華水の月

33.甘い麻薬

「おまえさあ、早く来過ぎ」
 溜息混じりでそう呟くと、彼女は唇を尖らせた。
「だって、学校終わったらすぐに来いって言ったの泉くんじゃない」
「それにしても早すぎ」
「別にいいでしょ。遅れるよりはマシなんだから」
「そんなに早くここに来たって、薫の飛行機の時間は決まってんだぞ?」
「わかってるもん」
「まあ、なんていうか……さすが恋する女の子って感じ?」
「もう! イジワルばっかり言わないで」
 玄関に美緒を迎え入れ、靴を脱いで揃える彼女を背にリビングへと続く廊下を歩く。合鍵を使って拝借した薫の部屋は、彼がいなくとも、その雰囲気を醸し出していた。置かれている家具も、色使いも、そして香りも。
 美緒も、そんな雰囲気に心落ち着くのか、泉の背を追いかけるように、小走りに駆け寄り、穏やかな表情を浮かべていた。
「おまえって帰宅部だっけ?」
「うん、そうだよ。図書館の受付とかは、週に一回やってるけどね」
「ああ。薫といつもこっそり会ってるあの図書館か」
「な、なんで知ってるの?!」
「……いや、適当に言ってみただけだけど?」
 目を丸くして驚く美緒の表情がおかしくて、クスクスと笑った。
 美緒は本当に嘘を吐けない性格をしている。泉の笑いに、不満げに頬を膨らませる姿さえ、素直そのものだ。そんな彼女だからこそ、心惹かれた。
「ていうか、薫が空港に着くのって、確か七時くらいだよな?」
「さあ、よく知らないんだけど」
「なんだおまえ。聞いてないのか?」
「だって、言わずに迎えに行って、先生をびっくりさせたかったんだもん」
「まあ、なんて可愛らしいこと」
「あー、何よその言い方。すごくわざとらしい」
 二人揃って、笑いあった。
 泉は、美緒をソファに促すと、冷蔵庫からジュースを二本取り出して、一本を彼女に渡した。そして、自然と隣へと腰を下ろす。
 以前の美緒なら、別のソファに座れと言ったかもしれないが、泉に心を許し、兄のように慕っている今では、そんな泉の行動を何も不思議に感じないようだった。
「確か七時過ぎに空港に着くって、昨日の夜電話した時に言ってたから、ここを出るのはせいぜい六時ごろだぞ。あと二時間ちょいあるけど」
 美緒の後ろにある時計に目をやると、まだ午後四時を回らない時間だった。
 すると、美緒がその視線を遮るように、泉の目を覗った。
「昨日、先生に電話したの?」
「え? あ、うん。した」
「そうなんだ。私もね、昨日先生に電話したんだけど、出なかったから、仕事で忙しいのかと思ってたの」
「それって何時ごろ?」
「んーと、十時前くらいかな?」
「ふーん……まあ、何かしてたんだろ?」
「かな? あんまり気にしてはいないんだけどね」
 ――昨夜の十時頃。
 その時、偶然にも、泉も薫に電話をかけていた。
 美緒が言っていたのと同じく、薫は全く電話に出る気配がなく、留守電に繋がるのみだった。やっと電話が繋がったのは、日付が変わるか変わらないかの時間帯。その間、薫がどこで何をしていたのかは、知らない。仕事だったのか、それともプライベートで何かがあったのかさえ。
 相変わらず、抑揚のない薫の話し方は、いつもと変わりがなかった。感情の起伏を感じさせない、穏やかな話し方。相手を安心させる、優しい話し方。
 いつもの泉なら、そんな薫の変わらない姿に、不安を覚えることはなかっただろう。だが、薫のそばに麻里がいることを泉は知っている。だからこそ、この空白の数時間を、あえて明らかにする必要性を感じなかった。
 いいや、明らかにしてはいけない予感がしていた。
「まあ、おまえが迎えに行ったら、さすがの薫もびっくりするだろうな」
「そう思う? なんか、すごく楽しみなんだあ」
「薫を驚かせるのが?」
「うん。それにやっぱり、私が早く会いたくて仕方ないのかも」
 ソファに置いてあったクッションを胸に抱え込んで、美緒が恥ずかしげに微笑んだ。
 薫に恋をしている――。それを感じさせる、笑顔。
 そんな彼女を見ていると、切なさに息が詰まりそうになって、泉は自然と視線を外していた。手に持っていたジュースを、ゴクリと一口飲む。詰まりそうだった息は、なんとか通って、冷たい感触を胃に残した。
「しかし、あと二時間どうするよ?」
「どうするって、何が?」
「先に空港行って待ってる? それとも、時間潰しにドライブしたりとか……もしくは、出る時間までここにいるか」
「泉くんの好きにしていいよ。泉くんが、私を一番負担に感じないのを選んでくれたらそれでいいから」
「おまえを、負担? ……そんなこと思ってんのか」
 彼女の言っている意味がよくわからなくて、泉は美緒に視線を投げた。すると、ポカンとした表情で、美緒があっけらかんと答えた。
「だって、せっかくの週末を私に付き合ってくれてるんだもん。迷惑なのもわかってるし、私がワガママなのもわかってるよ。……泉くん、ごめんね?」
「バーカ。迷惑だなんて思ってないよ。俺が好きでおまえに付き合ってんだから」
「でも……大事な泉くんの時間、取っちゃってるし、なんだか申し訳ないよ」
「ったく、おまえは余計なことばっかり考えすぎなんだよ」
 美緒の頭に手を回して、引き寄せた。バカな奴だな、と、呆れたように溜息を零しながら。
 自然と泉の肩に、美緒の髪が触れる。
「もっと欲張りになれよ。なんでいつもそんなに謙虚なの?」
「充分すぎるほど欲張ってるよ。だって……あんなに素敵な先生の心、一人占めしてるもん」
「アホか。薫だっておまえの心一人占めしてんだから、お互い様なんだよ。それに、おまえって人に甘えるのが下手すぎ」
「そうかな?」
「いつも我慢ばっかして、自分の気持ちより他人のことばっかり。もっとワガママ言っていいのに」
「でも、難しいよ……」
「俺にはまあ、甘えてくれてる方だと思うけどさ」
「うん、泉くんには何でも言いやすいの。本当のお兄ちゃんみたいだもん」
 出会った頃は、泉に心を許さなかった美緒。けれど今は、素直すぎるくらいに泉に心許している。頼るだとか、尊敬するだとか、そういう意味とは違うけれど、美緒はいつだって素直に泉に心を見せていた。反抗するのも、甘えるのも全て泉にだけは。彼女にとってそれは、本当に兄妹のような関係。縮まろうにも、それ以上近くならないくらい近い距離。けれど、恋心は……けして届かない距離。
 泉は、肩に引き寄せた美緒の髪に手をやると、クシャクシャっと弄った。サラサラとした感触が手に残る。
 すると、美緒が泉のその仕草を受けて、小さく呟いた。
「早く帰ってこないかな」
「ん?」
「今、泉くんが私の髪をクシャッて触ったでしょ? なんか、先生を思い出しちゃった」
「……コレ?」
「うん、それ」
「薫のクセだもんな」
 再び髪を弄ってそう聞くと、美緒がクスッと笑って答えた。
 泉にも覚えのある、薫のクセ。あの大きな手で触れられると、何もかもを許されているような、守られているような、そんな感覚を呼び起こしてくる。それは泉だけでなく、美緒にとっても同じだった。
 美緒は、泉の手から離れ、体を起こすと、再びクッションを抱え込んできちんと座った。頬は少し赤らんでいて、彼女の心の中に、薫がいることを印象付けた。
「じゃあ、六時頃までここでダラダラするか」
「ダラダラなの?」
「そうそう。おまえ相手にシャキッとしても意味ないだろ?」
「えー。なんかそれ、あんまり嬉しくないよ」
「俺も、おまえの前だと気が抜けるってことだよ」
「気“が”抜けるじゃなくて、気“を”抜ける、じゃないの?」
「どっちでも一緒じゃんか」
「一緒じゃないもん。全然違うもん」
「じゃあ、後者でいいですー」
「あ、またそうやって適当に返事するんだから」
 ぷうと頬を膨らませる美緒を見てクスッと笑うと、泉は大きく背伸びをした。
 美緒のそばはとても心地よい。それは、彼女の持つ柔らかい雰囲気や、ゆっくりとした穏やかな話し方が人の心を癒すのかもしれないが、一番の理由はやはり、愛くるしくてたまらないその笑顔を近くで見ていられるからだろう。時折切なさに胸を掻き毟ることはあるけれど、二人でいる時は幸せで、満たされていた。
 だからなのか、美緒の隣にいることの心地よさに慣れてしまうと、現実に引き戻されることに途端に臆病になる。最愛の兄が帰ってくることを、心から喜べなくなるのだった。
「私、ちょっと着替えてくるね」
「は? なんで? そのままでいいじゃん」
 ソファの脇に置いていた鞄を抱えて、美緒が立ち上がった。
「ダメだよ。制服のままじゃすぐにバレちゃうもん」
「俺は、制服の方がいいと思うけど」
「え? どうして? 普通の服じゃおかしい?」
「いや、だってさ、久しぶりに会うんだろ?」
「そうだよ?」
「今日、もちろん泊まるつもりなんだよな?」
 どうなるかは決まっていないが、とりあえず両親には友達の家に泊まると言ってある。
「……そのつもりだけど」
「だったら、制服の方が何かと燃えるじゃん」
 平然とした顔で美緒を見上げながらそう呟いた。
 最初はその意味をよく理解できていなかったが、段々とわかり始めると、美緒は瞬時に頬を赤らめ、そしてさっきまで自分が抱えていたクッションを、泉の顔に投げつけた。
「もう! そうやっていつもエッチなことばっかり考えてるんだから!」
「痛っ。俺は何も言ってないだろ? おまえが勝手に変な想像したくせにさ」
「泉くんのことだから、エッチなことに決まってるもん」
「男なんて皆そんなもんなんだよ。薫だって一緒一緒。頭ん中でエロいことばーっか考えてるに違いない」
「そんなこと……」
「どうやっておまえにエッチなことしようか、いつもそればっかり考えてるって」
「もう知らないっ。バカ泉!」
 冗談めいた口調で美緒をからかうと、彼女は憤慨して鞄を胸に抱え込み、足早に脱衣所へと閉じこもった。薫のことを、何も否定せず逃げるように去ったのは、美緒自身に思い当たる節があるからだ。少なからず、泉の言う通り、薫もかなりエッチだ。言葉も仕草も全て、美緒を性という快楽の渦へと誘う。
 通り過ぎざま、顔を真っ赤にしていた美緒を思い出して、泉がクスクスと笑った。


「まあ、なんて可愛らしいこと」
 さっきどこかで聞いたようなわざとらしい台詞を、泉がまた口にした。
 制服から、愛らしい清楚な服装に着替えた美緒が、それに似合わぬ苦い表情を浮かべた。よほど、泉のこの冗談口調がお気に召さないらしい。
「どうせ可愛くないもん」
「なんだよ、可愛いって言ってんだろ? 信じろよ」
「そんな言い方されて信じられるわけないでしょ」
 ただ可愛いと言うよりは、むしろ可愛らしさと美しさを両方秘めていると言う方が正しい。少女なりの幼さや愛らしさはもちろんあるものの、美緒が元々持っている上品な雰囲気や身のこなし、そして綺麗に整った顔立ちは可愛さの中に美しさを感じさせるのだ。だからこそ、年の離れた薫と並んでも、彼らは全く違和感がない。
 美緒がそう感じさせる分、薫も一見年齢不詳ではあるのだが。
 洗練されたファッション、シャープで美しい顔立ち、そしてフランクなあの性格。外見だけなら、泉とそう年齢は変わらなく見える。ただ、薫の知的な雰囲気や落ち着いた身のこなし、そして妖艶な色気は、泉と違って『大人』という雰囲気を醸し出しているのだ。顔立ち自体は似ていても、やはり二人は似ているようで別の人間だ。
「あ。なんかすっごい綺麗なネックレスしてるじゃん」
「あ、これ?」
「おまえによく似合ってるな」
 胸元でキラキラと光る大きな石に思わず目がいった。少しピンクがかっている石は、美緒の白い肌にも、その愛らしい雰囲気にもぴったりと合っていた。制服を着ている時は、胸元にある大きなリボンのせいでわからなかったが、今はその存在感を惜しみなく見せ付けている。
 細い指にチェーンを絡ませると、美緒が少し恥ずかしげに微笑みながら、その石を見つめた。
「これね、先生がくれたの」
「なんだ、薫からのプレゼントか」
「うん。私にはまだ早すぎる石だし、こんな高価なもの貰えないって言ったんだけどね」
「貰えるものは遠慮せず貰っとけよ。薫だっておまえにプレゼントできるだけで嬉しいだろうしさ。で、その石って何?」
「ピンクダイヤモンド」
「ピンクダイヤ……? また偉く高価なプレゼントだな」
 だが、そのまばゆい輝きに、美緒は負けていない。むしろ、文句なく似合っている。やはり、本物には本物を、と言ったところだろうか。薫のセンスに、心から感嘆した。
「でも、さすが薫だな。おまえに似合うもの、よくわかってるよな」
「本当に似合ってる?」
「ああ。普通のダイヤより、おまえにはピンクの方が似合ってると思うよ」
「そっか。……なんか安心した」
 心底安堵して、美緒が頬を綻ばせた。
 思えばいつだって、泉は美緒の不安を掬い上げている。薫から贈られる愛情を、そのまま受け取っていいのだと言い聞かせるように。薫を愛しているからこそ臆病になる気持ちを、泉はいつも素直に受け止めさせてくれるのだ。
 だからこそ、美緒は泉に対してだけは、どんな感情も素直にぶつけられるのかもしれない。


「美緒、眠いの?」
 ひとしきり談笑して、少しゆっくりとした時間が二人の間に流れると、途端に美緒が、小さな欠伸をした。覗き込んで表情を覗うと、眠そうな目をして泉を見つめ返した。
「さっきまでは全然平気だったんだけどな……」
「昨日あんまり寝てないとか?」
「なんかね、先生が帰ってくるって思ったら嬉しくて寝られなくて……」
「子供か、おまえは」
 泉が苦笑すると、美緒も少し恥ずかしげに微笑んだ。
 家を出るまであと一時間余り。泉は時計を見て少し考えると、美緒に提案した。
「出る頃になったら起こしてやるから、ベッドで寝てこいよ」
「え、いいよ。起きてるから」
「心配しなくても、ちゃんと起こしてやるってば」
「別に心配なんてしてないもん」
「眠いんだろ?」
「大丈夫だもん」
「そんな眠そうな目しててよく言うよ」
 美緒の腕を引いて寝室に促したが、美緒は断固としてソファから立ち上がろうとしなかった。なぜそんな風に彼女が意固地になるのかわからず、泉は渋々ソファへと腰を戻す。
 けれど、口では強がりを言うものの、今の美緒は本当に眠そうだ。
「おまえも頑固だなあ。俺がせっかく気を利かせてやってんのに」
「だって……嫌なんだもん。ベッドで寝るの」
「なんで?」
「……先生がいないから、嫌なの」
「バカか。薫は勝手にベッド使ったくらいで怒らないよ」
「違うの。先生がいないベッドで寝るのは、嫌だって……言ったの」
 頬を染めて、俯いた。
 一瞬、美緒の言葉にポカンとしていた泉だったが、彼女の言うことの意味を段々と理解し、そして小さく溜息を零した。
 本当に、どこまでも愛らしい。その仕草も、考え方も。
「あんな大きなベッドで一人で寝るなんて、寂しくてたまんないよ。先生がいないってこと、余計に思い出しちゃうもん」
「ったく、健気な女だな」
「だって……」
「じゃあ、俺が添い寝してやろうか?」
「え……いいよ。いらない!」
 ニヤニヤと笑う泉を、美緒が必死に否定した。
「恥ずかしがるなって。抱き締めて寝てやるくらい泉ちゃんにとっては容易いことだぞ」
「泉くんに横で寝られたら、余計寝られないよ」
「何それ。心外だな」
「だって、イジワルするかエッチなことするに決まってるもん」
「アホかー。寝てる女にそんなことして何が楽しいんだよ」
「逆に寝てる女だから、って思ってそうだもん。絶対そうだもん」
 持っていたクッションを、泉にぶつけた。柔らかいそれは、泉の腕に当たって跳ねると、力なくその場に落ちる。
 美緒の物言いがあまりに可笑しくて、笑いが堪えられなくなった。というよりは、美緒の泉に対する先入観、価値観が可笑しかったのかもしれないが。
「おまえ、俺に対するイメージめちゃくちゃだな。心配しなくてもおまえにそんなことしないって」
 むしろ、美緒には出来ないと言った方が正しい。
 大事すぎる、女だから。
「だって、初めてここで会った時も、女は濡れてた方が色っぽくて好きだって言ってたじゃない。だから逆に見てみたいって」
「まあ、言ったけど」
「裸エプロンもやれって言ったし。頭の中いつもエッチなこと考えてるもん」
「だーかーらー。それは男なら誰でもそうなんだってさっき言っただろ? ……ったく、余計なこと言ってないで、眠い奴はとっとと寝ろっての」
 二人の間に落ちたクッションをどけて、泉は美緒の肩を抱くと、強引に引き寄せた。何も構えていなかった体は、泉の力強さに従順なままだ。抱き締めるわけでもなく、泉は美緒の体を引き寄せると、彼女を自分の膝の上に横たえた。頭が、ちょうど膝の上に乗るように。大きなソファの上では、美緒が体を伸ばしたところで全然問題はない。
「ベッドが嫌なら、ここで寝とけ。心配しなくても、時間になったらちゃんと起こしてやるから」
「…………」
「……なんだよ。文句あるのか?」
 急に自分の真上になった泉の顔をじっと見て、美緒は黙り込んだ。
 よほど、この行動に驚いたのか、それともまだ不信感を抱いているのか。色々と泉の頭の中で思考を巡らせていると、美緒がポツリと呟いた。
「やっぱり泉くんて、先生の弟なんだね」
「ああ? なんだ急に……」
「なんか、今の感じが先生に似てるなあと思って」
 有無を言わせず強引に引き寄せる腕。その先には嫌悪はなく、いつも美緒が安らげる場所、心地よいと思える場所が待っている。
 今の泉の行動は、そんな薫の姿を彷彿とさせた。だからなのか、無理やり膝の上に寝かされたというのに、全く抵抗を見せなかった。
「やっぱり優しいね、泉くん」
「何わけわかんないこと言ってんだよ。ほれ、おまえはさっさと寝ろ」
「あ……今ちょっと照れちゃったんでしょ?」
 ふいっと視線を外して、早口でまくし立てた泉を見て、美緒がクスクスと笑った。そんな彼女の仕草が羞恥を更に煽って、泉は彼女の額の上に手をかざした。
「ウルサイ。さっさと寝ないと、いつもみたいに叩くぞ」
「ゴメンゴメン。でも、ありがとう。私の頭重くない?」
「すげー重い」
「もう! イジワルだね」
「俺の膝枕なんかな、これから先もおまえくらいしかしてもらえないんだから、せいぜいそのありがたみを感じとけよ」
「ほんと、なんか変な感じだよね。膝枕してもらうなんて」
「まあ、普通は逆だからな」
「うん」
 膝の上で流れる髪が、彼女の温もりが、重みが。くすぐったいのに心地よい。
 冗談を装って美緒を膝の上に寝かせたけれど、ベッドで寝てくれることよりも、その何倍も幸せだった。
 そして美緒自身も、そんな泉の優しさに心を許してしまっていた。衣服越しに伝わる心地よい体温が、次第に眠りを誘う。泉も、美緒を気遣ってか、視線を外していたこともあって、何の抵抗もなく眠りの中へと落ちていきそうになった。
「なあ、美緒」
「……なあに?」
 彼女の体に、近くに置いてあった自分のジャケットをかけ、髪にそっと触れながら小さく問うた。すると、まだ完全に眠りに落ちていなかった美緒が、眠そうに返事をした。
「もしも……もしも薫が、おまえの彼氏じゃなくて、おまえに振り向いてくれてなかったとしたら、今ごろどうしてた?」
 この質問に、特に理由などない。何気なく、聞いてみたくなっただけだ。
 もしも自分と同じ境遇なら、彼女はどうしたのかと。
 すると、美緒は小さく間を置いて、目を閉じたまま口元だけに笑みを浮かべた。
「関係ないよ……。たぶん今でも好きだと思うな」
「ふーん……そっか」
「だって、元々……叶う叶わないは問題じゃなかったもん」
「どういう意味?」
「好きなだけで良かったの。私が先生を好きだから、それでいいって……そんな風に思う恋だったから……」
 あんなに心の大きな男を縛れるだなんて、最初から望んではいない。過去も今も全て含めて、初めて心から愛した人だった。恋をしたその時から、ただ愛せるだけでいいと、そう思う恋だった。
「でも、先生との恋は運命だったって……そう思うよ」
「……そっか」
「うん……」
 愛されるよりも、愛したかった。
 一番に愛されることを欲するより、愛しているという気持ちを知ってもらえるだけでいい。それだけで、幸せだったのだと。そんな些細なことさえ、幸せなのだと。
 そんな美緒だったからこそ、薫も美緒を選んだ。それは、必然であり、運命でもある。二人は、出会うべくして出会ったのだと。互いに愛し、愛されるためだけに、この世に生まれたのだと。
 すれ違いばかり重ねてきた二人の恋。だけれど、そこにはいつも変わらず、薫の愛があった。どんな運命に流されようとも、けして揺るがず、美緒を守って離さない薫の大きな愛が。
 だからこそ美緒は、薫だけを……愛した。
「今は、昔よりもいっぱい……欲張りになっちゃったけどね」
「それは、彼女になったんだから当たり前なんだよ」
「そっか……良かった」
 既に半分は眠りに落ちている美緒の髪を優しく撫でながら、切なげに微笑む。
 もっと貪欲に。もっとワガママに。
 麻里のことを不安に思う余裕などないくらい、心のままに薫を欲すればいいと、そう思うのに……。
 だからこそなのだろうか。そんな美緒が、愛しくてたまらなかった。
 愛するだけでいいだなんて。それだけで幸せだっただなんて。そんなの……卑怯すぎるくらい、卑怯だ。
「……余計に、愛しくなるだろ」
 まるで、引いては寄せる波のように恋しくて。足元を揺らすのに、全てを攫わないその様は、甘く切ない。
 秘める愛情の深さと、それに反する控えめな愛し方と臆病さ。
 そんな女を、愛さずにいられる男なんて、いるんだろうか。抱き締めずにいられる術を、どうやって見つけるのだろうか。少なくとも泉は、美緒という女から抜け出せる術を知らない。愛さずにいられる自信など、どこにもなかった。
 スヤスヤと寝息を立てる美緒の髪を撫でながら、穏やかな彼女の表情を見つめていた。
 愛しくて愛しくて愛しくて。見つめるだけで心囚われて、触れた指先からは甘く痺れが走る。
 泉にとって、美緒は本当に……甘い麻薬だ。
「大好きだよ、美緒」
 小さく呟いて、少し体をずらし、腰を屈めた。小さなその愛らしい唇に、そっと唇を寄せる。そうなるのが自然であるように。

 ―― シャラッ……

 唇が触れるかと思った瞬間、美緒の胸元にあったピンクダイヤが、泉の目の前を流れ落ちた。わざと零れ落ちたかのような、薫の想い。その光景をじっと見つめ、そして苦笑を零すと、泉はそのまま美緒の目元へと唇を寄せた。
 まるでそれは、美緒の肌を通して、最愛の兄に何かを誓う口付けのようだった。

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