないはずなのに……。
 これまでだって、毎日会っていたわけじゃない。声さえ聞かない日も、姿を見ない日もそれが普通だった。なのに何なのだろう。この……モヤモヤとした落ち着きのない不安は。また、置き去りにされると怯えているのだろうか。それとも……。
「あんまり考えたって……意味ないよね」
 理由のわからないものを深く追求したところで答えなど出ない。美緒は、それ以上深く考えるのをやめて、携帯を机の上に置いた。すると、それと同時に、美緒の携帯に着信が入った。
「え……先生?」
 特別すぎるほど特別な着信音に、一瞬驚きを隠せなかった。普段あまり鳴ることのない、そのメロディーを確かめるように携帯を手に取る。画面を見ると、やはり間違いなく、薫からの電話だった。
「……はい」
 携帯を耳に当てて、遠慮がちに答えると、少し低めの通った彼の声が耳に響いた。
『……美緒? 先生だけど』
「あ、はい、先生ですね」
 自分で自分のことを「先生」と言う薫が少しおかしくて、クスッと微笑みを零した。
 すると、電話の向こうでも、彼が苦笑している姿が目に映るようだった。
『当分会えないから、声、聞きたいなと思って』
「……うん」
『この間のおまえ、少しおかしかったから』
「そうかな」
『元々泣き虫だけど、あんな風に泣く美緒は初めて見た』
 理由なく涙が零れるなんてことは、それまでにはなかったことで、美緒にとっても、薫にとってもあの時の涙は少し違和感があったに違いない。何と答えていいのかわからなくて、美緒が返事に困っていると、薫の優しい声がさらに響いた。
『でもまあ、俺を想って泣いてくれたんだってことはわかったから、別に構わないけどね』
「ごめんなさい……困らせちゃいましたよね」
『いや? おまえの涙は嫌いじゃないから』
「え?」
『だって、その度におまえを抱き締められるだろ?』
 さらっと言ったその言葉が、どれだけ美緒の心を締め付けるかなんて、薫は知らない。泣くことも、怒ることも、ワガママを言うことさえも、薫は全て受け入れてくれて、そしてそれをプラスに変えてくれる。甘い疼きに変えてくれる。それが、どれだけ女の心を捕らえて離さないのかなんて、彼は知らないのだ。
「お仕事……頑張ってくださいね」
『ああ。さすがに十日間はしんどいけど、ちゃんとお仕事してくるよ』
「……うん」
『美緒?』
「なんですか?」
『寂しい?』
「え……っと」
『俺にしばらく会えなくて、寂しい?』
 彼の期待する言葉は、きっと美緒の本心そのままだ。偽ることなく本心を口にすれば、きっと彼は喜ぶだろう。
 でも、いつもの天邪鬼さが出てしまって、素直に寂しいと言えなかった。
「大丈夫……です。十日くらい、我慢できるから」
『ふーん……』
「なんですか?」
『いや? 素直じゃないなあと思って』
 電話の向こうで、薫がクスクスと笑う声が聞こえる。その笑みに、余計に素直になれなくなって、美緒は口を尖らせ否定した。
「本当に、大丈夫だもん。十日くらい……会えなくたって今までとそんなに変わらないし」
『本当は寂しくてたまらないくせに』
「寂しくないもん……」
『本当に?』
「本当に……」
『じゃあ、わざわざおまえに会いに来た俺は、無意味だったかな』
「え……?」
 薫の言っている意味がよくわからなくて、思わず聞き返した。
 美緒に会いに来た? いつ? どこへ?
 わけがわからず戸惑っていると、すぐに薫が答えをくれた。その言葉は、美緒の心を掴んで離さなかった。
『今、おまえの家の前まで来てるんだ。俺は、おまえに会いたかったから……』
 返事を返さず、窓際まで急いで歩みより、窓を開けた。すると、下には、携帯を持ったまま佇む薫の姿があった。
 その光景に、胸が苦しくて、なぜか泣きそうになった。


 暗い夜道を、手を繋いで歩く。
 閑静な住宅街には、人一人おらず、こうやって堂々と手を繋いで歩いても、誰も気にはとめない。ひっそりと、影の中を歩くような感覚と、左手に感じる温もりに、愛しさが募ってたまらなかった。
 とりあえず、近くの公園まで辿り着くと、二人揃ってベンチに腰掛けた。
「先生、車は?」
「少し向こうに止めてきた。さすがに夜遅くに見知らぬ車が住宅街うろついてたら目立つだろ?」
「あ……うん。そうですね」
「どうした? せっかく会えたっていうのに、大人しいな」
「そんなことないですよ」
「そう?」
「うん……」
 小さく微笑んで、薫が美緒の髪を優しく触った。いつもの彼のクセなのに、なんだか今日は切なくてたまらない。
「でも、まさか先生が会いに来るなんて思ってもみなかったから、びっくりしました」
「しばらく会えなくなる前に、おまえにどうしても会いたかったから。……まあ、おまえはどうでも良かったみたいだけど?」
「……イジワル」
「本当のこと言ってくれないおまえの方がよっぽどイジワルだろ?」
 クスクスと笑って、髪をクシャクシャっと弄る。目にはイタズラっぽい微笑を浮かべていた。出会った頃と変わらないそんな薫の姿に、少し安心を覚えた。
「それに、今日会いに来たのは、おまえに渡したいものがあってさ」
「私に……ですか?」
「ああ。ちょっと目閉じて、待ってて」
「なんで目閉じるんですか?」
「大丈夫。エッチなことなんかしないから」
「あ、当たり前です!」
「まあまあ。ったく美緒はいつまで経っても純情だな……」
 薫の冗談に、反応してしまって、頬を赤く染めた。
 彼の場合、口だけならともかく、実際に触れてくるときもあるから気が抜けない。その度に、ドキドキしてたまらないのだ。
 美緒は言われた通り、目を閉じてじっとしていると、少しの間の後、薫の気配を感じて身を固くした。首筋に、彼の手が触れて、ビクッと身が竦む。するとその手は、美緒の後頭部でなにやら少し動いた後、すんなりと離れた。
「いいよ。目開けても」
 恐る恐るゆっくりと目を開ける。目の前には、さっきと変わらず穏やかな薫の姿があって、一体何があったのかよくわからなかった。すると、薫が美緒の首に再度手を回し、彼女の長い髪をサラっと靡かせた。その瞬間、首筋に、ヒヤリとした金属のようなものが触れて思わず手を伸ばした。何も言わずとも、それがネックレスであることはすぐにわかった。
「先生……これ……」
「綺麗だろ? おまえにプレゼント」
 チェーンを辿って、鎖骨の間にあるペンダントトップを指に絡め、見つめる。ベンチ脇にあるかすかな街灯がそれを照らし、キラキラと光を放っていた。綺麗に装飾の施された、シンプルで、それでいて可愛らしいネックレス。涙を思わせる洗練されたデザインに目が奪われる。中心にある大き目の石は、中でも群を抜いて煌めいていた。
「でも……いいの?」
「何が?」
「これ……すごく高そうです……」
 石のことなど、そう知らない美緒でさえ、それが高価なものであることはすぐにわかる。
 イミテーションではない輝き。上品さ。
 最初、透明かと思った石だったが、よく見ると、少しピンクがかったような、紫がかったような色に見える。夜目にはそれが何色なのか、確かな判断がつかないが、とても心を落ち着ける色だと思った。そして、この色は、美緒にとって一番好きな色だと、そう思った。
「値段のことなんか気にするな。俺が、おまえにこれをあげたくてたまらなかっただけなんだから」
「でも……」
「よく似合ってるよ。やっぱり、最初見た時に感じた俺のインスピレーションは間違ってなかった」
「インスピレーション?」
「ああ。おまえを初めて見た時に感じたんだ。きっとおまえは、この石が似合うんじゃないかって」
「ねえ、先生。この石って……」
 再び指に取って、見つめてみる。キラキラと吸い込まれそうな輝きは、人の心を捕らえて離さない力がある。身に付けているだけで気高くなるような、そんな不思議な石。魅力というものを、すべて兼ね備えている石。
 普通の石ではない。でも、この石って……
「ピンクダイヤモンドだよ」
「ピンク……ダイヤモンド?」
「そう。美緒には普通のダイヤモンドよりも、ピンクダイヤの方がよく似合う。俺の中のおまえのイメージそのものだ」
 純粋に綺麗な美緒。無色透明のダイヤモンドもきっと似合うに違いないけれど、薫の中ではピンクダイヤモンドの方が、美緒のイメージそのままだった。胸の中で募る美緒への愛しさは、彼女を愛らしく彩る。
 薫に愛されて、美緒は出会った頃よりも格段に美しくなった。それは、無色透明のダイヤモンドを、ピンクに染めていく様に似ていると、そう思った。そう。美緒は、薫に愛されて色づいたピンクダイヤモンドだ。
「ちょ、ちょっと待ってください、先生」
「何?」
「何って……」
 目の前で優しく微笑む薫の言葉を遮った。
 どこかで聞いたことがある。ピンクダイヤモンドは、普通のダイヤモンドよりも希少価値が高く、かなり高価なものであると。さすがにただの石だとは思っていなかったが、ここまでのものだとは思っていなかった。そうだとわかった途端、なんだか急に申し訳なくなった。
「ダメです。こんな高価なものもらえません」
「だーかーらー。値段なんか気にするなって言っただろ? 似合ってるんだから、それでいいじゃん」
「ダメ! だってこの石大きいもの。こんなの、まだ私には不釣合いです」
 本心から、断った。とても嬉しいけれど、やはり美緒にとっては、自分がこの石の価値に見合わないという感覚しかない。大人の女ならまだしも、まだ少女の美緒にとってダイヤという石は大きすぎた。
 すると、そんな美緒の言葉に、薫が少し寂しそうな表情を見せた。
「……気に入らないのか?」
「そ、そうじゃなくて……」
「ごめん……おまえの気持ち無視して、そんなの贈ったって迷惑だよな」
「そんなこと言ってないです。ただ……」
「俺は。……俺は、どうしてもおまえにそのネックレスを贈りたかったんだ。でも……悪かったな。おまえが気に入るかどうかなんて、全然気にしてなかった。俺が悪かったよ」
 段々と、気落ちしていく薫の様を見ていられなくて、ついつい彼の腕に手が伸びる。まさか、自分の態度が彼を傷つけるなんて思ってもいなかった。気持ちを無視しているのは、薫ではなく、むしろ自分だ。美緒は、そう思うと、途端切なさで胸が押しつぶされそうになった。
「ごめんなさい、先生。私こそ……私こそ、先生の気持ち考えてなくて……」
「いいんだ、もう……」
「私、本当はこのネックレスを先生に貰った時、すごく嬉しかったですよ? 本当に、本当に嬉しかった。ただ……あまりに高価なものだったから、びっくりしてしまったんです」
「無理して嘘つかなくていいよ……。おまえの気持ち考えてなかった俺が悪いんだから」
「嘘じゃない! 本当に嬉しかったもん……本当に綺麗だってすごく思ったし……」
「……じゃあ、もらってくれる?」
 寂しそうに美緒を見る薫の目に、思わず吸い込まれそうになった。
 こんな目を見て、断る理由などどこにあるのだろう。何より、受け取ることが、薫への一番の愛情表現のような気がした。確かに、高価な石であることは抵抗があるけれども……。
 美緒は、薫の気持ちを心から受け止めて、小さく頷いた。すると、その途端、薫がいつもの企むような笑顔をニヤリと浮かばせた。
「あ、本当? ……ったく、最初から素直に貰ってればいいものを」
「…………」
「ああ、でも良かった。おまえがもらってくれて。ちょっと手こずったけどね」
 薫の物言いに、一瞬ポカンとしていた美緒だったが、段々とその言葉の意味を理解し始めた。そして、全てを理解した途端、騙されていたという事実に、顔を真っ赤にして憤慨した。そんな彼女の表情も、薫にとって見れば、ただの愉快なものの一つに過ぎないが。
 ――また、薫のポーカーフェイスにしてやられた。
「せ、先生! 私のこと騙したんですか?!」
「騙したなんて酷いこと言うなよ。あれは本心だっての」
「嘘! 最初から私を騙すつもりだったんでしょ?! 信じられない、あんな寂しそうな目してたくせに」
「まあまあ、そんなに怒るなよ」
「先生の詐欺師!」
「おまえなあ、詐欺師っていう言葉は金品騙し取る人間に使うもんだぞ? おまえの場合は得してるのに、その台詞はどうよ?」
「もう信じられない、どうしてあんなに平然と嘘がつけるんですか」
「それはまあ、ほら、俺役者だから」
 ニヤニヤと笑うこの男が憎らしい。いつものことだが、騙された後に気付くのだ。この男は、平気で嘘が吐ける男だったと。
 そして後悔する。また、まんまと彼の策に嵌ってしまったことに。
「こんな高価なもの……私には本当に似合わないのに」
「バーカ。俺が似合うって言ってんだから、似合ってんだよ」
「でも……」
「頼むから、黙って受け取って。……それが、一番嬉しいんだから」
 冗談ではなく、嘘でもない言葉。薫は美緒の胸元に手を伸ばすと、ピンクダイヤモンドを指に絡めて、少し切なげに微笑んだ。その透明のピンクに、何かの思いを馳せるように……。
「おまえには、いつも寂しい思いをさせてるから……少しでも心はそばにいるんだってことを感じて欲しかったんだよ」
「……え?」
「ネックレスでも、ピアスでも、何でも良かった。ただ、俺が抱くおまえへの気持ちを石に込めて、それがおまえを包んでくれたら、どれだけ幸せだろうって思ったんだ」
 物に縋ったわけじゃない。
 ただ、形として、君にこの愛しさを告げたかった。言葉では、伝えきれない想いも時にはあるだろう。そんな時、この石を見て思いだして欲しい。この胸の中にある、君への愛しさは、その気高い石そのものだと。けして何者にも砕けない、ダイヤモンドのように不変なのだと……。
「……先生」
「ん?」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
 美緒の首筋に手を回して、ゆっくりと引き寄せた。薫の想いは、痛いほど美緒に伝わっていた。思わず、涙が溢れてしまうくらい。
「……泣くな」
「泣いてないもん……」
「ハイハイ。嘘吐きな美緒の言葉を信じるよ」
 苦笑する薫の胸に顔を埋めて、背に手を回す。嬉しさと切なさと、張り裂けそうなほどの恋しさで心が溢れそうだった。薫の言葉を聞いて、石の価値に囚われていたバカらしさに後悔した。たとえこれが、イミテーションであったって、そこに宿る想いには変わりはないのだ。何より、美緒自身が一番望んでいたことだ。いつだって、薫の愛情を感じていたいと……。
 それを形にしてくれた薫のことを想うと、胸が痛くてたまらなかった。いつだって愛されている。その海のような広い愛情の中で。不安に思う余裕なんてないほどに、愛されて愛されて、慈しまれて……。なぜ、こんなにも愛されるのかわからないほどに。
 きっと、自分にとって薫は過ぎた人だ。勿体ないくらい、大きな人だ。そんなことを思いながら、美緒は優しさの涙を飲み込んだ。
「次は、耳かな?」
「え? 耳?」
「ネックレスの次は、ピアス。それから、ブレスレット。香りだってもちろんそう。そして最後は……」
 薫の指が耳に触れ、手首に触れ、そして手の甲を滑って左手の薬指に触れた。
「最後は、ここに。……ここを飾るために、指輪を贈るよ」
「……先生」
「少しずつ大人になって、もっともっと綺麗になって、俺がおまえを美しく着飾ってやりたい。体に触れるもの、全部俺の捧げるもので」
 もちろん、一番捧げたいのは、愛情に違いないけれど。それは、目に見えはしないから、美緒自身に少しずつ感じ取ってもらえるように、上手に愛して行きたい。
「それまで、ゆっくり過ごして行こう」
「……うん」
 止まったはずの涙が、またハラリと零れ落ちる。
 薫の言葉から、永遠を感じ取った。これから先も、ずっと愛してくれるという誓いを、告げられた気がした。それだけで、もう何もいらないと思った。一番欲しかったものが、手に届きそうな感覚。何よりも一番欲しいのは……揺るがない薫の愛情だ。
「また泣いてるし……」
「……だって、先生がそんなこと言うから」
「おまえは本当に泣き虫だな」
「先生のせいだもん……」
「ハイハイ。もう泣きたいだけ泣いてください」
 呆れ口調で美緒の頭をポンと叩いて、そしてギュッと抱きすくめた。
 穏やかな風が、二人をサァ……っと包み込んだ。
「ああ……このまま一緒に大阪まで連れて行きたいなあ」
「だ、ダメですよ……そんなこと」
「おまえ、十日くらい学校休んじゃえよ」
「もう、またそんな無理なことばっかり言うんだから」
「せめて、行く前にもう一度くらい抱いておきたかったなあ。十日休めなんてワガママ言わないから、今晩連れ去ってもいい?」
「だ、ダメ!」
「やっぱり?」
 コクン、と、美緒が胸の中で頷く。見えない表情には、嬉しさに打ち震える恥ずかしげな微笑を隠して。そんな彼女の髪を、薫の指が甘く靡かせた。

 ――ねえ、美緒。
 君が望むなら、いつだって永遠を捧げよう。
 本当は、校医という立場だって、捨てても構わない。君を攫って、逃げても構わない。
 でも、きっと君はそれを望まないだろう。だから、大人の階段を一段ずつ登って行く君を、誰よりも一番近くで見ていたいと、そう思わずにはいられない。
 誰よりも、愛するもののために、煌いていく君を……。
 ダイヤモンドの鎖を紡ぎながら、薄紅に染まりゆく君を――。

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