華水の月

43.白い雨色の街

 ――妊娠……してるんだろう?
 ある意味感情のないその声は、麻里の心を逃がさない。
 耳の奥で何度もざわめいた。薫が口にした『妊娠』という言葉が。その響きがあまりにも罪に濡れている気がして、麻里は無意識にそれを拒絶する。指先は冷たく、段々と血の気が引いていくのを感じていた。
「な、何言ってるの……。嫌だな、妊娠なんてそんなことあるわけないじゃない……」
 その冷えた指先を口元に当てて、噛んだ。唇に触れる冷たさに、心までヒヤリと萎縮する。
「おまえは嘘を吐く時、必ず指を唇に当てるんだ。知ってた?」
「え……」
「俺には嘘は吐けないよ。皮肉なことに、おまえのことなら何でもわかるんだ。わかりたくなくてもね」
 困惑した麻里の表情を、優しく見守る薫の瞳。布団の上から、麻里の体をポンポンと軽く叩いて、見つめていた。
「気付いたのはいつ?」
「…………」
「結城先生。これは大事なことだよ。答えて」
「……最近」
「そう。……ちゃんと、病院で検査はしたのか?」
 ゆっくりと首を横に振る。
 妊娠という言葉に対する『否定』という二文字は、もはや麻里には浮かばない。この男を前にして、これ以上嘘が吐ける自信などなかった。嘘を吐いたところで、すぐ見透かされるのがオチだ。もう、後には引けない感じがしていた。
「病院には行ってないわ……」
「じゃあ、市販の検査薬で?」
「うん……」
「いつ?」
「……薫と真中さんを見た日」
 薫の脳裏に、以前ショッピングセンターで麻里に出会った時の光景が駆け巡った。一瞬しか彼女には視線を向けなかったが、大型スーパーに隣接するドラッグストアの前に彼女は確かにいた。なぜ自宅からあんな遠い場所に彼女がいたのかなんて、特に気にしていたわけでもなかったが、今麻里から聞いた言葉で全てに納得がいった。
 彼女自身、この妊娠に多少ならず怯えを感じていたということだろう。検査薬の入った小さな箱。わざわざそれを買うためだけにあんなに遠くまで足を運ぶのだ。それを手にし、不安に打ち震えていただろう麻里のことを思うと、チクリと胸が痛んだ。
「結果は聞くまでもないな」
「……うん」
「すぐにでも、ちゃんと産婦人科で診察してもらえ。このまま放っておいたら、お腹の子にも響くよ」
 『妊娠』というものが、女性にとってどれだけ重大なことなのかは、男には計り知れない。だからこそ、麻里をこれ以上不安にさせたくなくて、薫が優しく微笑みを向けた。
 けれど彼女は、そんな薫の気持ちを受け入れるでなく、むしろ自分に科された罰を受け入れようとした。
「産まないわよ……私」
 希望も何もない眼が、薫を見つめ返す。
 その瞳の色に、少なからず麻里の本気を感じ取った。
「産まないって……どうするつもりだよ」
「堕胎手術を受けるわ……」
「本気で言ってるのか?」
「冗談でこんなこと言えないわよ」
 そう言いきると、顔を背け頭までスッポリと布団を被った。胸が苦しくて、思わず涙が零れそうになるのを必死で堪える。唇を噛み締め、断固として何も認めないと、意地になっていた。
「可愛くないのか、腹の子が」
「……そんなこと思う余裕なんてないわよ」
「どうして」
「だって、この子は産んじゃいけない子だもの」
「産んじゃいけない子?」
 薫が聞き返しても、彼女は黙り込んで何も答えなくなった。
 意味がわからない。なぜ、彼女のお腹にいる子供が、産んではいけない子なのか。けれど、頭の片隅には、僅かながらにも予感を感じていた。薫にとって、あまり嬉しいとは言えない予感を。
 ――腹の子の父親。
 あえて問わなかったが、麻里を不安にさせるものがそれであることは容易にわかったのだ。
 その予感が次第に赤く点滅し始める。薫を脅かしながら、迫り来る。それを払拭しようとして、薫は麻里の肩に手をかけると、強引に自分の方へと向かせた。
「おい、黙ってたってわからないだろう。どういうことか、ちゃんと言ってみろ」
「だって……ダメなのよ」
「どうして……」
「この子は……この子はね……」
 麻里の目に、再び涙が浮かび上がる。目尻に溜まった水晶玉のような涙は、彼女の言葉とともに零れた。
「この子は、―――― 」
 風が蠢くように、薫の耳の奥でざわめいた。
 その事実に、息を呑む。ありのままのその言葉は、薫の心にズシリと深く沈み込んだ。言葉にならない。なんと、言葉を返していいのか、何も浮かんではこない。麻里が泣いているのが目に映るのに、そんな彼女を安心させられる言葉なんて、どこにもないような気がした。
「なんでそんなこと……」
「……愛されたかったのよ、それでも」
 続けて麻里から聞かされていく言葉は、確実に薫を追い込んだ。
 自嘲的な笑みが口元に浮かぶ。愚かだ。男も女も、どうしてこんなにも愚かなのか。
 たった一つの小さな命でさえ、手離しに喜ぶことさえできない。
「薫だって、そんな子嫌でしょう?」
 ふと、麻里の冷たい手が、薫の頬に触れた。優しく撫でるその様は、彼を慰めているかのように……。薫は、その手の感触を柔らかく受け止め、自分の手も彼女に重ねると、小さく深呼吸して呟いた。
「子どもに……罪はないよ」
「でも……」
「この子は、おまえを選んでここへ宿ったんだ。誰でもない、おまえが母親じゃないとダメなんだと、それを伝えるために」
 麻里の手を取って、彼女のお腹の上に乗せる。その下には、誰が何を否定しようと、もう息づいているのだ。麻里を選んで宿った、新しい命が。
「産めなんて無責任なことは俺には言えない。それを決めるのはおまえだ」
「薫……」
「たとえおまえがどんな選択をしたとしても、俺は何一つおまえを責めたりはしない」
 むしろ、責められない。責める権利も何も、薫は持ち合わせていないのだ。人一人という命は、価値など付けられないほど尊いものなのだから。
 薫を蝕む背徳感は、ジワジワと心を侵食し、すでに複雑に渦巻いていた。麻里の口から事実を聞いた以上、もう後戻りも、逃げることもできない。たとえ麻里がどれほどに薫は無関係だと言い張っても、薫の際限のない優しさが、それを無条件に受け入れられはしないだろう。
「ダメよ。……だって私、薫に全部話したのは、産まないって決めたからだもの」
「俺のことは気にしなくていい」
「気にするわよ。だって、少なくともこの子は、貴方を幸せにはしないわ」
「そんなことないよ」
「そんなことあるの! 知ってしまった以上、この子は貴方の心の枷になるわ。私、そんなの耐えられない……」
 ちょうど子宮の真上にあるシーツをギュッと握り締める。全てを吐露してしまった以上、産むだなんて言えるわけがない。薫が何も知らないならまだしも、知ってしまって尚、産む勇気なんて……。
 薫には何の責任もないのだ。彼が負い目を感じることも、不安に思うことも。全ては、薫を貪欲に追い求めすぎた麻里が悪いのだから……。
 何か少しでも否定されれば、中絶に何の迷いも生まれなかっただろう。こんな時でさえ、薫に判断を委ねている自分が嫌いでたまらないと、そう思う。所詮、薫の言葉次第で、自分の人生は揺れているのだと。なのに、薫が腹の子を、認めてしまうから……。薫がそんな愚かな麻里をも優しく見守ってくれるから、思わず縋りつきたくなる衝動に駆られた。
「でも、どうしよう……私、どうしたらいいのかわかんないよ」
「大丈夫だから……」
「本当にバカだよね。自分勝手にばかり生きたから罰が下ったんだよ、きっと……」
「そんなに自分を責めるもんじゃないよ」
「この子が可愛いかどうかさえわからないのよ。母親のくせに……。母親のくせによ」
 本来なら、自分の腹に宿った命を愛しく思うのが、本来の母親の姿なのだろう。守り、慈しみ、自分の中に息づく命を誰よりも愛するのだろう。
 けれど今の麻里には、そんな風に我が子を思える余裕なんてありはしなかった。あるのは、足元からジワジワと彼女を蝕む嫌悪感だけ。妊娠というものが、こんなにも自分を不安に追いやるものだなんて、今までどうして想像できただろう。
「なんで……なんで妊娠なんか……っ!」
「落ち着け!」
「産まない! 産んじゃダメなんだもの! 産んだって……この子は幸せにならないのに……!」
 錯乱状態に陥り、思わず自分の髪を掴んで起き上がる麻里を、薫が咄嗟に抱き締めた。それ以外に、彼女の体を守る術が見つからなかったのだ。手を振り上げ、腹めがけて拳を握り締める麻里が、何をしようとしているのかくらい薫にだって分かる。放っておけば、自分の腹でさえ容赦なく痛めつけそうなくらい、彼女は自己嫌悪に苛まれていた。痛々しいその姿は、見ているだけで涙を誘うほどに……。
「大丈夫。大丈夫だから……」
 ありったけの力で抱き締められ、髪を撫でる薫の手を感じながら、麻里は声を上げて泣き崩れた。

 自分のすぐ隣に幸せなんてありはしない。あるのは絶望だ。
 新しく宿った命を排除したいと願う自分は、本当に絶望的なほど腐りきっているとそう思う。腹の子が、自分の罪の証であるとしか、今の麻里には思えないのだ。たとえ純粋に愛し合って出来た子ではないにしろ、母親だけは愛してあげなくてはいけないと、そう思うのに……。
 たった……。
 たった一夜の過ちで、全ては崩れ落ちた。
 先月……、そう一ヶ月と少し前の、あの夜で――。
 薫が、麻里の隣にあると言ったささやかな幸せも、跡形もなく消え去るように見えた。


 ――先生へ。
 お仕事忙しいですか? 連絡がないので、きっとお仕事が立て込んでるんじゃないかと心配しています。私なら大丈夫なので、気にしないで下さいね。雨が降ってきたし、今日のデートはなかったことにしましょう? 先生も風邪ひいちゃってるし、ゆっくり休ませてあげたいから。
 なので、今日は先に帰りますね。次のデート、楽しみにしておきます。先生も早くお家に帰って、温かくしてゆっくり寝てくださいね。
 ――美緒

 約束の時間を十五分ほど過ぎた頃、薫宛てにメールを送った。本当ならいくらでも待っていられる。だが、きっとまだ仕事をしているだろう薫を、美緒との約束で急かすのは嫌だったし、一番の理由は薫の体を思ってのことだった。
 怪しい雨雲は、予想通り雫を落とし始め、今ではすっかり街も雨色に染まっていた。気温もグッと冷え込み、体を芯から冷やすような独特の冷たさがあった。
 薫はきっと、どれだけ具合が悪かろうと、美緒のことを思い無理をするだろう。自分が同じなのだから、そんなことくらいわかりきっている。だからこそ、早めに美緒の方からデートのキャンセルを申し出たのだ。遅刻した薫を叱ってみたいという興味もあったが、やっぱり薫自身が一番大事だった。

「なんでって、雨が降ってきたからかな?」
 いつの間にか降りだした雨。元々鞄の中にしまってあった赤いチェックの折り畳み傘をさして、携帯越しに問いかけられた言葉に答えた。
 足元を、音を奏でるように雫が跳ねる。景色は雨色でも、美緒の心はカレの声で温かい気持ちになる。
『雨が降ったらおまえは俺に電話をかけるの?』
「ダメ?」
『いや、別にいいけどさ……』
 きっかけはどうであれ、ハルカにとって美緒からの電話は嬉しい。新しく変わったと昼間にメールで教えられたばかりの番号からのコールは、一瞬でカレの気持ちを高みへと引き上げる。だが、雨というフレーズは、そんなに自分を思い出させるものなのだろうかと、ハルカが不思議そうに問い返した。
 だってなんだか寂しいじゃないか。雨なんて、冷めた印象しか持ち合わせていない。その色も、感触も。
 美緒の携帯越しに、しとしとと静かな雨の音が奏でられるのが、ハルカの耳にもささやかに届く。その音は、冷めた印象の中にも、規則正しい温かさを感じさせた。
「だって、雨を見るとね、ハルカがすぐ隣に居てくれるような気がするんだもん。だから私、雨がとっても好きになったよ」
『……そっか』
「雨が降ると、ハルカに会いたくなるの」
『うん……』
「優しい雨は、ハルカそのものだと思うから」
 どちらともなく、心に温かい火を灯した。美緒の心にも。ハルカの心にも。
 いつだって、互いの気持ちを共有して生きている。貴方が幸せなら、私は幸せだと――。
『今、一人?』
「うん」
『こんな雨の中を?』
「本当は、二人のはずだったんだけどね」
 寂しげな美緒の声にハルカの心は不安になる。美緒は、少しだけ空を仰ぎ降り注ぐ雫の中にハルカの姿を思い浮かべると、ホッと息を吐いた。
「振られちゃったんだあ」
『え? 振られたってどういう……』
「先生に振られちゃった。……だから、雨の街を一人で寂しくお散歩中なの」
『本当に?』
「本当に」
『……なあ、俺そっちに行こうか?』
 僅かにイタズラっぽい微笑を浮かべて、ハルカの言葉を受け止める。驚いて心配しているハルカの声が、少し嬉しかったのだ。薫とのデートが無しになって、ぽっかりと空いていた心の穴を、ハルカの優しい気持ちがじんわりと満たしてくれているような気がした。ハルカはいつだって、美緒の言葉を黙って優しく受け止めてくれる。言葉は少なくても、その分気持ちの全てを察してくれようとするのだ。
 でも、やはりそれ以上心配させてはいけないと思い直し、美緒は正直に今自分が居る状況を話した。
「――でね、先生を休ませてあげようと思って、今日は私からデートキャンセルしちゃったの」
『そういうことか』
「ごめん。心配させちゃって」
『ったく、あんまり悪い冗談言うなよな』
「本当にごめんね?」
『心配しすぎて、頭おかしくなるかと思ったし』
「なんか、ハルカがそんなこと言うなんて変な感じだね」
『おまえのことになると、普通でいる自信ないから、俺』
 少しばかり真剣な声が耳に響いた気がして、美緒が一瞬構えた。
 雨の音が全てを包む。
 けれどそんな景色の中で、ハルカの声はクリアに響いた。
『おまえより大事なものなんて、この世にない』
 その言葉が、今の美緒の心にはあまりに甘く囁いて、何も言えなくなる。寂しさで空いてしまった隙間に、ギュッと押し込まれるかのようだった。それはとても甘く、そして疼くほどに……。
 薫だけを愛している。
 けれど、ハルカを愛しく思う気持ちも、愛には違いないのだと、そう確信させられた瞬間。
『だから今は、櫻井先生にちゃんと愛されてて欲しいんだ』
「どういう……意味?」
『今は言わない。……でも、いずれおまえに伝える日が来るまで、おまえは櫻井先生と幸せでいて欲しい』
 今はまだ敵わないから。だから数年後、薫と対等に立てるようになった時、必ず君に伝えよう。ずっと、君だけを愛していたと。僕の手で、君を幸せにしたかったのだ、と。だからそれまでは、薫のそばで幸せに笑っていて欲しい。誰よりも尊敬し、信頼する薫のそばで……。
 そんな思いを胸の中に宿しながら、ハルカはいつもの優しい声色で、美緒の心を包んだ。
『その代わり、おまえが俺を呼んだときは、いつだって駆けつけてやるから』
「あ、それお別れした日にも言ってくれたよね」
『うん』
「私が会いたくなったら、いつでも駆けつけてくれるって……」
『俺はいつだっておまえの一番の味方だから』
「ありがとう、ハルカ。……それから、ごめんなさい」
 携帯をギュッと握り締めて、切なさに胸を熱くした。ハルカの言葉はいつだって少ないけれど、その言葉一つ一つには魂がこもっている。今、美緒に向けてくれた言葉でさえ、底なしの愛情を感じられるくらいに。
 いつも黙って話を聞いてくれるハルカに甘えてしまっている自分。友の域を超えて、女として愛されていることをわかっていて、カレを突き放さない自分は卑怯だと、そう思う。けれど、ハルカがどこまでも優しいから、思わず寄り添ってしまう自分がいる。愛を返せないとわかっていても尚、求めてしまう優しさがそこにある。
『いいよ。俺は、今とても幸せだから』
「本当?」
『ああ。それに、おまえは自分が思うほど、ワガママでも自分勝手でも何でもないよ。むしろ臆病で、謙虚すぎるくらいの女だ』
「そんなことないよ。すごくワガママだよ」
『そんなこと言ったら、きっと先生の弟に怒られるよ』
「え? 泉くん?」
『この間、本当は美緒にもっと甘えて欲しいのに、って零してた。俺から見たら、あんなにも誰かに心許すおまえを見たのは初めてだったのに、それでもだよ』
「そ、そうかな……」
『正直、あいつのことが羨ましい。ちょっと嫉妬した』
 クスッと、小さく笑うハルカの声に、美緒が少し気恥ずかしい気分になる。何もかもを見透かされているような、許されているような。ハルカの口から聞いた泉の気持ちは、少し現実離れしているように感じた。けれど、だからこそとても愛されているのだと、心底感じられたのかもしれない。
 愛の形は違えど、泉もハルカも、美緒にとってはけして人生から切り離せないほど大事な人だ。
『でもな、美緒』
「ん?」
『俺、思うんだよ……』
「何を?」
『確かにおまえは、俺に対しても、あいつに対しても、可愛すぎるくらいに優しさをかけてくれて、本当に本当に大事な存在だ。特にあいつは、今のおまえにとって誰よりも近い存在なんじゃないかって、そう思うよ。そうだろ?』
「……そうだね。泉くんは私のお兄ちゃんみたいな人だから」
 誰よりも信頼し、本当に大好きで、甘えられる人。
『確かにあいつは、おまえが一番心許せる男なのかもしれない。でもな……』
 雨音が、急に激しくなって、無意識に携帯を耳へと押し付ける。落ち着いていて、けれど現実という厳しさを伴ったハルカの声は、美緒の心までいとも簡単に侵食した。
『でもおまえは、望むままに甘えたり、自分の心全てを委ねるべき人を間違っているんじゃないか?』
 無意識に逃げていた気持ちを、何かに掴まれた瞬間。
『本当に一番大事な人を、見失うなよ』
 そう呟いたハルカの声は、あまりにそのまますぎて、美緒の言葉をあっさりと奪った。

 本当は一番に望んでいるもの。
 一番甘えたくて、一番心を重ねたいと思うのは、最愛で、そして最恋の人。
 でも、いつだって臆病で、薫の心に踏み込めないのだ。泉がそんな弱さを救ってくれる分、その気持ちは余計に肥大していくように思う。全身全霊で愛されているくせに、その状況に甘んじて何も曝け出さない自分は卑怯で、とても弱い。薫のどんな愛をも望むくせに、美緒が捧げる愛は所詮綺麗なだけの無難な愛。
 ある意味それは、薫に嫌われたくないと願う幼い恋心のようにも見えるけれど。
 ただ単に、自分が傷つきたくないだけという、自分勝手な保身なのかもしれない。



 携帯を握り締めて、傘もささず、待ち合わせの場所へと足早に駆ける青年が一人。
 降りしきる雨も鮮やかに無視して、雨色の街に重なり映るその光景は美しい。たとえ、彼の気持ちがどこに向いていようとも、ただそこにいるだけで絵になる、そんな男だった。
「どこにいるんだよ、美緒……」
 周りを見渡す姿は、明らかに誰かを探していて、その表情からは困惑が窺えた。激しくなりつつある雨は、容赦なく彼の頬を叩き、まるでその景色に取り込んでしまうかのように彼を濡らしていく。
 彼がふいに、待ち合わせ場所でもある時計台をチラリと見た。ちょうど、約束の時間を二十分過ぎるかといったところだった。
 ――二十分。
 そう、たかが二十分だ。そんな言い方をすれば、待っていた美緒に申し訳ないと思いつつも、薫にしてみれば、二十分というタイムロスは、会えなくなるほど待たせているという時間の枠には当てはまらない。
 元より美緒は、薫に対してとことん献身的だ。たとえ一時間でも二時間でも、黙って大人しく待っているような女だ。
だからこそ、ここに彼女がいないという光景が、薫にとっては異常に思えて仕方なかった。
 上がったままの息は、美緒のことが心配で収まることを知らない。吐く息が、雨色の景色の中で白く濁った。

 泣き崩れた麻里が落ち着きを取り戻した後、すぐに佐伯祐介が保健室へと戻ってきた。
 『やっぱり、麻里が心配でたまらないから』と。
 彼女のそばに寄り添い、本当に心配そうな目をして、彼女の手を優しく握り締めていた。
 麻里の心境は複雑なようだったが、薫はあえて祐介の手に彼女を託し、その後すぐに学校を後にしたのだ。身支度も適当に、急ぎ足で車へと乗り込んだ。たとえ不安に泣き崩れる女が目の前にいようとも、最愛の美緒より優先する理由にはならない。薫にとって、美緒と比較するものも、美緒よりも大事にするものも、この世にないのだ。
 それは一見非情にも見えるが、けして他人に優しくないというわけではない。薫は薫なりに、麻里を大事に思っているし、だからこそ祐介の手に委ねた。今彼女を救えるのは、とことん彼女を慈しみ包み込む無償の愛だけだとわかっているから。薫から見た祐介という男は、それを託すのに申し分ないほど、麻里を大事に思っているように見えた。
「ったく、どこ行ったんだよ……」
 周りを真剣に見渡しても、制服姿の女の子なんて一人も見当たらない。雨が降り出したせいか、人通りもまばらだった。時折、時計台の前にいる別の人間が、薫をチラッと見ては恋人を見つけ、去っていく。
 つい数分前、薫が車でこの場所を通りかかった時と、その状況は変わらなかった。数メートル先にある車道では、時折車が一時停止して、待っていた人間を乗せ、去っていく姿が窺える。そこに止まったまま、という光景はまず見られない。なぜならこの時計台の前は、待つ人を車で拾うのには適しているのだが、駐車ができるわけではないので、そこに待ち人がいないとわかれば通り過ぎていくよりほかないのだ。薫も例外ではなく、美緒の姿が見えないとわかった後、少し離れた駐車場へと車を停め、急いで時計台の前まで駆けつけてきた。
 でもやはりそこに、彼女はいなかった。
「美緒……」
 今、この腕の中にどうしても美緒の温もりが欲しかった。愛しているのだと、伝えなくてはいけない気がしたのだ。
 誰よりも誰よりも、愛している。
 それはたとえ、どんな状況下に置かれても、死ぬまで変わることなく。
 なぜか今、彼女をこの腕に抱き締めていなければ、何もかもが壊れてしまうような気がしてならなかった。
 ――美緒。君のそばにしか、幸せはありはしない。

 けれど、白い雨は容赦なく薫の視界をも霞ませる。
 充電の切れた鳴らない携帯電話を握り締め、泣きたくなるような切ない雨の中で、薫は美緒を捜し求めた。
 届かないメールが、二人の距離を引き離しているとも知らずに――。

Copyright (C) 2006-2011 Sara Mizuno All rights reserved.