華水の月

34.ハラリ、華は散り泣き

「観光するんじゃなかったのか?」
「気が、変わったのよ」
 空港に降り立って、荷物を抱えてゆっくりと歩くその隣には、大阪へ発つ時にはいなかった女が、ぴったりと寄り添っていた。三日だけの出張だったからか、薫に比べて麻里の荷物は小ぶりだった。
「あれだけ大阪を楽しむって言ってた割には、あっさりしすぎじゃないか?」
「観光はまた今度にするわ。それよりも、薫と一緒に帰りたくなったの。ダメ?」
「ダメも何も、俺はこの便で帰るって最初から決めてたから、おまえがどうしようと俺には関係ないけどね」
「……冷たいわね」
「そう?」
「もっと嬉しがって欲しかったわ」
 大阪の空港で麻里と出会った時には、正直驚いた。
 最後に会ったのは、朝、ホテルのレストランで朝食を一緒に取った時だ。その時も彼女は、せめて土曜の夜まで滞在を延ばせないのかと、ワガママを言っていた。麻里の誘いを頑なに断り、夜には必ず帰ると言った薫の言葉を麻里は不服そうに聞いていたのだ。
 それなのに。
「私もやっぱり今日帰ることにしちゃった」
 そう呟いて微笑む麻里が、目の前に立っていた。
 人の多い空港の中で、単純に一人の人を見つけ出すのは簡単なことではない。けれど麻里は、薫がいつ来るのかを、そしてどこにいるのかを初めから知っていたかのように、自然と現れたのだ。
 その時感じた複雑な気持ちは、今もまだ胸の中で燻っている。薫を引き止めることを諦めてくれたという安堵感と、そしてまたも麻里と関わってしまったことの不安感。さすがに座席までは隣とはいかないながらも、飛行機に乗るまでの時間、そして降り立ってからこうして隣を歩く時間、麻里は薫のそばから離れなかった。
「嬉しがったら、それはそれでおかしいって前にも言ったよ」
「でも、そうだとわかってたって、少しくらいそんな素振りを見せて欲しいって思うのが女心だわ」
「生憎、俺は男なんでわからないよ」
「嘘ばっかり。女より女心わかってるくせに、いつもそのポーカーフェイスで騙してばかりなんだから」
「騙すなんて、酷いこと言うなあ」
「あなたはいつだって騙してるのよ。その優しい笑顔の裏には、本当は氷のように冷たい感情を秘めてるくせに」
 少し、皮肉を含んだ言葉。一見麻里もいつもと変わりはしないように見えるが、機嫌の悪さが言葉の端々から窺えた。
 薫を手に入れられないことの焦燥感。そして、そんな自分を惨めだと思う嫌悪感。それらが、彼女の心の中で複雑に渦巻いていた。
「でも女ってバカなのよね。それをわかってたって、薫のこと好きで仕方ないんだから」
「女って、一括りにするのはどうかと思うけど?」
「そう? あなたが本気でかかれば、落ちない女なんていないんじゃないかと思うんだけど、これって私の勘違いかしら」
 麻里の憎まれ口に、薫が苦笑を零した。要するに、自分に惚れさせる薫が一番悪いのだと、そう言いたいのだろう。悪いのは、薫を好きになる女の心ではなく、好きにさせてしまう、薫という存在だと。
「それより……ねえ、この後どこかに食事でも行かない? 私、今日朝食だけしか食べてないのよね」
 正面を向いたまま、麻里には視線の一つも向けない薫の顔を、彼女が覗き込むようにして問うた。
「悪いけど、すぐに帰りたいんだ」
「なんだ、家で待ってるの? 真中さん」
「いや、帰る時間のことは言ってないし、約束もしてはいないんだけど」
 それでも、すぐにでも美緒のそばへと帰りたかった。約束など必要ない。こちらから、会いに行けば済むことなのだから。できる限り早く、腕の中に美緒を抱き締めたくてしかたがなかった。
「じゃあいいじゃない。ちょっと寄り道して帰らない? 薫だって、おなか空いてるでしょ?」
「食事よりも優先するものがあるんだよ。だから今は、早く帰りたいんだ」
「ケチね……。何よ、少しの時間も私にはくれないって言うの?」
「……昨日、ワガママ聞いてやっただろ?」
 ずっと顔を覗き込んだままの麻里の目を、チラッと見た。
 昨晩、薫を真摯に求めたあの真剣な光は、まだその奥で揺らめいているように見えた。その瞬間、手に触れた麻里の素肌の温もりを思い出して、手のひらをギュッと握り締めた。
 だが、完全に割り切っている。麻里にしてやれるのは、昨夜のことだけだと。昨夜のことは、麻里の部屋に留まった薫にも非があったとわかっていたし、だからこそ譲った部分もあった。
 でも、二度目はない。
「昨日は昨日、今日は今日だわ」
「その言葉、そっくりそのままお返しするよ。昨日は昨日、今日は今日だから、おまえの誘いには今日は乗れない」
「昨日だって……たった三時間だけだったくせに」
 たった三時間の幸せ。
 日付が変わる頃。麻里が寝付いたのを確認して、薫が静かに部屋を去って行ったことは知っていた。去り行く薫の背中を、泣きそうな目で見送った。体はまだ、薫の温もりを覚えているのに……。
 麻里の無防備な背に触れた薫の温もりは、昔愛されていた時のまま、同じだった。匂いも、乾いた指の感触も、力強さも、全てあの頃の薫のままだった。そんな懐かしい想いも重なって、夢中で彼を求め、離れられなかった。
 けれどやはり、その胸の中には、いつだって美緒が全てを占めている。それだけが、昔の薫とは違っていた。だからこそ、こんなにも薫を繋ぎとめておきたいと、願うのかもしれない。
「女のワガママを聞くのが男の役目だわ。フェミニストを豪語するなら、恥かかせないで」
「誰もフェミニストを豪語なんてしてないよ」
「でも、女には優しくするのがあなたのモットーでしょ?」
「ったく、本当におまえは昔と全然変わってないな……」
「薫が……変わりすぎちゃったのよ」
 ワガママなんて、薫に聞いてもらえるからこそ意味があるのであって、今のように拒絶の目を向けられたら、それはただの罪悪感でしかない。
 昔の薫なら、困った顔はしても、けして拒絶はしなかった。それをわかっていて、麻里も惜しみなく薫に甘えていた。そんな二人のやりとりは、ある意味気持ちのキャッチボールのようなもので、そんな優しい薫の中から、いつも愛情を感じ取ろうとしていたのだ。自分だけは、何を言っても許される。どんなワガママも聞いてもらえる。その優越感が、ある意味薫の愛情を計るバロメーターだったように思う。
「なあ、結城先生」
 一息置いた、落ち着いた薫の声。
 身を竦ませるような、鉛のように重い声は、麻里の心を押しつぶしそうになる。
「確かに女性に対してはいつも優しくありたいと思うよ。弱いものだからこそ、守ってやりたいと思う。でもその守りたいっていう気持ちは、恋人に対するものとは比べ物にならない」
 麻里のワガママがラインを超えそうになったことを察知したのか、薫が真剣な口調で語り始めた。その抑揚のない声に、麻里も押し黙り、その言葉を聞かざるをえなくなる。
「どんなときも、恋人が最優先なんだ。もしもその恋人が傷つくのなら、たとえ相手が女であれ容赦はしないし、優しさをかけようなんて思わないよ。俺にとって一番大事なのは美緒だけだ。美緒以外の女は、比べるに値しないし、比べようとも思わない」
 とても残酷な言葉。けれど美緒にとっては、これ以上に甘美な言葉などないだろう。
 苦しくなる胸の痛みを堪えながら、ギュッと唇を噛み締めた。
 惨めだ。とてつもなく、惨めだった。縋っても縋っても振り向かない男に、それでもまだ縋りたいと思う気持ちが惨めでたまらなかった。
「じゃあ……どうして昨日の夜、私のそばにいてくれたの? ……どうして、あんなにも、優しくしたりしたのよ……」
 あの手も、匂いも、温もりも、欲してたまらないのだとわかっていて、薫は麻里にそれを向けてくれた。握り合う手は、とても優しかった。その気持ちは、同情か。それとも愛なのか。
 わかっている。そこに恋情なんてないことなど。
「そんなに真中さんが大事なら、私のことをもっと傷つけたらいいじゃない」
 同情でも欲しいだなんて、薫を前にするとプライドなんてもはや意味がなかった。
『俺は、美緒一人しか愛せない。それなのにおまえは――』
 そう言った、薫の言葉さえ素直に受け入れてしまうくらいに。それがどれだけ、麻里を惨めにするかもわかっていて、尚。
「近寄るなって、嫌いなんだって言えばいいじゃない。優しくなんてしないでよ。大キライなんだって……ハッキリ言ってよ」
「…………」
「傷つけて傷つけて、私をいっそ殺しなさいよ……言葉でズタズタにしてよ」
 そんなことを言われたら、きっと麻里は死んでしまうだろう。もう二度と、誰も愛せなくなる。
 感情と言葉の矛盾。強そうに見えて、とても弱いのだ。薫の言葉一つで、何もかもが壊れてしまうくらい。なぜそんなにも弱いのか、わからない。
 けれど、そんな彼女を一番知っているのは、薫だった。
「大キライだなんて、そんなこと言えるわけないだろ」
「え……?」
「嘘でも、そんなこと言いたくないよ。それに、そんなことをおまえも望んでない」
 思わず麻里が顔を上げると、そこには寂しそうに微笑む薫の表情があった。視線から、痛いほど優しさが伝わった。
「一度愛した女を、簡単に傷つけられるほど、俺は器用にはできてないんだよ」
「薫……」
「嫌いになれるなら、最初から愛したりしない。たとえ愛していたのは過去だとしても、そんな簡単な気持ちで、おまえに向き合ってたわけじゃないんだよ。おまえを愛しいと思ったのは嘘じゃない。嘘なんかで、女の心を踏みにじったりできない」
「…………」
「おまえを愛した俺がいたからこそ、今の俺がある。もし俺がそんな非情な男だったのなら、美緒も愛してはくれないと思うよ。それに、俺もこんなにも苦しいほど深く……美緒を愛せない」
 胸が、痺れた――。
 やっぱりこんなにいい男、そうそう世の中に居はしない。
 最愛の恋人には、極上の愛情と優越感を。別れた女には、愛されないことの現実と、確かに愛していたことの至福を。
 否定されることよりも、認められることは時に相手の気持ちを穏やかに抑制する。否定されたらムキになって反抗してしまう心も、認められることで有無を言わせないのだ。薫は、それをわかっている。
「……やっぱり、薫はずるいわ」
「そうか?」
「最悪なくらい、イイ男」
「最悪なくらいって、誉めてるのか? それ……」
「あーあ。真中さんに妬けちゃうなあ。薫の『美緒』に妬けちゃうよ。そんなにも深く愛されて」
 天を仰いで、大きく溜息をついた。隣にいる薫が苦笑いをしていることは、すぐにわかった。そしてつられるように、麻里もクスッと笑った。
 なんだかもう、天晴れだと言いたくなるような気分だった。愛してくれないことを責めるよりも、愛してくれていたことを、ありがとうと、そう言いたくなった。
 ちゃんと愛されていた。それを教えてくれる薫を、心から誇りに思う。やっぱり、この男を好きになってしまうのは麻里の運命だ。でも、たった一人の女の愛だけじゃ、こんなにも広い男は掴まえられない。
 気持ちを落ち着けながら、ゆっくりと視線を正面へと戻す。
 隣にいる薫は、腕時計に目をやりながら、周りを気にするでなく歩いていた。ゲートを出ようとすると、視線の先には、帰り人を待つかのように何人もの人がざわめいていた。
 それなのに、ただ一人だけ。
 ただ一人だけが、麻里の視界に入り込んできたのだ。
 長身の男の隣に立つ愛らしい少女。
 それは紛れもなく、薫の『恋人』だった。薫が、苦しいほどに深く愛していると言った、美緒――。
「ねえ。どうして真中さんを、泉くんのそばに置いたりするの?」
 思わず口にした言葉は、小さすぎて、震えていて、薫には届かない。
「私なら絶対近づかせないわ。絶対に」
 遠くに映る、美緒と泉が微笑み合う姿。
 その光景が、とてつもなく激しく、麻里の心臓を揺さぶった。
 薫のラインが、急に曖昧に見えた――。


「おまえ、落ち着きなさすぎ」
「だ、だってー……緊張するんだもん」
「たかが二週間ぶりに会うだけだろ? そんなに構えなくてもさ、いつもどおりアホっぽくしてりゃいいんだよ」
「どういう意味よー。アホっぽくって」
 泉の言葉が気に入らずに、美緒が頬をプゥと膨らませる。途端いつもの彼女らしい表情に、泉が穏やかに笑った。
 ここへ来るまでずっと美緒はソワソワしっぱなしだったのだ。車の中で話はしていても、そのテンションがいつもとは違って妙に高かったり、明るくしていたと思ったら急に何かに思い悩んだり、自分の格好を何度もチェックしたり。『おかしくない?』と何度も泉に問うてくる姿は可愛らしかったが、それが逆に切なくもあった。
「どんなにアホなおまえでも、薫は優しく包んでくれるよ」
「アホじゃないもん。失礼だよ、泉くん」
「ていうか、薫が帰ってきたら、思いっきり抱きついてチューかましてやれ」
「え……? 何で?」
「案外、薫はそういう不意打ちに弱いかなあ、と思ってさ」
 ニヤリと企むように笑う笑顔は、やはり兄弟だけあって、薫に少し似ていた。
 帰り人を待つ人だかりの中では、二人の会話に耳を傾ける者など一人もいない。通り過ぎる人も、近くで同じように立って待つ人間も、それぞれの思いを募らせているように思えた。美緒が、薫を待ち焦がれて仕方がないのと、同じように。
「どうせ、おまえからキスしたりすることなんか、ほとんどないんだろ?」
「なんでそんなこと泉くんに言わなきゃいけないのよ」
「ハイハイ、図星なんだな」
「もお……本当にイジワルだね、泉くん」
「だからたまには感情の赴くままにぶつかってみろよ。会いたくてたまらなかったんだろ? 夜も寝られないくらい恋焦がれてたんだろうが」
「そ、そんな面と向かって言われると恥ずかしいよ」
「おまえは自分の気持ちを押し殺しすぎなんだよ。薫だって、そういうおまえの行動待ってるかもよ?」
「で……でも、そんな恥ずかしいことできないもん」
 頬を赤らめて、美緒が俯いた。想像するだけでも、頭が沸騰しそうだ。こんな公衆の面前で、思い切り抱きつくなんて、よほど熱があるかじゃないと出来そうにない。
「バーカ。恥ずかしいけどやれるってのに意味があるんだろうが。それだけ美緒が薫のことを好きだっていう証だろう?」
「無理い……恥ずかしくてできないよ。い、嫌がられるかもしれないし」
「嫌がるわけないじゃん。むしろ薫こそギューっておまえを抱き返してくれるに違いないって」
「そんなのわからないじゃない」
「わかるよ。だって薫がおまえを可愛がって大事にするのって、普通をはるかに超えてるもん」
「で、でも、誰か見てたらどうするの?」
「見られて困らないように着替えてきたんじゃん」
「そ、そうだけどお……」
 どう切り返しても、泉の方が一枚上手。薫が帰ってくるという時点で既に余裕のない美緒には、いつもどおりの思考能力は期待できない。何を言われても、薫が脳内を駆け巡るのだ。泉の言葉通りに、薫が動いているようにさえ見えた。
 眉を顰めて本当に困った表情を浮かべる美緒。泉はそんな彼女を見てクスッと笑うと、頭の上にポンと手を乗せた。
「それに、俺が薫だったら、絶対にそうする」
「……ほんと?」
「ああ。抱き締めて、絶対離さないよ」
 嘘のない泉の笑顔と言葉に、知らず温かいものが溢れてきた。
 まただ。泉に勇気をもらったのは。
 泉はいつだって、薫への恋心を素直に受け入れられるように、ポンと背中を押してくれる。
「泉くんだったら、嫌がらない?」
「ああ。嬉しすぎてこっちからチューしちゃうね、絶対」
「アハハ。でも、泉くんのそういうシーンって、あんまり想像できないな」
「そうかあ?」
「だって、彼女と仲良くしてる姿、見たことないもん」
 それは、当然のことだ。泉の中に思い浮かべる女は、いつだって美緒一人だけなのだから。他の女相手に、抱き締めたいだとか、口付けたいだなんて、欲望さえ抱かない。いつだって、薫の立場を望んでやまない。本当なら、美緒を薫のところへなんて行かせたくない。抱かせたくない。キスなんて……させたくない。
 全ては自分が美緒にしてほしいこと、したいことの裏返しだ。本当は、胸の中に大きな傷を負いながら、彼女の背を押しているのに……。
 目の前で、楽しそうに微笑んでいる美緒を見ていると、なんだか急に苛立ちが募った。
「薫に会う前の予行練習」
「え……?」
 美緒の腕を強く引き、壊れるほどの強い力で抱きしめた。華奢な体は、今にも折れそうなほど、腕の中でしなった。
「上手くできなかったら困るだろ?」
「で、できるもん!」
「嘘つけ。本当は不安でたまらないくせによく言うよ」
 抱き締める腕に力を込め、髪に唇を寄せると、愛しげに口付けを落とした。
 その香りも、温もりも、全て薫のもの。けれど、本当は欲して欲してたまらないのだ。もう、焦がれすぎて、普通の感覚ではいられないほどに。
「男がどれだけ女を愛しく思うかってことを、おまえはもっと知った方がいいよ」
「泉くんにも、そういう感覚あるの?」
「あるよ」
「そう……なんだ」
「意外?」
「すごく……」
 抱き締められたままの体は、抵抗を見せなかった。
 公衆の面前での抱擁。思ったよりも、人目を引かないことを美緒自身も感じていた。出会いと別れの交錯する特別な場所、空港。この場では、抱き合うことも、キスをすることも、ある意味特別に許される、そんな場所なのかもしれない、
 意外と冷静な美緒を、更に力を込めて抱き締める。泉と美緒の身長差のせいか、美緒の体が背伸びでは追いつかず、少し宙に浮いた。途端、美緒も泉の背に手を回し、しがみつく。それくらい、彼の腕は容赦がなかった。
「……誰?」
「ん?」
「泉くんが愛しく思う人って、誰?」
 耳に唇が触れそうなほど近くで、美緒が小さく囁いた。
 その甘い疼きに、ギュッと目を閉じる。ゾワ……っと泉の背筋を何かが駆け上がった。
「……おまえには教えてやらない」
 ゆっくりと腕を解放して、美緒を離した。
 あのまま抱き締めていては、ドキドキと打つ鼓動が彼女にも伝わってしまうのでは、と思ったからだ。そして、つい真実を吐露してしまいそうな焦燥感に駆られたのが、一番の理由だった。
「どうして? 教えてくれたっていいじゃない」
「おまえに教えてなんかいいことあんの?」
「な、ないけど、でも知りたいんだもん」
「あっそ。じゃあ俺も教えたくないから、教えない」
「泉くんのケチー」
 抱き締められていたことなど、まるで何もなかったかのように普通に振舞う美緒に、チクリと胸が痛んだ。
 薫に抱きしめられることを想像するだけで頬を染めるくせに、泉に抱かれたことには顔色一つ変えやしない。それが、恋ではなく、妹に向ける愛情の一つなのだと信じきっている。戯れることさえ、ただの冗談めいたお遊びなんだと思っている。触れるだけで甘く痺れの走る泉の体のことなんて、美緒は全く知らないのだ。
 でも、だからこそ触れて許される罪に、自ら甘んじていた。
「まあ、今は手間のかかる妹だけで精一杯だけどな。おまえのせいで恋愛する暇ないんだよ」
 無防備な額に、いつものように一発お見舞いする。そしていつものように目を閉じ顔をしかめる彼女を見て、クスクスと笑った。
「痛っ! もう、また何でも私のせいにするんだからー」
「こんなアホな妹を見てると、泉ちゃんとしても、いつおまえが薫に愛想尽かされるのか心配でたまんないんだよ」
「心配なんかしてもらわなくても結構ですー」
「なにい? 心配してもらえるだけありがたく思え」
 反論して、尖らせた美緒の唇を泉の指がキュッと掴む。その指から、微かにタバコの香りがして、瞬間美緒の脳裏に薫の姿が浮かんだ。
「あーあ。こんなんだと、振られるのも時間の問題だな」
「な、なによお! 別に振られる時が来たって、泉くんには関係ないんだから」
「関係あるよ」
 唇から離れた指は、彼女の髪の上をスルリと滑る。
「その時は、俺がおまえを貰いに行くんだから」
 美緒を見る泉の瞳の中に、いつもは見せない真剣な光が、一瞬宿った。思わず惹きつけられ、そして美緒の心臓がドクリと波打った。
 吸い込まれそうな、透明な茶色の瞳。初めて視線を絡ませあった時のことを思い出す。美緒の心臓を射るように、掴まえて離さなかった、あの怖いほどの瞳を。
 けれど、それが見えたのは一瞬のことで、すぐさまいつもの意地悪な笑顔を浮かべると、美緒の髪をクイッと引っ張った。またいつもの二人の時間がすぐに訪れる。
「俺が貰ってやらないと、誰がおまえみたいなバカ女貰ってくれるって言うんだよ。しかし俺って本当に妹思いの優しいお兄ちゃんだよなあ」
「泉くんなんかに頼らなくたって、他の人見つけられるもん」
「無理無理。薫よりイイ男なんか、そうそういるもんじゃないし? せいぜい俺くらいだな、代わりができるのは」
「えー。何それ、自分で言わないでよ」
「言っとくけど、香月ハルカは絶対ダメだからな。あいつは俺が許さない」
「なんでそこでハルカが出てくるの……?」
 思わずポロッと出た本音。知らずいつも自分と比較している対象を口に出してしまった。
 ハルカの名前が出るということは、少なくとも美緒の相手としてカレが相応しいと無意識に認めているからだ。そんな自分の気持ちを不本意ながらも自覚して、その悔しさに舌打ちした。
「あ、そろそろ出てくるかも」
 ざわめきだした人の波。
 美緒の視線が、その流れを追うように、動き始めた。一人取り残されたような気分になった泉も、すぐに気持ちを振り払って注意を人の波に向ける。
 先に、薫を見つけたのは、美緒だった。条件反射のように、思わず零れ落ちる微笑。やはり、特別な人の存在を感知する早さは、愛情の違いなのだろうか。
「さあ、予行練習の甲斐があるか、やってみ」
「え? 本当にやるの?」
「当たり前だろ? 薫をびっくりさせてやれ」
 長身の薫は、人波にまぎれていても、目立って見える。その美しい外見もさることながら、やはり存在感の違いなのだろう。
 薫はこちらには気付いていないようだった。俯きがちに何かを見ている。すぐさまそれが腕時計であることは、わかった。
「ほら、行ってこい」
 ポン、と美緒の背を押した。躊躇いながらも、一歩、また一歩と美緒が歩みだす。
 けれど、数歩進んだところで、その足がパタリと止まった。
 その様子が普通ではない気がして、微動だにしない彼女の視線の先を、泉も追う。
 その光景に、心臓が掴まれた。
「な……んで……」
 美緒の小さな呟きと同時に現れた、美しい女。栗色のウェーブの長い髪が、ゆるりと肩を覆い、その姿は艶やかで。人波に紛れて見つけられないだけだった。
 まさか、泉の不安の種が、ここで芽を出そうとは、思ってもいなかった。
「……やめ……て」
 美緒の一言が、麻里を動かす合図になったのか。
 彼女は、確実に美緒の姿を捉えていた。その唇の動きさえ、感じ取っているかのように。
 そこからは、まるで映画のワンシーンでも見ているかのような、ゆっくりとした映像が流れた。
 麻里が地面に荷物を下ろし、俯いたままの薫の首へと腕を巻きつける。
 無防備なままの薫の頭を引き寄せ、唇を近づけていった。
 それはまるで波に飲まれる砂のように……。それが必然であるかのように……二人の唇が重なった。
「見るな!!」
 思わず駆け寄り、後ろから抱き締めた小さな体は、すでに重い現実に打ち震えていた。
 夢ならどれだけいいかと願っても、震える心臓が、苦しい息が、現実から美緒を逃がさない。
 
 ハラリ――。
 愛しい薫を映すその大きな瞳から。
 ハラリ、ハラリ――。
 華が散るかのように、零れ落ちる涙。
 言葉の代わりに零れ落ちるその涙は、頬を伝い、首筋を這い、そして胸元で光る薫の想いを濡らした。
 薄紅に、キラリとダイヤが光る。
 まるで、華が泣き、ダイヤの欠片が、砕け落ちていくかのように……。

Copyright (C) 2006-2011 Sara Mizuno All rights reserved.