華水の月

53.水色の罠

 早朝。
 学校へ行くために、家を出ようとしていた美緒の携帯に、薫からの電話が入った。澄み切った清々しい朝なのに、そのコールは一瞬にして美緒の心を曇らせた。
 鞄の中の携帯を取り出し、戸惑いがちにその電話を耳に当てる。他愛のない朝の挨拶を交わすと、薫は手短に美緒に告げた。
『おまえに、どうしても話しておきたいことがあるんだ』
 抑揚のない穏やかな声色。いつもの薫の声だ。少し低めの、鼓膜に甘く響いては、美緒を包み込む声。
 それなのに、そんな一言も、美緒の心を萎縮させるには充分だった。
「話したい……ことですか?」
『うん』
「それって……」
 息が詰まる。喉の奥に言葉が引っかかって、上手く伝えられない。心臓に血液が逆流していくかのような苦しさに、美緒は必死に耐えた。
「今じゃ、ダメなんですか……?」
『おまえに直接会って話したい。昼でも構わないけど、できれば時間に縛られずに話せた方がいいから』
 時間に縛られずだなんて、一体何の話をするというのか。
 携帯を握ったままの美緒の手が、微かに震えていた。それが恐怖心によるものだということは、気付いていた。
『放課後、保健室に来られる?』
「……たぶん」
『待ってるから、必ず来て』
 ハイ、とそう小さく返事をする。不安に震える声を、必死に隠して。
 何故、今日でないといけないのか。何故、必ずと決める必要があるのか。聞きたいことはありすぎるのに、それを言葉にすることが出来なかった。
『じゃ、遅刻せずにちゃんと学校来いよ』
 そう言って、薫は電話を切った。
 薫に呼び出されるのは、そう滅多にあることではない。よほどの理由がない限りは、学校で会う約束をすることもないのだ。美緒が不安がるのを知っているからこそ、薫は彼女の意見をいつも尊重する。それを通り越しても、薫が美緒に告げなければいけない何か。それを考えようとした瞬間、昨日の麻里と薫の様子が脳裏に浮かび上がった。記憶に焼き付いた、視界の端で揺れる白衣。彼女を守るために揺れた、その白の記憶。
 麻里が落ちそうになったあの瞬間、薫の声だけが空間を制した。氷のような緊張感を伴って。
 ――麻里。
 薫は確かに彼女をそう呼んでいた。いつも呼ぶ結城先生ではなく、麻里と。その時の薫の声が、美緒の頭の中でずっと鳴り響いている。悪い予感しか浮かばない。今にも倒れそうな麻里の弱々しい姿も。彼女の名を叫び、身を挺して麻里を守った薫も。全てを、一つの結論に導くのだ。
 薫は、美緒から離れ、麻里の元へと戻ってしまうのではないか、と――。
「学校……休もうかな……」
 まだ何も聞かされたわけではないのに。電話越しの薫の声は、至っていつもの薫そのままだったのに。すっかり、薫に対して臆病になってしまっている自分がいた。
 いつからこんなにも、信じられなくなってしまったのかわからない。麻里と薫の関係を疑って、薫を信じられなくなっているということだけではない。それ以前の問題なのだ。自分が、薫に愛されているということを、信じられなくなっていた。
「あっ……」
 携帯を握りしめ、玄関に座りこんだまま考え込んでいると、手に持っていた携帯が音を奏でた。薫からのコールと勘違いし、思わず携帯を鞄にしまいこんでしまう。美緒を呼ぶ音楽が耳に届かないように。
 けれど、落ち着いた意識に届く着信メロディは、薫指定のものではなかった。ふと、自分のした拒否の行動に嫌悪を抱きつつも、美緒は携帯を開く。そこに並ぶメールの文字の列に目を通し、小さい溜息を吐いた。

 From:泉くん
 件名:おはよう
 本文:最近新しくできた店のケーキが評判いいんだって。
     美緒の好きそうな感じのケーキかリサーチしとくよ。
     つーわけで、泉ちゃんとケーキデートしませんか?
     それを楽しみに、今日もガンバレ!

「……うん、頑張る」
 携帯を胸に抱き締めて、美緒は震える声で小さくそう口にした。
 見守ってくれている人はそばにいる。美緒の不安を分かってくれている人は、いつもそばに……。この文字に繋がる泉の存在に何かを救われて、美緒はそっと目を閉じた。


 重い足取りを引きずったまま学校へと着くと、教室内はすっかり一つの話題で持ちきりになっていた。生徒たちが、色めき立っている。たった一つの事柄に関して、様々な憶測を投げ交わしては、皆それぞれに納得するところへと結論付けるのだ。事実は、どうであるにしろ。
「やっぱり噂になったね」
 美緒の背後から声をかけてきたのは、その噂の一部始終を美緒と共に見ていた親友だった。おはよう美緒、とニッコリと微笑むと、腕を組み、呆れたようにクラスメートを見た。
「昨日の放課後からずっとこの話題だよ。櫻井と結城先生はやっぱりデキてたっていう噂」
「そう……なんだ」
「あれはどう見たって、体調の悪い結城先生を櫻井が庇っただけに過ぎないんだけどね。結城先生が泣きだして櫻井に抱きついたのが悪かったかなあ」
 冷静に分析するえみの言葉を、必死でその通りなのだと受け止める。
 薫は麻里を庇っただけ。そう、ただそれだけに過ぎない、と。
「体が弱ると精神も弱るって言うし。ただびっくりして泣いちゃっただけなのかなあって私は思うんだけど」
「そうだよね……」
「さすがに櫻井が『麻里』って叫んだことはびっくりしたけどね」
 やはりえみも感じていた一瞬の違和感。一体どれくらいの人間が、その時の薫の言葉を耳にしていただろうか。出来れば、一人でも少なければいいと、無意識に美緒は心の中で願っていた。そうでなければ、自分の薫に対する不信感が、募っていくだけのような気がしたのだ。
「でも、友達だったら名前で呼んでも不思議じゃないか」
「え……?」
「佐伯先生も結城先生のことをいつも麻里って呼んでるじゃん? だから、そんなに気にすることでもないかもね」
「うん……」
「櫻井も、結城先生は友達の一人だって、前に言ってたし」
 実際のところ、教師からも生徒からも人気の高い麻里は、結城先生ではなく、麻里先生と呼ばれることも多いのだ。だからなのか、校内で『麻里』という言葉を耳にしても、そんなに不思議は感じない。すぐさま彼女の姿が思い付くだけだ。美緒にとっての、『麻里』という名は、またそれとは違う重い意味を持っているけれど。
「ていうか、昨日から美緒、なんだか暗くない?」
「そんなことないよ」
「結城先生が心配で……、ていう意味とは、また違うような気がするんだけど」
「……え?」
「親友の私にまで隠せるなんて思ったの? ……相変わらず、美緒は鈍ちんだなあ」
 えみが何を言っているのかよくわからなかった。
「櫻井を見つけた途端、美緒の顔色が変わったもん。櫻井が結城先生を庇った時、今にも泣きそうな顔してたよね。見るのもつらいくせに目が離せなかったのは、それだけ美緒にとっての櫻井の存在が大きいからでしょ。ずっと前から、櫻井が美緒の憧れだってことは知ってたよ。あいつがこの学園に赴任してきた時から、美緒は櫻井のことしか見てなかったもん。ただの憧れだったのが、今は『好き』に変わってるような気がするのは、私だけかな?」
「な、んのこと……」
「親友を欺けるほど、美緒は器用な子じゃないってこと。……好きなくせに、櫻井のこと」
「そんな……」
 単刀直入なえみの言葉に美緒が押し黙る。これでは、認めていると言っているようなものだ。
 今までえみには、何一つ恋愛の相談をもちかけたことはない。それは、禁断の恋を守るため、それだけのためだった。言いたくなかったわけじゃない。言えなかったのだ。えみはきっと、二人が付き合っているということまでは、気付いてはいないだろう。
 でも、美緒が薫に思いを寄せていることは確実に気付いている。もう、彼女に嘘は吐けない気がした。
「……もう少し、待ってくれる?」
「ん?」
「今は、まだよく分からないから。自分の気持ち、まだ迷ってるから」
「うん」
「いつか必ずえみには言うって、決めてるの。……だから、もう少し待っててもらってもいい?」
 この恋が、これから先も上手く行く自信なんてどこにもない。特に今は、自分以外の誰かのことを考えられるほどの余裕が美緒にはなかった。誰かにこの恋を打ち明けてしまえば、そこから崩れてしまうような気がしたのだ。砂の城のように、脆く儚く……。
 そんな美緒の頭に、えみがポンと手を乗せる。今にも泣いてしまいそうな美緒の表情に、えみはただただ優しく頭をなで続けた。
「いいよ。美緒が言いたくなったら、言ってくれたらそれで」
「ありがと。えみ」
「ったく、世話の焼ける子」
「……ごめんね」
「ただこれだけは覚えといて。私はいつだって美緒の味方だからね。櫻井に本命の彼女がいようがいまいが関係ない。美緒のためだったら、私は何でもするから」
 いつか、薫の彼女が自分なのだと、えみに伝えられる日を夢見た。えみは驚くだろうか。それとも、心の底から笑ってくれるだろうか。きっと、心優しいえみのことだ。我が事のように、幸せに思ってくれるに違いない。
 こんなにも大事な親友が自分にはいることを、美緒は心から感謝した。薫のことばかりに心捕らわれていた自分に歯がゆさを感じながらも、えみの存在に何かを救われているような気がした。
 背後ではまだ、薫と麻里の噂話に花を咲かせているクラスメート達の声が響いている。
 えみは、美緒の背に手を回して、そっと教室から出ようと促した。この場にいることがつらいことを、きっと察してくれたのだろう。美緒も、黙ったまま頷いて教室のドアへと足を進めた。
「どこ行くの? もうすぐホームルーム始まるよ」
 教室を出ようとした時、ちょうど入ってこようとしていた綾乃と目が合った。肩までの髪が軽く揺れ、唇を軽く噛んでいる。綾乃は、えみではなく美緒にだけ厳しい視線を投げて、ここを通すまいとドアの前に立っていた。何故こんな視線を向けられなければいけないのか美緒には全く分からなかった。
「ちょっと息抜きに出るだけだよ。だから、ホームルームはサボるの」
 えみがすぐさま助け舟を出し、美緒の代わりに返事をする。
 だが綾乃は、美緒に向ける視線を背けることなく、それ以上に睨み付けていた。
「これ以上、聞いていられないんでしょ」
「……え?」
「嫉妬? それとも、ただ逃げるだけ?」
 話の核を抜いての綾乃の言葉ではあったが、美緒とえみは、それが何のことを言っているのかすぐに理解した。
 極端に泳いでしまう美緒の不安な瞳。
 えみは、綾乃から美緒を隠すように前に立ちはだかると、後ろ手で美緒の指先をギュッと握り、綾乃を見据えた。
「変な言いがかりはよしてよね。あんたが何のこと言ってるのか、さっぱりわかんないんだけど」
「えみには分からなくても、美緒には分かってんじゃないの」
「何それ。前から思ってたんだけど、美緒に突っかかるのやめたら? あんたに美緒が何かしたの?」
「別に何もされてないし、私だって美緒に何もしてないけど?」
「そう。じゃあ、こんな風に問い詰められる筋合いもないってわけね。どいてよ、教室出るんだから」
 えみが美緒の手を強く引き、綾乃を押し退けて扉を勢いよく開く。すれ違う瞬間、美緒と綾乃の目が一瞬だけ合った。
「私は逃げないから。美緒になんて負けない」
 美緒は何も言えずに、綾乃から視線を外した。申し訳なさそうな、というか、綾乃を同情するような哀れみの眼差しが、いっそう綾乃の心を刺激する。
 優しい美緒は、何も言い返さなかった。それが余計に、綾乃を惨めにしていた。
「……私の方が、美緒の何倍も好きなんだから」
 自己嫌悪に苛まれながら、綾乃が自分の顔を両手で覆う。美緒に八つ当たりしてしまう自分が、とてつもなく嫌いでたまらない。美緒が薫を好きだという証拠はどこにもなく、薫と美緒を繋げる事実だってどこにもありはしない。分かっている。今の状況で、綾乃が美緒に不満をぶつける理由などないことくらい。それでも、このイライラとした気持ちをぶつける場所がなくて、どうしようもなかった。誰かを傷つけることでしか、自分の気持ちを守る術を知らなかったのだ。薫に関わるもの全てを、傷つけたくてたまらない。
 幼すぎる恋心は、そんな気持ちをどう昇華していいのか分からず、ただただ不器用にしか人を愛せなくて……。自分を醜く感じるからこそ、美しいものへの劣等感は強くなる。綾乃は、美緒に対して何かを悔いながらも、それを悔い改めることはできなかった。
 制服のポケットに手を入れ、指先に触れるカサリとした感触に決意する。
 取り出した水色の封筒を持つ指先に、何かを賭けた。


 午後五時三十分。壁にかかる時計をチラリと見やって、頬杖をついた。
 部屋の中の照明は消され、ドアの外には『校医不在』のプレートがこっそりとかけられている。本人の息遣いしか聞こえないほどの静寂の中で、薫は深い溜息をついた。
「……遅いな」
 時間に律儀な美緒が、こんなにも薫を待たせることは稀だ。むしろ、一度たりとてなかったことから、稀とも言えない。授業はとっくに終わっているはずだった。美緒のクラスメートがついさっきまでここに来ていたことが、それを証明している。いっそ、その子達に美緒のことを聞いてみても良かったのだが、麻里との噂が立っている手前、むやみに女の名前を出すことはタブーだった。
 全くもって、タイミングが悪い。最近の薫は、それをひしひしと感じている。
 普段は、保健室内での喫煙は極力控えている薫だったが、なんとなく心の底で芽生える苛立ちに、タバコを一本手に取っていた。口に咥え、ライターに火を灯す。それを近づけようとした瞬間、ふと手が止まった。
「まさか、何かあったとか……」
 目の前でぼおっと赤く灯る火の揺らめきに、一瞬悪い予感が過ぎった。


 午後四時には既に授業は終わり、五時半までの一時間半、美緒は一人で校舎内をウロウロとしていた。何度も保健室の前を通り過ぎた。けれど、そのドアに手をかける勇気がなく、ただ通りかかっただけのように素通りしてしまう。そんな臆病な自分が嫌になり、時間だけは無謀にも早く過ぎていった。
 玄関へと続く長い廊下の端に立ち、遠くを見つめていた。右側にずっと奥まで続いている窓からは、オレンジの夕陽が差し込み、廊下に長い影を作っていた。トン、と踵を鳴らすと、やけにその音だけが響き渡り、美緒が一人しかいないことを印象づけた。
 薫に会いに行く勇気がない。まともに薫の目を見られる自信がない。
 きっと、彼を目の前にすれば、美緒は不安のあまり泣きだしてしまうだろう。何かを問い詰める前に、気持ちがあふれすぎて言葉になんてならないだろう。シミュレーションするだけでも分かってしまうのだ。想像だけでもこんなにリアルに美緒を縛りつけるのだから、本当に愛しい薫をその目に写せば、感情なんていとも簡単に壊れてしまう気がした。
 まだ、何かを言われたわけではない。薫の話が、悪いことだとは限らない。それでも、何もかもを一人で納得してしまおうとする美緒の悪いクセが、無意識に彼女の気持ちを強張らせていた。
 何も考えずに、ただゆっくりと歩いていると、いつの間にか玄関へと辿りついていた。整然と並んでいる靴箱。ふと、『真中美緒』と書かれた靴箱が目に入った。
 帰ろうと決めたわけではない。ただ、なんとなく自分の靴箱に手をかけたのだ。
 その時のことだった。
 カタン、と小さな扉が開いた瞬間、美緒の足元に何かがヒラリと落ちた。
 薄い水色の封筒。
 それを美緒の華奢な手が拾い上げる。小さなシールで止めてある封を切り、ゆっくりと中を開けた。
 一瞬、美緒の体が恐怖に震えるのが分かった。

 入っていたのは、たった一枚の――。

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