華水の月

47.月の涙に微笑みのキスを

 ハァハァと、荒い息遣いも、降りしきる雨の中では意味を成さない。白い雨の中に、白い吐息だけが不気味に浮かび上がった。
 陽はとうに落ち、暗く沈んだ街の中を、美緒は必死に駆けていた。逃げたところで、現実は美緒を離しはしないとわかっているのに。
「……バカみたい」
 辿り着いたのは、薫の家の近所にある小さな公園。砂場に子供のスコップが一つ、ポツンと置き去りにされていた。優しい雨とは言えない、刺すような強い雨が、美緒を容赦なく叩きつけ、その場から動けなくする。傍らにあるベンチにカバンを無造作に置き、彼女自身もそこへと腰を下ろし、小さく膝を抱え込んだ。
「バカみたい、バカみたい」
 泣くのを堪えながら、そう呟くのが精一杯だった。
 泉と薫の会話が、何度も何度も頭の中を駆け巡る。
 信じていた。泉のことも、薫のことも。
 裏切られた。何も知らないのは自分だけ。
 でも、そう思う心の片隅に、自分に対しての罪悪感も浮かんでくるのだ。自分だって、薫に何も告げられない臆病者のくせに、と。だから……何も言えずに逃げ出したのかもしれない。
「……先生」
 それでも、好きなのだ。好きすぎてたまらないほどに。その名を口にするだけで、胸の震えが収まらないほどに。
 誰もいない夜の公園は、ふと、薫の愛を感じたあの日の夜を思いださせた。街頭が優しく薫の姿を映し出し、二人そこにいるのがやっとわかるくらいの空間の中で、彼を愛しく思った時のことを。そっと自分の首元へと指を這わせ、その時に薫から貰った薄紅の輝きへと辿り着く。美緒の温もりを少し帯びたピンクダイヤモンドは、美緒を裏切らず、確かにそこにあった。
 あの時に、戻れたら――。
 出張先へ美緒を連れていきたいと言った薫のワガママも、きっと受け入れたに違いない。傍を離れず、何も不安を感じることのないほどに、彼を抱き締めて離さないだろう。
 でも、そんな後悔の中に思い知るのだ。結局、薫から向けられる愛をいつも無意識に拒否していたのは自分ではないか、と。薫はいつだって、どんな選択肢をも、美緒の前に並べてくれていたのに。その中から選び取ったのは、他ならない美緒自身だ。

「美緒!!」
 突然呼ばれた自分の名に、体が極端なほどビクリと竦むのがわかった。体が竦んだのは、その声の主が、薫のものだと思い込んだから、というのもあった。怖くて怖くて、膝を抱きこんだ体をもっと縮ませるようにギュッと抱きすくめる。
 そんな彼女の肩にふと乗せられた手。その後聞こえてきた声は、頭の中で思い浮かべた人とは違っていて、途端心がホッと息をついた。それと同時に、薫ではなく、泉の声に安堵する自分に、大きな罪悪感も抱いた。
「この、バカッ! こんなずぶ濡れになって何してんだよ!」
「……いずみ……くん?」
「心配させんな! おまえが居なくなったから……俺、本当に心配したんだぞ」
「いずみ……く……っ」
「心配して心配して! 気がおかしくなるくらい心配したんだからな! ったく、なんでこんなに濡れるまで一人でいるんだよ……」
 怒りのままに声を荒げていた泉の声が、段々と切なげに変わる。
 そして、
「……寒かっただろ?」
 と、その大きな腕で、膝を抱えたままの美緒の体ごと全て抱きしめた。
 泉の濡れた髪が、美緒の頬に当たる。もうびしょ濡れの美緒にとって、そんな雫はほとんど意味など持たないはずなのに、まるでその感触が泉の涙のように思えて、切なさに胸が痛んだ。
 ――裏切られた。
 そう思ってあの場から逃げ出したのに。こんなにもこんなにも、泉の腕の中で安心するだなんて……。
 雨に濡れ冷え切った美緒の体に、泉の抱擁が少しずつ温もりを与える。凍っていた涙も、次第に溶けては、美緒の瞳に沸きあがってきた。
「泉くん……」
 名を呼んで、泉の背に腕を回す。すると、泉も容赦なく美緒を抱く力を強めた。
「バカ。なんで急に部屋飛び出したりしたんだよ」
「……だって」
「聞いたのか? ……俺と薫の話」
 泉には、美緒の全てがわかっていた。逃げ出した理由も。その時感じただろう美緒の気持ちも。裏切られた、とそう感じたであろうことくらい、想像できたのだ。空港での、あの一件がなければ気付かなかったかもしれない。だが、あの時二人で分かち合った気持ちが、知らぬ間にこんなにもお互いを近づけていた。
「どこまで……聞いた?」
「…………」
「答えろ、美緒。俺はおまえに誤解されたままだなんて、絶対嫌なんだよ」
 何を今更――。
 誤解されたくないと美緒に告げた心の裏側で、嘲笑うような声が泉の頭の中で響いた。
 薫には何一つ真実を告げないまま、自分だけが良心の呵責から抜け出そうなんて、都合がいいにも程がある。本来なら、誤解を解くべきは、泉自身ではなく、薫のことでなければいけないのに。頭ではわかっている。でも心はどうしようもないのだ。
 美緒に焦がれすぎて。美緒が恋しすぎて。彼女しか、見えなくて……。たとえ一番に愛されることはなくても、彼女の傍にいたいのだ。もう、美緒の傍を離れるなんて、死んだってできやしない。
 そんな泉の真剣な気持ちが、彼女に伝わったかどうかはわからない。けれど美緒は、小さく震えながらもしっかりと泉を抱き締めると、小さな声でポツリ、ポツリと話し始めた。
「先生と、結城先生が……一緒に居た、って」
「……うん」
「電話が繋がらなかったの……あの日の夜……」
「……うん」
「後は何も考えられなくて、逃げて……」
「……うん」
「怖くなって……」
「……そっか」
 どうやら、全てを聞いていたわけではない美緒の様子に、泉は安堵していた。
 もしも薫の言葉を全て聞いていたなら、美緒はどうしていただろうか。泉とは反対に薫の言葉を信じ、全てを受け入れていただろうか。なぜかわからないけれど、こうして二人抱き合っているこの雨に、少し感謝さえしていた。どう想像を繰り返しても、今腕の中にいる温もりは、美緒であることが確かだったから。今の美緒は……泉だけのものだったから。
「泉くんは、知ってたんだね。結城先生が、先生の傍にいたってこと」
「ごめん」
「なんで黙ってたの? ……私のこと騙したの?」
「違うっ! ……それは違うよ、美緒」
「じゃあどうして言ってくれなかったの? ……どうして、どうして教えてくれなかったのよお……」
 縋りつくように泉を引き寄せる華奢な腕。泉を責めながらも、守って欲しいと感じさせる腕に、泉の心は切なさで強く痛んだ。
「泉くんが言ってくれてたら、迎えになんて行かなかったんだよ? ……泉くんが教えてくれてたら、二人を一緒に居させないことだって出来たかもしれないのに」
「美緒……」
「泉くんが、言ってくれてたら、私は傷つかずに済んだかもしれないのに」
「ごめん……美緒」
「泉くんが、泉くんが言ってくれてたら……っ」
「ごめん……ごめんな、美緒」
 それが、愚問であることくらい美緒だってわかっている。泉があの時どう対処していようと、こうなることは避けられなかった運命なのだとわかっていた。もしもあの時、麻里が電話に出たことを美緒に包み隠さず泉が話していたら、それはそれで傷ついたに違いないのだ。
 誰が悪いわけでもない。むしろ、泉の美緒を思う底なしの優しさは、誰よりも彼女自身がわかっていた。それがいつからなのかはわからない。でも、今こうして目の前にいる泉は、どんな時も美緒の気持ちを考えてくれる優しい兄そのものだ。どんな時だって、美緒を傷つける選択肢を、泉はけして選ばないだろう。だからこそ、泉には、どんな感情さえも曝け出してしまっていた。
「でも、きっと間違いなんかじゃなかったんだよね……?」
「ん?」
「泉くんが私に言わなかったのは、正しかったんだよね?」
「それは……わかんないよ」
「ごめんね。……私、わかってるくせに、泉くんを責めたりして……。泉くんは、何も悪くないってわかってるくせに……わかってるのに、泉くんにしか、こんな気持ち言えなくて……っ」
「美緒……」
「泉くんにしか言えないんだもん……。弱音、吐けないんだもん……っ」
 小刻みに肩を振るわせ、必死で泣くのを堪え、泉にしがみ付く。もう、救ってくれるのは、泉以外いないように思えた。泉は、そんな美緒の髪に指を差し入れると、愛しげに濡れた髪を絡ませ、引き寄せた。
 女に縋られることが、あんなにも嫌いだった昔。それなのに今は、こうして自分だけに感情を見せては泣く女が、こんなにも愛おしい。
「バカだよね……。本当は、先生に言わなきゃ何の意味もないのに。不安も、恐怖も、先生に言わないと、何にも変わるわけないのに」
 以前、ハルカに言われた一言が、ズキンと胸を痛くする。鼓膜の奥で、何度も響いた。
『本当に一番大事な人を、見失うなよ』
 見失いたくなくとも、薫に全てをぶつけられる術がわからない。いつの間にか、弱い自分を泉に依存してしまっていたのだ。美緒にとっての泉も、もう人生から切り離せなくなっていた。
「わかってるの。このままじゃダメなんだって。先生にちゃんと自分の気持ちも全部伝えなきゃいけないんだって、わかってるの……」
「そっか……」
「もしかしたら先生は何も悪くないかもしれない。……一緒に居たって言っただけだもん。私が勝手に傷ついてるだけかもしれない」
 美緒が聞いていないであろう薫の言葉が、ふと泉の耳元で響いた。
『もし美緒が全てを知りたいって言うなら、俺は何一つ隠すつもりはないよ』
 その言葉を彼女に告げれば、彼女は救われるのかもしれない。薫に全てを見せるきっかけを与えられたのかもしれない。
 だけれど……。今腕の中にいる彼女をここから離したくなくて、泉は喘ぐ息と共に、言葉を飲み込んだ。
「でもね、泉くん」
「……うん」
「すごく……怖いの。もし先生に嫌われたらどうしようって……もし結城先生のところへ行っちゃったらどうしよう……って、そんなことばっかり考えて……怖いんだよ……泉くん……」
「美緒……」
「ねえ、泉くん……私、どうしたらいい? このままじゃ、先生を信じられなくなっちゃうよ。もう……先生をまともに見れなくなっちゃうよお……」
 涙目で見上げる彼女の瞳に、泉が優しく唇を寄せた。涙はとても温かく、それでいて少ししょっぱかった。
「大阪での夜、結城先生とは何もなかったの? って本当は聞きたいの……。本当は心にモヤモヤしてるもの、全部聞いてしまいたい。……じゃないと私、今日みたいに泉くんのことまで疑って、嫌な女の子になるもん……」
「バカ。おまえが嫌な女なわけないだろ?」
「嫌な子だよ。こんなに嫉妬深くて……汚いもん……」
 純粋だからこそ、自分の中に沸き出る微かな嫌悪感さえ許せないのだろう。誰にでもある感情。もちろん、泉だって持ち合わせている。誰もがそんな感情に見て見ぬフリをしながら生きているのだ。綺麗なだけでは、人は生きてはいけないのだから。
 だが、嫉妬や妬み、独占欲というものに、美緒はあまり染まっていないのだ。だからこそ、そんな感情を自分の中で正面から受け入れて生きようとする彼女は、とても不器用に思えた。それと同時に、こんなにも美しい女を、見たことがないとさえ、思えた。
「おまえは、本当にバカだな。大丈夫だよ。大丈夫だ、俺が保証する」
「何が大丈夫なの?」
「おまえがどれだけ俺を疑ったって、おまえがどれだけ俺に全てをぶつけたって、俺は絶対におまえを裏切らない」
「……え?」
「俺だけは、おまえを絶対裏切ったり、見放したりしないから」
 泉の言葉が、美緒の胸の中にスッと突き刺さった。あまりにも簡単にスッと入り込み、そしてじんわりと優しさを灯したのだ。
 どんなに汚い自分をも、けして見放さないと言った泉の言葉。今まで、その言葉を期待していたわけではなかった。それなのに、それがずっと待ち続けていた言葉だったかの如く、美緒の心を揺さぶったのだ。
 いつか薫に捨てられるかもしれない。
 いつか薫に嫌われるかもしれない。
 一人に、なるのかもしれない。
 知らず、孤独になることを恐れていた美緒の臆病な心を救ったのは、泉のそんな一言だった。
「大丈夫だから。俺はおまえを絶対に一人ぼっちになんてしないから……」
「いずみ……くん……」
「逃げるくらいなら俺の所へ帰ってこい。俺がいつだって受け止めてやるから……」
 額と額をくっつけて、泉は美緒の頬を両手で包み込むと、ニッコリと笑った。
 本当に安心をくれる、泉の笑顔。涙で濡れた目元を、指でそっと拭っては、バーカと額をくっつけたまま笑っていた。
「だからほら、おまえも泣くな。おまえが泣くと、俺まで泣きたくなるだろ?」
「泣くの? ……泉くんが?」
「そうそう。エーン、て泣くとこなんか見たくないだろ?」
「……絶対、面白いよね」
「あ? それ今、どの口が言った? この口か?」
 いつもの如く、小さな唇を泉の指がキュッと掴む。その美緒の表情があまりに可愛らしくて、泉がまたケラケラと笑った。
「おまえは笑った顔が一番可愛いんだから。いっつも笑ってろ」
「……うん」
「泣きたい時は、俺が一緒に泣いてやるから」
「エーン、て?」
「そうそう、面白い泣き顔で。……って、俺に言わせるなよ」
 美緒の額を、優しい泉の手がパチンと弾く。
 同時に、最後の涙がポロリと美緒の頬を伝った。
「笑え」
「…………」
「ほら美緒ちゃん、笑ってよ」
 優しく優しく、何度も問いかける泉の声が、ゆっくりと美緒の涙を止めていく。
「笑って」
「…………」
「笑ってくれなきゃ、俺泣くよ?」
「……っ」
「笑ってくれたら、優しい泉お兄ちゃんがアイスあげるから」
「……もお……可笑し……っ」
 暗闇の中で、泉の心に花が開く。
 美緒は、まだ目尻に溜まる涙を気にしつつも、そんな彼をその瞳に写して、鮮やかに微笑んだ。
「笑った……!」
 彼女の笑顔があまりにも嬉しくて嬉しくて、泉は美緒の頬を包み込み、額をくっつけ摺り寄せた。なんだかもう、泣きたくなるほど嬉しかったのだ。
「ありがと……泉くん」
 泉が、美緒の体を優しく抱き寄せる。頬と頬をくっ付けて、互いにクスクスと笑いながら、二人でしか分かち合えない寂しさを腕の中に、ギュッと抱き締め合った。
 もう、この優しさを失っては生きていけないと、互いの心の中で呟きながら。
 いつの間にか、空は泣き止み、雲の切れ間から、月が覗いていた。

 輝く月。
 太陽があるからこそ、月はその輝きを失わない。
 そう、美緒が泉の優しさに包まれて、笑顔を取り戻したように。
 泉の手が、ずっと望んでやまなかった月に少し届いた、そんな夜だった。

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