華水の月

49.君だけが僕のすべて

 泉に慰められた雨の日から、3日後の午後。
 穏やかな日差しが差し込む図書室の片隅で、微笑み合う一対の男女がいた。
 片方は、長身に眼鏡、白衣という美しい立ち姿。そしてもう片方は、長い髪に、ひときわ大きな目が魅力的な美少女だった。
 何か特別な雰囲気を醸し出しているわけではない。昼休みの図書室には、少なからず人は存在するし、あえて二人はそんな特別な空気を押し殺していた。ただ単に偶然を装い、本棚の前に二人並んでは他愛もない話をしているかのように。人一人分空けた立ち位置が、二人の間では逆に背徳を感じさせた。
「真中は昼休みも勉強なんて、感心だね」
「勉強じゃないですよ。本を借りに来てるだけですから」
「へえ。いつものシェイクスピアですか?」
「……そうです」
「真中は本当にシェイクスピアが大好きだよな。誰の影響かは……あえて問わないけど」
 周りにはわかるはずもない秘めた会話。ハルカの影響で美緒がシェイクスピアを好むようになったことは、薫以外誰も知る由もないことだ。いつもの美緒なら、人目のあるところでこんな風に薫と並んで会話をすることも避けていただろう。
 けれど今日は、薫の存在を感じたくて仕方がなかったのだ。彼の体調が気になっていたということもある。それよりも、薫の姿を、心に焼き付けておきたかった。
 もう、逃げたりはしないように。
 もう、薫を離すことのないように。
 麻里と一緒に居たという、あの夜の薫の言葉は封印する。そんなものは、疑うに値しないと決め付けて。それは、美緒の後ろでいつだって支えてくれる泉の存在のおかげだ。ただの校医と生徒としての雰囲気さえ、今の美緒にとっては大切だった。
「先生も、本を借りに来たんですか?」
「いや、俺の場合は追っかけから逃げてるだけ」
「追っかけ?」
「度を超すと、時折安息が欲しくなるんですよ」
「え……?」
「真中くらい大人しい子だったら歓迎なんだけど、何かと強引な子が多くてね。さすがの校医もお手上げ状態です」
「ああ……モテる先生は大変ですね」
「光栄なことでは、あるんだけどね」
 苦笑を零す薫を見上げると、差し込む光に反射して眼鏡がキラリと光った。
 背伸びをして、高い位置にある本を取ろうと試みる。すると、それより先に薫がその本を手に取り、美緒へと手渡した。ありがとうございます、と告げると、彼の優しい微笑が返ってきて、胸がキュンと締め付けられた。
「そういう真中も、モテモテ美少女のくせに」
「私は全然もてませんよ」
「じゃあ、気付いてないだけなのかな?」
「気付かないも何も、本当のことです」
「そう? 俺のところに来る男子生徒たちがよく零してるよ。真中美緒はすごく可愛いって。彼女にするなら絶対真中美緒だってね」
「嘘吐きですね、先生」
「嘘じゃないよ、本当に言ってるし。やっぱり真中が気付いてないだけじゃない?」
「そんなことないです」
「へえ。じゃあ、彼氏とかはいないの?」
 瞬間、美緒が息を呑んだ。
 ――イジワルだ。
 美緒の返答を試している薫の質問。ここでどう切り返したら、薫が納得するのか、美緒にはわかるはずもない。アタフタして、俯き押し黙っていると、薫は更に追い討ちをかける。
「どんな彼氏なのか興味あるなあ。これだけの美少女をモノにするんだから、かなりいい男なんだとお見受けしますけど?」
「彼氏は……その……」
「ん?」
「……いません」
 薫の片眉がピクリと上がる。意外な返答だったのだろうか。美緒は、それを言うのが精一杯で、小さく溜息を吐いた。
「ふーん。いないんだ、彼氏」
 だが、それで許してくれるほど薫は甘くない。ニヤリと笑って、さりげなく、美緒の下ろされたままの左手の小指に、自分の右手の小指を絡ませる。
 ――嘘吐き。
 優しく、そう言われた気がした。
「あっ、あの、先生? ……指……」
「そう言えば、奥に真中の気に入りそうな本があるんだよね。一緒に見てみる?」
「せ、先生?」
 薫は、美緒の不安そうな声を聞き入れると、人差し指を軽く唇に当て、しいー、と小さく呟いた。小指を絡ませたままだった手を一瞬離し、さりげなく美緒の手を引く。その行為が、あまりに自然すぎて、誰も二人を気に留めるものは居ない。
「な? ここは、真中の好きそうな本ばっかりだ」
「……どこがですか?」
「んー、この空間にあるもの全部、かな?」
 フワリと薫が美緒を後ろから抱き締める。鼻腔を、彼女特有の香水の残り香を思わせる甘い香りがくすぐって、思わず髪に唇を寄せた。柔らかい美緒の体。華奢なのに、美緒の体はどこに触れても柔らかく、まるで真綿を抱いているように感じるほど儚げだ。強く抱き締めすぎると、硝子のように脆く割れてしまうのではないかと思うほどに。
 彼女は、この場所が、誰も立ち入ることのない空間だということに気付くと、抱き締める腕を優しく受け止めた。そう、薫が連れてきたのは、昔から二人が逢引の場所にしていた、図書室の一角だった。
「教師と生徒ゴッコも結構楽しいんだけど、やっぱり美緒を独り占めしたい」
「いつもしてるじゃないですか」
「足りないよ、全然」
「誰か来たら……どうするんですか?」
「誰が来るって言うんだよ」
 美緒の体をクルリと回転させて、正面から向き合う。頬を両手で包み込み、ゆっくりと唇を近づけた。美緒が、キスの訪れを察知して、瞳をゆっくりと閉じる。けれど、いくら待っても薫の唇は下りて来なかった。
「彼氏、いないんだって?」
 降ってきたのは、キスではなく、イジワルな言葉。
「い、いません……」
 イジワルだから、美緒も後に引けなくなるのだ。元々の天邪鬼さが、薫の前ではつい前面に出てしまう。
「じゃあ、彼氏じゃないのにキスなんかしちゃったら、俺って悪者?」
「それは……」
「残念。せっかく美緒とキスできる絶好のチャンスだったのに」
「あ、あの……」
「風邪が治ったら、一番にキスしたかったんだけどな」
 背に日差しを浴びる薫の影になっている美緒からは、彼の表情が容易に窺える。クスクスと笑いながら、美緒の心を翻弄しては遊んで。あと数センチで唇が触れる、というところで、薫は美緒の頬を撫でたり、腰を引き寄せたりと、彼女を焦らした。
「美緒の彼氏になれるまで、キスはお預けかな?」
 いつもの美緒だったら、このまま黙り込んで、薫の出方を待っていただろう。でも今日の彼女は、少しばかり薫に向ける愛情が大胆だったように思う。
 薫の瞳をチラッと見、両腕を彼の首へと巻きつけた。スルリと、薫を絡め取るかのように。そして背伸びをし、微動だにしないままの薫の唇へ、自ら唇を寄せた。――柔らかな唇が、触れる。
「だったら……先生を彼氏にしてあげます」
 数秒のキスの後、唇が離れる間際に呟いた声。
 挑発的な言葉とは裏腹に、声はとても臆病で恥ずかしそうで、戸惑っていた。
「彼氏にしてあげる、か。最高だな」
 薫が、喉の奥で笑いを噛み殺しながら、今度は自ら彼女へとキスを落とした。美緒がくれたものとは比べ物にならないくらい、そのキスは大人で、淫靡で、艶かしい。彼女の喘ぐ吐息を奪うように、優しく翻弄する。
「いつからそんな小悪魔になっちゃったの?」
「小悪魔なんかじゃ……」
「まだこれ以上俺を溺れさせる気?」
 挑発的なそんな態度は、逆に男心をくすぐるのだ。
「じゃあ、その言葉に甘えて、美緒の彼氏にしてもらおうかな」
「もお……またそうやってからかうんだから……」
「もちろん彼氏にしてもらえるのは、俺だけですか? 美緒ちゃん」
「当たり前です」
「それはどうも、光栄なことです」
 ギュッと抱き締めて、彼女の髪をクシャクシャっと弄る。
 薫の癖――。美緒も、その指の感触に愛おしくなって、薫を抱き締め返した。
「先生の手は魔法の手だって、泉くんが言ってました」
「ん?」
「触れるもの全てに、安心をくれる手なんだって。……私、泉くんのその言葉の意味がすごくよくわかります」
 抱き締め合っていた体を少しばかり離すと、薫が美緒の顔を不思議そうに覗きこんだ。そして、ふと触れ合った指先を絡め取るように、薫が美緒の手をギュッと握る。美緒は、その力強さを感じて、はにかむように微笑んだ。
「先生の手に触れられてると、心がすごく温かくなるの。ドキドキするのに、優しい気持ちになって……なんだか泣きそうになるくらい、幸せになるから」
 自然と髪に触れ、クシャクシャと弄るのも薫の癖。でも、こうしてさりげなく手と手を握るのも、美緒だけが知り、美緒だけが許されている薫の癖なのだ。いつも美緒の指を絡めとり、ギュッと握り締める薫の手のひら。そばにいれば必ずと言っていいほど、薫は美緒の手を握っていた。そこにどれだけの愛情が詰まっているかを、今の彼女は知らなくても、心では感じ取っていたのかもしれない。
「だから私、先生の手が、すごく好きです」
「そっか」
 無意識だけれど、確実に美緒の心に伝わっているだろう薫の気持ち。手を握り、引いて歩いていくことがどれだけ幸せで尊いことかを。それだけで、二人一緒にいることの意味が、どれだけ含まれているかを。
 でも今は、それを心の片隅に感じてくれていればそれだけで構わない。薫は、もう一度美緒の手をギュッと握り締めると、そっと引いて、再び彼女を腕の中に閉じ込めた。頬に触れる柔らかい髪が優しさを運び、ホッと息をつく。
「俺にできることは、おまえの手をずっと離さずにいてやることくらいだから」
「え?」
「それがどれだけ幸せなことかを教えてくれたのは、美緒、おまえだ」
 握った手を、けして離しはしない。こうして感じるささやかな温もりが、愛しているということの意味なのだと君に教えるまでは。
 美緒の耳に、薫の唇が触れる。すると彼は、美緒にかろうじて届くくらいの声で呟き始めた。
「なあ、美緒」
「……はい」
「ずっとずっと、俺だけの恋人でいて」
「……え?」
「ずっとずっと離さないから。……おまえしかいらないんだ、俺は」
「先生……」
 掠れた声が、余計に切なさを煽る。抱き締める腕が、響く声が。薫の全てが、美緒の全てを切なさの海へと誘って、溺れさせる。救う術は、薫しか知らない。
「美緒だけしか、愛せないから……」
 互いに泣きそうになるくらいの切なさの中で、抱き締め合うのが精一杯で……。
「美緒しか、愛せない……」
 この世にたった一人。君だけが僕のすべてなのだと呟く薫の声。
 言葉は果てのない想いの強さを感じさせながらも、どこかしら彼の寂しさや不安、そして悲しい予感を感じさせずにはいられなかった。
 この時の薫の真摯な気持ちを、美緒がずっと忘れずにいられたのなら、それから先、何も変わることはなかったのかもしれない。薫の言葉だけを信じられる強さを、彼女が持ち合わせていたならば……。
 でも現実は儚く、そして脆く。
 ささやかだからこそ、人はその曖昧な記憶を手離してしまうのかもしれない。

 ――なあ、美緒。
 君の手をずっと離さずに生きていけたなら、こんなにも愛おしく幸せなことは、僕にはないだろう。きっと――。

Copyright (C) 2006-2011 Sara Mizuno All rights reserved.