華水の月

54.壊れゆく愛、届かない声

 白は、薫を意味する色。
 翻す白衣の背にいつの間にか心奪われ、いとも簡単に恋に落ちていた。薫に抱き締められる度、心の中はいつでも真っ白に塗り替えられた。
 そんな白の彼から贈られた薄紅の石。
 美緒にとってピンク色は、薫からの愛を形にした色だ。真っ白な美緒の心をピンクに染めていく薫の愛情は、とても優しくて安らかで、それでいて温かい。首筋に光るピンクダイヤモンドを目に映す度、美緒は幸せを感じていた。愛されている。薫のありったけの愛で。
 そう。白とピンクの記憶は、美緒にとって幸せの象徴のはずだった。
 封筒の中から震える指先が拾い上げたのは一枚の写真。そこには、白とピンクの重なる影が確かに映っていた。
「何、これ……」
 自分に質問を投げかけながら、それでも美緒はこれが何なのかを確実に認識していた。ふと、脳裏に蘇る色の記憶。
 ピンク色のスーツ。
 翻る白衣。
 置き去りにした赤いチェックの降りたたみ傘。
 美緒の心を引っかきながら、嫌な予感だけを残した色の記憶。つい昨日、鮮明に思い返したばかりだ。薫が、美緒との約束に遅れて来た日。何もかもが狂ったあの日。その写真の中には、その日のピンクと白の記憶が確実に映し出されていた。
「誰が……こんなもの……」
 写真の背後に映る窓の外は、薄暗い。撮影されたのは、きっと雨が降り出す直前のことだろう。ちょうど、美緒と薫が約束をした時間だと、直感で美緒は感じていた。
 その手前に映っている、抱き合う男女。白衣の広い背が、不気味にも鮮やかに浮かび上がり、その背にはピンク色のスーツを着た女の細い腕が縋りついている。ギュッと、白衣を握り締めていた。美緒にはそれが、自分から彼を奪っていく全てにさえ見えた。
 そこには、明らかに薫と麻里が抱き合っている姿が映し出されていたのだ。薫の顔は見えないが、その場所が保健室であることと、白衣を着ている男性自体がこの学園に数人しかいないことから、簡単に薫であると特定できた。美緒が、薫の背を見間違えるはずがない。皮肉にも、美緒の脳はそれが百パーセント薫であると認めてしまっている。そして、彼の肩越しに僅かに映る閉じた瞳。美しいその面立ちは、麻里そのもので、否定したくとも否定する要素がその写真にはなさすぎた。
 ――どうして。
 頭の中で、その言葉だけが繰り返し響いている。あの日、薫は遅れた理由を、『病人が残っていたからだ』と確かに言った。美緒も、それを疑うことはなかったのだ。自分よりも仕事を優先すべきだと、思っていたのだから。
 だけれど、ここに映る全ては、そんな美緒の良識を呆気なく覆してしまう。麻里は確かに病人であったのかもしれない。でも、だとしたら何故抱き合っている二人がそこに映っているのだろう。患者を抱き締めなければいけない何が、そこにあるというのだろう。ありとあらゆる可能性を駆け巡らせたけれど、結局美緒にはその写真を説明付ける理由が見つけられなかった。
 自分の恋人が、昔の恋人を抱き締めている。それだけで充分だ。自分を、裏切ったのだと決め付けるには。
 そう。薫は美緒を裏切った。
 それ以外に、理解できる真実など、美緒にはなかった。
「……バカみたい、私」
 覚悟していたことではないか。大阪での二人を疑いだした時から、いつか麻里に薫を奪われるかもしれないと、覚悟していたはずだ。それでも、いつもどこかで信じていた。美緒を抱き締めてくれる薫の温もりは、自分だけのものだと思いたかった。囁く愛の言葉は、美緒しか知り得ない言葉なのだと信じていた。確信は、所詮自分勝手な思い込みなのだということに目を背けて。
 夕陽が目元に影を作る。皮肉に微笑みながら、美緒は目元を手で覆った。その隙間から、キラリと涙が光り、そしてそれは次々と彼女の瞳から零れ落ちた。
 その時のことだった。
「美緒!」
 背後から、少し低めの声が響いた。いつもなら、甘く優しく響く声。鼓膜に微かに余韻を残すような。誰もいない校舎では、その声から逃げられるはずもなく、声の主はあっという間に美緒の元へと駆けつけてきた。
 跳ね返る鼓動。
 美緒を呼び止める薫の声から逃げ出してしまいたかったけれど、臆病になりすぎてしまった体は、そこから動き出すことさえ不可能になっていたのだ。視界の隅で白衣が揺れているのが見えた。必死で目元を拭い、そばにいるであろう薫に気付かれまいと平気なフリをする。そして、手に持っていた写真を、ポケットへと隠した。
 後になって思えば、これが最後のチャンスだったのかもしれない。全てが変わってしまう前に、薫の口から真実を聞ける最後のチャンスだったのだ。その写真を、臆病に隠したりせず、薫に見せていれば良かったのに。そうすれば、事の全てを薫から教えてもらえるはずだったのだ。だが、その時の美緒には、そんなことが分かるはずもなかった。
 幼い恋に身を焦がす同級生の罠に、まんまと引っかかってしまっただなんて――。
「どうして来ないんだよ。今朝約束しただろう。ずっと待ってたのに。……もしかして、帰るつもりなのか?」
 薫が、美緒の肩に手をかける。薄く華奢な肩は、小刻みに震え、薫の指先に不安を残した。
「美緒?」
 美緒の様子が尋常ではないことを、薫もすぐさま感じ取った。さすがに、噂が立っている今日という日を、美緒が普通の精神状態で過ごしたとは思っていない。理由があるからこそ、薫にも美緒の変化の予測はできていた。
 だからこそ、その全てを話すつもりでいたのだ。何も隠さず、ありのままの全てを。
「とりあえず、保健室へ行こう。おまえに話しておきたいことがあるから」
 美緒を振り向かせようと、強引に肩を引く。それと同時に、美緒は薫の手を払いのけた。
「触らないで!」
 ――パシッ!
 空間を割くように響く乾いた音は、二人の関係に亀裂を走らせた。
 溢れ出す涙と、睨み付ける瞳。けれどそこには、悲しみさえ窺えて、薫は美緒の瞳を凝視した。
「触ら、ないで……」
 震える声で薫を拒否し、美緒は一歩、そしてまた一歩と後ずさりした。背にロッカーが触れ、もたれ掛かる。
 拒否された薫は、美緒よりも傷付いたような目をしていた。跳ね除けられた手を、ゆっくりと握り締めて元へ戻すサマは、とても寂しげだった。
 卑怯だ、と美緒はそう思う。傷つけられたのは美緒のはずなのに、こんな目をする人を責められなくなる。裏切った恋人を責める理由はここにあるはずなのに、それでもやっぱり薫が愛しいからなのか、美緒は何を責めるべきだったのかを言えずにいた。
「結城先生との噂のことなら、何でもないよ。そのことをおまえにちゃんと話しておこうと思って、呼び出したんだから」
「嘘!」
「嘘って……」
 咄嗟に叫び、薫の言葉を否定する自分に、美緒は驚いていた。
 それ以上に、薫も驚いていたのかもしれない。彼にしてみれば、こんなにも美緒が感情的になるなどとは思ってもいなかったのだろう。美緒が、簡単に噂に流されてしまうほど馬鹿だとは思っていない。そして何よりも、美緒が薫と麻里の仲を完全に疑っていることなど、知る由もなかったのだから。ある意味、何も負い目がないことほど残酷なことはない。その時の薫に、美緒への罪悪感が少しでもあるのなら、彼女の気持ちを汲み取ってやることも可能だったのかもしれない。
 狂々と回る歯車を、薫だけが知らないことが、全ての悲しみの始まりだった。
「嘘なんかじゃないよ。ちゃんと俺の話を聞いてほしい」
「話って、何ですか……? 傷つくだけの真実なら、私はそんなもの聞きたくないです」
「傷つける? ……一体、何のことを言ってるんだよ」
「先生には当たり前のことでも、たとえ些細なことでも、私には違います。……先生ほど、私は強くないんだから」
「……悪い。おまえの言ってることがよくわからない」
「先生は、私の恋人でしょ? ……私、だけの。なのに、どうして」
 ハラハラと、花が咲くように涙が零れ落ちる。美緒は、苦しい呼吸をしながら、薫の目を一心に見つめていた。
 ずっと、ずっと愛していた彼だ。誰にもあげたくない。誰にも触らせたくない。私だけを見て欲しい。でも、嫌われるのが怖くて、そんな感情を薫にぶつけたことはこれまでなかった。失うくらいなら、いくらでも我慢することはできたのだ。それくらい、愛していたのだ。そして、今でも愛している。
 だからこそ、薫の裏切りは、美緒にとって耐え難い事実だったのだ。ずっと不安だった麻里の存在に奪われていく事実は、美緒の心を壊すのに充分だった。
「どうしたんだよ、美緒。何かあったのか?」
 バラバラと壊れていく美緒の心。薫を信じることだけで守ってきた心に、亀裂が入る。その隙間から感情が溢れだし、脆くも崩れはじめる。
 もう、無理だと思った。
 これ以上、薫を信じていられる自信が、美緒にはもう……なかった。
「信じてた。先生のこと、信じてたのに……」
「美緒?」
「もう無理だよ……。もう、信じられないんです。……こんなのもうやだ」
 両手で顔を覆い、崩れるようにしゃがみ込む。力なく落ちていくその様は、二人の関係そのものな気がして、また泣けてくる。美緒は止まらない涙を指でせき止めながら、薫を責めた。それは、許す前提の責めではなく、自分の気持ちを守る為の防衛として。
「なあ、美緒。話してくれないと、俺にはおまえが何のことを言っているのか全然分からないよ。何があったか教えて。じゃないと、俺もおまえに何もしてあげられない」
「……っ」
「大丈夫だから。俺はどこにも行ったりしない、おまえのそばを離れたりしない。だから、お願い、美緒」
 同じようにしゃがみ込み、美緒の体をゆっくりと抱き締める薫の腕は、出会った頃と同じように温かく優しかった。髪を撫でる指は、泉の言う魔法の手のように、美緒の心に優しく触れてきた。以前なら、そんな薫の全てを、受け止めていただろう。
 でも、今の美緒は。
「……同じは、嫌なの」
 美緒に触れる手と同じように、麻里にも触れたのかと思うと耐えられない。美緒を抱き締めるように麻里を抱き締めたのかと思うと、たまらなく嫉妬を感じるのだ。ましてや、抱いたと思えば、それだけで自分の存在価値を見失ってしまいそうで。
 いつの間に、こんなに貪欲な女になっていたのだろう。
 薫の一部でさえ、誰にもくれてやりたくない。誰かに触れられるのなら、薫の全てを覆いつくしてしまいたい。誰の目にも、触れさせたくない。恐ろしいほど貪欲に愛しているのだ。綺麗なだけに愛している上辺とは反対に、心の奥底ではとてつもなく女である自分がいて、美緒はそんな自分にたまらなく嫌気がさす。そんな自分と見つめ合うのを、今まで避けてきたのだ。認めてしまえば、自分は薫を縛り付けてしまうだろう。自分だけを見て欲しい、愛して欲しいと言葉にしてしまうだろう。誰にでもあるそんな当たり前の感情を、今まで美緒は受け止められなかった。
 そもそもの亀裂の始まりは、そんな彼女の弱さだったのかもしれない。心があまりに純粋過ぎて、全てがプラスではなく負の性質さえ持ち合わせることを、知らなかった故なのかもしれない。だから、呆気なく壊れてしまった――。
「美緒。……美緒」
 震える体を強く抱き締めて、薫が耳元で彼女の名を呼んだ。不安に打ち震える体を、壊れまいと必死に抱き締めてくれていた。
 美緒が抱える不安の何倍も、薫には伝わっていた。いつも美緒だけを見ている。愛する恋人、ただ一人だけを胸の中に閉じ込めて。何が美緒をこんなに苦しめているのかは分からなくても、どんな誤解が生じているのかを知らなくても、今の美緒には薫の本気の愛情が必要であることを薫は悟っていた。今この腕を離してしまえば、二度と彼女は戻ってこないと感じていた。
「同じなんかじゃないよ。俺にとって、おまえ以上に大事な人間なんていない。おまえ以上に愛せる人なんていやしない。今までもこれからも、ずっと一番だから。おまえ以外の誰をも、俺は愛したりしない」
 ――美緒しか、愛せない。
 以前そう言ったはずの薫の言葉は、今の美緒の心の中には残っていない。どんな愛の言葉も、一時の猜疑心には負けてしまうのかもしれない。
 美緒は、そんな薫の真実の言葉を、鼓膜に響かせながら確かに聞いていた。嘘のない言葉だ。薫の、心からの言葉だ。何もなければ、そんな言葉を心から受け止めていただろう。でも、何もかもに疑いを抱いてしまっている今は、その真実の言葉が逆に、とてつもない不信感に変わってしまったのだ。言い訳にさえ聞こえてしまった。
 その言葉が本当なら何故――。
「……ウソツキ」
 麻里の腹の子は、薫の子だ。きっと、そうに違いない。二人は美緒の知らないところで、ずっと体の関係を持っていたに違いない。写真に写っているように、いつも抱き合っていたに違いない。疑うに値しない。美緒はもう、その事実しか受け止められずにいる。
「ウソツキ!!」
 抱き締める体を押し退けて、空いた体の隙間から右腕を振り上げる。
 ――パシッ!
 薫の左頬に、乾いた音が響き、鮮烈な痛みを残した。
 それ以上に痛む、美緒の右の手のひら。彼女は、大きく呼吸をしながら、涙をハラハラと零していた。その瞳には、大きく目を見開いて美緒を凝視する薫の表情が映った。
「……美緒?」
 呆然とする薫から顔を背けて立ち上がり、美緒は靴箱から自分の靴を取り出し履きかえると、すぐさま逃げるようにその場をあとにしようとする。瞬間、薫が美緒の腕を掴んだ。
「……っ」
 一瞬、薫の表情が痛みに歪んだ。美緒を引きとめた途端、昨日階段から落ちたときにうけた打撲が体の中で悲鳴を上げた。美緒の手を掴む指先が痛みで痺れ出す。だが、けして離しはしないと、睨み付けるような強い視線で美緒を捕らえた。
「嫌!!」
 まるで泣き叫ぶように薫を拒絶する美緒の声。そのまま思い切り振り切られ、その腕を手ばなしてしまった。
 涙が、視線を横切る。
 薫の胸の中に、その美緒の涙は痛烈に傷を付けた。
「美緒!!」
 追いかけようと叫ぶ薫の声さえも、美緒の心にはもう届かない。零れる涙を拭うこともせずに、彼女は風のように薫の前から立ち去った。何が救ってくれるわけでもない。そうわかっているのに、薫の前から逃げ出すこと以外、何も考えられなかった。

 ――美緒。
 薫の声が美緒の胸の中でリフレインする。
 かろうじて二人を結び付けていた、細い、細い、蜘蛛の糸。
 自らが、断ち切ってしまったのだ。
 最愛の人の、最後の言葉を。

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