華水の月

41.恋華依存

「携帯番号が変わったから、わざわざ来てくれたの?」
 真っ白いベッドは、とてつもなく無機質に思えた。
 乱れあう白衣と制服。本来なら、病人がただ眠るだけが目的のはずの空間。そんな穢れのない白の上での戯れは、ある意味際限なく背徳を感じさせる。
 うつ伏せるように寝かされたベッドの上。背中から迫り来る男の指や吐息の感触に、唇をキュッと噛み締め必死で快感に耐えていた。
「別に、メールか何かで教えてくれたのでも良かったんじゃない?」
「来ちゃ……ダメでしたか?」
「いいや? むしろ、美緒の方から来てくれるなんて、俺にしてみればラッキーなことだけどね」
 ベッドと体の間に手を差し込み、押しつぶされている美緒の胸元へ滑り込ませると、器用にボタンを二つ三つ外した。襟元を広げて、肩を露にする。長い髪を掬い上げ、耳の後ろから首筋にかけて舌を這わせると、美緒が苦しげに吐息を漏らした。
「ほら、ちゃんと入れといてよ。美緒の新しい番号」
「わかってる……けどっ」
「そのためにここに来たんだろ?」
「でもできな……っ」
 薫の携帯を左手で握り締め、操作しようとボタンに指を触れているはずなのに、体中を這い回る薫の感触がたまらず、枕に顔を埋め必死で耐えていた。
 誰もいない昼休みの保健室。『校医不在』のプレートをドアの外に掲げ、電気を消して、ひっそりと隠れるように、二人息を押し殺していた。
「あっ……やだ、先生……」
「相変わらず美緒はエッチな体だな」
「そんなことな……っ」
 スカートの中に滑り込んだ指は、美緒の下着を掻き分け、直に触れてきた。クチュ……と卑猥な水音を立てる美緒の体。指を入れるでなく、その濡れた花びらをなぞるように触れると、美緒が体をよじらせて震えた。足を閉じようとしても、背後から覆い被さるように押さえつける薫の体が、美緒の自由を許さない。
「もう……なんでこんなこと……するのっ」
「して欲しくないなら、やめるけど?」
「私はただ……先生に、番号教えにきただけなのに」
「そこに少しの期待もなかったなんて、言わせないよ。ねえ、美緒?」
 耳をペロッと舐める。既に紅潮していた耳は、ひどく熱く熱を持ち、美緒の体が快感で滲んでいることを強く感じさせた。
「誰もいない保健室でこうなることくらい、おまえはわかってたはずだよ」
 ゾワ……と体の中を抜ける薫の声に、一瞬美緒の体が竦む。
 こうなると、もう自分の欲望を止める術がわからなくなるのだ。薫の指に、声に、熱に、全てに逆らえなくなる。体の芯が、熱を帯び始める。
「いやらしい女。そんなに俺に抱かれたいの?」
 中指を一本、濡れる花びらの中へと突き入れる。美緒の中を恥辱するようにゆっくりと掻き乱し、時折彼女のイイ所をクッと押すと、小さく嬌声を上げ、身を硬くした。息を飲むような喘ぎが、一層欲情を刺激する。声を出さないようにと耐える美緒の姿が、淫らでたまらなかった。
「言葉とは反対に、体は素直に感じちゃってるじゃん」
「やめっ……て、お願い先生……」
「やめられないよ。こんな可愛い美緒、もっと見たいに決まってるんだから」
 枕から少し覗く頬に、キスを落としながら、指先ではしっかり快感を与えつづける。右手は彼女の蜜壷を掻き乱し、左手は柔らかな胸の頂きに咲く蕾へ。いつの間にか外されていたブラのホック。無防備なほど柔らかいその胸を、素肌を、薫の指が容赦なく恥辱する。
 下からも上からも薫の感触が駆け巡り、美緒は耐えることだけに必死だった。欲望を手放してしまえば、もうその先には善悪の区別もつかない恍惚とした意識しかないとわかっているから。
「もっと、愛してあげる」
 乱れた制服から覗く美緒の白い肌が目の前で揺れて、薫の欲望の歯止めも利かなくなっていた。
 虐めたい。もっともっと。美緒の肌が、薫の色に全て染まるまで。
「……ダメ、なの。それ以上されたら……わたしっ」
「どうなるの? 教えてよ」
 花びらの上で小さく主張している芽を、人差し指で弾くと、中指を入れたままの美緒の中がキュウと締まった。薫の細くて長い中指が、これでもかというほど締め上げられ、奥へと誘われる。小さいながらも声を上げ悦びを露にする美緒を、指を器用に使いながら愛撫していく。
 指だけでイかせるくらい、容易いことだ。薫の巧みな技量に加え、美緒の体は薫の愛撫に対しとても従順だから。薫が与えた刺激を、いとも簡単に悦びの色に変えてしまう。
「ダメなの。欲しくなる……っ」
「何を?」
 先生を……、と答えようとした瞬間、中を掻き回す薫の指が二本に増え、その質量感に息を呑んだ。
 言葉にならない。
 息は上がり、あまりの気持ちよさに、唇を噛み締めるのが精一杯だ。だが、次第にその指に慣れると、ジワジワとした快感が美緒を包み始めた。なぜこんなにも、薫の体が自分に馴染んでしまうのかわからないくらいに。
「どうした? 答えないとやめないけど?」
「やっ、……んっ、先生……!」
「声大きいよ。廊下に響いたらどうするの?」
 胸を弄んでいた指を、美緒の口の中に突っ込んだ。柔らかい舌が、ゆっくりと薫の指先を捉える。噛まないでね、と意地悪く耳元で囁きながらも、薫は愛撫をやめない。背にキスを降らし、蜜に溢れる花びらを掻き乱し。
 答えろと、そう言ったクセに答えさせないだなんて、なんと卑怯な男なのだろう。でも、そんな彼の皮肉ささえ、今は愛撫の一部であるように思えた。
「ふ……う、んっ……」
「きっと、今ものすごく可愛い顔してると思うんだけど、見れないのって何だか癪だなあ」
 目には見えなくとも、薫が背後でほくそえんでいるのがわかる。美緒の体を自分の思いのままにし、満足げに笑っている薫の表情くらい。少しの抵抗心で、美緒は必死に顔を見せまいと振りほどき、枕に顔を埋めた。否応なく、口から離れる薫の指。
 だが、薫がそんな美緒の抵抗を許すはずがない。指に絡まる美緒の味をゆっくりと堪能すると、一瞬身を離し、肩に手をかけ彼女の体を仰向けにした。
「ほら、見せてよ。美緒がどれだけ気持ち良さそうな顔してるのか」
「そんな顔しないもん!」
「本当に?」
 素早く下着を引き抜かれ、再び秘部に触れる薫の指に、無意識に美緒の体が跳ねた。赤く色を帯びる小さな芽も、熟した花びらの中も全てを乱されて、堪えられず薫の背に必死に腕を回す。白衣を握り締め引き寄せると、薫の唇が、美緒の唇にゆっくりと重なった。
 そして、重なったままクスクスと微笑み、イジワルな言葉を口にする。
「すごく可愛いじゃん。その顔、たまんない」
「だ、め……先生、お願い……」
「ん? どうした?」
 舌を絡ませながら、美緒の言葉を引き上げていく。薄目で美緒の官能的な表情を堪能し、指先で美緒の温もりを感じ、満たされる。
 美緒は、次第に自分から足を開き、無意識に薫を自分の中へと呼び込もうとした。
 もう、指だけでは、足りない。確かな薫の温もりが欲しい。
「せんせ……お願い、来て」
「どこに?」
「私の中に……」
 それを言うだけで、もう精一杯だ。快感で羞恥心が薄れているとはいえ、極端なことは美緒には言えない。薫も、そんな美緒の言葉を満足げに聞いていた。けれど、イジワルな表情をニヤリと浮かべるだけで、彼女の要求を聞き入れることはなかった。
「ごめんね。俺まで余裕なくなると、誰かがここに入ってきたとき反応できないからさ」
「え……?」
「大丈夫。美緒はちゃんとイかせてあげるよ。だから、指で我慢して?」
「指……?」
「本当は、思いっきり抱いてあげたいんだけどね。……時間も時間だし、場所も場所だから」
 そう言って、余裕ありげに微笑んだ薫の表情を見たのが、美緒の記憶の最後だった。その後はただ、容赦ない薫の巧みな指の愛撫に、見事なまでに溺れ、あっという間に飲み込まれてしまった。
 ――卑怯者。
 そう思ってしまうくらい、美緒を包み込む薫は、ひどく官能的だった。


 薫の優しいキスで起こされた後、乱れた衣服を恥ずかしげに整えながら、中断したままだった携帯への作業を続ける。
 新しい、美緒の携帯番号。元々は、これを薫に教えるのが目的だったのだ。新しい番号と、新しいメールアドレスだけ伝えたら、戻るつもりだった。そのはずだったのに……。
 『じゃあ、俺の携帯に入れといて』と言われ、渡された薫の携帯を弄っていた時に、ふと背後から包んだ薫の抱擁。それがあまりにも優しくて、心地よくて抵抗できなくなった。その後はもう、あっさりと薫の腕に囚われ、思いのままに体を預けてしまった。
 でも、本心を言えば、そういう期待がなかったわけじゃない。二人きりだとわかった瞬間、体の奥がジンと疼いた。もしかしたら、そんな些細な美緒の変化を、薫は感じ取っていたのかもしれない。
「入れた?」
「……はい、これ」
「サンキュ」
 ベッドから離れていた薫が戻ってきて、すぐさま携帯を彼に返した。まともに顔が見られず、俯いてしまう。指だけでイかされただなんて、恥ずかしくて薫の目を見られない。
 ペタンとベッドの上に座ったまま、胸元をキュッと抱き締める美緒の姿は、本当に純情な少女そのものだった。
「ごめん。最後までしてやれなくて」
 わざと言っているに違いない。別に、悪いだなんて薫は少しも思っていないくせに。
 美緒の羞恥を煽ろうとしている台詞だということは、語尾に含まれる皮肉な笑みから窺えた。
「いいです、別に……」
「怒ってるの?」
「怒ってません」
「本当に?」
 本当に、と答えるより先に唇に触れるキス。
 いつの間にこんなに近くにいたのか。薫は美緒の顔を覗うように腰を屈め、下から見上げるように唇に触れた。微かに残るタバコの香り。嬉しくて、でも恥ずかしくて、美緒は頬を染めて何も言えなくなる。
「可愛い」
 いつものように、クシャクシャっと髪に触れられる。ひどく安心する、薫の手。本当に卑怯な男だ。こんな風に触れられると、もう抗おうなんて思わなくなるのだから。
「なあ、美緒。今日の放課後って、暇?」
「え? どうしたんですか? 急に……」
「今日は仕事が早く上がりそうだからさ、デートでもしないかなと思って」
「本当に?」
 ぱあっと花が咲くような本当に嬉しそうな美緒の笑顔に、思わずこみあげる愛しさ。薫はうんと返事をしながら、美緒の額へ優しく口付けていた。
 たかが放課後のデートだ。それでも、こんなに喜んでくれることを心底嬉しく思う。それと同時に、普段どれだけ美緒に寂しい思いをさせているのかということを、思い知らされた気がした。
「でも、近場は美緒が嫌がるから、車でドライブになるけど」
「いいです、それでも。先生と居られれば、どこでもいいんです」
「バーカ。そんな可愛いこと言うと、もっかい押し倒したくなるっつーの」
 ベッドの上に座ったままの美緒を、ギュッと抱き締めた。あまりに素直に自分を求められたことに、嬉しさを通り越して恥ずかしくなる。触れ合う頬は、きっと薫の方が熱いに違いない。
 全く、恋愛経験などろくにないくせに、あっさりと薫の心を奪っていく美緒には参ってしまう。いつもは天邪鬼なくせに、時折無防備に感情を見せたりするものだから、その都度平静を装うのに必死だ。だからと言って、ポーカーフェイスの薫は、そんな雰囲気を美緒には一ミリたりとも見せたりはしないけれど。
「でも、今は暇でも、夕方になったら急に忙しくなることもあるんじゃ……」
「今からそんなこと考えても仕方ないじゃん。まあ、可能性の一つとしては否めないけどね」
「ですよね。でも、楽しみにしておきます。私、ずっと待ってますから」
「ああ。たぶん、大丈夫だと思う」
 教師と違って、校医の仕事は時間が不安定。それをわかっている美緒は、それなりの覚悟もちゃんと出来ている。校医だけじゃなく、医師として他の仕事も担う薫は、予定が狂うことなど日常茶飯事なのだ。
 ある意味、そんな薫を間近で見ていて、ワガママを言う気も失せてしまうというものだった。
「それに、風邪気味だから、体も休ませないといけないしね」
「あ、そう言えば、さっきから咳してましたよね……。大丈夫ですか?」
 思えば、二人で戯れている時から、薫は時折小さく咳き込んでいた。大丈夫、と微笑む薫の言葉に嘘はないと思うけれど、やはり心配になる。たとえ薫にとっては小さな変化でも、美緒にとっては大きいのだ。
「あの、デート……また別の日でも大丈夫です」
 口元に手を当て、俯いて小さく呟く美緒。
 本当は一緒にいたい。でも、薫の体が大事だから……。想いを押し殺して、薫の体を労わった。
 けれど、薫はそんな美緒を見つめて穏やかな表情を浮かべると、俯いたままの彼女の頭をポンポンと優しく撫でた。
「大丈夫だよ。俺にとっては、美緒が一番のクスリだから」
「え?」
「そばにいて欲しいんだ。ダメか?」
「先生……」
 ダメだなんて、そんなこと言えるわけがない。求められて、拒絶する術なんて見つからない。
 美緒は俯いたまま、ゆっくりと首を横に振った。
「それより、おまえに風邪うつしたかもしれないな。ごめん」
「大丈夫ですよ? どうして?」
「だって、ほら。さっきめちゃめちゃ愛しちゃったしさ」
「……ば、バカ!」
 意地悪な笑顔を浮かべて、過激な台詞をサラリと口にする。さっきまでの淫靡な雰囲気を思い出して、美緒が頬を真っ赤に染めた。
「ま、おまえにうつっちゃったときは、俺がまたもらってやるから」
「え?」
「その時は、おまえが俺を愛してよ」
「い、嫌です……」
 そんな光景、想像しただけでも頭の中が沸騰する。
 いつものことなれど、そんな台詞をサラッと口にしてしまう薫の心理が美緒には理解できない。
「なんで?」
「私が風邪を貰わなければ済むことでしょ? だから、しません」
「あっそ。じゃあ、わざとうつしてみようか?」
「えっ……」
 意地悪な微笑はそのままに、美緒の後頭部を引き寄せ、強引に口付けた。隙を見せる美緒の唇から、容赦なく薫自身が滑り込む。舌先を捉えると、絡めとるかのように蠢いた。知らず、上がる呼吸。
「もう、だめ……だってば」
「……ご馳走様」
 唇が離れると、薫は満足げな表情を浮かべながら、美緒の濡れた唇を舐めた。その仕草があまりに色っぽくて、心縛られ、美緒はもう為す術がない。
 結局、心も体も薫には逆らえないのだった。

「お昼休み……終わるの早すぎですよね」
「それでも時間は待ってくれませんけど? 美緒ちゃん」
「うん……」
 五時間目が始まる五分前。放課後、校外で落ち合う約束をして、別れる間際。
 もう昼休みも終わりなのだから、そろそろ美緒を離さなくてはいけない。そう、わかっているはずなのに……。いつもよりなんだかとてつもなく美緒が可愛く見えて、薫は自我を押さえるのに必死だった。
「ったく、可愛すぎなんだよ」
「は?」
「なんかもう、これでもかってくらい虐めたくなる」
「……こんなに虐めてるのにまだ足りないんですか?」
 眉をひそめ、怪訝な表情を浮かべてマジマジと見つめてくる美緒の表情が可笑しくて、薫が苦笑いを零した。
 本当にもう重症だ。触れれば触れるほど、見つめれば見つめるほど、美緒が恋しくて仕方がない。こんなに女を可愛いと思うことは、これまでにはなかった。
 もうすっかり、この恋しい華に依存している……。
「全然足りないね」
「ええ……もう十分です。むしろ先生は私にイジワルし過ぎです」
「だって、虐められてる時の美緒の顔、本当に可愛いからさ」
「先生の場合、泉くんのイジワルよりもずっとずっとイジワルなんですよ?」
「ふーん、どんな風に?」
「なんかもう、心ごと掻き乱されるんです。だから……やだ」
「俺にとっては光栄なことだね。美緒の心をそんなに掻き乱せるのは、俺だけってことだろ?」
 クスクスと笑って、美緒の髪を撫でた。そんな彼の微笑を受けて、美緒も溜息をつきながら困ったように笑った。
 いつも意地悪で、でも優しくて。耐えられないくらい美緒を辱めるくせに、どんな時も守ってくれる。心が掻き乱されるのは、愛している証だ。薫でなければ、こんなにも美緒の心を乱せない。些細な言葉も、仕草も、微笑みも。薫のものなら、全て見逃したくない。ずっとずっと、感じていたいのだ。
「じゃあ、放課後、待ってますね」
「うん。なるべく早く行くから」
「はい、待ってます」
 どちらからともなくそう言って、美緒は保健室を後にした。去り行く背を見送りながら、薫も背を向ける。
 いつも背中合わせの関係。隣を歩くことは、まだまだ先のことだけれど、手に残る美緒の温もりさえ覚えていればそれでいいと、薫は切ない微笑を零した。


 夕暮れが押し迫る時刻。
 生徒たちは、とっくに授業を終え、部活に勤しむものや下校する者と皆バラバラに動いていた。教室は、既にガランと寂しい表情をしていることだろう。
 だが、放課後の保健室はそうはいかない。いつも薫目当てに遊びに来る女生徒が後を断たないからだ。不在のプレートがかかっているか、病人が居いるかさえしなかったら、生徒は容赦なく薫に寄ってくる。際立って見目麗しい校医は、付け加えて性格もフェミニストだけあって、女の子たちが放っておくわけもない。
 それでも、今日は珍しく、訪れたのは二人だけだった。
「ほらほら、さっさと帰れっつーの」
「やだ。先生がこの後デートしてくれるって言ったら、帰るよ」
「バーカ。そんな約束絶対しません」
「ええー。どうしてよー。先生のケチッ!」
 さっきから止まることなく薫にちょっかいを出しているのは、美緒のクラスメートの一人だ。薫の白衣を引っ張っては、ワガママに振舞っている。そんな彼女を隣で聞いてる一人も、美緒のクラスメートだが、あまり喋ることなく薫を見つめていた。
 ――樹多村綾乃。
 肩ほどの髪に、幼い顔つきをした少女。時折保健室に立ち寄っては、話をしていく少女だ。
 以前、美緒と泉と薫が一緒にいるのを見られたことで、美緒に悪態をついたことがあったが、それから後も、薫に対して何かが変わるわけではなかった。美緒との仲も疑われているわけではない。むしろ、綾乃は泉と美緒の仲を確信しているようだった。泉を見る目は日に日に冷たくなる一方、薫を見る目は愛しげに変わっていくのを、直感で悟ってはいた。そして今日もその視線に、僅かにも強い気持ちを感じていたが、薫は気付かぬフリをしていた。
「大体さあ、櫻井先生って彼女いるって言った割には全然そんな雰囲気見せないじゃん? 本当は嘘なんじゃないの?」
「ちゃんといるよ。可愛い彼女がね」
「嘘だあ。女避けのための狂言だったりして」
「んなわけあるか。可愛い女の子大好きの俺が、わざわざそんなことするわけないだろ?」
「えー、疑わしい。じゃあ彼女の写真とか見せてよ。そしたら信じるから」
「アホ。誰が見せるかっての」
 食ってかかる女の子の額を、指先でピンと弾いて苦笑した。彼女も彼女で、ふいに触れられた額を手で覆い、赤くなって恥ずかしげに微笑む。薫の優しさはいつだって、女の子の気持ちを緩やかに押さえ込むのだ。
 そんな二人のやりとりをジッと見ていた綾乃が、ふと言葉を口にした。
「見せられないのは、見られたら困る相手が彼女だからですか?」
 二人同時に、綾乃に視線を向ける。
 一瞬呆気に取られたが、薫はすぐさま企むような笑みを浮かべ、頬杖をつくと、綾乃と視線を絡ませた。
「なんで、そう思うの?」
「ただなんとなく、そうなのかなあ……と思って」
「その割には、随分と核心つく質問だね」
「生徒だったりするのかな……ってそう思っただけです」
 その台詞には、美緒が彼女なのかという疑いがあったわけではない。そうではなく、もしも自分のような生徒の立場でも、薫の恋人になれるかどうなのかということを、薫の口から確かめたかっただけだった。
「ふーん。まあ、実際樹多村が彼女だったとしたら、俺も隠すだろうしね。バレたら大変だ」
「え? 綾乃が彼女?!」
 女生徒が、綾乃の顔をマジマジと覗き見る。
 違うよ、と曖昧に微笑みながら否定する綾乃は、どこか少し寂しげでもあった。
「でも、俺の場合そういうのとはちょっと違うかな」
「どう……違うんですか?」
「勿体ないから見せたくないんだよ」
「勿体ない?」
「俺だけの可愛い恋人だから、そう簡単には見せてあげたくないの」
 薫の言葉や眼差しから、嘘がないかと探ろうとする綾乃の視線を、薫も逃げることなく見つめ返した。数秒、じっと見つめ合った後、綾乃の方からふいっと視線を外し、小さな溜息をついた。
 どうやら、薫の言葉を信じたようだった。
「いいなあ、先生の彼女。私もそんな風に愛されたい」
「だったら、おまえも愛される女にならないとね。可愛い女は、何も言わなくても守ってやりたくなるものだから」
「まあね。……でも先生って独占欲強いんだね。なんかちょっと意外」
「彼女に関してだけは、譲れないからね」
 綾乃は何も喋らなかったが、二人の会話を真剣に聞いていたに違いないだろう。普段、あまり見せることのない薫のプライベート。どれだけ生徒が薫に問いただしても、いつも上手くはぐらかされていた。彼女のことさえ、ここまで気持ちを聞き出せたのは、今回が初めてだったくらいだ。
 あまりに直球な、それでいて察しのいい綾乃の言葉が、少しだけ薫を乱した故だった。
「ところでさ、先生。この間泉先生来てたけど、知ってた?」
「え? 泉?」
 来てたと言われても、頻繁に泉と夕飯を共にしている薫には、いつのことだかわからない。生徒は知らないのだろうが、放課後になると泉はよく学校に訪れるのだ。中まで入ってくることは稀でも、薫を待って近くにいることは結構ある。彼が来ない日は、薫が迎えに行くか、家で待っているかが多かった。
「泉先生に会うの久しぶりだからすごく嬉しかったのに、なんか急に帰っちゃってさ。姫を迎えに行かないと、とか言ってたんだよね。姫って誰だっつーの」
「どうせ、美緒じゃないの」
 不満げに語る友人に、綾乃が冷ややかに言葉を投げた。
「でも、美緒は泉先生とは何でもないって言ってたよ?」
「そんなのわかんないじゃん。あの教育実習生だって、美緒に夢中みたいだったし」
「まあね。でも、美緒の言う通りただの噂かもしれないし」
「火のないところに煙は立たないじゃん。美緒も、まんざらでもないんだよ、きっと」
「そうなのかなあ……」
「美緒は絶対、認めないだろうけど」
 綾乃の言葉からは、泉を卑下するニュアンスが感じ取られた。加えて、美緒を敵対視するような風も。
 そんな彼女を黙ってじっと見ていた薫が、感情を感じさせない抑揚のない声で語り始めた。
「樹多村の泉評価は、相変わらず変わってないみたいだな」
「え……あの……」
「そういや綾乃って、泉先生のこと嫌いだよね。あんなに格好よくて面白いのに」
 二人同時に感情を見透かされ、綾乃の表情が、急に困惑したものに変わった。
「好きになれないのは仕方ないよ。誰だって、合わない人間はいるんだから。俺は何かを知ってるわけじゃないけど……できるなら、泉のこと嫌いにはなってやらないで欲しい」
「大丈夫……ですから」
「好きになれとは言わないよ。あいつだって悪いところはたくさんあるし、樹多村にも思うところや譲れないところはあるだろう」
「嫌いじゃないですから……本当に」
「そっか。ごめんな、俺の勘違いだったみたいだ」
 綾乃を真っ直ぐに見る薫の視線が心に焼き付いて、その途端急に申し訳なくなった。薫の前で、泉のことを悪く言うつもりはなかったのだ。けれど一瞬、薫と泉が兄弟であることを忘れていた。薫にそう言われると、好きじゃない泉のことも、次第と許せるようになってしまうのだから不思議だった。
 元々、泉とのことはお互い様なのだとわかっている。誘ったのは綾乃の方だ。泉が仕掛けてきたわけじゃない。綾乃にも十分非はあるからこそ、罪悪感が心の中に残っていたのだろう。綾乃が泉を良く思わない分、泉も綾乃を良く思うはずがないのだから……。
 でも、薫がそう言ってくれるのなら、気にはしない。それくらい、薫に対する綾乃の気持ちは飽和していた。
「それから……」
 けれど、薫の次の言葉が、綾乃の心を激しく掻き乱した。
「真中のことも、頼むから悪く思わないで。あの子は、ある意味被害者のようなものだからね。こんなことで誤解されるのは可哀想だ」
 言葉の端に見せた、少し哀愁を残す笑顔。綾乃が女でなかったらわからなかっただろうそのニュアンスを、ズシリと感じた。
 言葉が……出なくなる。
 少なくとも、薫の中の美緒の存在は、綾乃よりも上なのだということを瞬時に感じ取ったのだ。彼女ではないにしても、綾乃よりは上。泉と美緒の仲があるから、薫にとっての美緒の立場も大きいのかもしれないと考えもできたけれど、そんな理屈は別として、感情だけが大きく乱れた。
 まさかそんな風に思われているだなんて、薫には全くわからない。
「大丈夫だよ、先生。私、美緒のことめちゃめちゃ好きだし! 泉先生のこととか別に関係ないって思ってるから」
「そっか。なら、良かった」
「それに、泉先生が美緒のこと特別扱いしちゃうのもわかるんだよね。あんなに綺麗で可愛くて優しい子、滅多にいないもん」
「そんな風に友達を思えるおまえも、十分可愛いです」
 そう言って、女の子の頭にポンと手を乗せると、彼女が恥ずかしげに頬を染めて微笑んだ。
 綾乃は黙りこくったまま、何も言葉を口にしなかった。
 綾乃も美緒が嫌いじゃない。むしろ、いつも優しく接してくれる彼女を、好きだとそう思うのに。以前に見た、三人でいるシーンがどうしても頭から離れず、理由のわからない嫉妬心を煽られていた。


「じゃあね、先生。また明日ねー」
「ああ。気をつけて帰れよ」
「先生もね」
「樹多村も、寄り道なんてしないように」
「はーい」
 やっとのことで、保健室から二人を追い出し、薫も美緒に会いにここを出ようと準備を始めていた。椅子に座ったまま、二人に背を向け、手をヒラヒラと振る。少しいつもと様子の違った綾乃が気になったが、薫と話しているにつれいつもの明るい様子に戻っていたようだった。
 ドアが、ガラッと開く。
 その時は、二人が保健室を後にしたものだと、思い込んでいた。
 けれど、その後すぐに飛んできた男の声に、思わず振り向かされていた。
「すみません、櫻井先生。……結城先生が倒れてしまって、すぐに診てもらえませんか」
 現れたのは、理科教師の佐伯祐介だった。その腕の中には、彼の胸元を弱々しく掴み、抱きかかえられている麻里の姿。ピンクの愛らしいスーツとは反して、顔色は灰色のように淀み、見ただけで不調だとわかる様だった。
 薫だけでなく、二人の女生徒も、そんな祐介と麻里の様子を凝視していた。

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