華水の月

30.真紅の熱情

 初めて麻里に出会った時のことは、今でも鮮明に覚えている。いつものように薫の部屋に遊びに行った時、出迎えてくれたのが彼女だったのだ。
 その時泉はまだ十代だった。
「はじめまして、泉くん。麻里です」
 そう言って差し出された手は、細くて華奢で、綺麗に塗られたマニキュアや、光る指輪が女を思わせた。
「あ……泉です。よろしく麻里さん」
 握り返したその手ではなく、泉の目をまっすぐに見て、彼女が微かに微笑んだ。
 あの時の甘い衝撃は、今でもけして忘れはしない。まるで、心ごと掠め取られるような、そんな甘い衝撃。思えば、出会ったその瞬間から、泉の中で麻里は『女』であったとそう思う。隙のない女。美しく、色香や、愛らしさを存分に魅せつける女。大学生になったばかりの泉にとって、その時からすでに麻里は大人の女だった。年齢はそう違わないはずだった。確か、四つか五つしか、上に過ぎない。
 それは、薫のもつ落ち着いた雰囲気が彼女をそうさせるのか。それとも、本来の彼女が、そうであったのかはわからないが。
「俺が今付き合ってる彼女だよ。……って、まさかこんなところで紹介するなんて思ってもみなかったけど」
「いいじゃない。薫の弟くんに会えて私は嬉しいわよ?」
「まあ、麻里がそう言うなら別にいいけどさ」
 まさか、泉と麻里が会うだなんて思ってもいなかったのだろう。少し苦笑いを零す薫の腕に、麻里が抱きついて微笑みかける。とても無邪気なその振る舞いは愛らしく、正直薫が羨ましいと思った。
「薫ったらね、何度お願いしても泉くんに会わせてくれなかったのよ? ケチでしょ?」
「こんな綺麗な人だって知ってたら、俺も早く会いたかったな」
「あ、やっぱり薫の弟くんね。お世辞が上手いわ」
 クスクスと彼女が笑う。
 薫の彼女を見たのは、麻里が初めてではない。これまでも、数人見たことはあった。そのどれもが可愛らしい人ばかりで、弟の目から見ても羨ましいと思えた。元々、際立って外見の良い薫は何もしなくてもモテていたし、付け加えてフランクでミステリアスなあの性格が女心を掴んで離さなかったのだろう。一体誰が彼女なのかわからないくらいに、女に囲まれていて不自由はしていなさそうだった。だからなのか、女に対する執着のようなものを薫から感じとったことはない。そんな中でも、それまで見た誰よりも、麻里は断然美しかった。
 その衝撃の出会いから後、何度か彼女に会う機会があった。薫の部屋で、街で、駅のホームで――。
 以前問うてみたことがある。なぜ、薫を好きになったのか、と。
『だってすごく格好いいんだもん。それに、優しいし、頭もいいし、私のワガママ聞いてくれるし。好きすぎちゃって、もしかしたら、泉くんにも妬いちゃうかもしれないな』
 そう言って、微笑んでいた彼女は、女らしさそのものだった。冗談めいた明るく軽い感じが、とても麻里らしかった。いつも薫のそばを離れず、時にワガママを言ってみたり拗ねたりして、よく薫を困らせていた。もっともっと愛して欲しいのだと、身体全部で表現していた。彼女として、もっと甘やかして欲しいとでも言うように。「大好き」であるとか、「寂しい」だとか、そういう台詞を薫に向けているのを何度も聞いたことがある。そんな彼女を、薫はいつも優しく包んでいた。そんな二人は、本当に楽しそうな恋人同士だった。
『愛しすぎてしまって時々怖くなるの。薫のことが欲しくて欲しくてたまらなくて……愛しすぎたあまりに、いつか薫を殺してしまいそうな気がするわ……』
 いつのことだったか、麻里がポツリとそう零した。普段、軽いノリで付き合っているように見えた二人だけあって、麻里のこの言葉は印象強く残っている。
 秘めた、激しい感情。
 笑顔で言ってはいたけれど、あの言葉は本気だったのだと、直感でわかった。いつも彼女の言う、『好き』という言葉とは違う響き。そして、薫が想うよりもはるかに深く、麻里の方が愛情が深いのだと気付いた……。
 彼らが別れたことを聞いたのは、出会ってから一年半ほど経った頃だった。あまりに唐突すぎたその話にすぐさま信じることはできなかった。
 しかも、別れ話を切り出したのは麻里ということを知り、謎は更に深まるばかりだった。愛しすぎていると、彼女は確かにそう言っていた。殺してしまいそうなほど、愛していると。あの言葉は嘘だったのだろうか。
 だが、薫にさえわからないことが、その時の泉にわかることはけしてなかった。


 それから一年後の今。
 目の前で愛らしく微笑む、薫の現在の彼女に視線を奪われている。
「ねえ、泉くん。このケーキ美味しいかな?」
「ん? どれ?」
「これこれ。この可愛いケーキ」
 美緒が指差すメニューを見て、美味しいんじゃない? と適当に返事を返した。イチゴがふんだんに乗ったミルフィーユ。元々店自体が人気だけあって、そう期待も外れないだろうと思った。
「あ、今適当に返事したでしょ。いいもん。じゃあ私これにしよっと」
「じゃあ、俺は……これとこれとこれ」
「またそんなに食べるの? お腹壊しちゃうよ?」
「バーカ。これでも抑えてんだよ。本気になったら店のケーキ全種類食える」
「そんなに食べてたらいつか太っちゃうんだから。ぶよぶよのお腹になっちゃうよ?」
「残念。生憎俺って何食っても太らないんだよね」
「うーわあ。泉くんて本当に女の子の敵だね」
「おまえだって細いくせに」
「私は泉くんみたいにバクバク食べてないもん」
 口を尖らせる彼女を見て、思わず笑みが零れる。
 麻里しか知らなかった頃は、あれ以上の女はいないと思っていた。けれど美緒に出会い、それがどんなに浅はかな考えだったのかとわかる。見た目も、けして麻里に劣っていない。むしろ、開花していない未熟なこの愛らしさは、大人になっていくにつれ、もっと美しさを増すだろう。
 誰もが振り返っては、心奪われる美少女。心は、それを凌ぐ魅力をもっていた。優しく、強く、素直で。そして、時に見せる脆さや弱さが、男の心を惹きつけて離さない。積極的で、女をしっかりと持っている麻里とは、全くタイプの違う女だが、美緒は美緒で、誰にも負けない魅力を兼ね備えていた。
 そしてその美緒が、薫の今の彼女なのだ。全くもって、薫の女のセンスには頭が下がる。
 そして、そんな最高の女を虜にして離さない、薫という男の存在にも。
「おまえ最近俺と一緒にケーキ屋巡るのに、味しめてない?」
「え? ……そんなことないよ?」
 図星を突かれて、美緒が曖昧に笑った。
「いくら美味いケーキ屋ばっかり連れて行ってるからって、そんな毎日毎日……」
「毎日じゃないもん。だって、ほら。昨日行ってないでしょ?」
「一昨日は行っただろ?」
「だって……だって泉くんオススメのケーキ美味しいんだもん」
「俺のせいにするな。ったく、知らないぞ。薫が帰ってくるまでに太ったって」
「大丈夫だもん! ……ゴハン減らすから」
「そこまでしても食べるのか……」
「泉くんには言われたくないよ」
「まあ、俺は別にいいけどさ。おまえといたら楽しいし」
「私も泉くんといると楽しいよ。泉くん面白いから」
「それはどうも光栄なことですよ」
「時々ムカツクことも言うけどね」
「……そうだな。そういうこと言うおまえはムカツクな」
 ヘラヘラと笑う美緒の額をペチッと叩いた。痛いと口にして、額に手を当てる彼女を皮肉な笑顔で見つめる。
 財布を届けに美緒が大学まで来てくれた日以来、二人でデザートを楽しめる店を巡る機会が多くあった。泉の勧めるものは全て美緒好みで、それが彼女の心を捕らえて離さなかったのだろう。美味しいデザートを口にし、『次はどこに連れて行ってくれる?』と微笑みかけられれば、断る理由などないというものだ。
 特に、薫が出張に出てからは、間を置かず一緒に居ることが多い。薫も薫で、美緒の相手をしてやってくれと泉に言うものだから、結局有無を言わさず放課後の時間をともにしているのだ。
 美緒の泉を見る目は、明らかに男としては見ていない。友達としても、少し違う。妹がお兄ちゃんにワガママを言っては甘える。まさに、そんな雰囲気だった。まあ、泉にとってみれば、美緒と一緒にいるこの時間は、幸福な時間には違いはないのだが。
「なあ、美緒」
「何?」
「この間さ……何で泣いたんだ?」
「ん? 何のこと?」
「薫に抱きついて泣いただろ……何で泣いたのかと思って、さ」
「ああ。あの時のこと……」
 何も言わず、ただ薫に抱きついて涙を零したあの時の美緒。彼女の何が、泣かせてしまったのか、泉には全くわからなかった。あの後結局美緒は理由を話さず、ただ薫に宥められながら落ち着きを取り戻した。薫も、美緒を優しくあやしては微笑みかけるだけで、何も問いはしなかった。
 きっと、薫には美緒の気持ちが透けて見えたのだろう。何も言わずとも察している。美緒の全てを見逃すまいと、いつも見つめている。薫は、そういう人だ。
「自分でも、よくわからないの。……ただ、なんか不安になっちゃって」
「不安? あんなに薫に愛されてるのに、か?」
「愛されてるのはちゃんとわかってるよ。でもね……ううん、だからかな。不安になっちゃうのは」
「愛されてるから、不安……か」
 贅沢な悩みだ。愛しい人がそばに居て尚、不安に駆られるだなんて。
 だが、手に入れているからこそ、失うことに不安を覚えるのかもしれない。
「また、置いていかれるのかって、そう思っちゃった」
「またって?」
「先生、少し前にアメリカ行っちゃってたでしょ? あの時ね、私、何も聞かされてないまま置いていかれちゃったんだ」
「どういう意味?」
「先生がいなくなってから、学校やめたことも、引き抜かれたことも知ったの。先生、何も言わなかったから……」
「薫が、美緒に言わなかったのか? なんで?」
「私が悪いの。私がハルカのことでフラフラして、だから先生、きっと私に怒ったんだと思う」
「ふーん……ハルカ、ね」
 香月ハルカの名を聞くと、どうも気分が悪い。嫌いではない。むしろ、あんなにも美緒に想いを寄せるハルカには好感も持てるし、女のように美しい外見も素直に受け入れられる。
 けれど、なぜか泉自身とハルカを比較してしまうのだ。薫には絶対敵わないとわかっていても、ハルカには負けたくない。そして、意味のない嫉妬心に駆られてしまう。
「でもさ。薫が怒って美緒に何も言わずに渡米したっていうのは、違う気がするけど?」
「そう……かな」
「これは弟だからわかることだけど、薫はそんなあてつけみたいなことはしないよ。確かに何考えてるかわからないミステリアスな部分は多いけど、怒ったのが理由だったとしたら、今のおまえはないと思うけど」
「意味がよくわからない」
「前に言っただろ? 薫は怒ると、徹底的に相手をどん底に突き落とすって」
「ああ、そんなこと言ったっけ」
「今も愛されてるおまえが何よりの証拠。怒っていなくなったんじゃなくて、きっとおまえを取り戻すためにいなくなったんだよ」
「……そっか」
「だから薫を怒らせたら怖いっつーの。わかった?」
「うん」
 泉の言葉に思わず美緒に笑みが零れた。
 実は、ずっと美緒の中で燻っていた。何も言わずに美緒を置いていなくなったあの時の薫は、何を思っていたのだろうと。きっと、許されていないのだと、勝手に決め付けていた。覗こうとしても見えない薫の心。いつもポーカーフェイスではぐらかされては、その優しい微笑みに誤魔化されていた。
 けれど、今の泉の言葉で、本当に救われている。マイナスだった考え方を、プラスに変えてくれた。愛されていないのかもしれないと恐れを抱いていた気持ちを、誰よりも愛されていたからだと思い直すことができた。
「でもね、泣いちゃったのは、それだけが理由じゃない気もするの……」
「ん?」
「よくはわからない。でも、今もずっと感じてて……」
「何を?」
「女の直感、かな?」
 寂しげに、美緒がクスッと笑った。漠然としたこのモヤモヤとした感情。不安でたまらないのだ。そばにいないという、それだけのことが、美緒を不安という茨で縛り付けている。何かに、薫を奪われそうな、そんな気がする。
「女の直感ってことは、他の女とかそういうこと?」
「さあ……わかんないけど」
「心配すんなよ。誰がどう見たって、薫は美緒に惚れてんじゃん」
「そんなの私にはわからないよ。だって先生他の女の子にも優しいんだもん」
「はあ? おまえを見る目と、よその女見る目は全然違うっつーの」
「でも、他の女の人と比較したことないから、わからないし……」
「はあ……ったく、薫の苦労が本当に思いやられる」
「何よ。そんな言い方しなくてもいいじゃない」
「ぶっちゃけた話、おまえは薫の昔の彼女と比べても、飛びぬけて一番に愛されてるよ」
「……本当?」
 泉の言葉が信じられなくて、遠慮がちに聞き返した。
 今は確かに愛されていると自覚していても、不安がなかったわけではない。特に、結城麻里という女が近くにいて、安心を許されることがなかったのだ。いつだって自信がなかった。麻里ほどの女が薫の昔の恋人だというだけで、自信なんてないに等しい。今はたとえ一番でも、過去と比べて一番愛されているだなんて、思ってもみなかった。
「俺から見ても、薫って女の付き合い方がかなりクールでさあ。でも表面的にはものすごくフェミニストだろ? だから、誰を本気で好きなのかとか、そういうの読めなかったんだよね。彼女って言ってた女にも、そう付き合い方が違うようにも思えなかったし」
「ふーん……」
「嫉妬するとこなんて想像つかないし、いつも大らかだったし。でも、おまえと一緒に居るときの薫は全然違ったから、本当におまえのことが大事なんだなあってわかったよ」
「どう……違うの?」
「余裕がない」
「余裕?」
 あっさりと言い切った泉の目を凝視する。
 注文していたケーキが運ばれてきて、そこで一旦話を切った。目の前に並ぶケーキにフォークを刺しながら、泉がまた口を開く。
「まあ、今の薫も普通の男に比べたら全然余裕そうに見えるんだけど、でも違うんだよ。なんていうか、昔は女にあまり関心がなかったのに、今はおまえが世界の中心になってる感じ」
「そうかな……」
「俺にあてつけにキスシーン見せたり、風邪を引かせたことをあんなに怒ったり、以前の薫だったら絶対考えられないね」
 時折見せる薫の感情の一部。普段冷めている分、それが泉の目には際立って映る。それに、以前言葉でもちゃんと言っていた。この世に存在するものの中で、美緒が一番大事なのだと。
「ありがとう……泉くん」
「なにが?」
「なんかちょっと自信出てきたよ。今までは、全然自信なかったから」
「なんで?」
「先生には言わない?」
「うん」
 少し心細そうに言葉を綴る美緒の声を真摯に受け止める。美緒を不安にさせるもの。なんとなく予想がついていたが、これから先聞かされる言葉は、それとぴったり一致した。
「結城先生がね……ずっと心の中で引っかかって離れないの。だってあんなに綺麗で優しい人だもん……勝てるわけないし」
「バカだなあ。麻里さんは所詮元カノだろ?」
「うん。わかってるよ。今一番愛されてるのは私だってこともわかってる。でも、それとこれとは別なんだよね」
「ふーん……」
「きっと、結城先生が、まだ櫻井先生のことを好きなのがわかるからかな」
「……おまえ」
 まさか美緒の口からそんな言葉が出るとは思っていなかった。麻里の存在はただの元カノに過ぎないのだというのは、薫の雰囲気から感じ取れるし、安心もできる。だからこそ、美緒は薫だけを信じ、麻里の気持ちになど気付いていないと思っていた。
「わかるよ。だって同じ人を想う女同士だもん……」
「だからって、おまえが引く必要はないんだぞ? それはわかってるよな?」
 優しい女だからこそ、余計なことを考えてしまう。
 もしも麻里が積極的に行動に出たら、美緒は引いてしまうのではないかと不安が過ぎって、思わず念を押していた。
「おまえは余計なことを考えずに、ただ薫のそばにいればいいんだよ。薫にとっても、それが一番幸せなことなんだから」
「……うん」
「それに、そうでいてくれないと、俺の気持ちが……」
「泉くんの気持ち?」
「いや、なんでもない」
 思わず口をついて出そうな言葉を飲み込んだ。
 泉が自分の気持ちを抑えていられるのは、美緒と薫の関係が絶対的に幸せにあるからにすぎない。それが崩れかければ、きっと泉の決心も崩れるだろう。きっと美緒を、支えずにはいられないような気がする。
「まあ、麻里さんのことは気にしなくても大丈夫だって。それよりおまえは、薫だけを一途に思ってればいいんだよ」
「うん……そうだね」
「そうそう。やっぱりおまえは笑顔が一番似合ってるよ」
「ありがとう」
 えへへ、と恥ずかしげに笑う美緒を見て、ホッと溜息をついた。やはり、彼女の脆い部分を見ると、自分の気持ちが加速してしまう。ついつい伸びそうになる手を抑えるのに、必死だった。
 会話もほどほどに、美味しそうにケーキを食べる美緒を見ながら、穏やかな気持ちに包まれる。こんな風に、目の前で笑っていてくれるだけで幸せだ。そう、思いながら。
「ところでおまえ、薫とはちゃんと連絡とってんのか?」
「うん。取ってるよ。毎日寝る前に電話してるもん。今までは電話なんて滅多にしたことなかったのに、なんか離れてる今の方が、頻繁に喋ってる気がするかも」
「それはラブラブなことでよろしいですね」
「あー。イヤミな言い方」
「それくらい許せっての。彼女のいない泉くんにとっておまえらのラブラブっぷりは結構毒なんだから」
「それは泉くんが彼女を作らないのが悪いのよ」
「……そりゃそうだけどさ」
「そんなに格好いいのに勿体ないよ」
 美緒にだけは、言われたくなった台詞。何気ないその一言が、グサッと心に突き刺さった。
 たった一人の人、その人でなくては意味がないと教えてくれたのは君じゃないか。誰も代わりになれないほど、愛させてしまったのは、君ではないか、と。
 けれど、言葉では、伝えられなかった。
「あ、もう六時半か」
「え? もうそんなになっちゃってるの?」
「ずっと喋ってたから、時間忘れてたな」
「うん」
 何気なく腕時計を見ると、夕時の終わりを告げていた。
 美緒といると、本当に時間を忘れてしまう。何をするわけでもなくずっと喋っているだけなのだが、彼女と過ごす時間は、加速がつくように早く過ぎていく。
「なあ、薫が帰ってくるのって、明後日だっけ?」
「うん。明後日の夜帰ってくるよ」
「金曜の夜か。じゃあ、俺車出すから、一緒に空港に迎えに行く?」
「え? いいの?」
「もちろん」
 本当に嬉しそうな美緒の笑顔を見て、切ない思いを胸に抱きながらも微笑んだ。やはり、薫と美緒が幸せであってくれることが、一番望ましい。
「じゃあ、迎えに行くから。どこで待ち合わせがいい?」
「学校は困るかも……」
「なんで?」
「だって、泉くんが迎えになんてきたら、また噂になっちゃうもん」
「ああ、そんな噂もあったなあ」
「今でもまだ噂されてるんだよ?」
「ふーん。まあ、俺は別にいいけど」
「ダメ。そんなこと言ってたら、また先生に怒られちゃうんだから」
「あ……それだけは勘弁」
「でしょ?」
 本当に嫌そうな表情を浮かべる泉を見て、美緒がクスッと笑った。
「だったら、薫の家で待ってるから、学校終わったらおいで。出るまでそこで暇つぶそう」
「あ、うん。わかった。学校終わったら行くね」
 ケーキを食べ終えて、一息つく。
 煙草吸っていい? と美緒に問うと、快く承諾してくれたので、遠慮なく一本手に取った。
「しかし、校医だけじゃなく、他の仕事もたくさん請け負って、働きすぎなんじゃないか? 薫は……。今回の出張も、それだろ?」
「名医さんだって有名だから仕方ないよ。引っ張りだこだもん」
「だったら、校医をやめて普通の医師として専念すりゃあいいのに」
「理事長先生が、なかなか手離してくれてないんだって、前に他の先生が言ってたのを聞いたことがあるけど?」
「まあ、美緒がいる内は、薫も校医をやめたりはしないだろうな」
 泉の言葉に、美緒がハッと目を見張る。以前、ハルカから聞いた言葉を思いだしていた。校医を二年間務めた後は、大きな一流の病院へと移ることを。それを条件に一旦恩師の元を離れ、今の薫は美緒と一緒にいられるのだ。
「そういや、薫ももうホテルに戻ってる頃かな」
「あ、そうかもしれないね」
「ちょっと電話かけてみるか?」
「え? い、いいよ。どうせ夜にかけるもん」
「なんだよ。俺の前では恥ずかしくて喋れない?」
「そんなんじゃないけど」
 テーブルに置きっぱなしになっていた美緒の携帯をスッと手に取った。一瞬、疑わしげに泉を見ていた彼女に、イタズラっぽい笑みを返す。
「どうせだから、おまえの携帯からかけてみようかな」
「どうして?」
「いや、美緒だと勘違いして、薫の違う一面が見れるかなあと思って」
「いつもと同じだよ、きっと」
 そう言って、クスクスと笑う彼女の笑顔は穏やかだった。
 まさか、この先に、絶望が待っているだなんて思ってもいなかった。美緒の笑顔を殺してしまう、そんな絶望が待っているだなんて。
 携帯を手に、薫の番号へとかける。耳に押し当てると、少し長めのコールが響いた後、途切れた。
 不自然な、間。
『……もしもし?』
 息を、呑んだ――。
 遠慮がちな声。けれど、確信のある女の声。
 耳に響いたあの人の声に、泉の身体が凍りついた。

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