華水の月

31.運命よりも君を愛す

「先生、電話に出なかったの?」
 泉が咄嗟に携帯を耳から離して、通話を切ったと同時に、美緒がポツリとそう呟いた。
 聞きなれているはずの愛らしい声。けれどその声は、泉を激しく萎縮させた。ドクン……と、無意識にも鼓動が揺れた。
「あ、うん。留守電になってたから、まだ仕事終わってないのかもな」
「ふーん。そっかあ」
「残念……だったな」
「私が残念じゃなくて、泉くんがでしょ?」
 クスッと笑って、美緒が自分の目の前に置かれたオレンジジュースのグラスを手にとった。ストローをクルクルと回す。氷がカラン……と音を立てる様が、とてつもなく現実離れして見えた。それくらい、泉の意識はフワフワとした浮遊感の中にいた。
 とりあえず、彼女から視線を外してくれたことに心から感謝した。もしもあのまま見つめられていたなら、きっと泉は誤魔化しきれなかったに違いないだろう。
『……もしもし?』
 と、耳元で響いたあの声は、紛れもなくあの女のものだとわかった。目を閉じると、いつもルージュを綺麗に塗ったあの唇が、もしもしと形を象るのが浮かんでくる。数日前に、泉の耳元で薫を愛しているのだと呟いたあの声。そして、寂しさを紛らせるために口付け合った、あの唇なのだと。
 どうせなら、曖昧なくらい確信がない方が良かった。けれど、泉の意識は、既にあの声を彼女だと認識している。ほぼ完全に近いほどに。
「俺、ちょっとトイレ行って来るから待ってて」
「うん、行ってらっしゃい」
「俺が帰ってくるまで、ちゃんとここにいろよ?」
「わかってるよ」
「絶対……いなくなるなよ?」
「どうしたの? 泉くん。なんか優しすぎて変だよ」
「いや、わかってるならいいんだ。別に……」
 曖昧な微笑を浮かべると、泉は美緒の携帯をテーブルに置き、自分の携帯を握り締めて席を立った。


 席を立って、少ししてから戻ると、そこには窓の外を眺めては遠くを見つめている女の姿があった。
 ふと、振り向いて彼の姿を見つけると、フワリと微笑む。本当に幸せそうなその笑顔に、彼の心は少し重い複雑な気持ちを覚えた。
「そんな困った顔しなくてもいいじゃない?」
 席に戻るなり、彼女が呟く。グラスの中の氷を、指でつついてクルクルと回していた。少女のオレンジジュースとは対照的に、大人の女のグラスには、淡い色のカクテルがよく似合う。
「別に困ってなんかいないよ」
「でも、楽しそうじゃないわ」
「つまらなくもないよ」
「それは、私の言葉を否定してることにはならないわよ」
「まあ、大歓迎ではないかもしれない」
「あ、本音が出たわね。薫にしては珍しい」
「本音じゃなきゃ満足しないのは誰だっけ?」
「……私かな?」
 互いにクスクスと笑った。まるで、秘密を共有するような、静かな微笑み。
「でも、もうちょっと喜んで欲しかったな」
「ん?」
「私がここへ来たことを」
「喜んだら、それはそれでおかしいだろ?」
「おかしくなっちゃえばいいのに」
「他の男が聞いたら、すぐ落ちてしまうだろうな、その台詞」
「おかしく……なっちゃえばいいのに」
 わざと、二度口にした。
 ねだるような、甘え上手の瞳が、薫を射て離さない。
「そんな風に見つめられたら、君を想う男に殺されかねないよ」
「全く……薫には全然通じないのが、癪に障るわね」
「本当に、残念だ」
「そんなこと思ってないくせに。……何も感じてないくせに」
「何も感じてないなんて、そんなことはないよ。少なからず、君を目にして驚いたし」
 高層にあるホテル内のレストラン。店一帯をグルッと取り囲むように張り詰められた窓からは、広大な大阪の風景が一望できた。陽はもう落ち、都会特有の煌めきが街を彩っていた。
 ここへ来てからもう一週間。このレストランで食事をするのももう何度目かになる今は、その景色を見慣れてさえいた。
 ただ、目の前に座って微笑む彼女だけを除いては。
「だってまさか、こんなところで会うなんて思わないだろ?」
「あら。こんなところに来てまで私に会いたくなかったって言いたいの?」
「そんなことは言ってないだろ?」
「冗談よ。ちょっとイジワル言ってやろうと思っただけ」
「悪趣味だな……」
 頬杖をついて、穏やかな笑みを浮かべる麻里を見ながら、さてどうしたものか、と考えた。
 ある意味、見慣れすぎたその美しい容姿。昔は愛ゆえに翻弄されることもあったが、今はまた違った意味で翻弄されつつあった。一度は愛した女性だからこそ、愛らしく思う部分も少なからずある。
 けれど逆に油断を許さない女でもあるのだ。互いを知り尽くしているが故に、二人はもう、ただの友達には戻れない。薫が、いくらそう望んだとしても、彼女にとってはその気持ちが迷惑でしかないだろう。
 結局、適切な対応を少し考えたところで、何も答えは出なかった。
「でも、私は運命感じちゃうけどな。こんなところでまで薫に会えるなんて」
「運命、か」
「あなたと私は、離れられない運命なのかも」
「生憎俺は運命なんて信じない性質なんだ」
「あら、人はいつだって運命に振り回されて生きているものよ?」
「だとしたら、俺はその運命さえも逆手にとって生きるよ。自分で生き方を切り開いてこそ、価値があるものだと思うから」
「相変わらず格好いいこと言うわね」
「別に格好つけたわけじゃないけどね」
「でも、もしも真中さんとの恋が運命だと言うなら、貴方は素直にそれが運命だって信じるんじゃないの?」
「……それはちょっと違うな」
「どう違うのよ」
「美緒と恋に落ちたのは、俺が偶然を運命に変えたからだよ。流されたわけじゃない」
 たとえ偶然でも、運命でも、薫はきっと美緒を離さない。もしも運命が二人を引き離そうとするのなら、薫はそれに逆らってでも美緒を愛するだろう。
 運命の力なんて、薫にとっては小さなものだ。そんなものに押しつぶされてしまうような愛情で、美緒のそばにいるわけじゃない。運命という波では薫を攫えないほど、美緒を愛してやまないのだから。
「……なんかムカツクなあ、そうあっさり言われると」
 彼女の視線をサラッと交わして、薫はグラスに入った水を一口含んだ。席を立つ前からテーブルに置きっぱなしになっていた自分の携帯を手に取る。時間は、六時半を少し回っていた。そして、着信を知らせるものは、何もなかった。
「で、おまえはいつまでこっちにいるんだ?」
「今日と明日と明後日と、こっちで仕事だから……そうね、少しゆっくりして観光でもしてから土曜の夜にでも帰ろうかな」
「そうか。おまえもこんなところまで出張なんて、大変だな」
「十日間も出張しっぱなしの薫に比べたら大したことないわよ。それに、これは自分で望んで来たことだから」
「ふーん、さすがキャリアウーマンだな」
 言葉に含まれた意味に勘付かないほど、薫は鈍感ではない。『薫に会いたかったから』という意味が、麻里の言葉の端に含まれていることは、咄嗟に気付いていた。ホテルが偶然に一緒だというありえないことも、それを証明していた。
 だからこそ、あえて反応しない。それはある意味、男と女の駆け引きだ。
「貴方って本当に話を流すのが上手いわね」
「さあ、言ってる意味がよくわからないけど」
「そういう態度って、女の気持ちを更に煽るのよ? 知ってる?」
「生憎俺は男だから、わからないよ」
「嘘。わかってるくせにわざとそういうこと言うのね。まあ、別にいいわ。……で、あなたはいつここを発つの?」
 正直に、答えていいものかどうか迷った。
 今はもう何の関係もない女なのだから、迷う必要など何もないとわかっているのに、それでも素直に口にすることを躊躇した。薫の中の何かが、麻里に対して反応していたのかもしれない。今、この女と関わるのは、良くないと。
 けれど、結局薫は、それ以上深く考えるのをやめた。
「俺は、金曜の夜にはあっちに戻るよ。飛行機も手配してるし」
「金曜の夜って、やけに早いのね。どうせなら観光でもしていけばいいのに」
「今回は仕事で来てるんだから、観光はいらないよ」
「でもせっかくなんだし、大阪の街を楽しんでもいいんじゃない?」
「遠慮しとくよ」
「ねえ、お願い。少しだけでいいから、私にも付き合って? ね?」
 華奢で綺麗な手を伸ばし、テーブルの上に乗せていた薫の手をギュッと握った。潤んだ瞳で上目遣いで見つめながら甘えるその仕草は、昔の彼女のままだった。昔は、こんな彼女をよく甘やかしていたものだと、一瞬懐かしい匂いが薫を包む。しかたがないな、と麻里の髪を撫で、優しいキスをその唇に落としていた。他の男なら、こんなふうにねだられるとイチコロだろう。けれど、薫にとってもうそれは、昔の思い出でしかない。
 今はもう、別の……。愛らしさと清らかさの漂う、最愛の彼女の海へと溺れてしまっているのだから。
「わざわざ俺じゃなくても、おまえだったら、いくらでも付き合ってくれる男はいるだろ?」
「いたとしたら、それが何だっていうの?」
「そのままの意味だよ。君を求める人と居ればいい」
「いらないわよ、そんなもの」
「だからって、俺を求めても意味がないだろう」
「……薫がそれを言うのは卑怯だわ。あなたが一番、そんな単純なことじゃないってこと、わかってるくせに」
「わかってるから言ってるんだ。俺にはもう、たった一人の人がいるから」
 あまりに悲しそうで優しい薫の微笑みに、麻里はそれ以上何も言えなかった。クッと唇を噛み締めて、言葉を飲み込んだ。
 愛する人としか一緒にいられないことも。
 だからこそ、愛せない人とは一緒にいられないということも。
 両方わかっているからこそ、薫はそう口にした。
 そこには残酷なほどの優しさも厳しさも、両方があって、なぜかそんな彼の微笑みに、涙が出そうになった。拒絶する言葉を口にしつつも、薫も少なからず傷ついていることを悟った。そして尚、やはり今でも愛してたまらないのだということを、噛み締めながら。
「新しい恋するんだろう?」
「……もう、してるわ」
「俺に縛られてたら、いつまで経ってもおまえらしく生きられないよ」
「別に、いいわよ」
「良くないよ。そんなんじゃ、これからずっと変われない」
 俯く彼女の手から力が抜けて、スルリと落ちそうになる。その瞬間、薫が麻里の手を拾い上げて、手の甲を軽く受け止めた。
「なあ。俺はさ、おまえには幸せになって欲しいと思ってるよ。今の俺が幸せなのは、おまえとの日々があったからだ。おまえに会えたことを、誰よりも誇りに思うし、だからこそ、おまえが幸せであって欲しいと願ってやまないよ」
「……誇りなんて……いらないわ」
 麻里が悔しそうに首を振る。
「幸せであって欲しいだなんて……願ってほしくもない。特に薫にだけは、そんなこと思われたくない!」
 握る彼の手を、絶対離すまいと強く握り締める。長い爪が薫の手に食い込む。麻里は唇を噛み締めながら視線を上げると、複雑な表情を浮かべる薫をじっと見つめた。
「私は、貴方が幸せなのがすごく嫌よ……。どうして、その幸せのそばには私がいないのかって思うと、すごく憎いわ……。幸せな貴方たちを見てると、嫉妬だってする。真中さんのこと、可愛くていい子だって、頭ではわかってても、やっぱり妬んでしまうの。……だから、他の男との私の幸せを、願って欲しくもないのよ。そんなこと、言われたら言われるだけ、気持ちが歪んでゆくわ」
「……もういいよ。それ以上言わなくても」
「ねえ、薫……私だって本当は幸せになりたいのよ」
「わかってるよ」
「愛する人と、ずっと一緒にいたいの。誰よりも誰よりも、薫」
「それ以上言っちゃダメだ」
 誰よりも、薫と一緒にいたい。
 そう言い終えるより先に、彼の指が、麻里の唇に触れた。そっと言葉を噤むように、優しい指先が唇を制した。
 困ったようで、それでいて優しい笑顔。そんな彼の表情に、一瞬、遠い昔別れ話をした時のことを思い出した。あの時の彼も、こんな風に微笑んで、麻里の気持ちを受け入れてくれた、と。
「それ以上言ったら、俺はもうおまえとは一緒にいられなくなるよ」
「なん……で……」
「こうやっておまえと話すことも、笑い合うことも、何もかもできなくなる。思い出を、思い出として置いておけなくなる」
「どうしてよ……」
「世界中の誰よりも、美緒のことが大事だから……」
「そんなの……っ」
「美緒を不安にさせるものを、何一つ持っていたくない。美緒を悲しませずに済むのなら、俺はいくらでも悪になれるよ。たとえ、誰かを傷つけたとしても……」
 あまりにサラッと言い放ったその言葉は、麻里の心を甘く傷つけた。
 自分以外への女への、愛の言葉。昔は、自分に向けられていたはずの言葉。甘い言葉の裏には、愛しているが故の、残酷すぎるほどの薫の恐ろしさを見た。その言葉を聞いて傷ついたはずなのに、とてつもなく惜しくなる。そんな彼の甘い言葉を、自ら捨ててしまったということに。
「薫は……ずるいわ」
「そうか?」
「誰よりも真中さんだけを大事にしているのに、他の女をも貴方の中で泳がせておいて……。溺れそうになったらそっと手を差し伸べるのよ。でも、助けた後は、再び海へと解き放つの。いっそ、溺れて死んでしまえたら楽なのに、貴方が助けたりするから、女は皆それを期待して、ずっと泳ぎつづけるわ。……たった一瞬の優しさでも、手に入れられることが、どれだけ幸せなのかを知っているから」
「過大評価しすぎだよ……」
 いっそ、徹底的に嫌われたなら、諦めもつくのだろうか。
 けれど薫は、今回も麻里を、溺れる海から救い上げた。言葉にさせないことで、そばに置く理由を残しておいてくれた。感情に流されるまま、言葉を紡いでしまう麻里の心に、クッションを置くように。
 いつも、薫に救い上げられて気付くのだ。今の、絶妙な距離感の幸福さを。
 薫はいつだってラインを引いていて、そこを超えようとしない限りは、どの女に対しても優しい。けれどそれを超えてしまえば、もう振り向いてもくれなくなるのだろう。そのラインは、美緒を傷つけるか、傷つけないかのラインだ。そして、最愛の美緒と、そうでない人間との区別をつけるライン。
 今は、そのラインに甘んじてでも、彼のそばにいられることの幸せを望んでやまない。拒絶なんてされたら……もう生きてはいけないかもしれないと、麻里はそう思った。
「あ、料理が来たみたいだよ」
「……うん」
「あんなにたくさん頼んだんだから、ちゃんと食べろよ?」
「わかってるわよ」
 並べられていく料理たち。薫に会えたことがよほど嬉しかったのか、麻里が手当たり次第に頼んだものばかりだ。
 触れていた手をそっと離す。苦笑している薫を見て、麻里も小さく微笑みを零した。
 いつも感情のままに走り出そうとする麻里を、薫は優しく引き止める。それは昔も今も変わらなくて、やっぱり薫はいつだって麻里の一歩前を行く大人だった。そして、彼の隣を歩く美緒にも、一歩遅れている、そう思った。
「おい、携帯鳴ってるけど?」
 並べられた料理を、さて食べようかとした時、麻里の携帯が鳴った。薫の言葉に、すぐさま携帯を取り出して画面を見、そして一瞬彼女の目が見開いた。
「どうした? 出ないのか?」
 鳴りつづけているコールを無視するというよりは、あえて出ようとしていないのだと取れる雰囲気に、薫が怪訝な表情を浮かべる。
『櫻井泉』
 そう表示された画面をしっかりと目に焼き付けた後、麻里は小さく溜息をついて、そして何かを覚悟した。
 直接、泉と繋がるものはない。けれど、もう既に、このコールの意味を、彼女は感じ取っていた。
「先に食べててくれる? 私、ちょっと電話に出てくるから」
「ああ。ゆっくりしてきていいよ」
「ごめんね。じゃあちょっと失礼するわ」
 鳴り止まないコールを一旦切って、彼女は席を立った。

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