華水の月

37.冷静な愛

「で? 泉と香月をそのまま置いてきちゃったのか」
 運転席に座る彼が、クスクスと笑った。
 運転用にかけているメガネがキラリと光り、シャープな色香を浮かべているけれど、その奥にある瞳はとても優しい。美緒の話を、いつも穏やかに聞いてくれる彼は、今日も変わらず美しい――。
 お昼をだいぶ過ぎて仕事を終えた薫は、着替える間も惜しんで、すぐに美緒の元へと駆けつけた。店の前で待っていた美緒を、ほんの数十分前に拾い、車に乗せたのだ。電話で美緒から聞かされていたこともあって、てっきりハルカや泉もいると思っていたのだが、そこにいたのは、美緒一人だけだった。
 いつもとは少し感じの違うワンピース。大人びた雰囲気は、美緒の美しさを更に強調する。兄だからだろうか。それとも、好みが似ているからだろうか。その服の趣味が、誰のものであるかが、薫はすぐさまピンときた。
「おまえも、結構大胆なことをするなあ。泉と香月を会わせるなんて」
「大胆? どうしてですか? 泉くんとハルカが一緒にいちゃいけないの?」
「いけなくはないけど、なんか哀れだなあと思って」
「誰がですか?」
「どちらかと言うと、泉かな」
 取り残された泉の表情が目に浮かぶようだ。
 元々、ハルカのことをライバル視している様子は見てとれるほどだったし、あの対照的な性格はきっと相容れないだろう。ハルカは元々他人にあまり関心のない性格故、泉のことも眼中にないかもしれないが、泉はそうはいかない。以前ハルカと会った時の苦い思い出が、軽いトラウマになっているはずだ。美緒がいる間もきっと、嫉妬に狂いそうになっていただろうと思うと、可笑しくて笑いが止まらなくなった。
「どうして、泉くんが哀れなんですか?」
「んー? だっておまえ、香月に会えてかなり嬉しかったんだろう?」
「うん……それはそうですけど」
「おまえは、香月相手だと、本当に嬉しそうに笑うからなあ」
 それを目の当たりにして、嫉妬せずにいられるわけがない。
 ハルカを前にした時の美緒は、嬉しさを惜しみなく表現する。あんなに大人しいハルカでさえ、美緒を前にするといつも優しく微笑むほどに。元々、あまり会えないという理由も大きいけれど、この二人はいつもどこかで繋がってるのだ。どちらかが不幸であれば、互いに崩れ落ちてしまうくらいに。
「そう言えば、なんか今日の泉くんおかしかったんですよねえ」
「ん?」
「いつもの泉くんらしくないっていうか……」
「急に怒り出したり、急にしおらしくなったりってとこだろ」
「な、なんでわかるんですか?!」
「わかるよ、俺の弟だし。それにあいつは正直者だしね」
 感情を秘めるのがあまり上手とは言えない泉。そうでなければ、あの素直さ、無邪気さはありはしない。そんな優しい泉だからこそ、きっと周りの人間も自然と彼を取り巻くのかもしれない。
「少しだけでも、仲良くしてくれると嬉しいんだけどなあ、ハルカと泉くん」
「香月が泉に歩み寄れば、難しいことじゃないと思うけどね」
「本当?」
「でも、それが一番難しいんじゃない? 泉は香月に興味津々だろうけど、香月は泉のことなんか何とも思ってなさそう」
「そう……なのかな。そんなことはないと思いましたけど」
 いつもは他人に無関心なハルカ。余計なことは一切喋らないし、自分からは関わろうともしない。出会った頃に比べると、だいぶ他人に心を許すようになったが、でも根本的な性格は変わらないだろう。美緒への優しさが、昔も今も変わらないように。
「確かに、あんまり泉くんのこと好きそうじゃなかったけど、でも会話もしてたし」
「会話?」
「ちゃんと、泉くんと話してましたよ。泉くんの方が、断然多く喋ってましたけど」
「へえ。あの香月が喋るってだけでも珍しいのに、泉もそんなに積極的だったのか」
 もしかしたら、以前のようにまた無視を決め込んでいるのかと思っただけに、薫は少し驚いた。
「お互い、嫌いというわけじゃないのかなって思いました」
「ふーん。じゃあ、仲良くなるのもそのうちかな」
「仲良くなれるのかな……」
「大丈夫。泉にかかったら、大概の人間はすぐに心を許すよ。香月相手だと、手こずるかもしれないけど、時間の問題じゃないか?」
「そう……かなあ?」
「それに、それはおまえが一番わかってるんじゃないの?」
 疑わしげに首を傾げる彼女をチラリと見て、薫が微笑む。
 美緒はすぐさま何かに気付いたようだった。最初は泉のことが大嫌いで、近づくことはおろか話すことさえも拒否を示していたが、いつしか大嫌いが大好きに変わり、今ではすっかり泉と仲良しになっている。それはとりわけ泉が美緒に対して何かのアクションを起こしたわけではない。自然と美緒と一緒に過ごすことで、美緒の中の泉へのイメージが変わっていったのだ。今ではもう、好きで好きでたまらないのだろう。お互いに。
「今じゃおまえは、泉の大事な大事な可愛い妹だ」
「その割には、すっごいイジワルされるんですけど」
「可愛さ余って憎さ百倍ってところだろ。あんまり香月ばかり特別扱いすると、泉が妬くからほどほどにしといてやれ」
「妬く? 泉くんがですか?」
「ああ。今日の泉のおかしな態度は、嫉妬そのものだよ」
 クスクスと笑い混じりに話す薫の台詞を、美緒は上手く理解できないようだ。
 ――泉の嫉妬。
 美緒が少しだけ首を傾げ、憂い気な表情を見せる。何度も何度も頭の中で泉の行動や言動の一つ一つを考えているのだろう。それでも変わらぬ表情から、美緒が泉を理解できないことに少しの安心を覚えて、薫はフッと笑った。
「もしかして、また余計なこと考えてる?」
「え?」
「あんまり泉のことばっかり考えてると、俺も妬くんだけど?」
 赤信号で、車が止まる。薫は、企むようにニヤリと微笑むと、美緒の肩に手を回し、引き寄せた。
 吸い込まれそうな、色っぽい視線。女かと見紛うほどの薫の色香は、いつも美緒を捕らえて離さない。体ごと引き寄せられ、唇が触れる間際、薫が小さく呟いた。
「美緒の一番は、俺だから。忘れないで」
 返事をしようとした瞬間、声を奪われるように触れる唇。ひとしきり甘く優しい口付けを楽しむと、薫は何事もなかったかのように、唇を離し、正面に向き直る。そして、青信号になったことを確認し発進した。
 隣には、薫の言葉と口付けに酔わされ、頬を染め俯く愛らしい少女を残して。


 ドライブを楽しんでいる車中。珍しく、美緒が薫の家に泊まると言った。
 ちょうど一ヵ月前、薫が大阪から帰ってきた日の夜も彼女は泊まったのだが、あの時は何かとバタバタして、結局二人寄り添って眠るだけに留まっていた。泉も、美緒のことが心配でたまらず、冗談を装って彼女のそばを離れなかった。
 自ら泊まると口にするということは、その先に何があるのか、何を期待しているのかが当然のように見えてくる。恥ずかしがりやの美緒は、絶対にそんなことを口にはしないが、遠まわしに聞いてくるその態度は、逆に艶かしく見えて、無意識に薫を誘っていた。
「今日の夜は……お仕事忙しいですか?」
「いいや。大丈夫だよ」
「私、先生のそばにいてもいいですか?」
「もちろん」
「……良かった」
 ホッと息を吐く、その吐息さえ色っぽい。
 適当な空き地に止めた車の中。薫は眼鏡を外して直に美緒を見つめていた。基本的に、仕事と運転以外の時は裸眼なのだ。美緒は、ガラス越しよりも、直接見つめ合える薫の瞳を好んでいる。それをわかっていて、眼鏡を外す。色めく視線から、美緒が逃げられないことをわかっているからだ。
 美緒の髪を指に絡ませると、上半身をハンドルに預けながら、横目で彼女を見つめていた。
 ――可愛らしい。
 頬を染めるその色も、俯く美緒の視線の先にある、彼女の指先も。どれもが、薄紅に染まる。そう、胸元で光るピンクダイヤモンドのように。
「美緒。もしかして、誘ってる?」
 わかっていて聞くのだ。薫はいつだって……。
「別に……誘ってなんか、ないです」
「もっと素直に、抱いて欲しいって言えばいいのに」
「そ、そんなこと思ってないもん……」
「そういう態度は、逆に男を挑発してるんだけどな。特におまえは、目で誘うから」
 髪に触れていた指が、頬を辿り、首筋を這い、胸の谷間へと滑る。大きく開いた胸元はあらわで、薫の温もりを直に感じすぎた。
 触れる熱が、火を帯びる。欲情が、触れた肌から溢れそうになる。
「ほら、ね。その表情、反則」
 恥ずかしげに目を閉じて、何かを堪えようとする表情は、男心を刺激してならない。秘める何かをこじ開けたくなるのだ。
 全て奪いたくなる。彼女の、体も心も全て。
「ここでそんな顔しないで。したくなるだろ」
「だって……先生が……っ」
「ダメだなあ。我慢できない子は、お仕置きするよ?」
「もう、してるじゃないですか……!」
 閉じた足の間を、まるで泳ぐように触れる指。涼しい顔をして、指先で彼女を翻弄する。胸元に触れていた指は、いつしか下降し、彼女の欲望を引き出している。快感に揺れて、力が抜けたのをいいことに、薫は指を滑り込ませると、下着越しに彼女の中心を撫でた。すでに湿り気を帯び始めている熱が、布越しに伝わってくる。少し強引に指を押し付けると、彼女が唇を噛んで快感を堪えた。その表情がたまらなく愛しくて、下着の脇からスルリと指を潜らせる。ヌルリとした愛液が指に絡まり、彼女は、小さく声を上げた。
「感じやすい女」
 フッと笑って、火のついた彼女の体を確かめると、彼はあっさりと体を離した。


「まだ怒ってるの?」
 一歩前をゆく彼女の背中を見つめながら、苦笑いを零した。すでにカゴ半分ほどを埋め尽くす食料たち。どれも、美緒が夕飯の材料にと入れたものだ。
 夕刻も迫り、泊まることに決まった美緒を連れ、学校や薫の家からは遠く離れたスーパーまで買い物に来ていた。ここならば、知った人間もいないだろう。美緒も、それをわかっているのか、薫と並んで歩くことに抵抗を見せなかった。
 スーツを着たままの薫と、大人びた服装の美緒。一見、恋人同士というよりは、若い夫婦の方がしっくりとくる。
 ただ、若妻の方の機嫌はよろしくない。カートを押しながらもこちらにはけして振り向かないその頑固な様は、美緒が拗ねている証拠だった。
「いい加減機嫌直せよ。夜はちゃんと可愛がってやるから」
「なっ……!」
「今度は焦らさずに、ちゃんと抱いてやるって」
「せ、先生! 大きな声でそんなこと!」
「じゃあ、機嫌直してくれる?」
 顔を覗き込まれ、ニッコリと微笑まれると、何も返す言葉など見つからない。薫の笑顔はある意味犯罪的だと、そう思う。別に、美緒自身、怒っているというわけではないのだ。
 ただ、歯痒かった。いとも簡単に美緒を快感の高みへと引き上げるくせに、そうさせた本人が冷静すぎることが。快感に濡れた体を見て、彼が喜んでいることが。もう引き返せないほど薫を欲してしまっている美緒を無視して、自分の欲望はあっさりと抑え込むことのできる薫が憎らしい。
 本当は、あのまま車の中で抱かれても良かった。そう、思えるくらい、美緒の体は昂ぶっていたのだ。それをわかっていて、焦らすだけ焦らし、体を離した薫が、憎らしくてたまらない。本当に彼は、イジワルだ。
「別に、怒ってません……」
「本当に?」
「本当だもん……」
「じゃあ、その顔は何?」
「これは……先生の目がきっとおかしいんです!」
「……可愛いな、相変わらず」
 怒ってないといいつつも、頬を膨らませ不服そうに薫を見る目に、思わず笑みが零れた。
 こんな美緒だからこそ、虐めたくなるのだ。辱めて、愛しさのあまり壊したくなる。
「じゃあ、買い物を早く済ませて、家に帰ろうか」
「ドライブはもうしないんですか?」
「したいなら、してもいいけど、おまえも早く帰りたいんじゃないの?」
「私は別に……」
「それに、俺だって、おまえを抱きたいのを結構我慢してるんだけど?」
 髪をクシャッと弄って、そう呟く薫の言葉に、ドクンと鼓動が揺れた。
 本当に、参ってしまう。そんな些細な一言だけで、全てを許せてしまうのだから。
 憎らしいと思っていたことも全てチャラだ。求められているというただそれだけのことが、美緒を薫でいっぱいにする。言葉の通りになる自分を、想像するだけで体が火照ってしまう。俯き、何も喋らなくなった美緒を横目に、薫がクスッと笑った。
「あ、おまえ今、帰ってからのこと想像しただろ」
「え?! な、何言ってるんですか」
「エッチだなあ、美緒ちゃんは」
「も、もう! からかわないで下さい」
「ハイハイ。じゃあ、早く帰ってたくさん可愛がってやるよ」
「いらない! 絶対いらないもん!」
 せっかく許す気になったというのに、またそういうことを言うものだから、美緒の気も静まらない。恥ずかしさに顔を真っ赤に染め、急ぎ足で薫の前を行く。耳まで真っ赤だ。
 そんな彼女を、笑いをかみ殺しながら見つめる薫の視線は、愛しさそのものだった。
「本当……美緒は可愛すぎ」
 彼女に届かないほどの小さな声で、そう、呟いた。


「買い忘れは、もうない?」
「大丈夫です。これだけあれば、足りると思うから」
「今日は何作るの?」
「秘密です」
「ちょっとくらい教えてくれても良くない?」
「えっと……あんまり気取らずに、和食中心に色々作ってみようと思うんですけど、先生は和食好きですか?」
 スーパーの袋に支払いを終えたばかりの食料を入れながら、二人並んで他愛もない会話。思えば、こういう光景は、今までに一度たりともなかった。泉とは、よくこういった場所に出かけることもあるが、薫と並んで歩くとなると、それはまた別のこと。視線という視線を、気にしすぎるところが美緒にはあった。薫は、別にバレたとて、大して気にもしないといった様子だったが。
「和食好きだよ。そういや、美緒が初めて作ってくれたのも、和食だったっけ。すごく美味しかった」
「あ、そう言えば、そうでしたね」
「思えば、あの時から泉がおまえの料理にのめり込んだんだよなあ。最近、どこで食事してても、すぐに『美緒の料理の方が……』ってブツブツ言ってるよ」
「泉くんが?」
「ああ。特にハンバーグなんかは、おまえのしか食べる気がしないらしい」
 ほんの数時間前にも、同じことを泉に言われたばかりだ。嬉しさのあまり、頬が緩んでしまう。薫も泉も、二人とも美緒の料理を美味しそうに食べては、誉めてくれた。男の人は、案外女の作る料理を誉めたりしないものかと思っていたが、この二人はその逆だ。美緒が恥ずかしくなるくらいに、絶賛した。
「おまえは、和食だけじゃなくて、中華も洋食も上手だしね。泉だけでなく、俺も大好きだよ、美緒の料理」
「で、でも、先生の方が上手じゃないですか。泉くんも、すごく美味しそうに食べてるし、いつも美味しいって言ってます」
「泉にとって俺の料理は、お袋の味ってとこだろ。昔から、食事はいつも俺が作ってやってたしね。食べ慣れてる味だから、美味いも不味いも関係ないんじゃない?」
「でも、先生は本当に料理上手ですよ」
 それは自信を持って言える。
 だからこそ、薫に自分の作ったものを食べさせるのには、引け目を感じるのだ。薫のほうがきっと上手に作れるのに、と思うと、少し気落ちする。そんな気持ちも、薫の美味しいという言葉だけで、一気に浮上するのだが。
「まあ、俺はやっぱり作るよりも食べる方がいいけどね。特に、おまえの料理はね」
「わ、私の料理なんか、食べてもいいことないです……」
「そんなことない。本当に旨いし、それに彼女の手料理って言うのは、男にとってすごく嬉しいものだからね」
「そうなんですか?」
「ああ。たとえ料理が下手だったとしても、美緒の作るものだったら何だって嬉しいよ」
 耳元で囁かれ、恥ずかしさに首を少し捻る。耳にかかる息が、くすぐったくてたまらなかった。それさえも、なんだか卑猥に思えてならない。
 薫は、そんな美緒の様子に満足げに微笑むと、買ったものを全て入れた袋を手に持った。
「じゃあ、帰ろうか」
「はい!」
 薫の後をついて、歩く。人のまばらな店内は、誰も二人を気に留めなかった。当然だ。ここには、美緒と薫を知る者はいないはずなのだから。
 ――そう、そのはずだった。
 ニコニコと上機嫌な美緒の心を、一瞬にして地に落としたのは、一人の女の視線。薫と二人並んで店内を出ようとした時、ふいに誰かに見られているような気がして、美緒が辺りを見回した。
 その時だ。
 一ヶ月前と同じように、心の底に鉛を落とすような、あの視線と絡み合ったのは。
「結城……先生……?」
 店の出入り口からは、十メートルは離れているところから、麻里が美緒と薫を見ていた。その目には感情がなく、ただ呆然と立ち尽くしていた。凝視するというよりは、視線を外せないと言った方が正しい。
 なぜ、こんなところに――。
 彼女は、大型スーパーの中に隣接するドラッグストアの前で立っていた。何かを、物色していたところなのかもしれない。しかし、なぜそこにいるのか理解に苦しんだ。彼女の家からも、けして近い場所とは言えないだろう。今いるこの場所は、あえて遠くだという理由で選んだくらいなのだから。
 美緒と麻里の視線が絡む。
 一瞬、ドクンと鼓動が波打って、美緒の手が無意識に薫の服を掴んだ。
「どうした? 美緒」
「いえ……何も」
 薫が、美緒の変化に気付かないわけがあるまい。
 少しおかしな美緒の様子をじっと見、荷物を片手だけで持ちかえると、空いた方の手で、美緒の手をギュッと握った。途端、薫を見上げる美緒の視線。薫は、優しくそれを受けとめると、どうした? ともう一度聞き返した。
「なんでも……ないです」
「なんでもなくないだろう? そんな顔して」
「本当に何も……」
 ここから早く逃げ出したかった。薫の手を引き、駆け出してしまいたかった。けれど、そんなことをすれば、薫が麻里に気付いてしまうだろう。それは、もっと嫌だったのだ。
 薫に、麻里を見て欲しくない。麻里を、心の片隅にも思って欲しくない。こんなことを思ったのは初めてだ。こんなにも強い独占欲を薫に抱いたのは、初めてのことだった。
 なぜだろう。問わなくともわかる。一ヵ月前、薫と麻里のキスシーンを見た時から、何かが狂いだしたのだ。いや、狂いだしたのは、もっと前からだったのかもしれないけれど……。
 絶対的に薫が美緒を愛してくれていることは、わかっている。それなのに、麻里に薫を奪われそうで怖くてたまらなかった。
「美緒?」
 薫が握る手の力を込める。どうした? と優しく問うても、彼女は何も答えなかった。ただ、何かに怯えているように、薫の目には映った。
 その時ふいに、違う場所から視線を感じたような気がして、薫がゆっくりと顔を上げた。その動作につられるように、美緒も顔を上げる。
 ――見ないで!!
 そう思った時には、既に遅かった。薫のシャープな視線は、遠くにいる麻里を確実に捉えていたのだ。美緒が顔を背ける。薫は、そんな彼女に向き直って苦笑を零すと、小さく呟いた。
「バカだな」
 握っていた手が離れ、彼女の髪をクシャッと弄った。いつもの彼のクセ。それだけなのに、何故か泣きそうになるのは、薫の愛情が髪を流れ伝わるからだろう。
 愛しているよ、美緒だけを――。
 そんな言葉さえ、聞こえるかのように。
 薫は、美緒の髪に触れていた手を離すと、彼女の頬を優しく撫で、そして唇にそっとキスを落とした。本当に、触れるだけのキス。優しく、雪を降らせるような……。
「さあ、行こう美緒」
 薫は、じっとしたまま動けない美緒を、片手でかつぐように抱き上げると、麻里には一瞥もくれず、颯爽と店内を後にした。
 麻里は、最初からそこにはいなかった。そんな風にさえ、思わせるくらいに。
「先生……」
「ん?」
「……なんでもないです」
 薫の腕に抱きかかえられながら、今にも零れそうな涙を必死で堪える。
 麻里を見ただけで、心乱れる自分。薫の優しさは、とても愛を感じ、嬉しかったのに複雑だった。フェミニストな彼が、麻里を無視した。美緒を優先しているからこそ、そういう態度を取ったのだとわかっている。美緒を不安にさせたくないから、あえて接触しなかったということも。
 それなのに、不安でたまらないのだ。本当に何の関係もないのなら、ただの知人として、話し掛けることもできたのではないのか、と。今も麻里に対し、何かしらの感情を抱いているからこそ、あんな態度を取ったのではないのか、と。そんな風に薫が動けば、もっと傷ついたに違いないとわかっているのに……。
 止まることの知らない猜疑心。薫への、不安。きっと、薫がどんな態度を取っていても、それは変わらないかもしれない。
「ごめんなさい……」
 麻里を見ないで欲しいと、一瞬でも望んだのは自分だ。麻里を無視し、美緒だけを見つめてくれる薫の態度は、何よりも何よりも正しい。こんなに優しく思ってくれる人なんて、居はしないのに……
「ごめんなさい……」
「なんで謝るの?」
「ごめんね、先生……」
 涙を堪えながら、彼の首にギュッと抱きつく。たかがこれしきのことに動揺する自分が憎い。薫を百パーセント信じきれない自分が、嫌でたまらなかった。薫は、いつだって美緒だけを愛してくれているのに……。
 狂った歯車は、クルリとまた歩みを進めた。


 一人、取り残されたような空間。ぽっかりと空いた心の隙間は、いつだって薫しか埋められない。
 ――触るな。
 耳の奥で、薫の声が響いていた。彼の胸元で揺れる煌めきに触れようとした瞬間、飛んできた氷のように冷たい声。いつもは優しく微笑んでいる薫が、冷ややかに麻里を見、彼女の指を拒絶した。コレに触れるのは、許さない、と。
 『触るな』
 この台詞を聞いたのは、もう一ヵ月も前になるというのに、なぜ今思い出したのか。
 理由は簡単。美緒の姿にも、同じ輝きを見たからだ。
「そっか……あれは、真中さんそのものだったのね」
 溜息混じりに苦笑を零す。だから、あんなに大事に守っていたのか。誰にも触れさせず、隠すように抱き締めて。
 薫の胸元に見た薄紅の輝きを、彼女の姿でも見つけた。さりげなく光る薫のものよりは、明らかに大きな輝き。彼女の髪と同じように、ゆらゆらと揺らめいては、煌めいていた。
「まさか、こんなところで会うなんてな……」
 目的のものを手に取り、皮肉に微笑んだ。誰にも見つからないように遠くへ……。それはきっと、彼らも同じであったに違いない。
 あの空港でのキスから、薫は麻里を見なくなった。もう言葉を交わしてもいない。視線を、向けられることもなかった。それを受け止めるのが怖くて、自ら近づかなくなった。ラインを超えたのは、麻里の方だ。薫が許してくれていた甘いラインを超えたのは、彼女の意思。ラインを超えた女には、薫は徹底的に冷酷になるということを知っていたはずなのに……。
「本当バカね、私……」
 傷つけてでも欲しいと願ったものは、傷つけたからこそ手に入らない。
 薫の胸元と、美緒の首筋に光る薄紅の輝きとは違う脆さを、麻里は痛いほど噛み締めていた。

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