華水の月

5.揺れる波

「悪いね、薫じゃなくて。そんなに似てた?」
 椅子を回し、美緒を見据えてニヤリと微笑んだ笑顔は、あまりにも簡単に美緒をその場に釘付けにした。
 泳ぐ美緒の視線。なんと言葉を返していいのかわからない。逃げれば、きっと怪しまれることはわかっていた。だけど、この場を離れること以外、彼に対する適切な対処が見つからない。
 あの茶色の綺麗な目。あの目は、とてつもなく美緒を威嚇する。
 知らず、足は一歩、また一歩と引き、逃げるようにこの場を後にしようとした。けれど……
「まあ、待ちなって。薫もすぐ帰ってくるからさあ」
「は、離して」
「嫌だね。離したら美緒逃げるでしょ」
 瞬時に追いかけられ、逃げる寸前の美緒の腕を、泉が強く引いた。反動で、背中から抱き締められる。胸の前で交差する泉の手を剥がそうと必死に抵抗を見せるが、男の力にはかなうはずもなく、暴れれば暴れるほど、美緒を抱く腕の力は容赦なく強まった。
「うわ、力弱いなあ。そんな非力じゃ、襲われても抵抗できないんじゃないの?」
「あなたにそんなことを心配される筋合いはありませんから」
「たとえば、俺がここで、美緒を襲っても、絶対にされるがままでしょ」
「……何言ってるんですか」
「生憎君は俺のタイプじゃないから、そんなことはしないけどね。ただ、君みたいな清純そうな隙だらけな子は、いつ襲われるかわかんないよ。まあ、薫が守ってくれるから、非力でも問題ないか」
「え……」
「ちゃんと会うのは初めてだね。薫の彼女さん、初めまして」
「何のこと……」
「とぼけても無駄だよ。ねえ、美緒」
 耳元で囁くように呟く、低く響くその声が、なんとなく薫に似ていた気がして、美緒の心がざわつく。強く抱き締められ、動くことさえかなわないこの状況下で、少しの抵抗を見せようと首を振った。だが、そんな弱々しい抵抗も、泉の顔が美緒の肩に乗せられたせいで、できなくなる。
 美緒と、呼ばれた瞬間から、ああもうバレているのだと、自覚はしていた。やはり、バスルームで迂闊にも薫が口にした名を、彼は覚えていたのだ。もしかしたら、薫が話したのかもしれない、とも思っていたが。
 もう逃げられない。言い繕えば言い繕うほど、泉には美緒の姿が滑稽に見えるだろう。だけど、こんなにも彼に接近するだなんてことは予想もしていなかったことで……。知らず、脳裏に放課後の教室での情事が浮かんだ。
「心配しなくても、あの時のことは誰にも言ったりしません」
「何のこと?」
「だ、だから……あなたと樹多村さんが……」
「俺と樹多村さんが?」
「……わかってるんでしょ! 勿体つけないで下さい」
「ああ。美緒と薫がバスルームでしてたことと、同じことかな?」
 そうだよね、と、確かめるように耳元で囁く泉の声。ゾワゾワとする感覚に、美緒が顔をしかめた。
 見られたことを、なんとも思っていないのだろうか。それとも、美緒が言わないとわかっていて、あえてからかうような口ぶりなのか。
 深く考えずとも答えは出た。両方だ。あの日見た茶色の目が語っている。この男は、見られたことを罪悪感に思うほど、恋愛というものを重んじている男ではないことを。
「もしかして、俺が美緒にあのことをチクられるのが怖くて、こんな風に脅してるとでも思ってんの?」
「……そうじゃないの?」
「まさか。俺とあの子は別に付き合ってるわけでもないし、それこそ一回セックスしただけの仲だから、これから先どうこうなるわけでもないしね。美緒がチクったところで、俺がやってないと言ったらそれまでだよ」
「一回しただけって……貴方はそれでよくても、樹多村さんは……」
「あの子が誘ってきたんだ。俺に非はない」
「え……」
「セックスに情がいらないのは、俺だけじゃないってこと」
 泉の言っていることが全く理解できない。
 情のないセックス?
 そんなもの、何の意味があるというのだろう。少なくとも、薫と抱き合うことの大切さを感じている美緒には、情がなくとも異性と交じれることができるという泉の価値観には付いていけなかった。
 綾乃の方が誘ってきたという泉の言葉は、事実、正しいのかもしれない。だけれど、同じ女として、綾乃の気持ちは理解できなかった。もしかしたら、そこには何か別の感情が絡んでいるのではないか、そう思ってしまうのは、彼女がそうであることを望んでいたせいかもしれない。
「でもさ、なんであの日、あんなところで見てたの?」
「見てたわけじゃ……」
「嘘ばっかり。じっとセックスしてるとこ見てたじゃん?」
 泉の腕の中で、美緒の体が強張った。
 最初から気づいていたの? と、語っているとも取れる、美緒の反応に、泉がクスクスと笑った。
「やっぱり見てたんだな。いやらしい女」
「勘違いしないで。わ、私は、あんなもの見たくなかったんだから」
「美緒は嘘つきだね。本当はエッチなくせに」
「なっ……何バカなこと……」
「ねえ。薫にどんなこと教えてもらったか、聞かせてよ」
 泉はそう言って、二人がけのソファに美緒を押し倒した。軽く華奢な体は、少しの力を加えただけで、簡単に倒れこむ。困惑し、怯えるような表情を見せる美緒の上に、覆い被さるように泉が近付く。顔の両脇に置かれる腕。足の間には、泉の左足が差し込まれ、逃げることは叶わない。
 ニヤリと微笑む笑顔は、どことなく薫と似ているのに、全然似てなどいなかった。薫からは感じられるものが、泉からは感じられないのだ。それが優しさなのか、愛なのか、見当もつかないけれど。
 ただ一瞬、目の前のこの男を、怖い、とそう思った。
「意外だったなあ。まさか君みたいな子が、薫の彼女だなんて」
 その声色からは、美緒を卑下するニュアンスが感じ取られた。そんな彼の言葉に、嫌悪しか感じられず、美緒が泉から視線を外す。
「いつから、女の趣味変わったんだろ。昔とは全然違うんだよね。こんな純情な処女くさい女、昔の彼女には一人もいなかったのに」
 視線を外した美緒の顎が細い指先に掴まれて、再び視線が合うように戻される。今にも泣いてしまうかのような怯えた美緒の目を見、
「ああ、やっぱり思った通りの女」
 泉はただ、そう言った。
 泉の中の美緒のイメージが、良いものではないことを美緒は悟った。
「ねえ、どうやって薫をおとしたの? 性格は……ちょっと違う気がするんだよね。だって全然タイプ違うし」
「誰と比較してるんですか……」
「美緒には関係のない人だよ」
 けれど、美緒にはわかっていた。比較の対象が、麻里であることくらい……。
「見た目は合格点をあげるよ。この俺でも最初見た時は、美緒から目を離せなかったくらいだから」
「……ふざけないで」
「でも、見た目だけじゃ、薫があんなにも美緒を大事にするとは思えないんだよね。純情そうで、可愛い顔してるけど、やっぱり体? 君の体ってそんなにイイの?」
 泉の手が、美緒の首筋に伸びる。ゆっくり撫でるその感覚が、美緒の中の恐怖心を更に煽った。
「それとも、薫が自分のいいように調教してるのかな。そっちの方が自然だよね。だって美緒って、何にも知らなさそうじゃん?」
 クスクスと笑う。まるで、美緒を嘲るように。
 舐めまわすようなその目を見ていられなくて、目を閉じた。あの茶色の瞳に写る自分を見ていると、まるで陵辱されているような気持ちになる。彼の瞳の色が、薄く透明なだけ、余計に……。
「ねえ、何か少しはまともに喋ったら? それとも、俺が怖くて何も喋れないのかな。いつも優しい薫に守られてばかりだから、こんな風に誰かに押さえつけられたことないんだろ」
 怯えるように、震える瞼。
 その奥にある瞳は、まともに泉を見られないくらい、恐怖心に陥っている。
「黙ってればいいって思ってるの? ……いるよね、そういう守られるだけで満足してるような女。そういう女見てるとイライラする」
 悔しくて悔しくて、涙が溢れそうだった。
 目の前にいるこの人は、大好きな彼の弟に違いないのに、それでも薫を感じさせるものは何ももっていなくて、ただただそれが歯痒かった。勝手に期待していたのだ。薫の弟だから、きっと好きになれるはずだと。
 だが、目の前で自分を見、馬鹿にするこの男を、美緒は一ミリ足りとも好きだとは思えなかった。本当は言い返したい。怖いと思いながらも、それに屈するほど美緒は弱くはない。けれど、何か自分が口にすれば、結果として薫に悪い影響が及ぶかもしれないと思うと、美緒は溢れ出そうな気持ちをグッと堪えた。自分さえ我慢すればいい。そう思っていたのに……。
「なんで君みたいな子供を相手にするのか、俺には到底わからないね。薫もバカなんじゃない」
 この、泉の一言で、何かが――キレタ。
「あなたみたいな人間と一緒にしないで……」
 思わず口から出た声は、低く怒りに震えていた。
「何? 聞こえなかった」
「あなたみたいな、女を性欲の捌け口としか思っていないくだらない人間と、一緒にしないでって言ったんです」
「何? 怒ったの? 君のプライド傷つけちゃったかな」
 クスクスと泉が笑う。バカにされたことへの小さな反発だとでも思っているのだろう。
 だが、美緒の泉を見る目は、そんな浅はかなものではなかった。
「私のことなら、いくらでもバカにすればいい。あなたに何を言われようと、私は屈さない。……でも先生のことを悪くいうなら、たとえ弟でも絶対に許さない!」
 こんなに鋭い声を発することができるのかと思えるほど、泉に向けられた美緒の言葉は痛烈で、そして何にも屈さない強さで泉を縛り上げた。


 薫が保健室を後にしてから、三十分ほど。ようやく、保健室に彼が戻ってきた。
 薫の顔を見るなり、ソファに座り無表情だった泉の顔が綻びる。まるで、泣いて縋るかのよう情けない表情を受け取ると、薫は苦い顔をした。
「おせーよ。遅すぎるよ、薫」
「遅いって言っても、それほどじゃないだろ」
「それほどだよ。充分遅いよ。俺にとっては永遠の三十分だよ」
「たかが十分遅れたくらいで、ぐちぐち言うなよ」
 薫は書類をデスクの上にポンと投げ置いて、泉に対面するようにソファに座った。泉は、変わらず情けない顔をしたまま、ああだのこうだのと、溜息を漏らしていた。
「やばいよ、薫。ちょっとやり過ぎたかもしんない……」
「やりすぎたって何が?」
「最初は、どんな子かってちょっと見るつもりだったのに、いつしかおかしなことになっちゃってさあ。ほら、俺ってSじゃん?」
「おまえがSかどうかなんて知るかよ」
「泣かすつもりなかったし、仲良くしたかったのに……」
「言ってることがよくわからないが、話から察するに、泣くほど傷つくようなことを言ったおまえが悪いよ」
「傷ついたのは俺だっつーの。……あ? 傷ついてる? 俺が?」
 自問自答し混乱している様子の泉を見て、薫がクスクスと笑いを零した。
 そうとうな罪悪感に陥っているのは、彼を目にした人間なら誰しも感じることだろう。泉は感情をあまり内に秘めるタイプではない。それが時に誤解を生むことがあっても、根本的に、人懐こく明るい性格が、周りに好印象を与える男だった。たとえそれが、今のように情けない姿だとしても。
「あ、そうだ、薫」
「なんだ?」
「バカなんて言ってごめん」
「……俺がいつバカなんて言われた?」
「とりあえず謝ったからな」
 泉はとりあえず適当に謝って、ヨシと納得する。薫はさっぱりという顔をしていたが、それ以上追求はしなかった。
「……しかし、おまえがそんなに取り乱すなんて珍しいな。女なんて、泣くから面倒くさいとかいつも言ってるやつなのに」
 かつて、泉が女の存在で思い悩んだことは一度もない。それは、まともな恋愛を一度もしてこなかったからで、そんな泉に薫はいつも本気の恋の一つでもしろ、と言い聞かせていた。薫は薫なりで、弟である泉のことを心配しているのだろう。だからか、今こうして初めて見せる泉の一面に、とても嬉しそうな表情を見せた。
「で? 誰かに何かしたのか?」
「泣かせちゃった……」
「だから、誰を」
「美緒」
 薫の眉がピクリと上がるのが見えて、泉がギクリと身を強張らせた。
「……誰だって?」
「美緒だよ、美緒!」
「はあ?!」
 まさか泉と美緒が接触しているだなんて、薫にしてみれば思いもよらないことだ。だが、現実に泉と美緒は再会を果たしていて、そしてその再会はとてつもなく最悪なもので。……否応なしにも、項垂れるというものだ。
「もう……なんかすごい罪悪感」
「どういうことだよ。ちゃんと説明しろ」
「だからもう……薫が早く帰ってこないのが悪いんだよ!」
 答えになっていない泉の返答に、薫はさっぱりわけがわからないという顔をした。

 美緒をあんなふうに追い詰めてしまったことを、今になって説明してみろと言われれば、泉は何も説明することができない。
 最初は、ただどんな子か探ろうとしただけなのだ。別に、美緒に対して悪いイメージがあったわけではないし、好感のもてる子だと思っていた。自分の好きなタイプでないところが、逆に兄の彼女として素直に受け入れられることができて良かった。
 でもなぜだろう。
 いざ美緒を目の前にすると、彼女に対する興味心が泉を煽った。それはどうしようもなく突然に。
 女の気持ちや素性に、そんなに関心を示したことがない泉が、彼女に対してだけは、勝手が違ったのだ。試すようなやり方で、彼女の本当の姿を見てみたい、とそう思った。そして、想像とは違った美緒の本来の姿は、波として泉をあっさりと引きずり込んだ。美緒の涙と声を思い出せば思い出すほど、どうしようもなく胸の中が掻き毟られる。

『絶対に許さない』
 ――泉の背後で、引き金が引かれた瞬間だった。
 まるで殺意をも感じさせるような鋭い視線に、泉はただゴクリと息を飲んだ。
 大粒の涙を目に浮かべて、睨み付けるその瞳は、泉が思っていた美緒のイメージを容易に打ち砕いた。瞳の奥に秘める強い意思。それは、愛しい人を守ろうとする、そんな強さを備えた色をしていた。そう、泉が絶対に敵わないと思っている薫にも似た、そんな目。
 弱く、泣いて男に縋ろうとする『女』というものが、この少女の中にはいない。あるのは、愛するものと対等に立とうとする、そんな秘めた強さだった。
「……ライ」
 震える肩。震える声とは裏腹に、睨み付けるその目には、憎しみと強さがこもる。
「あなたなんて大キライ!!」
 ゾクリと、何かが泉の心の中に忍び込んだ。
 自分を睨み、大粒の涙を流す美緒の目に、快感にも似た感覚が、ゾクリと泉を浸食したのだ。
 呆然と美緒を見つめたままの泉の胸を突き放し、美緒は立ち上がると、零れる涙を拭うこともせず、ただ足早にその場を後にした。駆ける足音。けれど、泉は呆然と動くことができないでいた。
 ――女の泣き顔に、魅了されたのは初めてだ。
 美緒の中に秘める何かに、泉の心臓は撃ち抜かれた。

 女の泣き顔など、鬱陶しいことこの上ないはずなのに、美緒の涙には、切なさに似た後悔が付きまとう。
 涙をこぼした美緒の姿を思い浮かべながら、罪悪感と、それとは別のもう一つの感情が、泉の中で揺れていた。

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