華水の月

55.紅の残痕

 どこまでも、捕まることのないよう必死で逃げた。
 現実から。薫から。そして、運命だと信じていた、この恋から。

 走ることに疲れ、ふと足を止めた時には、自分がどこにいるのかも分からなかった。薫に見つからぬよう、自分が普段けして行くことのないところへと無意識に足を向けていた。学校からは、そう遠く離れていないのかもしれない。いくら走り続けても、少女が逃げられる距離には限度がある。
 見慣れぬ街並みに目を向け、美緒は少しの戸惑いと安心を感じていた。そして、すれ違う人が自分を不思議そうに見ていくことに、美緒は自分の涙が止まらずに零れ続けていることを知る。頬を撫でる風が、ふと涙の痕を冷たく感じさせた。
「ふ……っ……」
 気を抜けば、すぐさま溢れだす涙。去り際に薫に掴まれた手首がジンジンと痛み、そこに目をやると紅く痕が残っていた。それだけ、美緒を離すまいとした薫の力が尋常でないことを知ったが、それを振り切らずにいられないほど美緒も相当追い詰められていたのだろう。
 会話と呼べるような話を、薫と交わすことが出来なかった。これほどに自分の感情が昂ぶるだなんて、美緒も予想だにしていないことだった。一方的に言葉をぶつけ、何一つ薫の言葉を聞き入れられない。薫の目を、見られない。見つめ合えばきっと薫は美緒の心を見透かしてしまうだろう。優しいけれど、厳しく鋭い瞳。人の心を凍てつかせるような、容赦のない眼差し。何故か美緒は、そんな薫の瞳に恐れをなしていた。暴かれることが、怖かった。信じられなくなるようなことをしたのは薫だとしても、薫のことを信じられないというそんな愚かで幼稚な自分を見透かされるのが怖かったのかもしれない。
 美緒の前を歩く大人な薫に釣り合うようにと、いつも頑張って大人になろうとしていた。無意識の内に、物分りの良い子になっていた。そんな自分を、知られたくなかった。
 涙のせいで不規則になる呼吸に息苦しさを感じながら、美緒は街の中にある広場の噴水の前へと腰を下ろした。背後から聞こえる水のざわめきが、不思議と心を落ち着かせる。無音でない世界が、こんなにも心地よいと感じたのは初めてだ。

 ――また、逃げてしまった。
 そんな想いが、美緒の胸を過ぎる。
 薫のこととなると、途端に臆病になる自分の心。胸が張り裂けそうで、苦しくて、いつも最後の最後まで薫を受け止められない。それは、幼さ故なのかもしれないが、ただ単に、薫への愛情が深すぎる故なのかもしれない。好きになればなるほど、自分の弱さを思い知る。愛し続けたいから、薫の全てを知りたいくせに。愛され続けたいから、薫に全てを見せられない。大きすぎる薫という人間を全て受け入れられるほどの度量を自分が持ち合わせていないことが分かるから、美緒はいつの間にか綺麗なだけの自分を見せていた。
 ――こんなに愛さなければ。
 薫という人が、自分の中でこんなにも大きな存在にならなければ。美緒は、こんなにも臆病にはならなかっただろう。けれど、そんな美緒の弱ささえ、薫が愛おしく感じ、全て包んでくれていることを、彼女は知らない。

 陽も暮れ、辺りはすっかり薄暗さを増している。
 薫と別れてから、どれくらい時間が経っただろう。今の時間が気になって、美緒は鞄の中から携帯を取り出した。すると、手に取った携帯が光りながら震えていることに気付き、それを凝視した。
「先生……」
 開いた液晶画面には、『先生』という二文字と、もうすっかり覚えてしまった彼の携帯番号が映し出されている。マナーモードにしているせいで無音ではあるが、確実に今薫と繋がっているこの携帯。手のひらに伝わる振動が、薫の呼び声のようにも感じられた。
 美緒は、その電話を取るかどうしようか迷ったが、迷っている間に通話が留守電へと切り替わってしまった。
「あ……」
 まるで、この携帯さえも二人の関係を裏切っているようで恨めしかった。薫は伝言を残さずに電話を切ったようだった。静かになった携帯の着歴をすかさず見てみる。するとそこには、美緒が薫と別れたと思われる時間から、何十件もの薫からの履歴が残っていた。
 美緒の携帯が残せる留守電メモは三件までだ。その内の二件は、えみからのメッセージを消去することを忘れたままになっているのを覚えている。さっき薫が伝言を残さなかったのは、残りの一件に既にメッセージを残し、三件全てを満たしていたからで、美緒は録音されている留守電メモに耳を傾けた。
『美緒。今、どこにいるんだ。ちゃんと会って話をしよう。おまえの目を見て話がしたい。……美緒。信じて欲しい。俺はおまえに恥じることを何一つしたりしてない。おまえを悲しませるようなことを、俺は選んだりしない。……この電話に気付いたら、すぐに連絡が欲しい。待ってるから』
 思わず、涙が零れ落ちた。ハラリハラリ、と。花が咲くようにとめどなく涙が溢れた。
 耳に届く薫の声をひどく懐かしく感じた。ついさっきまで間近で聞いていたはずの薫の優しい声だ。でも、さっきまでの薫の言葉は、何一つとして美緒の心に届いてはいなかったのだろう。抱きしめられても伝わらなかった言葉が、電話越しだと冷静に感じられることができる。
 繰り返し聞く伝言メモの薫の声に耳を傾けて、美緒は涙を零すしかできなかった。きっと、走り回りながらこの電話をかけてくれたのだろう、途切れ途切れに聞こえる苦しげな薫の息遣いに、胸が痛くてたまらなくなった。
「先生……」
 言葉にすれば鮮明に思い出す薫の姿。
 誰よりも愛おしい。愛しすぎて、心が壊れてしまいそうなほどだ。薫が向けてくれる真剣な言葉に、やっぱり薫を信じたいと思う気持ちと、だったら何故……と疑ってしまう気持ちが胸の中で抗っている。
 どちらを選ぶも、美緒自身だ。自分の見たものを信じるのか。それとも、偽りかもしれない薫の言葉を信じるのか。苦しくなるほど、葛藤した。だが現実は残酷なものなのかもしれない。真っ白な紙の上に落としてしまったインクは、滲むばかりで消えることはなく、涙を加えてしまえばそれはもう際限がないほど滲み、白を埋め尽くしてしまう。
 疑うことよりも信じることの方が何倍も難しい。弱くなってしまった今の美緒の心には、薫を信じる、と思いきれるだけの強さがなかった。今まで美緒が見てきたものの全てを覆せるほどの薫への信用を、自分の中に見出せない。考えれば考えるほど、麻里と薫の姿を思いだしてしまうのだ。空港で見たキスシーンも、身を挺して麻里を庇った踊り場でのことも、そして、抱き合っている写真も全て。
 美緒は、現実を目の当たりにしすぎていた。薫の弁解は全て、言い訳にしか聞こえないだろう。美緒を言い包めるだけの、卑怯な言葉としてしか捉えられそうにない。そんな言い訳に、丸め込まれてしまいたくない。薫が美緒にくれた言葉やシーンを全て覆して、負の世界が美緒を取り込んでいた。
 携帯を握りしめる指先が震えている。着歴に並んだ薫の番号を見るその瞳も、涙で滲んでいた。自分の気持ちだけではもう、どう考えても前には進めない。何かを決められるほどの、判断力を奪われていた。
 だから美緒は、自分自身の中で賭けをした。
 次の電話が鳴ったら……。
 もしもそれが彼ならば、私は先生との絆を信じられるかもしれない、と――。


 夕暮れの街並みには、柔らかな街灯がよく似合う。そして、サマになる長身の美青年も。
 木造で出来た洒落たカフェには、歩きゆく人がふと足を止めたくなる綺麗なオープンカフェがある。学校が近いこともあり、下校途中の女子高生がその前を通り過ぎ行く姿がよく見られる。そして、ふと社会の喧騒から逃れ、落ち着きを求めにくる大人な女性の姿も。
 オープンカフェに座っているその美青年は、通り過ぎ行く女の子達の視線を全て奪っているようだった。コーヒー片手に雑誌を読む姿も決まっている。だが誰も知らない。彼が読み耽っている記事は、ビジネス情報やファッション誌などではなく、女の子向けのデザート特集であることなど。
「このケーキ可愛いー」
 手に持った雑誌には、新しくオープンしたというカフェの情報が載っていた。泉は写真にある店の雰囲気や、肝心なケーキの情報を頭にインプットして、色々想像を膨らませていた。
 この店のオススメは、苺のミルフィーユと書いてある。写真にも載っているそれは、いかにも女の子受けの良さそうな可愛らしいものだった。泉がこの店に惹かれた一番の理由は、そのミルフィーユにあった。美緒が一番好むケーキが苺のミルフィーユであることを、泉は知っているからだ。これまで何度も美緒を連れまわしてきた泉だったが、最近では、どれだけ美緒が喜んでくれるかが、店を選ぶ基準になっている。
 幸い、行ってみようかと企むその新しい店は、わりと近くにあるということもあって、泉は迷いなく決めた。ポケットの中から、自分の携帯を取り出し、美緒の名前を探す。この時間なら、既に学校も終わって下校していることだろう。あわよくば迎えに行くつもりで、電話をかけた。
 コールが二回なったところで、プツリという音が泉の耳に響いた。
「もしもーし。優しくて超絶格好いい泉お兄様ですけどー。今朝言ってたケーキデートなんだけどさ、これから一緒に行かないか?」
 いつものノリで、意気揚々と話しかける。普段の美緒なら、そこですかさず何らかのツッコミを入れてくるはずなのに、今日は無言のまま、何も返事がなかった。もしかしたら繋がっていないのか、と、耳から携帯を話して画面を見てみるが、通話中と表示されてあった。
「もしもし、美緒? 聞こえてる?」
 電波が悪いのかと思い、少し大きめの声で語りかけてみる。それでも、美緒からの返答はなく、泉は携帯をこれでもかというほど耳に押し当てた。
 美緒の背後に何かあるのだろうか、水のざわめきのような音が聞こえる。それが聞こえるということは、この電話は確実に彼女と繋がっていると分かった。美緒、ともう一度語りかけた。その時だ。
『……っ』
 漏れるかのように聞こえた、微かな美緒の息遣い。
 それを耳にした途端、泉が顔色を変えた。
「何か、あったのか」
 自分でも驚くほどに、泉の声が不安な色を醸し出した。
 美緒の息遣いに一瞬にして悟ったのだ。彼女が今、泣いていることに――。
「お願いだから何か言って。美緒」
『…………』
「美緒。……俺だよ。それは分かるか?」
 優しく、優しく。美緒が不安がったりしないように。怯えたりしないように。
 いつの間にか泉は、美緒の繊細な心にどうやったら安心を与えられるのかを知っているかのようだった。美緒の中にある自分の居場所に、ストンと入り込む道筋を知っていた。
『いずみ……くん』
「うん。ごめんな、急に電話なんかして」
『いずみくん……っ』
「どうした? ……元気ないじゃん。何か嫌なことでもあったか?」
 本当は、すぐにでも何があったのかを問うてしまいたい。こんな風に優しく何気なくを装うのではなく、美緒の返答を急かしたい。
 でも彼女は、自分の気持ちに謙虚な女だ。無理強いをしたところで、簡単に自分の気持ちを打ち明けないし、暴くこともできないだろう。自らが気持ちを委ねたい、と思わなければ、美緒は絶対に本心を口にはしない。少しずつ、互いを分かり合ってきた泉と美緒だからこそ、泉にはその距離間のようなものが手に取るように分かる。
 携帯の向こう側からは、しゃくりあげるような美緒の小さな息遣いがとめどなく響いている。泣くことを必死に我慢しているのかもしれない。なんだか、そんな美緒の息遣いを聞いているだけで、泉も泣いてしまいたくなる。泉は何度も、美緒の名を呼んだ。それはまるで、彼女の髪を撫で、安心させているような声色だった。
『泉、くん……』
「ん?」
『私……』
「どうした?」
 優しく声をかけながら、雑誌をパタンと閉じて、席を立った。泉の中で既に意志は固まっていた。
 行かなければ。すぐにでも、彼女の所へ。
『……お願い、助けて』
 灯した火が消えてしまうような、微かな言葉に泉の心臓が痛くなる。
 それは、美緒が零した小さな本音だった。どんなことがあろうとも一人で立とうと頑張っている、そんな背しか見せなかった美緒の本音。そして、泉にしか見せることのない、弱音。
 それを言うのにどれだけ勇気がいっただろう。それを言わせるだけの何が、美緒を追い詰めたのだろう。けれど泉には、その追い詰めた影が少し見えたような気がした。
 ――薫。
 泉の中で、完全に悪だと決め付けてしまっている、恨めしくも愛しすぎる存在。美緒がこんなにも参ってしまう理由は、薫の存在以外にありはしない。悔しいが、美緒を狂わせることができるのは、薫しかいないと泉はわかっていた。
「今、どこにいる? すぐに行くから、待ってろ」
 途切れ途切れに聞こえる美緒からの言葉に泉を耳を澄まし、そしてすぐさまその場を駆けだした。
 道路の向こう側で薫が美緒を探し回っていることに、気付かぬまま――。


 電源を切った携帯を呆然と見つめながら、背後で聞く水の音に既に感覚は麻痺し始めていた。涙の痕が冷たい。握りしめた指先が痛い。
 賭けは負けたのか、それとも――。
 自分の中で覚悟を決めた後、携帯の画面に表示されたのは泉の名前だった。美緒はすかさずその電話を取った。何かに縋りつきたかった、助けて欲しかった、そんな気持ちがあったのかもしれない。少なからず、あの後かかってきた電話が泉であったことに、美緒は少しばかりの落胆と安心を覚えた。耳に響く泉の声に、思わず心が震えたのだ。知らぬ間に、弱い心の拠り所は泉を求めていることに、美緒は勘付いていた。
 あれから薫は再び美緒に電話をかけたのだろうか。知りたくとも、既に電源を落としてしまっている真っ暗な携帯は、何の知らせもよこさなかった。
 今自分がどこにいるのかを把握できていない美緒は、泉に適当な情報しか教えることができなかったが、きっと近い内に泉はここへと駆けつけるだろう。
 それでも、心のどこかで期待していた。賭けに負けても、運命というものがあるのなら、それを信じたかった。薫が、泉よりも早く、美緒を見つけてくれることに。半分の恐れと、半分の期待を胸に、美緒は何かを必死に祈っていた。自ら動くでなく、そんな運命じみたものに縋るだなんて情けない。そう分かってはいても、そう思わずにいられないのが、女というものなのだろう。きっと。
 それから程なくすると、薄暗かった空は完全に闇を纏い、背後にある噴水が照明を灯した。水面に、キラキラとした光が浮かび上がる。流水がまるで生きているかのように輝きを放つ。それまでポツリと街灯がある他に照明がなかった広場が、一気に明るさを放った。美緒の頬も、青白く照らし出されていた。そして、胸元にあるピンクダイヤもキラキラと。
 ああ。こんな場所にはきっと、恋人同士がよく似合いそう。
 などと、心の中で安らかに思っている自分がいる。ショックが大きすぎて、いつの間にか何を思っているのかも麻痺していた。何に泣き、何に笑うのかも分からなくなっていた。
 そんな風に、水の輝きに一時の安らぎを求めていた瞬間。背後から、待っていたはずの声が響く。
「美緒!!」
 その声に、美緒は振り返った。彼女の周りが明るすぎて、名を呼んだその人が誰であるかの判断がつかない。長身であるが故か、目元が陰になって表情が掴めない。
 でも、美緒にはそれが誰であるかが分かっていた。
「……美緒」
 美緒の元へと駆け寄り、容赦なく抱きしめるその力強い腕。髪を撫でて、何度も美緒の名を囁く声。放心して、感情を失っていた美緒の心が、その温もりに溶かされて溢れだした。
 涙が再び、頬を伝う。痺れたままの指が、縋るように彼の背を掴む。
 ――どうして。
 どうしていつも私を捕まえるのは、貴方なのだろう――。
 体を包むその温もりに、声をあげて泣いてしまいたくなる。薫が手首に刻んだ紅の残痕が、美緒の想いを引き止めるように鈍い痛みを残した。

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