華水の月

6.甘美なヒト

 初めて、授業をサボった。
 どこにいていいのかわからず、とりあえず屋上に辿り着くと、誰もいない空間を一人占めした。生ぬるい空気が頬を撫でる。空はどんよりと、今にも雨が落ちてきそうな色をしていた。まるで、美緒の心と重なるかのように……。
 一度はサボると決めていた泉の授業。
 だが、どんな理由があろうと、そんな不埒な理由で欠席したくはないと思っていた美緒は、お昼休みを利用して、薫の元へと向かっていた。彼の顔を見れば、少しはモヤモヤした気持ちを拭うことができるかもしれない、そう思いながら。
 保健室へと辿り着くと、『不在』というプレートがかけられていた。どうしようか迷ったのだが、とりあえず少しだけ中を覗くことにすると、白衣を着た男性の後姿が見え、何の疑いもなく、それが薫だと思い込んだ。シンとしている保健室内には、他の生徒がいないことを悟って、彼の名を呼んだ。
 そもそも、それが間違いの始まりだったのだ。
 なぜいつも泉とは最悪のタイミングで出会ってしまうのだろう。しかも、いつも美緒が逃げるような立場になっている。何も、悪いことなどしていないのに……。
 彼に対して好感を持っていたことは、間違いだったのだろうか。誰にでも明るく、そして嫌味を感じさせない雰囲気。それは、美緒以外の人間にだけ見せる姿なのだろうか。さっきの泉の姿を思い出しても、好感など少しも持てなかった。美緒を追い込む茶色い目。あの目には、美緒を慈しむような優しさなど、かけらもなかった。
「……最悪」
 屋上の手すりに手をかけ、空を見上げるようにして溜息をついた。『大キライ』などと、言わなければ良かっただろうかと、少しばかり後悔していた。自分のことを悪く言われるのなら、いくらでも我慢できる。何も言い返せないのではなく、あえて言い返さないという強さを美緒は持っていた。
 だが……薫のこととなると、自制心がきかないようだ。
 弟と言えど、薫を悪く言う泉に、怒りが込み上げた。恋愛を軽んじている泉だからこそ、許せなかった。付き合い始めてまだ数ヶ月。けれど、いくつものつらい経験を、二人で乗り越えてきた。その度に、この人がいなくては生きていけないほどの愛情を感じた。それは、いつしか二人を繋ぎ離すことのない鎖となった。
 それを知らずに、自分たちの恋愛をバカにされるのは、どうしても納得がいかなかったのだ。本気の恋を知らない人間に、恋をする人間の気持ちはわからない。美緒が、泉の気持ちを理解できないのと同じように。
「美緒!」
 背後から、愛しい人の声が名を呼んだ。
 振り向くと、苦笑しながら近付いてくる薫の姿があった。白衣がヒラヒラと風に揺れる。どんな顔をしていいのかわからず、俯くと、美緒のそばまで近付いた彼が、彼女の髪をクシャッといじった。
 いつもの彼のクセ。その仕草は、美緒の心を穏やかにする。
「泉に泣かされたって?」
「泣かされてなんか……」
「俺がいてやれば良かったな。そしたら、美緒が泣くことなんかなかったのに」
 俯く彼女の目元に、優しいキスが落とされる。涙の跡を辿るようなその口付けに、美緒の胸は締め付けられる。
「すっごい後悔してたよ。美緒を泣かせたって」
「……誰がですか?」
「ん? 泉に決まってるだろ」
「あの人が……?」
 想像もつかない。
 あんな風に美緒を追い詰めた男が、自分のしたことに後悔するだなんて。美緒に投げかけた言葉には、どれも悪びれた風がなかった。
 それを、今になって後悔しているなどと、薫に言われたってピンとこないのは当然のことだ。
「きっと、おまえを試したんだろう」
「試す?」
「自分の兄貴の彼女が、どんな女なのか、知りたかっただけだと思うよ」
「だからって……あんな言い方……」
「どうやら、そうとうきついことを言われたみたいだな」
 悔しさに歪む美緒の表情に、薫が苦い顔をした。
「何を言われた?」
 美緒は無言のまま俯くばかりで、何も返答はしなかった。薫はフッと寂しげに微笑むと、美緒の後頭部に手を当て、引き寄せて抱き締めた。
「ごめんな」
 その声色があまりにも優しくて、美緒の方が悪いことをした気分になる。
「……どうして、先生が謝るの?」
「泉がおまえにちょっかいを出すとわかっていたから隠しとおすつもりだったんだけど、こんなことになってしまって」
「そんなの……先生のせいじゃ……」
「もっと強く言いつけておけば良かったな。まさか、泣くほど酷いことを言うとは思ってなかったんだ」
 予想外の出来事は、予想もしていなかったからこそ対処もできない。だから、薫が謝ることではない。
「先生には悪いけど……私、あの人嫌いです」
「そうか」
 遠慮がちに言った美緒の言葉に、薫がクスクスと笑った。
 髪を撫でる手はいつものように優しく、美緒は不思議に感じて、上目遣いで薫を見た。
「怒らないの?」
「なんで俺が怒るんだ?」
 それこそ不思議だ、とでも言うように薫も美緒を見つめる。
「だって……先生の弟でしょ……嫌いなんて言われたら普通嫌な思いするじゃない」
「美緒に嫌われるようなことをした泉が悪いんだ。元々おまえは理由なく誰かをキライになったりはしないだろ」
「そうかなあ」
「そうだよ。おまえの中で、好きだと思う人はたくさんいても、キライだと思う人はいないだろ?」
「うん……」
「何を言ったか知らないけど、悪いのは泉なんだから、美緒がそんな顔する必要はないよ」
「……だって」
「だって、何?」
「先生のことを悪く言ったから……」
 胸に顔をうずめ、ギュッと抱きついた。白衣からは保健室の匂いがして、やっぱり先生だ、と心の中で呟いた。
 自分のことを言われただけならば、きっと嫌いにはなっていないだろう。不信感を抱くだけのこと。苦手な人だと、思ってしまうだけのこと。人を嫌いになれば、自分が嫌われるような気がして、そんな気持ちはただ邪魔なだけだと思っていた。
 でも、薫が悪く言われるのは、どうしても譲れそうにない。
「何? 俺が悪く言われたから、泣くほど怒ったのか?」
「だって……嫌なんだもん」
「バッカだなあ。そんなのほっとけよ」
「ほっとけないもん。先生を悪く言う人は嫌なの」
「所詮バカな弟の言うことだろうが」
「弟でもなんでも、嫌なものは嫌なの!」
 胸に顔をうずめたまま、小さく叫んだ。
 瞬間、反動的に強まる薫の腕の力に、美緒は驚いて身を固くする。チラッと薫の表情を窺うと、『美緒は本当に可愛いな』と愛おしげに笑っていた。何故、自分がそんな風に愛されるのかが美緒には分からず、ただ頬を染めるしかない。
「そういう感情、なんていうか知ってる?」
「え……?」
「独占欲」
「ドクセンヨク?」
「おまえにはないものだと思ってたよ。……そっか。やっとおまえにもそういう感情ができたか」
「よく……わからないです」
「おまえの中に、俺が恋人としてちゃんと意識されてるってことだよ」
「そう、なんでしょうか」
 美緒の中の独占欲という意味とは少し違うように思えた。
「誰にもとられたくないだとか、一人占めしたいといった感情だけが、独占欲と呼ぶんじゃない。好きだから守りたい。好きだから傷つけたくない。誰かが自分の一番だからこそ生まれるそんな感情も、独占欲の一種なんじゃないかな。今までおまえは、そういう素振りを少しも見せなかったから、少しでも変わってきてることが、俺は嬉しいよ」
 そんな独占欲になら、もっと染まってしまいたいと思う。自分の持つ独占欲だけではなく、薫が美緒に向ける独占欲にも。相変わらず、薫が口にする言葉は一つ一つが重くて、美緒の心は満たされていた。
「ねえ、先生」
「ん?」
「私ね……あの人に、大キライだなんて、酷いこと言ったの」
「泉に? ……なるほど、それであんなにショック受けてたわけね」
「やっぱり、謝った方がいいですよね」
「どうして?」
「だって……やっぱりいけないこと言ったかなって思うから」
 薫の腕に抱かれていると、不思議と穏やかな気持ちになる。あれだけ嫌いだと思った泉のことさえも、心の中で霞んでいく。
 薫は不思議な人だ。なぜ、この手はこんなにあっさりと涙を拭ってしまうのだろう。なぜ、この目は、いとも簡単に愛しさの中へと引き込むのだろう。
「おまえが謝る必要はないさ。きっと、泉の方から謝ってくるだろうから」
「あの人が……ですか?」
「ああ。それはもう、この世の終わりです、みたいな顔してたからなあ。どんな顔して謝りに来るか、楽しみに待ってな」
「信じられない」
「信じられない? でも、少なくとも泉は、おまえに嫌われたのがよっぽど堪えたらしい」
「じゃあ……私も謝らないと」
「おまえは謝らなくていい」
「どうして?」
「謝ったら、俺のために怒ってくれた気持ちが、嘘になる気がするから。独り占め、させろよ」
「先生……」
 きっと知らないだろう。そんな些細な一言が、美緒をどれだけ幸せにしているのかを。
 当たり前のように口にする、けれどその言葉の一つ一つが、いつだって美緒に自信を与えてくれて、愛されているのだという幸せを伝えてくれる。ささやか過ぎて、貴方はきっと気付きもしていない。
 でも、そんなささやかな感情は、知られずして甘美なものなのだろう。
「不良少女の美緒ちゃんは、これから一時間どうするつもり?」
「どうしよう……」
「なんなら、俺が一時間付き合おうか」
「えっ……でもお仕事が……」
「たまには、息抜きも必要なんだよ」
「でも、こんなところじゃ休めないでしょ?」
「バーカ。美緒のそばが一番癒されるってこと、いつになったら覚えるんだ?」
 何も答えず、頬を赤く染めて俯く少女の唇に、薫はついばむようなキスを落とした。


 手に下げていたスーパーの袋を、地面に置いて、鍵穴に鍵を差す。
 他人の家だからなのか。やけにドキドキして、恐る恐る鍵を回した。カチャン……と外れる鍵の音。ゆっくりとドアを開けると、まだあまり見慣れない風景が、目の前に広がった。
「お邪魔しまーす……」
 スーパーの袋を再び持って中へ入ると、シンと静まり返った空間が美緒を出迎える。とりあえずキッチンに買って来たものを置き、部屋の中を見回した。
 シンプルすぎるほどシンプルと言っていい部屋。
 使い勝手の良いキッチンにダイニング、そして広いリビングに、広い寝室。もう一部屋、仕事をするための書斎もあった。一人暮らしにしては、少し贅沢すぎるように思えるほどの広くて綺麗な部屋だ。白に青、そしてシルバーを基調にした部屋は、清潔感が漂う。けれど、ポイントで洒落っ気も感じさせる雰囲気だった。置いてある家具や小物が、シンプルな中にも、個性を放っている。薫にとても似合うその雰囲気に、美緒は彼に包まれている気がして、ホッと溜息をついた。
 一時間美緒に付き合うと言っていた薫だったが、やはり簡単にはそうも行かず、十分も経たない内に美緒を置いて仕事へと戻った。電話で呼び出されたのだ。この学園に勤める教師、それに司書や校医は、各自一人ずつ学園内専用のPHSを持たされていた。
『全く、時代の進化を呪うよ』
 と言った時の薫の表情。
 美緒のそばを離れるのが、本当に残念そうな顔をしていた。なぜか、その表情を見れただけで、満足してしまった。一時間は一緒にいられずとも、なぜかそれだけで大丈夫だと思えた。
 そんな美緒の気持ちとは裏腹に、薫はどうしても納得が行かない様子で、ふと何かを思いついたように、キーケースから鍵を一つ取り外し、手渡した。
『今一緒にいられない分、夜の時間を美緒にあげる。その鍵、自由にしていいよ』
 去る前に残した鍵と言葉。そう言われて美緒が無視できないことを知っているくせに。その証拠に、自分が持っている鍵を美緒に渡したのだ。合鍵ではない、彼の所有物だからこそ、その言葉に含まれる意味は重かった。
 今までに数度、この部屋には訪れているが、そのどれもが長居しているわけではなかったため、やはりまだ不思議な感じがした。どの場所にいても、いつもそこには薫がいたせいか、何を見ても、いまいちはっきりと覚えているものがない。二人でいるときの自分は、周りの環境を記憶する余裕がないほど、彼に溺れているのかと思うと、少し恥ずかしくなった。
 買ってきた食材を冷蔵庫へと入れていく。飲み物ばかりの冷蔵庫内に収まっていく普通の食材がやけに滑稽に見えた。
 どうせ薫が帰ってくるのは、六時を過ぎるだろう。
 そう思った美緒は、放課後、一足先に学校を後にし、スーパーへと立ち寄り、夕食の食材を買い込んだ。今夜の分だけにしては、多めに買ってしまって、ここへ来るまでに随分と苦労してしまったけれど。
 初めてかもしれない。薫のために、何かをしてあげるのは。
 そう思うと、急に緊張が美緒を襲った。料理には自信があるが、薫の口には合わないかもしれない。けれど、今からそれを考えたって仕方がない。そう思い込もうと、動く方に意識を向けた。キッチンにある調理器具が、どれだけ揃っているかを確かめる。意外にも、きっちり揃えられていた。もしかすると、薫は料理ができるのかもしれないと、そんなことを思った。
 一通り、自分の使うものを確認した後、料理を始めようと材料を洗い出した。
 ちょうどその時、玄関の方でガチャガチャという音が聞こえた気がして、美緒の動きが止まる。
「え……もう帰ってきたの?」
 時計を見ると、まだ五時に差し掛かったところだ。
 薫にしては、少し早すぎるのではないかと思ったが、この部屋に帰ってくるのは彼以外にはいるはずもなく、特に何かを気にせずに玄関へと向かった。
 けれど、その時ハタと気づく。
「でも……先生の鍵って……」
 自分のポケットに入っているはずの薫の鍵。
 確かめるようにスカートを握ると、金属の固い感触が美緒の手に触れた。
 急に、不安が美緒を襲う。
 なぜかわからないけれど、この扉の向こうには嫌悪感しか感じられなかった。けれど、そんな美緒をよそに、扉は勢いよく開いた。
「「あ……」」
 重なる声。
 絡まる視線。
 呆然と立ち尽くす二人。
 こんなときに限って、適切な言葉は見つからないものだ。
「えーっと……ただいま?」
 顔を引きつらせている美緒に向かって、泉は苦笑いをしながら、そう呟いた。

Copyright (C) 2006-2011 Sara Mizuno All rights reserved.