華水の月

32.愛に色、月影にふたり

『どうしたの? 泉くんが電話かけてくるなんて、珍しいわね』
 麻里からのコールが鳴ってすぐに携帯を耳に当てると、落ち着き払った彼女の声が曇ったように響いた。
 その声の抑揚のなさが、逆に泉の焦りに拍車をかけた。
「ねえ、麻里さん今どこにいるの?」
『なんでそんなこと聞くの?』
「質問に答えてよ。俺、今そんなに余裕ないんだよね」
『何の余裕?』
「麻里さんを許せる心の余裕」
『どうして? 私何か泉くんを困らせるようなことしたかな』
「ああ。すっげー困ってるよ。なんで麻里さんがそこにいるのか、全然わかんないんだけど」
『まだどこにいるとも言ってないでしょ?』
 電話越しに、クスクスと笑う彼女の声が聞こえた。落ち着き払った態度が憎らしい。彼女が余裕を見せれば見せるほど、泉の気持ちは追い詰められていった。
「さっき……電話に出たの、麻里さんだよな?」
『電話って、何のこと?』
「薫の携帯に女が出たんだ。言わなくてもわかってるよ。俺が麻里さんの声を聞き間違えるわけないからね」
『なーんだ。あの電話って、真中さんじゃなくて泉くんがかけてきたんだ。……残念』
「残念って……何が?」
『私はてっきり、真中さんが声を聞いてて、それで泉くんに相談したんだと思ってたの。だから泉くんがこうやって電話かけてきたのかなあって』
「美緒は……聞いてないよ。むしろ聞かなくて良かったと思ってるし」
『私は、聞いてるつもりで、電話に出たんだけどな』
 まるで、ゲームを楽しんでいるかのような、余裕のある声。
 一瞬、女の恐ろしさを見た気がした。欲しいもののためなら、とことん残酷になれる、女の恐ろしい部分を。
「美緒が聞くかもしれないのわかってて、わざと……ってこと?」
『そうだって言ったら?』
「…………」
 何も、言葉を返せなかった。麻里の薫に寄せる想いを痛いほど知っているからこそ、責められなかった。その行動の裏には、きっと苦しいほどの感情を抱えているに違いないと、想像できたからだ。歪んだ行動の片隅にも、彼女の寂しさが見えた気がした。
「ねえ、どうしてそこにいるのか答えてよ。薫は今大阪にいるはずだろ?」
『そうよ。私も仕事で大阪に来てるの』
「麻里さんも、出張?」
『ええ。そこで、偶然薫に出会ったっていうわけ』
「……本当に偶然か?」
 大阪への出張も。偶然薫に出会ったことも。泉の疑念を汲み取って、少しの沈黙の後、麻里がクスッと笑った。怪訝な表情を浮かべたままの泉とは、対照的だった。
『さすが泉くんね。相変わらず察しがいいわ』
「今回ばかりは誉められてもあまり嬉しくないけど」
『想像の通り、追いかけて来ちゃった。だって、会いたくてたまらないんだもの』
「だからって……」
『女をわかってないわね。少なくとも私は、会いたくなったらどこへだって行くわよ。普通だったら行きたくもない出張だって、薫に会うためなら喜んで飛んでいくわ。結構情熱的でしょ?』
 あまりに無邪気な物言いに、一瞬毒気を抜かれた気になる。
 会いたいから会いに行く。
 ただ単純な行動。けれど、ただ単純では会いに行けない距離。普通だったら、考えだけで止まるだろう。けれど今、麻里は薫のそばにいる。
『でも、そういう泉くんだって、何してるのよ。真中さんの携帯に出たってことは、一緒にいるんでしょ?』
「うん。いるよ」
『真中さんが一人なのをいいことに、手出してるの? そうよね、今が絶好のチャンスよね』
「俺は……そんなことはしない。薫の代わりに、そばにいるだけだし」
『代わり? 泉くんがそばにいたいだけじゃないの?』
 言葉の端に、嘲笑を残した。いつもは優しく明るい麻里が、今日は憎らしいほど女めいて見える。その心の奥底に秘める醜さも、狡さも、声を辿って伝わってきた。
「なんか、今日の麻里さん……いつもとちょっと違うね」
『違わないわよ。おかしなこと言うわね』
「違うよ。いつもはそんな、他人を突っ撥ねる感じじゃない。もっと優しくて、大人の女だ」
『これも私なのよ。本当の私。別に幻滅してもいいわよ。女として汚いのは、自分でもわかってるわ』
「汚いだなんて、そんなことは思ってないけどさ」
『ダメなのよ。薫を前にすると、私……途端に余裕がなくなるの』
「麻里さん……」
『どんどん嫌な女になる。自分でわかってる。そんな自分がすごく嫌よ……それでも欲しくて欲しくて止められないわ……』
 今度は、言葉の端に寂しさが見えた。軽く目を閉じて、切なげに微笑む麻里の姿が目に浮かぶようだった。
 言葉と、行動の矛盾。頭で感じていることと、心で感じていることの矛盾。彼女も、苦しくてたまらないのだ。頭ではわかっていても、心が言うことを聞かない。
 人間、誰しも幾つもの顔を持っている。薫に愛されていた当時の麻里の愛らしい姿も、泉に抱かれようとした時の寂しげな大人な雰囲気も、それはそれで麻里に違いはない。そして、今電話の向こうにいる、刺々しい麻里も、彼女自身に違いはないのだ。
 ただ、本当に好きな人に愛されているかどうか、ということ。たったそれだけのこと。ただそれだけのことでも、女は愛に色を変える。愛されれば愛されるほど、可憐に色づき、そして叶わぬ思いを胸に抱き愛されたいと欲を出せば、嫉妬の色を漂わせる。そんな彼女の今の色は、心から切なさを漂わせていた。
「ねえ、麻里さん……」
『……何』
 無機質な声が返ってくる。泉は、一つ息を吐くと、小さく呟いた。
「お願いだから、美緒を悲しませるようなことだけは……しないで」
『…………』
「美緒を……傷つけないで」
 彼女は、何も答えなかった。
 この言葉は、麻里にとって如何に残酷なのかということを、重々承知している。美緒を庇えば、麻里の心に傷をつけるとわかっている。けれど、言わずにはいられなかった。最愛の人の傷つく顔を、見たくはなかったから。
『ねえ……それって本心なの?』
「え……」
『本気で、そう思うの? 薫と真中さんが幸せでいてくれたらそれでいいって、本当にそう思ってるの?』
「……もちろん、思ってるよ」
『それって……本当に真中さんのこと愛してるって言えるの?』
 泉の言葉が、全くもって不可解だとも言いた気に、麻里の言葉が曇った。いつもストレートに人を愛する麻里にはわからない感覚。
 わかるはずもないのだろう。麻里にはけして感じられない感覚を、泉は胸に秘めている。そう、恋敵は、最愛の兄なのだという現実を……。だからこそ、その関係が壊れることに、どれだけ臆病になるのかということも、けして彼女にはわからない。
「愛してるから、傷つけたくないんだよ。それが麻里さんを傷つけることだとしてもね」
『そういうところ……薫に似てるわ。綺麗事ばかり言うのね。好きだから傷つけたくないって……』
「誰だって、好きな人の悲しい顔なんて、見たくないだろ……」
『私なら、自分の力で好きな人を幸せにしたいって思うわ』
「俺は、誰のそばであれ、美緒が一番幸せであってくれたら、それでいいよ」
 口では、そう言っていても、麻里の言葉が、一つ一つ心に刺さっていた。今まで、わざと触れてこなかった秘めた部分に、麻里の言葉が忍び込んでくる。隠してきた感情を、こじ開けられそうになる。それは、麻里の想いが泉の想いと重なれば重なるほどに……。
 それを、必死で誤魔化すように、まるで言い訳のように言葉を綴った。
「俺は、美緒の傷つく顔も、薫の傷つく顔も見たくないんだよ。傷つけずに済むなら、いくらでも秘めていられる」
『いつか、言わずにはいられない時がくるわよ。そんな風に綺麗事で割り切れるのなら、私はいつまでも薫を想ったりしない』
「……そうだよな。でも、望まずにはいられないんだ。二人が幸せであってほしいって」
 本心から、そう口にした。心から心から、尊敬する兄と、そして最愛の彼女が幸せであってくれることを願っている。それは、泉の恋心を別として。ただの一人の人として、二人が幸せであってくれればいいと、そう願っている。
 麻里に共通する感情は、あえて見ないフリをした。それが、最善であると信じてやまないからだ。
『でも、泉くん……』
「何?」
『私はそんな風には、思えないわ。好きな人が幸せであればいいだなんて、そんな大人な考え方、できないのよ……』
 悲しげな微笑が、目に浮かぶようだった。そんな風に言葉を口にする彼女は、昔感じた彼女のままだったように思う。そう、薫に愛されたいのだと全身で訴えかけていた、あの麻里の姿と。
『真中さんが、私の妹なわけでもない。彼女の幸せを願ってまで、自分が我慢していられる余裕も、義理もない。だから、泉くんの気持ちも私にはわからないわ。泉くんが、私の気持ちをわかってくれないようにね』
「わかってるよ……麻里さんの気持ちなら」
『……そう』
「わかってて言ってる。頼むから、美緒から笑顔を奪わないで」
 結城麻里という存在に、美緒は本当に怯えている。無理して作った笑顔の裏に、いつも大きな不安を抱えている。薫にはけして言えない想い。けれど、美緒はそれを泉にだけ打ち明けて、それでも不安に震えていた。
 だからこそ、どうしても守らなければいけない。けれど、そんな泉の想いは、薫に向かって突き進む麻里の気持ちには届かなかった。
『悪いけど、止められないわ。私だって、薫じゃなきゃダメなの。薫じゃないと、私は私でいられないの……それくらい愛してるわ。……だから、泉くんには悪いけど、ごめんね』
 彼女の声は、突然訪れる静寂とともに途切れた。
 泉に、不安の風だけを残して……。


 麻里が大阪に仕事に来てから、二日目。
 観光をして帰ろうと誘う麻里の言葉を、軽やかに無視して、薫は予定通り明日の夕方大阪を発つと言っていた。一日目も、二日目も、やはりメインは仕事だけあって、そう薫と一緒にいられる時間があるわけではなかった。食事は一緒にしてくれるが、その後は自分の部屋へと戻り、麻里の相手をすることはなかった。
 少しぐらい揺れてる素振りを見せて欲しいのに、相変わらず薫はクールで、何を言っても何をしても麻里に揺れることはない。いつも穏やかな笑みを浮かべ、甘やかしてはくれるが、感情を見せてくれることはなかった。
 その余裕さがものすごく憎らしい。こんな時、昔の薫ならば、一つ一つの言葉を拾い上げるように麻里に応えてくれていたのに……。言葉だけではなく、その指で、唇で、愛してくれていたのに……。
 女として扱ってくれていることには変わりはない。ただ、その平静を装った態度は逆に、麻里自身が他の女と同等だという位置付けを認識させられる他なかった。今はもうただの女の一人なのかと思うと、やりきれない思いが胸を切り裂いた。

 薫との食事の後、部屋に戻ってから二時間あまり。
 小さく溜息をついて、ベッド際に置いてある時計をちらりと見る。もうすぐ夜の九時をさそうとしていた。シンと静まり返った一人きりの部屋では、呼吸さえもひどく響く。
 時計の横に置かれている電話が、ふと目についた。何かに導かれるようにその受話器を手に取ると、ゆっくりと番号を押した。
『……はい、もしもし?』
 数回のコールの後、電話越しに聞こえた薫の声に、息が止まりそうなほど愛しさが募った。


「で? 誰が病人だって?」
 腕組みをしてドアの前で立ったままの薫を、麻里が部屋の中へと押し込んだ。背中をグイグイと押して、ベッド際まで連れて行く。けれど彼はそこで足を止め、麻里が促すように座ることはなかった。
「さっきは本当にお腹が痛かったの」
「泣きそうな声で電話してくるから心配したってのに、まさか仮病だったとはな」
「仮病じゃないわよ。本当よ」
「じゃあ俺が来る間に、すっかり治ったってことか?」
「んー。どっちかっていうと、薫の顔を見たから治ったのかも」
 クスッと笑って、まるで少女のように薫の腕にまとわりついた。そうでもしなければ、真面目に薫の言葉を受け止められなかった。
 あの氷のような目は、たとえ相手が女であっても、嘘をつく心を許さず萎縮させる。
「俺は薬じゃないんだから……」
「でも、私にとっては何よりの精神安定剤だわ。あ、その逆もあるかな」
「もう大丈夫なら安心したけど……」
「薫がすぐ来てくれて嬉しかった」
「そりゃあ、病人がいるとなると、黙って見過ごすわけにはいかないだろ?」
「さすがお医者様」
 お腹が痛いと嘘を吐いて薫を部屋に呼び寄せた。ただ会いたいからという理由では、薫は絶対に麻里の元へなど来ないだろう。優しいけれど、そういうラインをきっちりと引いている男だ。
 けれど、男という立場ではなく医者という立場でなら、薫を動かせると、そう思った。案の定、電話をかけてから数分後、薫は麻里の部屋へ駆けつけてきた。たとえそれがどんなに卑怯なことなのかとわかっていても、薫が麻里のために動いてくれたことは、素直に嬉しかった。
「まあ、おまえがもう大丈夫って言うのなら、安心したよ。じゃあ、俺は部屋に戻るから」
「ちょっと待って! まだいいでしょ。ね?」
「ここにいる理由がない以上、いられないよ」
「理由ならあるわよ」
 部屋を出ようとする薫を必死で引きとめた。呆れた表情を浮かべる薫が、とても悲しい。
 でも、今この手を離せば、もう二度と薫に触れられる機会はないように思えた。
「今日ね、美味しいワインを買ってきたの。一緒に飲もう?」
「悪いけど……」
「お願い。観光に付き合ってくれないんだから、それくらいいいでしょ? それとも薫は、いつから女の誘いをそんなに邪険に断れる男になったのよ」
「…………」
「ね? 私のワガママ、少しは聞いてくれたっていいでしょ?」
「……ったく」
 薫が小さく溜息を零した。ただそれだけのことが、麻里をひどく安心させた。
 とりあえず、彼の時間を少しでも奪えたことは確かだった。

 ワインとグラスを取ってくるからと告げて、窓際にある小さな洒落たテーブルとソファに薫を促した。
 薫は言われるがままにソファへと腰を下ろすと、麻里から視線を外し、外の光景を眺めた。
 明るい部屋内とは対照的に、街は小さな煌めきをまばゆいばかりに散りばめている。暗い街に宝石を落としたかのような。その光景が、一瞬、美緒に贈ったピンクダイヤモンドを思わせた。
 今ごろ美緒は何をしているのだろう。どんな風に会えない時間を過ごしているのだろう。そんなことを愛しく思いながら。
 吸い込まれるような豪華な夜景は、大阪の地へ来てからのどの時よりも輝いてみえて、時間を忘れるように見惚れてしまっていた。少し感傷的な気持ちになるのは、やはり美緒に会えない日々を想うのと、そして、やっと明日には会えるという期待が薫の胸を満たしたからだろう。
 離れる前に見せた美緒の寂しそうな表情。美緒には悪いけれど、そんな彼女の態度は、薫にとってこの上なく甘美なものだった。愛されているから寂しいと思う。離れたくないと願う。そういう感情を昔はけして見せなかった美緒。けれど今の美緒は、薫からの愛を素直に受け入れて、可憐なばかりに咲き誇る花のようだ。愛してやらなければ、その花が枯れてしまうほどに……。
 ポケットに入れていた携帯を手に取る。特に用はなかったけれど、明日帰ることを美緒に告げておこうと思い、メール画面を開いた。その瞬間、パチン! という音と共に、部屋が明るさを失い、そして携帯の液晶だけがぼおっと怪しく浮かび上がった。
「……結城先生?」
 故意的に電気が消されたことはすぐにわかった。そして、それをしたのが麻里であることも。
 名を呼んだが、返事は返ってこず、しかたなく薫は暗闇の中で彼女の姿を捜し求めた。シンと静まり返った空間が、やけに焦燥感を募らせた。
「薫」
 案外近くに声が聞こえて、その声のする方へ視線を向ける。するとそこに、スラリとした影が見えた。いいや、影ではなく、光。暗くなってから初めて気付く月光が、彼女の裸体を、青白く浮かび上がらせていた。白い肌も、豊かな胸のシルエットも、細い腰もそのままに青白く。その光景は、震えを覚えるほど妖しく、妖艶だった。
「私のこと、ちゃんと見てよ……」
 一糸纏わぬ姿の彼女が、ゆっくりと薫の元へと近付く。一歩ずつ近付くにつれて、その美しい姿全てが、薫の目に焼き付いた。秘めるくらいの二人の呼吸が、ひどく緊張を張り詰めさせた。
「お願い……少しでいいから、私を愛して」
 柔らかく触れる肌。空中を彷徨うかのように、薫へと手を伸ばした後、麻里は薫の背に手を回し強く抱き締めると、自分の体を全て押し付けるように、苦しいほど力を込めた。それ以上に、苦しくなる胸の思いを、抱えながら。
「全てを愛してくれなんて言わない。あなたの全部が欲しいなんて言わないわ。だからお願い……今夜だけでも構わないから」
 泣きそうな声で、懇願した。
 本当は、薫の全てが欲しくてたまらない。けれど、それが叶わないのなら……。一生愛して欲しいなどとワガママは言わない。少しだけでも、構わない。そんな想いに縋ってでも、薫が欲しくてたまらない……。
「私を……抱いて……」
 薫の胸元に零した、消え入りそうな声。頬をすり寄せて、愛して欲しいと心から願った。薫を抱き締める腕は、この上なく臆病だった。
 響く――鼓動。
 すると、少しの沈黙の後。彼女のその無防備なほどの華奢な背中に、薫の両手が包むように触れた。

 煌めく街は眠らないのに、月に隠れるこの世界には、二人しかいなかった。

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