華水の月

56.恋ひ余る

「く……っ」
 あまりの体の痛みに、苦痛に顔を歪ませる。
 自分の腕で体を押さえ込む姿は、まるで無理矢理に痛みを封じ込めているように見えた。動くことはできるが、動けるほど大丈夫というわけではない。全身に広がる打撲の痛みは、確実に薫の体に悲鳴を上げさせている。
 だからと言って、じっとしてもいられなかった。たとえ痛みが体を食い尽くしても、きっと彼女はそれ以上に傷ついているに違いない。
 美緒の行きそうな場所なら、思い付く限り全て探したつもりだ。あまり人の多い場所を、美緒は好まない。どちらかというと自然の中に身を置くような、そういう静かな場所を彼女は好むということを薫は知っている。学校近くの公園も、並木道も、木造で洒落た雰囲気の落ち着いたカフェも、全て探した。
 額は汗ばみ、走り回ったせいで息も上がっている。脱ぐ時間も惜しくてそのままだった白衣が、彼の動きに合わせて軽やかに翻った。そして、その白衣の中で揺れるネクタイピンが、薄紅の光を宿しながら、泣くようにキラリと光った。
「早く見つけないと……」
 早く彼女を見つけなければ、大変なことになる気がする。取り返しのつかないことになっては遅いことを、薫は脳の片隅で予感として感じていた。
 自分の何が、あんなにも美緒の気持ちを狂わせてしまったのかを、薫はずっとわからずにいた。考えても考えても、思い浮かばない。思い浮かばないが、でもずっと感じてきた予感ではあった。最近の美緒は、薫をじっと見つめる瞳のどこかに切なさをちらつかせていた。どれだけ愛しても、美緒はずっと不安を抱えていた。聞いたところで、彼女は答えないだろう。そういう女であることを、薫が一番わかっている。分かっていながらも、もどかしくもある。自分を全てぶつけてこない美緒が愛おしくも、憎らしくもあった。
 それを払拭したくて、抱きしめ、口づけ、愛しているのだと何度も囁いた。自分の気持ちだけは、どんなことがあっても伝えなければいけない。それは、以前に一度美緒と離れてしまったときに学んだことだ。想うだけでは届かない。抱きしめるだけでは伝えきれない。それを埋めるために、薫は美緒を愛おしいと思う度、それを言葉で伝えようと決めたのだ。
 美緒しか、愛せない――。
 そう言って抱きしめたあの瞬間は、本気だった。美緒のことを思うだけで泣けてくるくらい、愛しているとそう思ったのだ。
 靴箱の前に佇んでいた美緒の背が脳裏に浮かび上がる。全てを背負っていた。寂しさも不安も、全て一人で背負い、そして声も出さずに泣いていた。何があったのかを問えば問うほど、何かが美緒を追い詰め、そんな彼女を前に薫も為す術がなかった。今朝の電話の時点で、美緒の心が塞がっていることを薫も感じてはいたが、でも尋常ではないあの取り乱し方は、決定的な何かが美緒の中で起こった証拠だ。
 薫に言えない何か。薫の知らない何かが、確実に二人の関係を脅かしている。頭脳明晰で冷静沈着な薫でも、その『何か』が何なのか分からない。当然だ。全ての歯車は、薫の知らないところで狂っているのだから。
「……どうして出ないんだよ」
 携帯をパチンと閉じて、舌打ちをした。ずっと繋がっていたはずのコールが、数分前から繋がらない。一度話し中になり、その後美緒は携帯の電源を落としたようだ。
 ――こんな時はどうすればいい。
 ふと薫の脳裏に浮かんだのは、無邪気で明るい弟の姿だった。
 最近では、自分よりも美緒と共にしている時間の多い泉。今日は二人でどこへ行って、どんな話をしたのかということを、全て報告してくれている。それは、薫を差し置いて二人で会うことへの罪悪感からの行動だということを、薫も分かっている。そんな弟の気遣いに、薫も安心を得ている。だが罪悪感に思うということは、薫に対する後ろめたさが泉の中にあるからだ。
 もうずっと前から知っていた。泉が美緒に恋焦がれていることくらい。
 それを一切口にしないのは、泉が今の三人の関係を崩したくないと思っていることを、薫自身が一番知っていたからだ。美緒を奪いたいわけじゃない。薫を傷つけたいわけじゃない。ただ、今のままがいい。今のままでずっといられたら、と泉が思っていることを察し、薫も切なさに胸を焦がしそうになった。
 再び携帯を開き、泉の名前を探し出す。表示を確かめて、コールしようと指をかけた。
 だが、そこで薫の指が止まる。
 恋人である自分が、何故弟に頼らなければいけないのか。本来なら、美緒のことを誰よりもわかっているのは、恋人の薫のはずだ。いつだって彼女の気持ちを理解しようと、美緒だけを一心に見守っている。これまでに愛した女たちとは比べ物にならないほど、美緒という女を大事にしている。
 理性では、泉に頼ることに何ら抵抗はない。恋人の存在だけでは人の心の全てを支えることができないことなどわかっているのだ。美緒にとって、兄のように慕う泉の存在が必要であることくらい分かっている。自分自身が、泉の兄として、親代わりとしてずっと生きてきたことで、それは嫌というほど理解しているし、否定などできない。
 でも感情は……。
 恋人である自分が、美緒の全てをわかっていたかった。可能性に限界があっても、現実はそんなに甘くなくても、美緒にとって一番の存在でいたかった。たとえ弟でも、誰かに頼ることなく、美緒を捕まえたかったのだ。それは、恋人としての意地。愛しているのだ。誰にも美緒を委ねたくないくらい、深く。
 ――とりあえず、自分のできる限りを尽くして、その後の可能性を考えよう。
 薫は携帯をポケットにしまい、何かに導かれるように駆け出した。泉への電話を後回しにしたことが、歯車をまた一つ狂わせているとも知らずに。


 抱きしめた体は華奢で、震えていた。まるで全身で泣いているかのような儚さに、彼女を抱く腕から切なさが滲み始める。
 座り込んだままの美緒の前に膝を折り、泉は優しく抱きしめながらそっと髪を撫でた。指の間を何度も往復する細い髪。その髪に唇を寄せ、目を閉じた。
「何一人で泣いてんだよ、おまえは」
 遠慮気味に泉の胸元を掴む美緒の小さな手は、何かを躊躇っている。全てを吐露してしまいたい気持ちと、我慢しなければと思う控えめな性格が抗っているのだろう。抱え切れないほどの不安を胸に、それでも泣くのを必死で我慢している美緒を見ていると、泉もつられる様に泣きたくなった。
「バカ。何かあったら俺のところに帰って来いって、あの時約束しただろ。忘れたのかよ」
「……っ」
「おまえがそんなんだから、俺がいつもおまえを探すハメになるんだろ? ……たまには、俺の言うことちゃんと聞けよ。本当に世話の焼ける女だな、おまえは」
 苦笑しながら美緒の耳元へ囁くと、彼女は額を泉の肩に押し付けて小さく涙の混じる溜息を零した。こうして抱き締めているのが泉で良かったと、そう言っているような溜息だった。
 美緒から大体の居場所を聞きだして、泉はすぐさま彼女のいるところへと駆けつけた。学校からそう離れていないということもあり、咄嗟に検討はついたのだ。読んでいた雑誌はそのままに、雑踏を駆け抜けて必死で美緒の元へと急いだ。
 目的の広場に付くと、美緒は噴水の前で身を丸めて隠れるようにひっそりと座っていた。誰も私を見ないで、と言っているように見える華奢な肩なのに、泉にはそれがとてつもなく守りたくなる姿に見えた。
 守りたくて仕方がないのだ。美緒のそばにいて、その笑顔が消えたりしないようにずっと見守っていたい。彼女が笑ってくれるのなら、泉は道化師にだってなれるだろう。たとえ気持ちが伝わらなくても、泉が泣きたくてたまらなくても、美緒のためならピエロにだって、何だってなれる。
 美緒の笑顔に勝る幸せなんてない。彼女よりも大事な存在なんて、この世にはないのだから。
「俺が電話してなかったら、ずっと一人で泣いてるつもりだったのか? ったくおまえは相変わらずのバカ女だな。すぐに約束も忘れるなんて」
「……ごめん、なさい」
 ハイハイ、と、泉が美緒の頭をポンポンと軽く叩く。小さな謝罪の言葉は涙に濡れ、曇っていた。
「何があった?」
「…………」
「美緒。何かあったんだろう?」
「…………」
 何も言葉を返さないことが、余計に不安を煽る。悪い予感を感じながらも、必死に平静を装っていた泉だったが、それも次第に限界が近づいていた。
 元々、冷静とは無縁のタイプだ。冷静に考えるよりも、自分の感じるものや信じるものを大事にしたい。フィーリングで行動するタイプなのだ。合理性や計算などは、泉にとってはあまり重要な意味を成さない。美緒のためだからこそ必死で冷静を保っていたが、次第に胸の奥で燻る情熱が沸々と沸きあがってくる。
 美緒を泣かせるモノを許せるほど大人でもない。
 そんな大人になら、なりたくもない。
「美緒。話さなきゃわからないよ。俺にだったら言えるだろ」
「……ふ……っ」
「大丈夫だから。俺は、おまえから何を聞いても離れたりしない。疑ったりしない。絶対におまえの味方でいてやる。全部受け止めてやる。だから……言ってみな」
 すると、泉の胸元を掴んでいた美緒の手がスルリと離れた。スカートのポケットにゆっくりと手を入れ、何かを探っている。カサリ、という物音に、泉は眉を顰めた。
「これ……」
 小さな呟きとともに、泉の胸に押し付けられた写真。握りしめた微かな痕が、美緒の心の歪みに見えた。
 写真を手に取り、泉はそれを指先でそっと開く。そこに映っているものを凝視すると、喉の奥でヒュッと音がするような悲鳴が呻いた。
「なんだよ、これ……」
 泉の瞳に、薫と麻里が抱き合う光景が焼き付く。
 どういうシチュエーションで、こういう写真が取られたのかは想像も付かない。誰が撮ったものなのか、何故これを美緒に見せる必要があったのか、そんなことが断片的にパッと脳裏を過ぎるも、冷静に考えられない。むしろ、そんなことを考える必要もないと思っている。
 この光景だけで充分ではないだろうか。美緒を傷つけ、裏切るということになるには。
「麻里さんと、薫だよな、これ」
「……うん」
「どういうことだよ。なんで抱き合ってなんか……」
 胸の中で火が宿る。怒りを形にして、泉の胸の中でそれは次第に膨れ上がっていく。それまでの不安や猜疑心などが燃料となり、歯止めが効かなくなっていった。
 どうせなら、信じたかったのだ。疑いつつも、大好きな二人だったからこそ、憎みたくなどない。麻里の妊娠も、疑いの大阪での一夜も、本当なら全てを考えたくない。でもそれも、こんなものを見せられては不可能と言うものだった。
「……それね、先生が約束に遅れて来た日なんだ」
「え……?」
「どうして分かっちゃうのかなあ……。そんなこと、知らずにいたらこんなに傷つかなかったかもしれないのに……」
「で、でもあの日は確か、病人が居たから遅れたって……」
 そこでハタと泉の言葉が止まる。
「嘘吐いてたってことか?」
 眉を顰め、泉は乾いた笑みを零した。
 呆れ返ってしまう。まんまと二人して薫の嘘に騙されていただなんて。あんなにも、薫を心配したのは一体何だったというのだろう。泉自身も薫の熱に冒されてということなのだろうか。
「結城先生が、患者さんだったのかも……」
「患者を抱きしめたりするかよ!!」
「……そうだね」
 薫を庇おうとする美緒の言葉をすかさず否定した。
 泉も美緒と同じように知らないのだ。その抱擁に隠された真実を。そう、麻里が自分の子を痛めつけようした、それを止めるための術だなんて伝わるわけもない。
「……ねえ、泉くん。……私は何を選んだらいい?」
「え……?」
「結城先生……、たぶん妊娠してるの」
「おまえ、それ……」
「櫻井先生も絶対に知ってる。結城先生を庇ってたから」
 衝撃的な美緒の言葉に、すかさずその言葉に含まれる意味を察知した。美緒は、麻里の妊娠を知ると共に、その子の父親を薫だと疑っているということを。
「……どうしたらいいのか、もう……わかんないよ」
「考えるな。おまえはそんなこと考えなくていい」
「でも……」
 まだ、薫が父親と決まったわけではない。そう自分に言い聞かせつつも、泉の中でもそれは揺るがない真実として膨れ上がっている。美緒に知られる前にどうにかしなければ、と思っていたが、それももう無理だ。
 どうすればいい。どうすれば、美緒をこれ以上傷つかせずにすむのだろう。
 考えても考えても、何が適切な答えかなんて見つからなかった。どうしようもないほど、薫への怒りが膨らんでいく。ふざけんな! と胸に燻る気持ちを口に出そうと息を吸う。それを飲み込むように、美緒が小さく呟いた。
「ごめんなさい……」
 片手でギュッと抱き締めているはずの美緒が零した謝罪の言葉。
 泉は、今美緒が何と言ったのかを理解できなかった。
「……何? おまえ、今なんて……」
「ごめん、なさ……っ」
 肩を震わせ、絞りだすように彼女は確かに『ごめんなさい』と口にした。それが何に対してなのかが分からない。
 泉は写真を握りしめると、美緒の肩を掴み、そっと体を離した。
「なんでおまえが、謝るんだよ……」
「……傷つけたの」
「何を」
「先生のこと、叩いて、拒否したの……。先生は私を引き止めてくれたのに、最後まで先生の話、聞いてあげられなかった。もう、信じられなかったの。……だから、逃げたの」
 自嘲的な笑みが、泉の口元に浮かぶ。そして、奥歯をギリッと噛み締めた。美緒が謝れば謝るほど、薫に対しての憎しみが増徴した。許せなかった。こんな風に美緒を追い詰めた薫という存在が。
「バカ! おまえは、おまえは何一つ悪いことなんかしてないだろ! なのに何謝ってんだよ」
「ごめんなさ……」
「謝るな! ……謝るなよ。どうしていつもおまえばっかり……」
 そんなことを美緒に責めたところで、どうしようもないことなど泉にも分かっている。でも、薫のことをまだ責め切れずにいる美緒が歯がゆくて、憎らしくて、余計に腹が立った。それでもまだ繋がっている二人の絆を、全て切り裂きたくなったのだ。そんな偽善の上に成り立つ絆など、いっそなくなってしまえばいいと。
「こんな写真見せられて、麻里さんのことまで知ってて、まともな顔してられるなら、そんなの人間じゃない。おまえがいい子になって我慢する必要がどこにあるって言うんだよ。こんな……こんな裏切り、許さなきゃいけないほどおまえが何か悪いことしたのかよ」
「泉……くん」
「いつもいつも傷つくのはおまえばっかり。それを薫は何一つ知りもせずに、何一つわかってないくせに、それでもおまえを繋ぎ止めておけるなんて、そんなの間違ってる。そんなの俺は嫌なんだよ」
 背が折れてしまいそうなほど強く、美緒を抱きしめた。その瞬間、大粒の涙がポロッと美緒の頬を伝った。
 泉の言葉に、何かを救われたのだ。いつも自分を抑えてばかりで生きてきた人生を、泉が救ってくれたような気がした。弱い美緒自身を、全て包んでくれるように。堰を切ったように、次々と彼女の頬を涙が零れ落ちた。
「ごめんなさ……い」
「謝るな。おまえは何も謝らなくていい。悪いのはおまえじゃない」
 そう、悪いのは誰でもなく、美緒を裏切った薫だ。
 泉の中で、薫が完全に悪に変わった瞬間だった。
 もう、薫のせいで苦しむ美緒を見たくない。薫との恋で涙する美緒を慰めるだけではいられない。幸せにしたいとか、愛したいという幸福な感情よりも、ただ美緒を守りたいという強い気持ちだけが泉を満たしていた。もう、自分以外の誰をも、彼女のそばに居させたくなかった。
「俺がいるから」
 ずっと封印してきた気持ち。
 一生、美緒には告げずにいるつもりだったけれど……。
「おまえが、薫のことを好きでもいい。忘れられなくてもいい。でも、もう泣いているおまえを見たくない。俺が、おまえのそばに一生いるから」
 体を離し、美緒の頬を両手で包み込む。慈しむような優しい泉の眼差しをその瞳に映して、美緒は戸惑うように泉を見つめていた。
「好きなんだ」
 それを言うのがやっとだ。
 そう告げるだけで、泣きそうになる。
 想いが溢れすぎて、感情がすべてを凌駕する。
「好きなんだよ、美緒」
 泉の思いを受け止め、ハラハラと散る花の涙。それを指の腹で拭いながら、泉は困ったように笑うのが精一杯だった。
「誰にも渡したくない。……好きで好きで、どうしようもない」
 こんなにも人を愛したのは初めてだから。だから、どんな風に君を愛したらいいのかなんて見当もつかないけれど。
 でも、これだけは言えるんだ。
 君を愛して良かった。愛した人が、君で良かった。いや、きっと生まれたときから、君が良かったんだ。
 君に会いたくて僕は命を宿し、君を愛したくて僕は男に生まれ、そして出会うべくして君に出会った。
 ……君に愛されたい。ただそれだけを願って。
「愛してるんだ、美緒」
 小さな頬を引き寄せ、泉はそっと美緒の唇へと唇を重ねた。
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