華水の月

4.光と影の交錯

「美緒……?」
 逃げるように駆け出した愛らしい女生徒を、目で追いながら、確かめるように名を呟く。口の端が持ち上がり、ニヤリと微笑んだ。
「ねえ、どうしよう。見られたよ!」
 目の前で黒板に手をついたまま後ろに振り返るもう1人の女生徒。髪は肩ほど。見た目は、普通か、それより少し上か。今美緒を見たばかりだからか、すごく印象の薄い女にしか感じられない。
 綾乃の困惑した目が印象的だった。泉に助けを求めるような、そんな目。自分が招いた災難を、泉が男だからという理由で擦り付けようとする媚びた目。
 だが、泉は、その視線が鬱陶しいとしか感じられない。
「なあ、真中さんの下の名前って何?」
「え……美緒だけど……」
「ふーん、美緒ね」
「それが何? なんでそんな涼しい顔してられんのよ。見られたのよ?」
 攻め立てるように綾乃が声を荒げる。そんな彼女を目の端で捉えながら、チッと舌打ちをすると、彼女に入ったままだった自分の物をあっさりと抜いた。その衝撃に、綾乃が顔をしかめる。
「やーめた。あんたとしてても全然気持ち良くないし」
 避妊具を取り外し、最初から何事もなかったかのようにしらっとした態度を取る。一瞬でも繋がっていたのかと思うと、そのことの方が嫌だった。後味が悪くて仕方が無かった。
「なっ……! 中途半端でやめるつもり?」
「抱いてやったんだから文句言ってんじゃねーよ。大体誘ってきたのはそっちだろ」
 情のないセックス。愛撫もそこそこに、ただの行為に及ぶだけの。
 だが、二人ともそれで良かった。このセックスには、余計な情は不要なのだから。むしろ、そこに愛情があれば、泉は綾乃を抱いてはいないだろう。
「櫻井先生が全然振り向いてくれないから、せめて弟に抱いてもらえるだけでもいいって言ったの、確かあんただよな」
「そうだけど……でもあんただって乗ってきたんじゃない」
「乗った? 俺があんたの色香に誘われたみたいな言い方しないでくれるかな。久しぶりに女子高生の1人でも味わってやろうかと思っただけだよ。別にあんたじゃなくても全然良かった」
「……誰でも良かったってこと?」
「まあ、俺を欲情させられるだけのものは持ってると思っていいんじゃないの? そうとでも言わなきゃ、あんたが哀れだしね」
「どういう意味よ……」
「好きな男の代わりに、弟使うなんて、哀れだって言ってんだよ」
 フンと鼻で笑った。
 綾乃の顔が屈辱で歪んでいく。だが、どれだけ綾乃が屈辱だろうと、泉を責める資格はない。誘いを持ちかけたのは綾乃の方なのだ。全く振り向いてくれない薫へのあてつけとして、せめて弟の泉だけでもと思ったのだろう。心寂しさに体を利用するなどとは呆れたが、泉にしてみれば自分への情が無い分楽で、興味本位もあった。最初から泉の気持ちを少しも考えていないと言うのなら、気持ちを汲んでやる必要もない。泉は、軽い気持ちでその誘いに乗った。荒々しいだけの、優しさも労わりもない、犯しているかのようなセックス。しかし、最初は声も上げず、ただ虚しそうだった綾乃の体も、次第に何も考えられなくなるほどに、泉の技量で感じさせられていた。
「体投げ出せば、男が何でも言うこと聞くと思ったら大間違いだよ。そんな軽い女、男は最初から見向きもしない」
「なんなのよ、あんた……」
「俺があんたに溺れるとでも思った? 一度したからって自分の所有物みたいに思ったの? 悪いけど、俺はあんたを好きにはならないよ」
「うるさい……ウルサイ! ウルサイ!! あんたに何がわかんのよ。私がどれだけ櫻井先生のこと好きか知らないくせに」
「なんで知らなきゃいけないわけ? 大体、あんたに怒鳴られる筋合いもないんだけどなあ。お互いの求める欲が一致してセックスしただけでしょ。あんただって俺の体利用したわけじゃん。最初から情に溺れるような人間なら、簡単にセックスしようなんて男に言うもんじゃないよ」
「……あんたなんかにわかんない。それでも先生と繋がりたかった私の気持ちなんて」
 それが女の性だというのだろうか。泉にはわからない感情だった。
「ちなみに言っとくけど、薫はあんたみたいな女、嫌いだと思うけどね。あんたみたいな尻軽女は特に」
「もう言わないで! お願い……言わないでよ……」
「何? 泣いちゃったの? ……面倒くせえ」
 顔を両手で覆って泣き崩れる綾乃を、鬱陶しいものでも見るような目つきで見た後、軽く溜息をついた。
 だから女は嫌いなのだ。一度肌を重ねるだけで、そこには必ず情が棲みついてしまう。女子高生にしては、男女の遊びを知ってるように感じた綾乃だったが、やはり心の中はまだ純愛を信じているお子様だった。
 泉としたことが、人選ミスを犯した。ただ楽しめれば、そう思っただけなのに、こんなにも面倒臭いことになるとは……。あえて綾乃を責めたてるようなことを言ったのは、彼女に余計な情を持たせないためだった。優しい言葉をかければ、それがどんな感情に化けるかもわからない。そんな鬱陶しいこと、泉の恋愛には不要なのだ。
 だが、収穫もあった。怯えた目をした愛らしい女生徒。きっと彼女は、『彼女』であることに間違いない。流暢な英語も、そして、迂闊にも薫が呼んだ名も。
「心配しなくても、真中さんは誰にも言ったりしないさ。絶対にね」
 言えるわけがない。自分が、あんな場面を見られているのだから。
「じゃあね。……あんたの名前忘れちゃったけど」
「……最低」
 涙で曇った声で、綾乃がそう一言口にした。泉は、自分を突き放す言葉を受け止めた後、苦笑して教室を去った。
 縋られるよりも、突き放された方が、男女の恋愛は楽だ。


 次の日、樹多村綾乃は欠席した。
 やはり昨日のことがあったからかと、美緒の中で心配がよぎったが、元々挨拶程度しか交わすことのないクラスメートだったからか、それ以上の行動に出ようとは思わなかった。日が経てば、そのうち学校にも来るだろう。そんな安易なことしか思えなかったのは、綾乃の相手が泉だったからだ。泉のことで頭がいっぱいで、綾乃のことを真剣に心配してやれず、そう思い込むしかできない。彼が相手でなければ、そう気にすることもなかったかもしれない。
 だけれど、今彼以上に意識している人間など美緒の中にはなく、否応なしにも思いだしてしまう。薫との会話から、泉がそうとうな女好きであるということは聞いていたが、まさかそれを目の当たりにするとは思っていなかった。
 今日から、どんな顔をして授業を受ければいいのだろう。きっと彼は、今日も美緒を当てるに違いない。まともになど、顔を見られるわけがない。知らず知らず焦りは募り、結局その日の英語の授業に、美緒は出席しないことにした。


「あー。だりいー。やってらんねえよ、マジで」
「まだ一週間だろうが。何弱音吐いてんだよ、おまえは」
「やっぱ俺教師向いてねーよ。……まあ、最初から教師なんてなる気ないけど」
「だったらなんで教育実習なんかに来たわけ?」
 保健室のソファで、大の字になってくつろぐ泉の姿があった。天井を仰いで、いかにもだるそうな態度を取る。そんな弟の姿を見て苦笑しながら、薫はデスクに向かったまま仕事をこなしていた。
「なんでって……まあ暇つぶし?」
「で、暇はつぶれたのか」
「まあ、綺麗になった麻里さんにも会えたしね。前から綺麗だったけど、すっげえ綺麗になっててびっくりした」
「本人に言ってやれば喜ぶよ」
「なあ、なんで麻里さんと別れたわけ?」
「さあ、なんでだろうな」
 薫の口ぶりで、この話題がそれ以上広がらないことを悟った。泉は保健室備え付けの冷蔵庫を開けると、中からジュースを一本取り出した。
「ところでおまえ、まさか生徒に手出したりしてないだろうな」
「おっ。それを薫が言うなんて、意外」
「どういう意味だよ」
「自分だって、生徒と付きあってるくせに」
「俺とおまえを一緒にするな。俺はおまえみたいに、女を性の対象としてだけ見てるわけじゃない」
「まあ、どっちみち女子高生はもういいかな。面倒くさい」
「手、出したんだな?」
 メガネ越しにジロリと睨みつけられ、咄嗟に泉が苦笑を零した。居たたまれず慌てて視線を外すと、薫は呆れて溜息を零す。
「ったく、おまえはどうしてこうもだらしがないんだよ」
 いっそ女がらみで痛い思いをすればいい、だなんて兄とは思えないことを口にするも、泉はまあまあと宥めるしかできない。とりあえずこれ以上つっこまれるのは苦しい。ふと、美緒のことを思い出し、泉は意気揚々と薫に話題を振った。
「なあ、薫。薫の彼女って、すっげえ美少女だったりする?」
「はあ?」
「それでいて、清楚で可愛くて、英語も流暢だったりする?」
「なんで?」
「小さくて華奢でさあ、いかにも処女です、みたいな子だろ」
「何が言いたいんだよ、おまえ」
「べっつにー」
 そう言って、ペットボトルの蓋を開け、楽しそうにゴクリと一口飲む。
 何かを感づいたのか、薫の鋭い眼差しが泉を射た。決定的な何かを薫が悟ったのだと、否応なしにも感じられた。
「そういや薫、少し前に一ヶ月くらいイギリスに行ってたよな。旅行だとかなんとか言ってたけどさ」
「まあ、海外はよく行くしな」
「この間のアメリカ行きはさ、納得してるんだよ。だってちゃんと向こうで仕事してたじゃん? でもその前のイギリスは不思議でしかたなかったんだよね。なんでただの旅行で休職してまで一ヶ月もイギリス行くんだろうってさ」
「おまえが理解できるほど、俺は簡単にできてないんでね」
「それじゃ俺がアホみたいじゃん」
「違うのか?」
「はいはい、どうせ俺は薫みたいに完璧な人間じゃないですよ」
 そう言うと、お互い笑った。
 何を言いあっても、何をされても許せる関係があるとしたら、その一つとして兄弟があるのかもしれない。対称的であり、それでいて似ているところがある二人だからこそ、昔から仲が良かった。聡明である兄を泉は慕っていたし、憎めない無邪気な弟である泉を薫も愛していた。それは、今に至っても変わらない関係だ。
「おまえが何かしない内に釘を刺しておくが、度を超えたことはするなよ」
「ん? 女遊びのこと?」
「それもあるけど、それ以外のこともだ。何を言っているのかわからないほど、おまえもバカじゃないだろ?」
「……はいはい、わかってますよ」
 眼鏡越しとは言え、泉を見据える薫の瞳には冷ややかな鋭さが宿り、簡単に威圧と恐怖を与える。そんな眼差しをわざと視線から外しながら、泉は軽い返事をした。
 怒らせたらとんでもないことになる。薫が、美緒のことを言っているのは容易にわかった。そんなに美緒のことが大事なのだろうか。理解できない薫の気持ちを、不思議に思いながら、手に持っているジュースを飲み干した。
 だが、それだけで言うことを聞くほど、泉も大人しい人間ではない。度を超えなければいいのだ。そんな屁理屈を自分の中に埋め込んで、これからの学園生活に楽しささえ感じていた。
 さあ、どうやって美緒に接触を図ろうか。
 薫がこれだけ大事にする女とは、一体、どれほどのものなのだろう。
 そう思うと、女遊びをするときよりももっと気持ちが高鳴った。

 それから一時間を、ダラダラと保健室で過ごした。
 薫の隣は、すごく居心地が良い。けしてうるさくなく、それでいて話しかければ簡潔で的確な言葉が返ってくる。本当に頭が良いのだ、と、会話をする度にいつも感じていた。頭のいい人間は、会話でさえそれを感じさせる。そしてその頭の良さが、薫のミステリアスさを更に増徴させているのだろう、と。余計なことは言わないのだ。だからこそ、その言葉の持つ彼のイメージしか見えない。穏やかに微笑む、彼の上辺しか感じられない。
 もっと探りたくなってしまうこの感情は、自分が他人の女ならば、いつしか恋に変わるのかもしれない、とそんなことさえ思った。軽く憧れる、兄という存在。
 だが、泉には、泉の良さがあることを、自分が一番よく知っている。だからこそ、兄に媚びるでなく、自分らしく生きればそれで良いと思っていた。
「なあ、泉。俺これから少しだけ留守にするけど、後任せてもいいか?」
「ああ。別にいいけど?」
「たぶん、二十分くらいで戻るから」
「わかった。いってらっしゃい」
 右脇に書類を抱えて、白衣を椅子の背にかけ、メガネをデスクの上に置くと、薫は職員室へ行くという名目で泉に後を任せた。
 薫が出て行った途端、シーンとする保健室内。何もすることがなく、暇をもてあましていた泉は、椅子の背にかけられた薫の白衣を何気なく羽織って、デスクの前に座った。意外と自分にも似合うかも? などと、子供じみたことを考えながら、周りを見渡す。あと四十分もすれば、五時間目に入るな、と時計を見ながらふと思った。
 五時間目は、美緒のクラスの授業だ。さあ、どんな顔をして、授業を受けるのだろうかと思うと、今からソワソワして仕方が無かった。
 学園一の美少女。
 それでいて、自分の兄の彼女。
 二人並べば、きっと違和感なくお似合いなのだろう。年の差はあるが、美緒の持つ不思議な気品は、少女特有の幼さを感じさせない。たとえ社会人の中に混じっていても、そこに溶け込み存在感を放つ魅力を彼女は持っている。性格は、まだ関わったことがないからよくはわからないが、きっと見た目とそう変わらないのだろうと思った。麻里が言っていた感じで、それはより強く印象づいた。
 控えめで大人しく、それでいて優しく。薫が守ってやらなければ駄目な、弱い女。一人では立ってられなさそうな、儚い女。きっと、そんなところだろうと思った。
 もしかすると、そんな風に彼女を想う泉の気持ちが届いたのだろうか。
「櫻井先生」
 ふいに背後で開けられたドア。誰のものかもわからない愛らしい声。
 だけれど、櫻井先生、と泉を呼んだその声には、険がなく、優しさが込められていた。そう、好意を抱かれているとすぐにわかるような、そんな声。
 泉はゆっくり振り返ると、彼の姿を捉え、驚きに目を丸くする彼女の姿を見つけた。
「いらっしゃい、美緒」
 願ったり叶ったりだ。
 こちらから近づかずとも、彼女の方から来てくれるだなんて。
「みーつけた」
 一方は、ニコニコと光を放つような笑顔をたたえて。
 そして一方は、闇に落ちたような複雑な顔をしていた。

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