華水の月

59.華の終焉

「……違うよ。麻里の腹の子は、俺の子じゃない」
 小さく息を吐くように、薫が呟いたその言葉は、泉の中の常識を全て覆した。
「どういう、こと……」
 床に手をついて薫を見上げる泉。今になって新たな事実を受け止めるには覚悟がいった。信じていたもの全てが、薫の言葉で覆されようとしている。
 薫は泉の前に膝をついた。
「俺は最初から、麻里と関係なんて持っていない」
「で、でもあの写真は……!!」
「あれは、麻里が腹の子を傷つけようと暴れそうになったところを押さえこんだだけだ」
「え……?」
「あの日、麻里は体調を崩していて、同僚の教師に抱えられて保健室に来た。体だけじゃなく、精神的にも限界にきていたんだろう。腹の中にいる子が受け入れられず、自暴自棄になって、腹を殴ろうとした。……子供を、傷つけようとしたんだ」
 泉の瞳は、不安で揺らめいていた。
 薫の言葉が容易に理解できない。今までずっと、悪だと信じ込んできたのだ。最愛の兄を悪だと思うのは、相当に苦しかった。それでも受け止めなければならなかった目の前の真実が、全て偽りだったなんて。
「俺が美緒との約束に遅れたのは、写真の通り麻里が居たからだ。それは嘘じゃない。でも、彼女は本当に患者としてあの場にいただけだし、その抱擁も一瞬だけのことだ。麻里が居た事を言わなかったのは、俺にとっては取るに足らないことだったからだ。最初から、後ろめたいことなんてないよ。俺は美緒に恥じることは何一つしていない」
「じゃ、じゃあ、麻里さんの腹の子は……」
「あれは、――――だ」
 衝撃の真実に、泉は一瞬耳を疑った。
 吃驚し過ぎて言葉を失ったその表情に、薫も泉の言いたいことが読めたのだろう。全てを、泉に話してくれた。麻里が自分の子を罪だと言った意味も、自暴自棄になった理由も、何もかもが全て理解できた。
「だから、今まで何も言えなかったんだ。麻里の気持ちを考えれば、そんなことは安易に口にできないだろう」
「……そんなことって」
「おまえは、俺が麻里と肉体関係を持っていたと思っていたようだけど、大阪での間も、俺は麻里とはなんら関係を持ってないと誓って言えるよ。昔の女に靡くほど、俺は落ちぶれちゃいない」
 少しの苦笑を含んだ薫の言葉には、一切嘘はなかった。
 今まで、一体薫の何を見てきたというのだろう。偽りだけの事実を信じ、薫という人を見失っていた。誰よりも誰よりもそばにいたのに。そう、恋人の美緒よりもずっと長い間、泉は薫と共に生き、全てを知っていたはずなのに……。
「空港でのキスも。……男の俺が言うのはあれだけど、不可抗力だった。俺の意思じゃないことは、信じて欲しい」
 薫が言い訳せずとも、泉にはわかっている。あの日、泉だって全てを見ていたのだから。キスの後、麻里の体を突き飛ばしていた薫からは、拒否の感情が溢れていたことを。
 感情が、まるで逆流しているかのように渦巻いている。過去の記憶と薫の言葉との狭間で、次第に泉の胸中には罪悪感が吹き荒れていた。たった何十日かという短い期間の中で、完全に自分の中で悪に仕立て上げてしまった最愛の兄。これまで、二十年以上も人生を共にしてきたその時間は、あまりに柔らかく自然過ぎて、それがどれだけ大事なのかを見失っていた。薫という人を、誰よりも知っていたはずなのに、一番信じていなくてはいけないのは泉のはずなのに、簡単に悪だと決め付けてしまった。美緒を愛するがあまり、その恋情に流され、兄弟以上であったはずの絆を見失った。
 その、愚かさ――。
「……ごめん」
 薫が語る真実の全てを知り、泉は両手をつき、震える声を上げながら、頭を下げた。ごめん、という言葉以外、何も思い付かなかった。簡単すぎる言葉だと思うけれど、胸の中で渦巻く感情が複雑過ぎて、それを言い表すなんて不可能だった。
「美緒と寝たなんて、嘘なんだ……」
「…………」
「薫が傷つけばいいって。美緒を裏切ったことへの報復のつもりだった。美緒や俺と同じくらい薫のことをズタズタに傷つけてやろうと思って、嘘を吐いた……」
 地面についた手を、ギリギリと握り締めた。手のひらに、爪が食い込み、激しい痛みを訴える。いっそ、この痛みに呑まれて死んでしまえばいいとさえ思う。こんな自分が悔しくて悔しくて、たまらなかった。
「本当は、美緒の気持ちを全部聞いて慰めるためだけに、薫にも誰にも見つからない場所へ連れていっただけ。俺が、美緒のそばに居たかっただけなんだ。……抱けないよ。美緒を抱くなんて俺にはできない。だって美緒は薫の……薫の一番大事な人だから」
 最愛の兄の彼女なのだ。いくら薫が憎くても、その一線を越えてしまえば、もう二度と薫を兄とは呼べなくなってしまう。美緒と同じくらい、泉は薫が大事だった。誰よりも愛していた。愛しているからこそ、美緒の薫への思いも分かっていたのだ。
 美緒と抱き合っても、そこには後悔しか残らない。誰も幸せにはならない。
 昨夜、泉は泣きやむことの出来ない美緒を連れ、ホテルの一室をとった。でもそれは、思う存分美緒の気持ちを聞いてやるためのことだ。下心ではない。薫が見つけられないところ、美緒が何の不安も抱かないところ、そんな場所へ美緒を連れていきたかったのだ。零れ落ちる美緒の言葉をすくい上げながら、泉はただ、美緒をひたすらに抱きしめ、腕の中から離さなかった。ただ、自分の温もりで美緒の気持ちを癒せたら。それだけに、必死だったのだ。
 愛ゆえに抱けなかった。それは、美緒の恋人が薫であることを初めて恨み、そして薫への愛情を再確認した瞬間でもあった。
「分かってるよ。何も言わなくても……」
 薫が、泉の頭にポンと手を乗せた。
「美緒を信じてるのと同じように、俺はおまえのことだって信じてる。おまえが何と言おうと、俺が一番おまえのことを分かってるよ。……だっておまえは、俺が誰よりもそばでずっと守ってきた、たった一人の弟なんだから」
 そして無造作に髪をクシャクシャッと弄った。
 反射的に泉の瞳から涙が溢れ出る。指先から伝わる兄の愛を感じて、心が涙で溢れそうになった。
「ごめん。……ごめん。俺、本当のこと何も知らずに、ずっと薫のこと疑ってたんだ。薫が全部悪いって決め付けて、薫のことが許せなくて、憎くて、どうしていいのかわからなくて……」
「……うん」
「美緒に、薫が裏切ったんだと思わせるような言葉を何度も聞かせて……。俺だけが美緒の理解者になれるんだって勝手に思いあがって、美緒の心が薫に向かないようにって、卑怯な真似して……。俺のせいだよ。こうなったのは全部、俺のせいだ……。俺が、薫から美緒を遠ざけたりしたから……」
 今さら後悔したって遅い。たとえ美緒を想うが故の過ちだったとしても、薫を傷つけたことには変わりはないのだから。こうして薫と美緒がすれ違ってしまう運命を助長したのだから。
 愛しているのに、信じられなかった。結局泉と美緒は、同じ過ちを冒していたということなのかもしれない。最愛の人を信じられなくなるという、過ちを。
「でも美緒は、俺がいくら優しい言葉をかけても、ずっとそばにいるって言っても、流されることはなかったよ。いくら疑ったって、薫のことが変わらずに好きで、俺の気持ちに揺れたりしなかった。だから離れて……っ。本当にゴメン、薫……」
 泉は、暫くの間言葉を失って、頭を下げたままだった。
 すると薫は同じように少しだけ沈黙を置き、そして小さな声でポツリと告げた。
「全てを知っていることは、つらかっただろう?」
 泉の全てを許す声――。泉の苦しみも、過ちも、不安も、後悔も、何もかもを薫は受け止めてくれた。
 その言葉を泉に伝えるのに、薫の中ではどれだけの葛藤があっただろう。傷つかなかったと言えば、嘘になる。最愛の弟の、本心の告白。そこには、裏切られていたという気持ちと、そんな思いをさせてしまっていたという後悔とが渦巻いていた。だから薫は、許すことを選んだのだ。それは、薫にとっては自然と選び出した答えだった。
「何も知らなかった俺とは違って、おまえは一人で全部背負って、誰の前でも笑顔を絶やさなかった。そうやって、自分の気持ちを隠しながらずっと黙って見守ることは、つらかっただろう?」
「か、おる……っ」
「おまえのやったことは間違いなんかじゃないよ。俺はおまえを責めたりしない。……むしろ、そんな優しい弟でよかったと、そう思ってる。美緒も、おまえの優しいところを知ってるからこそ、おまえの気持ちに甘えなかったんだ。おまえのことが、何より大事な証拠だよ。あいつは、そういう女だから」
「薫……」
「ごめんな、泉」
 謝るのは、薫ではなく自分だ。泉が心の中で呟くも、嗚咽が漏れて言葉が出てこない。髪を撫でる薫の指先の感触はあまりに優しくて、ごめんと謝るその声があまりに儚げだった。全てを知っていた泉よりも、何も知らなかった薫の方が何倍もつらいはずなのに。薫は怒ることもせず、優しく泉を許してくれた。
 いっそ、怒ってくれたら良かったのに。優しすぎるくらい優しい。でもその優しさは、本来彼の持つ強さ故のものだ。そんな薫の優しさが、泉にとっては余計に心を痛ませた。


 泉の気持ちが落ち着くまで、二人はその場でじっとしているだけだった。
 沈黙の中に、もう憎しみや猜疑心はない。元々、互いに支え合って生きてきた兄弟だ。互いの本当の姿を思い出すことは、簡単だった。
 ただ、過去への後悔と、未来への不安に胸を膨らませるばかりだった。自分のことではなく、互いのことを思いやるばかりだからこそ、答えは出なかった。
「なあ、泉」
 蹴り飛ばされたままだったテーブルを定位置に戻し、再びソファへと腰を下ろした薫が、斜め向かいに座る泉に向かって話しかけたのが、新たな会話の始まりだった。それまで何を話していいのかわからずにいた泉にとって、薫の呼びかけは嬉しかった。
「ん?」
「怒らないで聞いて欲しい」
「うん……」
「俺な、……実は、おまえがずっと前から美緒を好きだったこと、知ってたんだ」
 苦笑しながら呟く薫。
 泉は、その言葉に驚きを隠せなかった。
「初めて美緒に出会った瞬間から、おまえが美緒に惹かれてることは手に取るようにわかってた。きっと、誰よりも一番先に、おまえが恋をしているのに気付いたのは俺なんじゃないかな。……きっとおまえよりも先にね」
「そんな……」
「でも、おまえが今の関係を壊したくないって思ってることくらい分かってたから、だからずっと知らないフリしてた」
「……そう、だったんだ」
「でもな、今になって思うと、それはちょっと違うかもしれないって思ったりもする」
 薫の表情は穏やかだった。泉は、黙ってその言葉の続きを待った。
「おまえはずっと恋愛に対して消極的だったから、いつか本気で好きな人が現れることを望んでた。おまえのことを本当に大事にしてくれる人が居てくれたらと、いつも思ってた。……でも、神様って意地悪だよな。それが美緒でなくたって、よかったのに」
「……うん」
 うん、と返事をすることしか出来ない。
 泉もずっと思っていたことだ。だからこそ、薫には余計な心配をさせたくなかったのに。
「おまえが美緒を好きなんだって気付いてから、どうしていいか分からなくなった。おまえの幸せを思えば、俺が身を引けばいいのかもしれないけど、もう引き返せないほど美緒を愛してたんだ。いくら弟のおまえでも、美緒を手放せなかった。俺が美緒を幸せにしたかった。自分以外の誰かじゃ我慢なんてできない。それはきっと俺のエゴだ。おまえの気持ちを尊重して、今まで知らないフリをしてたと言ったけど、本当は俺自身が逃げていたのかもしれない」
「それは違うよ、薫。俺が悪いんだから……。俺が美緒を好きにならなかったら……」
 薫の言葉を否定しようとしたけれど、それより先に、薫が大きく首を振った。閉じた瞳の奥には、深い感情が見え隠れした。
「人を好きになるのに、悪いことなんてないよ。おまえの好きな人が美緒じゃないんだったら、俺は心からおまえの味方をして、応援してたに違いないんだから」
「でも……」
「これでもおまえの兄貴だ。おまえが思っている以上に、俺はおまえの幸せばかりを願ってるんだよ」
 薫の優しい言葉に胸が破裂しそうになる。
 いつだって泉は、薫の深い愛情に包まれて生きてきたのだ。まともに親に育てられたわけじゃない子供が、こんなにも愛情いっぱいに育つことができたのは、紛れもなく薫のおかげだ。兄であり、父であり、母でもある薫。育てられた泉よりも、薫が抱くその愛情の方が、何倍も大きい。
「でも、どうしてだろうな……」
 薫が天井を仰ぐ。
 そこから紡がれる声色は、まるで泣いているかのように悲しく響いた。
「おまえの兄貴なのに、兄貴のはずなのに、おまえが愛した女が美緒だと思うと心から喜べないんだ……。おまえと美緒が深く繋がっていくのを見ていると、とてつもない嫉妬で狂いそうになることもあった。おまえが弟じゃなかったら、きっと二人を近づけさせたりしなかった。でも、おまえは弟だから……。美緒とは比べられない領域で、おまえは俺にとって一番大事な弟だから……。最愛の彼女と弟の仲が良いことに、否定する理由なんて見つけられなかった。美緒がおまえに心を許してることも、それと同じような気持ちをおまえが俺に抱いてくれてることも分かってたから、だから何も言えなかった。わがままだけど、二人とも失うのが怖かったんだ。何も変わりたくないと一番願ってたのは俺だったんだよ。どちらかが壊れてしまうんじゃないかと思うと、自分の存在さえ嫌になる。だから何もしてやれなかった」
「そんなこと……」
「……ごめんな。兄貴なのに、おまえが本当に愛した人のことを、心から応援してやれない」
 その時泉は、薫がずっと傷ついていたことを知った。
 手で顔を覆い俯いているせいで、薫の表情を窺うことはできなかったが、きっと心の中では泣いていたに違いない。駄目な兄貴でごめんな、と呟く声色は震えていた。
 こんなに参っている薫を見るのは初めてのことだった。『傷つけられたことなんてない』などと薫に言いはなったことを後悔した。二人を大事に愛しているからこそ、薫はずっと傷ついていた。いつも優しい表面上しか見えていなかったのだ。大人だから傷つかないだとか、頭がいいから全てを知っていて当然だとか、愚かな価値観に捕われていた。
「欲を言えば、もっと早くに全てを知りたかった……。全部、教えて欲しかった。空港でのことも、俺が美緒よりも早く見つけてたら良かったのに。俺が全部知ることができてたら、そしたら、誰も傷つけずに済んだかもしれないのにな。……って、それも俺のエゴかな」
 弱く笑うその笑顔さえ、泣きたくなるほど切なくて。無知の残酷さを、改めて泉は思い知る。
 泉の気持ちを知っていて、そして、何も知らないところで無実の罪を着せられていた薫。本当に優しかった彼一人だけが、何も知らないがために歯車は狂っていた。
 麻里が思う薫への愛情よりも。美緒の思う薫への愛情よりも。そして、泉が思う薫への愛情よりも。どれも比べ物にならないくらい、薫の愛情は深く、果てしなかった。優しすぎて分からなかった。そんな強さや優しささえ、ただの一人の人間の心の上に成り立つものだということを。泉や美緒と同じように、本当は繊細で脆い心の上にあるということを。
「今更だけど、俺、美緒に会ってこのこと話してくるから。全部、本当のこと……」
「いいよ。おまえが言わなくてもいい」
「でも俺が全部悪くてこうなったんだし」
「『泉くんは何も悪くない』」
「え……?」
 薫の呟いた言葉に、泉がふと言葉を飲み込む。
「美緒ならきっと、そう言うだろうなと思った」
「……美緒が?」
 薫が大きく頷いた。
「狂ってしまったものは、当の本人でなければどうにもならない。この間違いは、俺が正すべきだ。それに……」
 絡まった糸は、早くほどかなければ手に負えなくなってしまう。自分が絡ませたかもしれない糸を、泉はすぐにでも元に戻したかった。薫と美緒を繋ぐ、細い蜘蛛の糸を。
 だけれど、その蜘蛛の糸はもう……
「『先生にはもう会えない』って、数時間前、美緒からメールが来たんだ」
 ――切れていた。


 美緒。
 『信じる』という言葉の本当の意味を、もしも君が知っていたならば、全ては変わっていたのだろうか。
 空港で再会したあの時、無理矢理君の手を引いていれば、薫から逃げていた君の心を、結び合わせてあげることはできただろうか。
 歯車の狂いを、僕に止めることは、できていただろうか。

 ねえ、美緒。
 春に咲く華は、その温かさを感じて咲き誇ることを、君も知っているだろう?
 冬の寒さにじっと耐え、そして温かい待ち人を得ては、咲き乱れる。華も水も、そして月さえも春の訪れを待っている。でも、春が去れば、華の命は終わり、散りゆきながら身を焦がすのだ。
 僕達はきっと、薫という人の温かさに埋もれすぎて、自分が咲いていることも、その温かさにはどこかに限りがあるということも、忘れていたのかもしれない。春という薫の温かさに、自分が咲かされているということに、気付けなかったのかもしれない。
 薫がいなければ、今の僕達はいなかったのに……。

 愛され、慈しまれて咲き乱れた華が、終焉を迎える。
 散りゆく華の美しさに、泉はただ、見つめているしかできない――



−第三部完−

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