華水の月

50.二人を切り裂く幻影

「美緒……」
 少女はポツリとその名を呟く。
 昼休みがそろそろ終わろうかとする頃。図書室の一角から一人姿を現す美緒の姿があった。俯きがちに頬を染め、何かを恥じるようなその態度は、わかる人にならわかる、恋をする少女そのものだった。
 そんな美緒の姿を、視線の端に捉えていた少女がここに一人。普段なら訪れることのない図書館に、レポートの資料のためにわざわざ足を踏み入れたに過ぎなかった。まさか、こんなところで、美緒に会うなんて思いもしない。そして、こんな表情をする美緒を見るだなんて、どうして思っていただろうか。
 いつも頭の片隅に住みついて離れない美緒の存在。敵うだなんて最初から思ってはいない。容姿も性格も、美緒と比べ自分が劣っていることは認識している。綾乃にとって美緒は、ライバルというよりも、羨望の対象だった。その存在感も、受ける愛情も何もかも。
 ただでさえ綺麗な美緒が、いつもよりいっそう綺麗に見えたことが、不思議で仕方がない。女だからこそ分かる、女の匂い。明らかに男の存在を匂わせる、その雰囲気。
 そんな美緒の些細な変化は、綾乃の心を乱すのに充分だった。

 図書館のドアをガラリと開けて、去っていく美緒の姿を見届ける。ちょうどその後、美緒が出てきた同じ方向から、麗しの白衣の姿を見つけ、凝視した。
 何故――。
「さ、くらい……先生……」
 僅かながらに人も残る図書室。たとえどこから誰が姿を現そうと、気にする程度の問題ではない。ましてや、美緒と薫が一緒にいた証拠などどこにもない。事実、綾乃がこの場にいたことさえ、偶然の一致なのだから。
 それなのに……
「泉がいるくせに、櫻井先生にまで手出さないで……」
 心の中で渦巻く感情が、ふと唇から零れ落ちる。女特有の直感がもたらす複雑な糸。それはスルスルと美緒と薫を結びつけ、綾乃の中である構図を作り上げる。
 泉という恋人がいる美緒。だけれど、彼女は今、薫とも特別な関係になりつつあるのではないか?
 ――そんな、身勝手な構図を。
 とてつもない嫉妬心が、ドロドロと心の底へと這っていく感触を味わっていた。麻里ならともかく、同じ生徒という立場である美緒が、自分よりも特別視されることへの嫉妬心。自分の立ち入れない領域に、美緒がいることへの憎悪。薫が美緒を想っているなどという確信はない。最愛の彼女が、薫にはいることもわかっている。けれど、確信もなければ、そんなことは信用したくないからこそ、早くどうにかしなければと焦りが募るのだ。
「櫻井先生!」
 美緒と同じように去ろうとする薫の背を、つい必死で呼び止めていた。薫は、その声に反応すると、いつも見せてくれる穏やかな笑みを浮かべ、綾乃に振り返る。
 けれど綾乃は知らない。
 そんなポーカーフェイスの笑みこそ、薫の本心ではないことなど。
 それでも、そんな笑顔の一つ一つに、恋心は非情にも堕ちていく……。
「なんだ。樹多村も勉強か。感心だな」
「あ、あの、先生」
「ん?」
「先生は、どうしてここに……?」
 そんな質問をしたところで、美緒と一緒にいたなどと薫が答えるとは思っていない。けれど、どうにかしてこの醜い感情を払拭したくて、綾乃は食い入るように薫の瞳を探った。
「先生は、可愛い女の子たちから逃亡中なだけ」
「え……?」
「一人でこっそり隠れてたんだけど、そろそろ昼休みも終わるから、戻ろうかと思ってね」
「一人……?」
「ああ。女の子は大好きなんだけど、時々一人の時間も欲しくなるんだよ」
「そう……ですか」
 可愛い女の子たちから逃げている、と言った言葉の中に、無理矢理美緒の存在を紛れ込ませた。二人は一緒じゃない、何度もそう心の中で呟いて。
 薫は、複雑な表情を浮かべる綾乃から何かを感じ取ったのか、俯く彼女を、少し屈んで見つめると、
「あ、今の台詞、他の子には内緒な」
 唇の前に小さく指を当て、そう呟いてクスッと微笑んだ。
「は、はい……」
 たったそれだけの一言が、綾乃の心を激しく揺さぶる。心臓がキュッと捕まれ、熱にうなされたかのように頬は紅潮し、思考は停止して。
 他愛のない、二人だけの秘密。それだけでも、薫との間に、何か特別な何かを繋ぐことができたような気がして、嬉しくてたまらなかった。たった一言二言の会話さえ、薫と交わすものなら特別だ。何度も巡らせるように、綾乃は薫の言葉をインプットする。
 するとその時、ふと冷水のように脳に流れ込む思考が、ついさっきの薫の台詞を呼び起こした。
「そういえば先生。さっき、樹多村も、って……」
「ん?」
「私の他にも、誰か居たのかな、って……」
「ああ」
 一度冷めたはずの感情が、再び火を帯びる。
 そうとは知らずに、薫は綾乃の感情に踏み込んでしまった。
「真中も勉強してたみたいだから。感心だよな、本当」
 綾乃に見せているはずの笑顔なのに、その裏に見える美緒の存在。一緒にいたとは言っていない。でも薫は、美緒の存在に気付いていた。それだけのことだ。それだけに過ぎないのに……。
 やはり、どうしたって、美緒の存在を頭の片隅から追い出せないことに、綾乃は苛立ちを募らせた。どうして、どうしてこんなにも美緒の存在が気になるのかが分からない。
「じゃあ、樹多村も授業に遅刻しないようにな」
 そう言って去る薫の背を見送った。
 早く、追い出さなければ。たとえ、美緒が薫と何ら関係は、なくとも。
 携帯の画面をパチンと開く。そこに映る、3日前の光景を目にし、綾乃は何かを決心する。
 ――画面に浮かぶは、ピンクと白の二人の重なる影。


 その日の最後の授業は、麻里の英語の授業だった。思いのほか、冷静に彼女を見られる自分自身に、美緒は安堵していた。やはり、教壇に立っている以上、麻里は教師なのだ。プライベートをけして混同しない。麻里はいつだって、美緒を特別視することなく、他の生徒と分け隔てなく接していた。そんな隙のない大人な様が、余計に教師と生徒だという立場を位置づける。たとえどんなに麻里が薫に近づこうと、美緒にとって彼女は、永遠に憧れの大人の女であることに変わりはない。
 嫌いにはなれなかった。彼女の存在を怖いと感じても、根底では一人の女として認めているのだ。それは、麻里にとっての美緒も同じことだった。互いに、憎むことができないから、余計に苦しい。
「はあ……やっと今日も終わったか」
 小脇に教材を抱えて、麻里が廊下を一人歩く。ハイヒールが、カツカツと床を鳴らし、そんな美しい女教師に生徒たちも視線を投げる。
「麻里先生、さよーならー」
「気を付けて帰んなさいよ」
「はーい」
 にこやかに笑顔を向けるのが精一杯。その日の彼女も、やはり体調は優れなかった。油断をすれば、すぐさま胃にこみ上げる嘔吐感。それを『つわり』と言うには、自分自身が許せないものがあった。
「あ、あの、結城先生?」
 気分の悪さに口を手で覆おうとした時、背後からふと呼びとめられた。
 その愛らしい声は、いつも流暢な美しい英語を話す声で、麻里は作り笑いを咄嗟に作り振り向いた。
「どうしたの? 真中さん」
「これ、先生が忘れていかれたみたいだったので……」
「あ、ごめんね。わざわざありがとう」
 教壇の上に忘れて行ったのだという麻里の万年筆を、美緒がそっと彼女の手に渡した。ありがとうと微笑む麻里に、美緒もニッコリと笑みを返す。
 不思議な感覚だった。一人の男を間に、本来なら敵視するはずの女が目の前にいるというのに、互いに笑顔を浮かべ話している。薫の存在など、端からないと思わせるくらい、それは自然な雰囲気だった。
 美緒が麻里の存在を無視できるくらい大人だからなのか。
 それとも、互いを敵視するには、憎む要素が足りないからなのか。
 いっそ嫌いになれたら、楽なのに。そんな感情を、互いの胸の中で抱きながらも、けして言葉にはできはしない。
「あの、結城先生?」
「ん? 何?」
「最近顔色が良くないみたいですけど、大丈夫ですか?」
 むしろこの少女は、恋人の元彼女を心配までできる、そんな優しい子なのだ。麻里が敵わないと思ってしまうのは、当然のことだった。
「ありがとう。大丈夫よ」
「私が言うのは余計なお世話かもしれませんが……その、お体大事にして下さいね」
「うん。ありがとね」
 それじゃ、と、短く挨拶を済ませ、美緒が麻里から背を向けようとしたその時のことだった。それまで我慢していた気分の悪さが胃から込み上げ、急激に麻里を蝕んだのだ。咄嗟に口元を押さえ、しゃがみこんでしまう。美緒も、そんな麻里の傍にすぐさま駆け寄った。
「う……っ」
「大丈夫ですか?! 結城先生」
「ご、ごめん。ちょっと……」
 麻里が近場にある女子トイレへと駆け込む。美緒もすかさずその後を追った。そこには誰一人としておらず、美緒と麻里の二人だけだった。シンと静まり返った空間の中、麻里の激しく咳き込む音が響き渡った。洗面台に手をついて、吐き気に耐える。
 美緒は、そんな彼女の傍に寄り添って、背中をさすり続けた。
「結城先生……」
「大丈夫よ。……ごめんね、心配させちゃって。大丈夫だから、真中さんは早く帰りなさい」
「私のことは気にしなくていいですから。先生が良くなるまで、傍にいますから……」
「でも……っ」
「ほっとけません。先生がこんなにつらそうなのに……」
 麻里の背に触れる優しい温もり。美緒の優しさが、その手から痛いほど伝わってきた。
 なんだかもう、自分が情けなくて泣けてくる。
 自分よりずっと年下の少女に負けているという現実を突きつけられて尚、その分余計にこの少女を愛おしくさえ感じていたのだ。本当に優しくて。見た目以上に愛らしく、慈愛に溢れていて。なぜ、こんなにも優しくて愛おしいこの子を、私はこんなにも簡単に傷つけることができるのか、と麻里は自分を責めた。
「ごめん……ごめんね、真中さん……」
「何が……ですか?」
「ごめんね……」
 それしか、言えなかった。迫り来る嘔吐感とともに、麻里の瞳に沸きあがる涙。
 美緒は、そんな麻里の涙を、何一つ問わず黙って見ていた。それが、どんな感情の末に溢れる涙なのかを、気にしなかったわけではなかったけれど……。
「ごめんなさい……」
 薫が大事にする少女。背中を優しく撫でるこの温もりは、所詮彼女の大きな優しさの一部でしかないのだろう。その一部に触れてさえ、麻里にも美緒の女としての価値が見えた気がした。
 私が男でも、きっとこの子に恋をする。
 そんな感情さえ、抱くほどに。
 けれど、そんな優しさの裏側に、美緒がどれだけ繊細な想いを秘めているかを麻里は知らない。繊細だからこそ、気付くもの。美緒は、目の前で涙を零し、ごめんなさいと口にする麻里を見つめながら、複雑な感情を抱いていた。
「結城先生……もしかして……」
 ――妊娠してるんですか?
 そう問えるだけの勇気が美緒にあるならば、最初から歯車は狂ってはいなかっただろう。バカな思いこみに飲み込まれることなく、薫を傷つけることさえ、なかったに違いない。
 けれど、そんな繊細な臆病さが、美緒の不安を形にし、悪い方向へと追い込んでいく。女だからこそ、色々と考えてしまうのだ。大阪でのあの日からなら、日にち的に丁度いいだとか。同じ人を思う立場だからこそ、その腹の子の父親は誰であるかだとか。
 一度は忘れようとした、感情。
 けれどもう、こんな弱い背を持つ女を目の前にしては、忘れることさえ許してくれないのかもしれない。

 ――ごめんなさい。
 麻里の悲痛な真意は、美緒には届かない。
 波はもう、美緒を攫う寸前まで押し迫っていた。

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