華水の月

45.愛しさを、この腕の中に

 重い眠りから覚めると、隣には最愛の人の姿があった。
 それまで薫が眠っていたベッド脇。僅かながらに両腕をついて、薫の様子を少しも見逃すまいと窺っていた。ぼんやりとした視界に映る、揺れる彼女の瞳。それは、悲しそうにも、慈愛に溢れているようにも見えて、思わず唇が彼女を求めた。
「……美緒?」
 熱のせいで掠れてしまっている声。幻にも似た儚い愛しさに、その人の名を呼ぶと、彼女はみるみる内に大きな瞳に涙を溜めて、優しく微笑んだ。薫の手を取り、頬に当てる。まだ熱のこもる薫の手のひらは、美緒の不安な心を温かく満たした。
「何、泣きそうな顔してんの?」
「ごめんなさい。私が先に帰ったりしたから……先生の風邪を酷くさせちゃって」
「違うよ。俺が遅れたせいだ」
「でも、先生はお仕事で遅れたんでしょ?」
「……まあ、病人が居たから出られなかったのは確かだけど」
 麻里の名を出さなかったのは、薫にとって取るに足らないことだったからだ。他意や罪悪感など、そこにはない。
「だったら先生は悪くないです。患者さんを診るのが、先生のお仕事なんだもん」
 水晶玉のように目尻に溜まった涙が、ポロリと零れ落ちた。それは、頬に触れたままの薫の手を伝い、優しく涙の痕を残した。
「だからって、美緒が悪いわけじゃないんだよ。美緒は、何も間違ったことをしてないんだから。俺が悪いのに、そんな俺を優しく気遣ってくれて……おまえは本当に可愛い彼女だよ」
「可愛くなんかない」
「美緒はいつだって可愛いよ。悪いのは俺だ。携帯が繋がらなかったのも、時間に遅れたのも、全部俺が悪いんだから、おまえは気にしなくていい。本当に、ごめんな」
 そう言って、彼女の髪をクシャッと弄ると、それが合図になってか、再び美緒の大きな瞳からポロポロと涙が零れ落ちた。その光景に、思わず胸が締め付けられる。彼女の泣き顔が、切なくて、愛しくて、死にたいくらい幸せだと思えた。
 ――泣かないで。
 君は何も悪くないのだから、とそう思うのに。
 ――もっと泣いて欲しい。
 そんな風に思うのは、刹那に感じる、君への恋心ゆえかもしれない。
 愛したいと思う欲望と、愛されたいと思う欲望はいつだって紙一重だ。愛するだけでは足りない。愛されるだけでは足りない。足りないからこそ、君を愛することの終わりは、ないのかもしれない。
 君と、何もかもを同じように感じられたら、どれほど幸せなのだろう。そして、君という人を一人占めしてしまうことは、どれだけ罪深いことなのだろう。そんなことを思いながら、薫は彼女の髪を撫でつづけた。
「おまえ、どうしてここにいるの?」
 彼女が少し動くたびに奏でる衣擦れの音さえ愛おしい。指に涙を絡めとり、そっと拭ってやると、美緒は少しずつ落ち着きを取り戻した。
「泉くんの電話がどうしても気になって、いてもたってもいられなくなったんです。泉くんは、先生のことを何も言わなかったけど、絶対何かあったんだってわかったから……」
「……そっか」
「他に何も考えられなくて……気が付いたらここまで来ちゃってました」
 泉からの電話があった時から、嫌な胸騒ぎはしていたのだ。彼が肝心な薫の真相を教えてくれないことで、その胸騒ぎに更に輪をかけた。電話を切った後、美緒はすぐさま薫の家へと向かった。彼らがまだ約束の場所にいるのだということはわかっていたが、薫の家で待っている方が必ず会えると確信したのだ。
 だが、美緒が薫の家に着いた頃には、すでに二人は帰宅していて、薫は高熱に冒されたままベッドで眠りに着いていた。
『そばに付いててやって。薫、おまえが来るのを雨の中傘もささずにずっと待ってたんだ』
 そう言った泉の言葉は、美緒にとってあまりにも衝撃的だった。自分の間違った判断への憤り。そして、薫に対する狂おしいほどの愛しさ。その二つは、あまりにも簡単に美緒を満たし、そして薫への愛おしさは呆気なく罪悪感を凌駕した。
 それからずっと、薫のそばで彼が眠っているのを見守っていたのだ。薬を飲んでから眠ったと言う薫の様子は、思ったよりも落ち着いていたけれど、目が覚めるまで片時も安心を許さなかった。
「あんまりそばにいると、おまえに風邪がうつるよ」
 コンコンと、遠慮気味に小さく咳をしながら、薫が苦笑する。
 美緒は、苦しそうな薫の様子を心配そうな目で見つめることしかできなかった。
「いいです。そんなこと気にしないで下さい」
「気にするっつーの。おまえはただでさえ体が弱いんだから、心配だよ」
「いいの。先生のそばに居たいんです……離れたくない」
「……バカ。弱ってる時に、あんまりそういうこと言うな」
「え?」
「なんか、情けないくらい嬉しくなるだろ」
 顔の上に右腕を乗せて目元を覆う。つらそうな表情の中にも、嬉しさにはにかんでいる様子が見て取れた。
「先生。寒くないですか?」
「……ああ、ちょっと寒いかな」
「あの……隣……いいですか?」
「ん?」
 腕を下ろして美緒の様子を窺うと、頬を桃色に染めて俯いていた。何かを躊躇っているような、恥じているような。なんとも言えない表情があまりにも可愛くて、美緒の言わんとしていることが、薫にはすぐに読めた。
「いいよ。来る?」
 クスッと微笑みながら、薫が自分の布団を捲る。
 恥ずかしげな表情は変えないまま、美緒はベッドに手をついて立ち上がった。
「……うん」
「じゃあ、今日は美緒が俺を温めて」
「あんまり……温かくないかもしれないけど」
「なんなら、裸で入ってくれてもいいけど?」
「なっ……! 何言ってるんですか」
「それだったら確実に温かいじゃん。それにある意味熱くなりそう」
「先生のエッチ! ……もう、病人なんだから、そういうことばっかり考えないで下さい」
「バカか。おまえが隣にいるってのに、そういうこと考えない方が彼氏としておかしいだろうが」
 躊躇っている美緒の腕を、薫の熱い手が引き寄せる。いとも簡単に倒れこむ彼女の体を、ベッドの中に引きずり込むと、惜しげもなく抱き締めた。
 結局、どちらが温めているのかなんて、わからない。それでも、二人抱き合う肌の温もりは、いずれどちらの体温かわからなくなるほどに溶け合ってしまうのだ。そばにいる。それだけで、二人で生きていると思えるくらいに。
「やっぱり、いつもの先生より温かいですね」
「まあ、熱あるしね」
「早く、熱が下がりますように」
 そう言って、美緒がギュッと薫に抱きつく。熱を持った薫の熱い唇が、彼女の額にそっと触れた。
「おまえが腕の中にいてくれたら、きっとすぐに良くなるよ……。ここはおまえだけの場所だから」
 この腕の中は、美緒だけの居場所だ。それはもう揺らぐことのない想いのままに。
 君以外の誰かにこの場所を明け渡したりしない。どんな誘惑を受けようと、一瞬だって、邪な気持ちで誰かを抱いたりなどしないと誓おう。いや、それは遠い昔、君を愛し始めた瞬間から誓っている。愛おしさを抱き締めるのは、美緒だけでいい。今までも、そしてこれからもずっと――。
「おかえり……美緒」
 おかえり、と言った薫の言葉が美緒にはいまいち理解できなかったけれど、薫のその言葉からは、彼の優しさも、寂しさも、不安も全て感じ取れたように思えた。まるで、美緒のそばが、薫の帰る場所なのだと思わせるような……。
 温かすぎる空気と、互いの懐かしい匂いに、二人は次第に眠りへと落ちていった。


「しかし、おまえら二人して、雨のせいで熱出すなんて本当に仲良しカップルだな」
 以前、美緒も雨に濡れて高熱を出したことがあった。その時も、この部屋で薫の看病を受けたのだ。ちょうど、今日の二人とは逆。薫が美緒の隣に寄り添い、ずっと優しく見守りながら抱き締めてくれていた。
「なんか因縁めいたもんでもあるのか? 雨に」
 リビングでソファに並んで座る美緒と泉。
 薫が再び眠りについてからすぐ後、美緒は一人ベッドを抜け出し、泉のいるリビングへとやってきたのだ。泉に差し出されたジュースを片手に、二人並んで話しこんでいた。
「雨に……因縁?」
「なんとなーく、そんな感じがしてさ」
「そうだね。……そう言われれば、そうかも」
 美緒にとって『雨』は、ハルカを象徴するものだ。雨を感じること、それは即ちハルカを感じるのと同じ。
 だが、泉にそう言われると、確かに薫と美緒の恋愛にはいつも雨が付き纏うように思える。ハルカのことだって、そうだ。カレがこんなにも美緒の中で大きな存在になったのは、美緒と薫の恋が前提にあったからに違いない。この大きな恋の波の一つに、『雨』というフレーズは、切り離せない。きっと、これから先も、雨にまつわる思い出は一つ一つ増えていくだろう。
 そして、今こうして隣にいる泉も、後に今日のこの雨に巻き込まれ、大きな恋の波に飲まれていくだなんて、まだ気付いていなかった。
「でも、私は雨好きだけどな」
「ふーん」
「雨はなんだか優しい気持ちになるの。ハルカを思いだすから」
「ああ……ハルカ、ね」
「何?」
「別に。……ただ、あいつのどこが優しいのかちょっと理解できないところがあっただけだよ」
 つまらなさそうにそう呟く泉を見て、美緒が笑った。憎らしい言葉。だけれど、そんな言葉も泉が口にすれば、全く嫌味がないのだ。
「ハルカは優しいもん」
「おまえにだけ、だろ」
「泉くんだって、ハルカにもうちょっと優しくなったら、ハルカも優しくなるんだよ?」
「別にいらないね。あいつに優しくされるなんて逆に気色わりいよ」
「そんなこと聞いたらハルカが怒っちゃいそうだね」
 泉の言葉がおかしくて、美緒が声をたてて笑った。
「そういや、前に二人で雨の中で遊んだっけ。あれも、楽しかったよな」
「うん、楽しかった」
「おまえと色んな話して、いっぱい笑ってさ。すんごい楽しくて帰るのが惜しくて」
「うん」
「おかげで、おまえが熱出して、俺が薫に怒られるハメになったけど」
 クスクスと笑いながら、他愛もない少し昔の話。思えば、いつの間にか、泉と美緒の間にもたくさんの思い出が出来た。泉との間にも、雨の思い出はちゃんと残っている。それはまるで、雲の切れ間から刺す陽光のように鮮明に、美緒の記憶に刻まれていた。
「あ、そうだ。先生が起きた時に食べられるように、お粥作っておこうかなって思うんだけど……」
「うん。頼むよ。俺作れないし」
「え? 泉くんお粥も作れないの?」
「……今おまえ俺のことバカにしたな?」
 泉が、美緒の両頬を指でギュッと摘んだ。嫌がる美緒を横目に、ニヤリと意地悪な笑顔を浮かべる。
「謝れバカ美緒」
「やだあー。だって私何にも悪いこと言ってないもん」
「うるさい。お兄ちゃんごめんなさいって言うまで離さないもんね」
「ひどいー。意地悪反対なんだから」
「これは意地悪じゃなくて、躾です」
 頬を両方から引っ張られ、ムニッと変わる表情に、泉がケラケラと笑ってからかう。
「だって、お粥だよ? そりゃ先生みたいに美味しいのは作れないにしても、それくらいなら作れると思ったんだもん」
「俺は食べる方専門なの。おまえも薫も料理上手なのに、もう作る専門の人間はいらないじゃん」
「そんなことないよ。先生だって泉くんが料理してくれたら嬉し……」
 そこまで言いかけて、ハタと止まる。
 代わりに困ったように笑った。
「嬉し、なんだよ?」
「くないよね、絶対」
 以前のオムライス事件があってから、薫は泉の料理には反対派だ。兄ならではの容赦のなさで、たぶん手も付けないに違いない。
「まあ、水の横に胃薬添えられるのがオチだな。って、おまえにそんなこと言われたくねーんだよ」
「だって本当のことじゃないー」
「うるせえ。ったく本当におまえはムカツクバカ女だな。バカ過ぎて逆に可愛がってやりたくなるってもんよ」
「もう、ほっぺ痛いー。離してよお」
 グリグリと摘んだ頬を動かす泉の手を、美緒の小さな手が覆った。触れる温もりに、胸が切なく痛む。渋々頬から手を離しながらも、泉は満足気だった。
「じゃあ、薫のゴハン頼むよ。俺はちょっと、薫の様子見てくるから」
「うん。……あ、そうだ泉くん、先生のこと起こさないでよ?」
「起こすかよ……。病人にちょっかい出すほど俺は悪趣味じゃないよ」
「嘘ばっかりー。ここぞとばかりに先生に意地悪しそうじゃない」
「アホか。こんな時だからこそ、薫が容赦してくれなさそうで逆に怖いわ!」
 アハハ、と互いに笑い声を上げながら、美緒はキッチンへ、泉は寝室へと向かった。


 グツグツと、一人用の土鍋の中で出来上がっていくお粥を見つめながら、時計を見やる。泉とリビングで別れてから、十五分ほどが経過していた。それなのに、泉は全く寝室から出てくる気配がない。様子を見に行くと言っていただけなのに……。それが少し不思議で、美緒は土鍋の火を一番弱くすると、何気なく寝室の方へと向かった。

 寝室のドアの前まで辿り着く。すると、ドアの向こうから何やらザワザワと物音が聞こえた。
 最初、その音が何なのかはわからなかったが、ドアに耳を近づけ、欹てると、それが二人の話声であることがわかった。すぐに判断できなかったのは、二人の声が、少しひっそりとしていたからだ。
「なんだ、先生起きてたんだ……」
 少し拍子抜けした気分。たった一枚のドアが、空間をバッサリと遮ってしまっているような感覚。まるで、泉と薫がいる空間、そして今美緒が立っているこの空間は、全くの別世界のような気さえしたのだ。妙な胸騒ぎのような、何ともいえない感覚だった。
『……ずっと、一緒だったのか』
 ドアノブに手をかけた瞬間、ふと聞こえてきた泉の声に、瞬間ヒヤリと心が萎縮した。なぜか今、この扉を開けてはいけないような気がして、美緒は動きを止めると、そのまま耳を研ぎ澄ませた。
『おまえ、知ってたのか』
 薫の声。
 知っていた、というその言葉に、すぐさま美緒の直感がサインを発する。
 二人が話しているのは、紛れもなく薫の大阪での出張のことだ。そして、麻里のこと。
 ダメだ。
 なぜか聞いてはいけない、そんな気さえするのに、動けない。
『知ってたよ……』
『あいつが言ったのか?』
『違うよ』
『じゃあ、いつ知ったんだよ』
 まさか泉は、空港でのことを話すつもりなのか。美緒の焦りが、一瞬にして募る。けれど、泉が返した言葉は意外なもので、逆にそれが美緒の気持ちをどん底へと突き落とした。
『前に、美緒の電話から薫に電話した時、麻里さんが……出たんだ』
 ドクン、と心臓が波打つ。
 空気が喉を通る感覚が、凄まじいくらいに痛い。
『なんだそれ……。何のことなのかさっぱりわかんないんだけど』
『たぶん麻里さんのことだから、薫に知られないように隠したんだと思うよ』
『俺の携帯に出たって……』
『美緒からの着信だってわかってて、麻里さんがわざと電話に出たんだよ。薫がいない隙か、何かに』
『それ……美緒は知ってるのか』
『いや、知らないよ。言わなかったから……』
 何も知らない。何も聞かされていない。
 確かに、そう言われたら、思い当たる節はある。だが、そんな記憶も、すぐには泉の言葉と結びつかない。
『聞きたいのはそんなことじゃないよ。……帰ってくる前の日のことだよ』
『前の日?』
 前の日。薫と、連絡がつかなかった、あの夜。
『まさかとは思うよ。でも、もしかしたらって思ってさ……』
『なんだよ、はっきり言え』
『あの日の夜、薫ずっと連絡がつかなかったけど、まさか麻里さんと一緒に居たなんて事は……ないよな?』
 泉が、何のことを言っているのか、美緒にはさっぱり理解できない。美緒が全く意識していなかった領域。こんな風に泉の言葉を聞くまで、あの日の夜のことなど気にかかりもしなかった。不安さえ、抱いたことなどなかったのだ。それなのに、ドクドクと早鐘のように打つ鼓動は、美緒を現実から逃がさなかった。
 夜、夜、夜――。
 勝手にイメージが膨らむ。夜の帳に隠れて、ひっそりと抱き合う薫と麻里の姿が。
 逃げたい。
 けれど、理解しろと、脳が指令を下している。泉の言葉と、薫の答えを聞き逃すな、と。
『一緒になんて、いなかったよな?』
 望むのは、薫の否定。けれど、現実は残酷なもので、
『……居たよ』
 身震いするほどの、あまりにも冷静な薫の声は、呆気なく美緒を闇へと誘った。
 意味が分からない。何も理解できない。一緒に居たからと言って、麻里と薫の間に何かがあったというわけでもないのに、それさえも考える余裕が今の美緒にはなかった。
 再び、夜の帳が二人の姿を脳裏に映し出す。負の世界が、美緒の背後から覆いかぶさる。
「ウソツキ……」
 何も知らないフリをしていた泉も。否定しなかった薫も。何もかもが、自分を裏切っているとしか思えない。
 ソロソロと、ドアの前から足が退いていく。
 美緒は、それ以上二人の会話を聞くことなく、白い雨の中へと逃げ出した。

 クルクル……狂々……。
 白い雨は、悲しすぎるくらい純粋で透明な薫の真実を覆い隠しながら、確実に残酷に全てを霞ませ、狂わせていく――。

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