華水の月

36.美男子の憂鬱

「なあ、昼ゴハンどうする?」
 隣に立つ長身の男が、上体を少し屈めながら彼女に問うた。
 アイスクリームを片手に、もう昼食の話とは少し呆れもするが、こういう光景にも慣れたのか、彼女は普通にその台詞を受け止める。
「うーん、まだそんなにはお腹空いてないけど、泉くんは空いちゃった?」
「いや、腹ぺこってわけでもないから別に我慢できるよ。おまえが食べたくなったら、どっかで食べようか」
「うん。何がいいかな? 泉くんの好きなハンバーグにしよっか」
 泉を見上げながらそう提案すると、泉は目線だけで空を仰いで、すぐに彼女へと視線を戻し、少し複雑な表情を浮かべた。
「あー……いいや、パス。違うのにしよう」
「どうして? 好きでしょ? ハンバーグ」
「おまえのハンバーグ食ってから、他のどこで食っても大して美味くない気がすんだよなあ。なんか、おまえのしか食う気しない」
「……それって、もしかして誉めてくれてる?」
「滅多に誉められることないから嬉しいだろ? バカ美緒」
 上目遣いで見つめる彼女の額に、ニヤリと笑ってデコビンタを一発。いつの間にやら二人の間で当たり前の行動になった、泉が美緒の額を叩く行動は、泉に『デコビンタ』と命名されていた。本気で叩いているわけではないから、さほど痛みはないけれど、美緒はその度に必ず『痛っ!』と口にする。
「もう! また叩いたー」
「愛情表現だよ、愛情表現」
「そんな愛情いらないってば。もっと優しくしてよ。お兄ちゃんでしょ?」
「バカな妹を教育し直すのもお兄ちゃんの役目なのー」
 額に手をあてて頬を膨らませる美緒の頭の上に手を置いて、ケラケラと笑った。その笑顔につられて、美緒もついつい微笑んでしまう。人の気持ちをすぐに明るくしてしまう泉のこの笑顔は本当に不思議だと、そう思った。
「まあ、薫の仕事が終わるまで、二人でのんびりしますか」
「そうだね。暇を持て余してる二人ってことで」
「おまえで暇潰すのも、アレだけどな」
「何よそれー。はっきり言っちゃってよ」
「いやいや、光栄の極みだって言いたかったんですよ、美緒さん」
「わざとらしい……」
 互いにクスクスと笑った。

 薫が出張から帰ってきてから一ヵ月が経とうとしていた。
 一度は、崩れてしまうと思った美緒と薫の関係も、心配するまでもなく順調だった。思ったよりも美緒は強い、そう泉の目にはうつった。
 何も変わらない、穏やかな日々。校医の仕事だけでなく、名医と名高い故に他の仕事も請け負う薫は相変わらず多忙だが、美緒はそんな薫を気遣い、ワガママ一つ言いはしなかった。だからと言って、二人の仲が微妙というわけではない。
 時々しか一緒にいられない少ない時間を、彼らは濃密に深め合い、互いを大事に愛していた。離れていても、いつも互いを想い合っている。美緒の胸元には、今日もピンクダイヤが光っていた。
 今日は土曜日。
 当初、美緒は昼前から薫とのドライブの約束をしていたのだが、彼の仕事の都合で急遽夕方から、という予定に変更になった。デートの前にショッピングでも、と思っていた美緒は、薫からの連絡があった時にはすでに街に出ていて、時間を持て余してしまったのである。カフェで一人、ぼーっとしながら、泉に他愛もないメールを打ったのがきっかけで、彼は今こうしてここにいるのだった。
 『暇だから、付き合ってやる』と言ったのは建前上。
 実際は、薫から美緒の時間を奪えたことの喜びと、美緒にすぐにでも会いたいという想いに嬉々としながら美緒の元へと駆けつけたのだった。

 街角にある少し高級感の漂うブティック。昼食前の暇つぶしに、泉が美緒を連れて店内へと足を踏み入れた。
 手当たり次第に、泉の目を引いた女物の洋服を手に取り、まるで着せ替え人形かの如く、美緒に宛がう。最初、戸惑いがちだった美緒だったが、泉の楽しそうな様子に心許したのか、言われるがままに付き合った。
 店内にいる、二人の女店員が、頗る見た目のいい二人に視線を奪われている。一見とても若そうに見える二人なのに、美しい男女はそれを全く気に留めさせない。
「おい、こんなのどうだ?」
「どれ?」
 泉が、鏡の前に立つ美緒の前に、洋服を当てる。少し露出度の高い黒のワンピース。美緒はその自分の姿を見ると、少し首を傾げた。
「ちょっと大人っぽすぎるよ」
「そうかあ? これくらいセクシーなのも、全然いけると思うんだけどな」
「無理無理。まだ十七の私には、色気なんて皆無だもん」
「だから、洋服でカバーするんだろうが」
「もう。イジワル……」
 実際は、口で言うとおりのことを思ってるわけではない。
 可愛らしい物言いや幼さも残す雰囲気は、確かに美緒を美少女という位置付けに納めがちだが、彼女が本来持つ上品さや美しさは、大人の女と並んでも引けを取らない色っぽさを秘めている。普段、可愛らしく綺麗めの洋服を着こなしている美緒だが、こういった少し大人っぽいセクシーな感じの洋服もなんなく着こなしてしまうだろう
 首を傾げて、ウーンと唸っている美緒にそのワンピースを押し付けると、更衣室の中へと押し込んだ。
「ブツブツ言ってないで、着てみりゃいいんだよ。そしたら似合うかどうかわかるんだから」
「でも、買わないのに試着しても……」
「似合ってたら、俺が買ってやる」
「い、いいよ! いらないよ。だってすごく高そうだもん」
 値札は見ていないからわからないが、店内の雰囲気からして、高校生が簡単に手を出せる服ではない気がする。泉にしたって、まだ学生なのだから、そう変わらないようにも思うのだが……。
「心配すんな。賢い泉ちゃんは、これでいて結構稼いでる勤労大学生だし」
「え……? そうなの?」
「そうなんだよ。ったく、つべこべ言ってないで、おまえはさっさと着替えろ」
 シャッ! と更衣室のカーテンを閉め、無理矢理美緒を追いやった。
 語学力の優れている泉は、それを活かして翻訳や通訳の仕事もしていたりする。バイトの域を越えて、もはや本業でも充分通用する腕前故、信頼や評価も高いのだが、何せ泉自身が、小遣い稼ぎ程度にしか思っていないのが、難点。英語教師同様、語学を活かした仕事に就く気など、この男には到底ないのだ。
「着替えたか?」
「も、もうちょっと待って……」
 もうすぐ着替え終わるだろうか、と思った時、カーテンの向こう側から、携帯の着信音が聞こえた。それが、美緒の携帯であることはすぐにわかったが、何故か嫌な予感が、泉の中で渦巻いた。
 薫だろうか? だとしたら、美緒とのデートもこれで終わりということだ。そう思うと、途端落胆する。
 けれど、その後から聞こえる美緒の声は、泉を更に落胆させるものだった。
「あ、ハルカ? どうしたの? ……え?! 近くまで来てるの?」
 その名前に、ギョッとする。カーテンを開けて、美緒に問い掛けようとしたが、まだ着替え中かもしれないと思うと、一旦カーテンを掴んだ手が止まった。嬉々とした美緒の声がどうにも不安でたまらない。一度だけしかハルカには会ったことはないが、泉よりもハルカを優先したあの時の美緒の行動は、泉にとって軽いトラウマのようになっていた。カーテンの向こう側では、美緒がずっと携帯で喋っている様子が窺える。
 まさか……。まさかとは、思っていたが、そのまさかは現実になった。
 シャッ! と音を立て、開くカーテン。極上の笑みを浮かべ、彼女は残酷な言葉を吐いた。
「ねえ、泉くん。ハルカが近くに来てるんだって! 会いに行ってもいい? もちろん泉くんも一緒に」
 大げさなほど、ガックリと項垂れた。
 ああ、やっぱりそういう展開になるのかと、嫌というほど頭が理解する。だからと言って、元々恋人同士のデートというわけでもないから、否定する理由も見つからなかった。
「でも、そのハルカとやらは、俺がいたら嫌がるんじゃないのか? 別の日にしろよ……。今日は俺が優先だろ?」
「ハルカは泉くんがいても別に気にしないって」
「あ、そう……」
 泉がいようがいまいが、大して気にもならないというのだろう。そういえば、初めてあった時から、ハルカはそうであったように思う。泉が意識するほど、ハルカは泉を眼中に入れてもいないと言った感じだ。
「ねえ、ダメ? ハルカとはそんなに会えないんだもん。今日を逃したら、次いつ会えるのかわかんないよ」
 少し切なさも残すその表情は、ある意味反則だと、泉は思う。強く否定すれば、泣いてしまうのではないかと思うのだ。
 泉は、美緒の涙に頗る弱い。
「泉くん、お願い」
 目の前に立つ泉の袖口を掴んで、上目遣いに懇願した。
 ――可愛すぎる。
 心臓を鷲掴みされたような甘い衝撃が、泉を襲った。その愛らしい瞳に吸い込まれ、ドクンと心臓が揺れる。どうしよう、可愛すぎるくらい美緒が可愛いのだ。可愛さ余って憎さ百倍とはよく言ったものだ。痛いくらい抱き締めて壊してやりたい衝動に駆られる。その唇に噛み付いて、美緒を自分の思いのままにしたくなる。泉は、その衝動を必死で抑え込むと、袖口に触れていた美緒の手をギュッと握った。
「わかったよ……ハルカでもなんでも、ドンとこいや……」
「本当?!」
「ったく、このバカ女が……」
「何? 何か言った?」
「いや別に」
「ありがとう、泉くん。それと、ごめんね?」
「ああ。……その代わり、そのワンピース着てけよ?」
 泉好みのワンピースを、やはり美緒は見事に着こなしてみせた。いつもとはまた違った、少し大人っぽい雰囲気がやけに男心をくすぐる。大きく開いた肩から胸元にかけてのラインは、妙に女めいていて、色香が匂い立つようだ。思わず、その首筋に顔を埋めたくなるくらい。
「この服じゃないと、絶対ダメ?」
「絶対ダメ。俺が譲歩してやってんだから、おまえも譲歩しろ」
「……わかった」
 自分色に美緒を染めている。それは、ハルカに対する、せめてもの優越感。
 恋は惚れた方の負けだと言うが、こんなにもそれを実感したのは初めてだった。


「久しぶりだね、ハルカ」
 この言葉に、途端ハルカが表情を歪めた。如何にも不機嫌さを漂わせる、そんな表情。
 言ったその相手に問題があるのだ。これが美緒の台詞なら、ハルカは何も気にはしなかっただろう。
「で、ハルカは何しにここまで来たのかな?」
「あの、あんたにハルカって呼ばれる筋合いはないんだけど……」
 わざとらしい愛想笑いと言葉遣いが目に余る。ハルカと対面するように座る泉は、終始ニコニコと笑みを絶やさず、ハルカに話し掛けていた。そんなハルカの隣には、美緒がチョコンと座っている。
「まあまあ、いいじゃん。お互い女みたいな名前なんだし? 同志だろ、同志」
「勝手に、仲間扱いしないで欲しいんだけど」
「ダメだなあ、ハルカ。綺麗な顔してんだから、もっと優しい表情しないと。女の子がよって来ないぞ?」
「そんなことは、あんたに気にしてもらわなくてもいい」
 テーブルに置かれたコーヒーカップを手に取り、一口。ハルカは、白けた顔つきで、泉の言葉を軽く無視する。
 徹底的に嫌われているというのならまだしも、ただ単に泉に興味がないというハルカの態度は、泉の神経を逆撫でした。皮肉な笑顔が、ニヤリと口元にだけ浮かぶ。
「おい、美緒。おまえはこの雰囲気をどう解釈する」
「え? どういう意味?」
「ここにいて居心地の悪さを感じないかって聞いてんだよ」
 メロンソーダの氷をクルクルと回しながら、穏やかな表情を浮かべている美緒。ハルカと泉の会話をさほど気にもせず、楽しそうに微笑んでいた。
 ハルカに会えたことがよほど嬉しいのだろう。食事も楽しめる、泉お勧めのカフェに着いた時も、彼女は迷わずハルカの隣へと腰を下ろした。たったそれだけのことでも、泉は嫉妬に苛立ちを募らせるというのに、この少女はそんな複雑な男心には全く気付いていないようだ。
「んー。別に? 楽しいよ。ハルカも泉くんもいて、すごく楽しい」
「ほお。じゃあ、俺を見て何も感じないのか?」
「泉くんを見て? ……んー、気色悪いなあとは思うけど?」
「はあ?! 何言ってんだよ、バカ美緒」
「だって、いつもより妙に優しいじゃない。前は、ハルカと全然話もしなかったくせに。急に優しくなっちゃって変だよ。……ねえ? ハルカ」
「別に……俺はどうでもいいけど」
 視線を外したまま、またコーヒーを一口。
 この男には、感情というものがないのか? と、一瞬泉が疑問に思った。薫と話している時の雰囲気は、こんなにまで情のない感じではなかったと記憶している。むしろ、尊敬の念を薫に対して抱いていることは、話し方からして窺えた。美緒のことを話していたあの時も、彼の言葉から愛しさが伝わってくるほどだったのに、今は愛想のなさが前面に出ている。
 本当に無表情。綺麗な顔だからこそ、それがより際立つ。けれど、美緒がハルカに向けた笑顔で、彼にも感情があるのだとわかった。フワリと、優しく微笑んだのだ。その笑顔は、花のように儚く、そして美しかった。
「でも、久しぶりに会えてすっごく嬉しいよ。元気だったの?」
「ああ。おまえも、相変わらず元気そうだな」
「うん。ていうか、いつもメールしてるからわかってるよね。でも、やっぱり顔見て話す方が、私は嬉しいの。すごくすごく会いたかったもん」
「……バカ」
 美緒の頭を軽く小突いた。エヘヘ、と小さく笑って美緒がグラスを手に取る。そんな彼女を見つめるハルカの眼差しは、愛しさそのものだった。
「だって、ハルカが元気だと、私も元気になれるから」
「……そっか」
「うん。いつも笑ってて欲しいもん。そしたら、私も幸せになれるの」
 ふと、泉が、以前言っていた薫の言葉を思い出した。美緒にとってハルカは、ただの友達ではなく、ある意味羨ましいくらい特別な存在なのだと。その意味を、今ふと感じ取れたように思う。美緒から、というよりは、ハルカの表情から。
 そばにいなくても、根底で繋がっている何か。悲しみや幸せを、共に分け合い、共有して生きているような。そう、この二人には、普通の友達関係にはない、何か特別な絆があるように思う。相手が幸せであれば、それが互いの幸せ。儚いのに、とても強い想い。恋人のような強い感情ではないけれど、けして揺るがない想い。
 ハルカに比べれば、美緒の想いは小さく霞むかもしれない。けれど、自分にないものをハルカは持っているような気がして、泉は軽く嫉妬した。
「美緒……なんかいつもと感じ違うな」
「え? そう?」
「服かな。なんかいつもと違う気がする」
 美緒を見て、ハルカが、ポツリとそう呟いた。その言葉に、泉が、ニヤリと微笑む。
 こんなに愛らしく色っぽい美緒が隣にいれば、目が行くのも当たり前だろう。そして、そんな風に彼女を飾らせた自分に、優越感を感じ、ハルカに向かって語りかけた。
「可愛いだろ? 俺のコーディ」
「なんか、寒そう」
「ネート……」
 が、そんな優越感は、泉が言い終えるより先に突っ込んだハルカの一言で見事に玉砕した。
 項垂れた語尾が、少し情けない。
「首元、寒くないのか?」
「え、あー……ちょっとだけね」
「風邪、引くぞ?」
「大丈夫だよ。ハルカは本当に心配性だね」
「おまえは、心配してやるくらいがちょうどいいんだよ」
 項垂れる泉をよそに、ハルカは美緒の肩に自分のジャケットをかけた。遠慮する美緒に、『とりあえず、ここにいる間だけでも』と優しく微笑んで、髪を撫でる。
 本当は、泉コーディネートの美緒の装いに、目が奪われていたことは確かだった。いつもと少し違う、大人っぽくて色香漂う美緒の姿を、恥ずかしくて直視できないほどであったし、正直泉のセンスを褒めたくなる気持ちもあった。けれど、手離しにそれを褒めるのは癪だったのだ。泉のことが好きでも嫌いでもないが、まるで我が物のように美緒を扱う泉に対する、少しの抵抗だった。
「似合ってないかな?」
「ん?」
「こういう、大人っぽい服装……とか」
「いや、似合ってるよ。でも、こっちの方がよく似合ってるかも」
 美緒の胸元に光る、ピンクダイヤを指に絡め取る。直感で、これを贈ったのが薫であることを悟った。これだけ美緒に似合うものを贈れる人なんて、あの人くらいしかいないだろう、と。
 美緒は、ハルカの言葉を受けて、とても嬉しそうに微笑んだ。
 そんな二人をじーっと見ている泉は、もちろん機嫌がいいはずがなく……
「言いつけてやる」
 と、ぶっきらぼうに言い放った。
「は?」
「おまえが、薫以外の男とイチャイチャしてたって言いつけるぞ」
「何バカなこと言ってるの?」
「香月ハルカと浮気してるって言ってもいいのか?」
「言いたければ言えばいいじゃない。先生がそんなことで怒らないことなんか、泉くんが一番わかってるくせに」
「あー、ムカツク。おまえすっげームカツク。やっぱりおまえはバカ女だ」
 チッと舌打ちして、フンとそっぽを向いた。
 目の前で、ハルカと美緒が仲良くしてるのを見てると居た堪れないのだ。嫉妬して、苛立って、子供じみたことを言ってしまう。大人気ないとわかっていても、やっぱり香月ハルカが相手となると感情が収まらない。それは、初めて会った時と、全く変わらなかった。
「なんなのよ、もう! いつもの泉くんらしくない!」
「生憎、これも本当の俺なんですよ。まるで、俺のこと全部知ってるかのように言わないで欲しいね」
「だったら、泉くんも、ハルカのこと何も知らないくせにそんなこと言わないで」
「あ?」
「ハルカのこと侮辱したら、私が許さない。ハルカは、私にとって大事な人なんだから」
 強く言い切る美緒の言葉に、何も返せなかった。冗談で済ませるはずが、美緒の声色から本気を感じ取った。あまりにびっくりしたのか、ハルカも何も言わずに黙っている。怪訝そうな表情で、美緒をじっと凝視する泉の視線を断ち切って、美緒はガタンと椅子を引き立ち上がると、『ちょっと、化粧室行ってくるから』と言い残し、立ち去った。
 バツが悪い。
 美緒がいなくなった途端、訪れる不気味な静寂。意外にも、先に言葉を口にしたのは、ハルカだった。
「わかりやすい人だな」
「うるせえ」
「どう見たって、俺よりもあんたの方が、美緒といちゃついてると思うけど?」
「ああ? どこがだよ」
「あんた、独占欲強すぎ」
「独占欲? 何それ、勝手な思い込みでモノ言うなよな」
「美緒は、あんたのこと兄貴みたいに思ってるみたいだから、気付いてないのかもしれないけど、傍から見たらあんたの気持ちなんかバレバレなんじゃないの?」
 美緒がいなくなった途端、再び無表情に戻ったハルカ。小馬鹿にしたようなその物言いに、泉の苛立ちが更に募った。一番見透かされたくない人間に、何もかもを見透かされていると思うと、どうしようもなく頭に血が上る。
 けれど、泉の怒りが達する前に、目の前にいるハルカが僅かに微笑んで、瞬間呆気に取られた。
「でも、あんな風に、素直で無邪気に振舞う美緒は、初めて見たな」
 ハルカの前でも、薫の前でも、美緒はいつだって相手の気持ちを優先して、自分の気持ちを秘める癖がある。それは、無理しているわけでも何でもなく、無意識にやってのけていることだけれど、泉の前での美緒は少し違っていた。どんな感情も、泉には素直にぶつけているのがすぐにわかった。小生意気な、そんな彼女の新たな魅力を発見して、ハルカは苦笑いを零していた。そんなハルカの表情を目にして、幾分か泉の気持ちも収まった。
 それきり、二人して黙り込むと、少しの間の後、美緒が小走りに帰って来た。その表情には、とびきりの笑顔を浮かべて。
「さっきね、先生から電話があったの。お仕事早く終わったから、これから来られるって」
 携帯を握り締め、嬉しそうに少し頬を染めて美緒が座った。
 ハァ……と、泉の口から重い溜息が出る。思えば、全く美緒とのデートを満喫できていない。ハルカに邪魔され、薫に奪われ、なんだか逆に不幸な一日かもしれないと、心底思った。
 ハルカは、隣に座る美緒の手をそっと握ると、彼女だけに向ける優しい笑顔を浮かべて、小さく囁いた。
「じゃあ、おまえは先にここを出て先生を待ってないとな」
「え? どうして? 先生が来るまで、ここにいるよ?」
「ダメだよ。それじゃ、先生が可哀想だ」
「可哀想?」
「せっかくのデートなのに、余計なものがくっついてちゃ、白けるだろ?」
「でも……」
 せっかくハルカに会えたのに、と呟く美緒を見て、ハルカは愛おしさに胸が押しつぶされそうになる。ハルカを思って、美緒が切ない表情を浮かべていた。
 それだけで、満足なのだ。今は、強く望まない。美緒の心の片隅に、自分がいるだけで構わない。そんな自分の存在が、彼女を少しでも切なくしているのだとしたら、こんなにも幸せなことはないのだ、と。
 本当に本当に、切なくて泣きたくなるほど、愛している。君、一人だけを。
「大丈夫。俺ももう、帰らないといけないから」
「本当?」
「ああ。だから、おまえは早く行け」
「……うん!」
 ハルカの優しい気持ちを、美緒も素直に受け入れた。とびきりの笑顔を振り撒く彼女につられて、ハルカも微笑んだ。肩にかけたハルカのジャケットをカレに返しながら、立ち上がる。ハルカもそれを受け取りながら立ち上がり、店を去ろうとする彼女にぴったりと寄添った。やはり、同い年の二人は、全く違和感なく似合いだ。薫のソレとは、また違った雰囲気がある。
 そんな二人の様子をまたもじっと見入っていた泉だったが、ふいに口を開き、美緒を自分の元へと呼び寄せた。さっきから抱いていた罪悪感は、まだ泉の心の中に燻っているままだった。
「美緒、ちょっとこっちへ来なさい」
「え? 何?」
「いいから、泉ちゃんとこに来なさい」
 さっきのことを全く気にしていないのか、美緒は穏やかな表情を浮かべて泉の前まで歩み寄ってくる。立ち上がり、美緒を見下ろした。指に、美緒の髪を絡ませる。少しの間、そうしたままでいる泉を、美緒が不思議そうな目で見上げていた。すると次の瞬間、フワリと大きな腕で抱き締めた。
「ごめん」
「何……が?」
「ごめん。……ごめん、ごめん。おまえには楽しそうにして欲しかったのに、怒らせちゃって」
「なんだ、そんなこと気にしてたの?」
「ごめんなさい」
「バカだなあ。泉くんが私を怒らせるのはいつものことじゃない?」
 変な泉くん、と笑う彼女。許されて、ホッとした。
 泉は、美緒を抱き締めたまま、彼女の肩越しにハルカを捉えると、挑発するようにベーと舌を出した。おまえには、こんな風に美緒を抱き締められないだろう? と、視線で語る。その視線をまともに受けて、ハルカの表情が歪んだ。
「じゃ、また後でな」
 ダメ押しに、美緒の額に軽くチュッとキスをした。そして、デコビンタを一発。
 見ていられず視線を外すハルカに、少しの優越感が泉を満たした。


「俺、おまえのこと嫌い」
 美緒がいなくなったテーブル。対面に座ったまま、泉がタバコの煙をゆっくりと吐いた。ハルカに向ける、イヤミな台詞と共に。
 けれど、ハルカはハルカで大して気にする風でもない。相変わらず視線を合わせることなく、白けた表情だ。
「俺も好きじゃないし」
「でも、大嫌いじゃない」
「あっそ」
 それはきっと互いに言えることだ。大嫌いになれないのは、美緒を想う気持ちが重なるからだろう。
 泉がタバコを灰皿に押し付けて頬杖をつき、ハルカの顔をマジマジと見つめた。
「おまえさ、そんなに可愛い顔してんだから、絶対笑った方が得だと思うよ?」
「ほっといてくれ」
「美緒の前でだけ笑うとか、そういうのも確かに捨てがたいけどさ、そういうのってなんか根暗すぎない?」
 キツイ言葉をサラッと言う。表情は変えないが、ハルカも今の泉の台詞にはカチンと来た。
「俺がその顔だったら、上手く使って遊びまくるけどね。まあ、今の俺も断然格好いいけどさ」
「あんたは、櫻井先生に顔が似てる割に、性格は全く逆だな。なんていうか、バカすぎる」
「はあ?! 何それ。おまえは俺の賢さを知らなさすぎるね、大体……」
「そういうところがバカなんだよ。自分で悟れないバカ」
 泉が皮肉に口元を歪め、握っていたフォークを目の前にあったケーキにグサッと突き刺した。
 やっぱりハルカとは気が合いそうにない。ちょっとは譲歩して、美緒のためにも仲良くしてやろうかと思ったが、無理そうだ。
「ああ……美緒はどうしてこんな奴に優しくできるんだろう。こんな、根暗で冷血な男に」
「あんたみたいなバカを相手にできるんだから、この際どんなタイプの人間でも相手にできそうだけど?」
「バカより根暗の方が性質悪いわ。大体おまえ、愛想なさ過ぎだよ。少しは目上に気遣え」
「あんたは、自分が救いようのないバカだってこと、少しは気付いた方がいいんじゃない? ある意味、櫻井先生が可哀想だ」
 珍しく、饒舌なハルカ。最初は、眼中にも入れていなかった泉だったが、今は無視できないようだ。
「おまえな、知らないかもしれないけど、美緒は俺にめっちゃ懐いてるんだからな。それはそれは可愛らしく慕ってくれてるわけよ。おまえより俺の方が上だ」
「バカじゃない? 順位なんかに囚われて何になるの? どうせ櫻井先生には勝てないくせに」
「バカバカ言うな! 薫に勝てなくても、おまえに勝ってりゃいいんだよ」
「美緒に好きだとも言えない臆病者のくせに、偉そうにほざくなよな」
「な、なんで言ってないってわかるの?」
「わかるよ。アンタ、バカ正直だし」
 またも見透かされて、ガックリと項垂れる。『ああ、俺の阿呆……』と、頭を抱えて小さく呟いているのが聞こえる。
 泉には見えていないところで、ハルカが苦笑いを零した。こんなにも敵意を向けられているというのに、泉は本当に憎めない男だ。何を言われても許せるような、不思議な魅力を持っている。美緒が、あんなにも泉に心許す理由が、なんとなくわかった。
「じゃあ、俺帰る」
「え?! ちょっと待てよ」
「金は、ここに置いて帰るから」
 泉がパッと顔を上げる。
 お札をテーブルの上に置いて、立ち去ろうとするハルカを、呼び止めていた。
「待てって、ハルカ!」
「……名前で呼ぶなってさっき言わなかった?」
「ハルカいなくなったら、俺ここに一人じゃん。勘弁してよ、終わるまでおまえもここにいろ」
 ハルカの忠告など軽く無視して、泉がハルカの服を引っ張って隣の席に戻す。それには理由があった。テーブルの上に、繰り広げられているケーキの山。美緒が喜ぶと思ってたくさん注文したものの、彼女が帰ってしまったため、これを始末するのは泉とハルカの二人だけだ。別に泉がこれを一人で食べるには問題ないが、さすがに一人だけ取り残されて食べるというのには、寂しいものがある。
「一人で食ってよ。なんで俺が……」
「うるせえ。おまえが俺と美緒のデートを邪魔したんだからな。責任とって付き合え」
「……帰る」
 再び席を立とうとしたハルカのベルトをクッと掴んで、泉がニヤリと笑った。その笑みがなんだか不気味で、ハルカの表情が歪む。
「そんなこと言っていいのかな? ハルカちゃん。あんまり俺をバカにすると、おまえの大事な美緒、俺が無理矢理奪っちゃうよ?」
「はあ? 櫻井先生がいるのに、あんたにそんなことできっこないじゃん」
「誰も薫から奪うなんて言ってないじゃん。例えば、おまえの大事にしてる美緒の唇とか、俺に奪われたら悔しくないの?」
「…………」
「あ、そんなことできないとか思ってんだろ? でも残念。おまえが思ってるより俺、そうとう女の扱いには慣れてるから」
 冗談を装って美緒にキスするくらい、余裕なんだよ?
 そう、言ってるとも取れる泉の目に、ハルカが口を噤んだ。この男なら、自分の目の前でそれをやりかねない。
 黙り込み、大人しくなったハルカに満足したのか、泉がカレの前にもケーキの乗った皿を差し出す。
「はい、これハルカ担当ね」
 どうやら、ハルカと呼ぶのをやめる気はないらしい。
「いらない。俺、甘いもの好きじゃないし」
「ウルサイ食え。俺だけ食ってたら変な目で見られるだろうが」
「いらない」
「食え」
「いらない」
「食え」
「いらない」
「食えっつってんだろ! アホ!」
 泉が、ハルカの頭をスパーンと叩いた。無表情の中に、ハルカの口元が皮肉に歪む。泉は、それが満足だったのか、途端に嬉しそうにケーキを口にし始めた。
 なんだか、ハルカもすっかり泉のペースに呑まれていた。
「なあ、おまえってさ、ずっと美緒のこと諦めないつもりなの?」
「あ?」
「前に言ってたじゃん、本当は美緒のこと奪いたいんだって」
「ああ。……まあ、いずれ大人になって、もっと強くなって、櫻井先生と対等に立てるようになったら、その時は必ず奪い取るよ」
「ふーん、そっかそっか」
 食べもしないケーキを突くハルカを、頬杖をつきながら泉が横目で見つめる。無表情なのは変わらないけれど、最初に感じた印象はだいぶ薄れた。ハルカの愛想のなさは、ただ不器用なだけなのだと、泉自身すでにわかっていたからだ。本当は誰よりも優しいくせに、それを見せるのが恥ずかしいだけだということも。そう思うと、ハルカも可愛らしいじゃないかと、そんな余裕が泉を満たした。
「でも、可哀想になあ、ハルカ」
「何が?」
「おまえがいくら大人になったって、この泉ちゃんが美緒を奪っちゃうんだから」
「は?」
「いくら可愛いおまえでも、俺には勝てないよな。だって俺超絶格好いいもん。可哀想に……」
 俺のケーキ食う? と、ハルカの肩を撫でながら、ケーキの乗ったフォークを口元に持ってくる泉の手を、フッと笑って叩き落とした。
 ああ!! と叫ぶ泉を尻目に、フンとそっぽを向く。

 そんな二人のやりとりを、店中の女の子がずっと見ていただなんて、気付いてもいないのだろう。
 超の付くほどの美形が二人も揃うと視線を集めて然り。美緒がいたならともかくも、二人だけのこんなやりとりは、妖しさ倍増だ。美しいというだけで、二人いるその構図が絵になる。
 しかし、女の視線に慣れすぎている二人には、そんな好奇な目で見られているだなんて、知るはずもなかった。

Copyright (C) 2006-2011 Sara Mizuno All rights reserved.