華水の月

61.恋敵のカレと彼

「遅いんだよ。何時間待たせんだよ」
 美緒の家の玄関から出ると、すぐさま荒々しい声がハルカに投げられてきた。
 玄関を出てすぐにある門の前。背を壁に預けて、腕を組んでいる長身の美青年。
 遅い、と言ったその言葉が気に食わなかったのか、ハルカはその声の主を一瞥すると、無視を決め込んで、彼が立つ反対方向へと足を向けた。目の前に広がる景色は、沈みかけた夕日が地平線をぼかしながら広がるように輝いていてとても綺麗だ。美緒も見ているといいなと胸の中で呟き、チラリと目線だけを美緒の部屋の窓へと促すと、何かを確認し、すぐさま視線を元へ戻した。美しい色彩を瞳の中に宿しながら、ハルカは一人の時間を楽しんでいる。最初から傍には誰もいなかったと思えるくらいの、鮮やかさで。
「お、おい、ちょっと」
 背からかけられる声を一切無視して、ハルカが早足で歩きだす。するとすぐさま彼が駆け足で追いかけてきて、ハルカの肩をグッと掴み、力任せに振り向かせた。
「ちょっと待てよ、ハルカ!」
「……痛いんですけど、肩」
 パンッ! と、手を払いのける。
 泉はその手をわざとらしくさすると、不服そうに口を尖らせた。
「叩くことないじゃん」
「気安く触るな」
「そんなことより、美緒は? 大丈夫だったのかよ」
「……それが人にものを聞く態度?」
「いいからさっさと教えろよ」
 横柄なものの言い方をする泉を、ハルカがじっと見つめた。
 その鋭い眼差しに一瞬泉が困惑する。『何かまずいことでも言った?』と無言のうちに読み取れる視線に、ハルカはまた無視を決め込んで、クルリと背を向けた。
「あっ、ごめん。ごめんってハルカ」
「……名前で呼ぶな」
「悪かったって、ハルカ。そんなに怒るなよ」
「…………」
 こいつには本当に耳がついているのか?
 無言の中にハルカは思ったが、それを泉に問うたところで意味はない。これまでにも何度も名前では呼ぶなと念を押しているが、泉にそれを変える素振りは一切ない。むしろ、年上の特権だとも思っている。要は、言うだけ無駄ということだ。
「美緒、大丈夫だった? 泣いてなかった? ちゃんと話せてた? ゴハンはちゃんと食べてんのかな。痩せたりしてなかったよね? ……ああ、どうしよう。心配すぎて胸破裂しそう。もう一週間も顔見てないから、気が狂いそうだよ」
「たった一週間だろ。俺なんか」
「たったじゃない! できれば毎日だって会いたいんだよ! 一週間も会えないなんて、心配でおかしくなる」
 俺なんか一ヶ月に一度だって会えるかどうか。
 そう言おうとしたハルカの言葉を遮って、我を主張する泉。毎日会えないだけでこの様だとは、贅沢な男だ。以前会った時よりも、確実に美緒の手中に堕ちているな、と内心ハルカは思った。同じような境遇だからか、泉の気持ちはよく分かるのだ。
「やばい、寂しすぎる。会いたい。抱きしめたい……ああ……」
「……そんなに心配なら、自分で確かめに行けばいいのに」
 どれだけ過保護なのだろうか、と思うような泉の台詞に、ハルカが溜息を零した。泉が美緒を好きだということがハルカにばれてから、ハルカの前での泉は感情を抑えるということをあまりしない。突けば誤魔化そうとするが、基本的に泉のことを鬱陶しく思うハルカは突くことも面倒くさい。
 でも、不思議なことに、泉から悪い印象は全く感じないのだ。本当に美緒を愛おしく思う、そんな泉の真剣な気持ちに、ハルカも感化されていたのかもしれない。それにハルカは、泉の前でだけ見せる美緒の無邪気な笑顔を知っているだけに、この男を否定できなかった。どれだけ否定したところで、美緒にとって泉はやっぱり特別なのだ。それをひしひしと感じてしまうのだから、致し方ない。
「俺が行けるなら、おまえなんかに頼んでないし」
「……頼まれるのも、いい迷惑」
「それに、俺が行ったら……、きっと美緒が苦しい思いをするかもしれないから、行けない。美緒を困らせたくないんだよ」
 シュン、と落ち込んだ風の泉の様子を見て、ハルカはヤレヤレと肩を竦めた。憎めないけど面倒くさい男だ、まったく。
「……あっそ」
「美緒が俺に会いたがってる場合は論外だけどね。いつでもすぐにでも駆けつけるよ」
「ふーん」
「何。もしかして俺のこと恋しがってた?」
 キラキラした目が、ハルカに『YES』と言えと訴えかける。
 美緒は、少なからず泉のことを気にかけていた。本心では美緒も泉に会いたいのかもしれない。脳裏に泉を思い浮かべては、切ない表情を浮かべていた。美緒にとって泉が大事な証拠だ。
 だが美緒のことが好きなハルカにとっては、泉に向ける美緒の好意も、泉が美緒を異常に溺愛していることも、歓迎できるものではない。だから、教えてやらない。
「大丈夫。あんたの話題なんて、一切出てこなかったから」
「一切?! まったく?!」
「所詮あんたの存在なんてそんなもんなんじゃない?」
「……さいですか」
 ガーン、という音が聞こえそうな泉の表情。本当に百面相な男だ。ちょっと言い過ぎただろうか、と一瞬後悔が過ぎったが、そんなものはすぐさま胸の中から消え去った。
 時々腹も立つが、心の中で笑ってしまうこともある。泉といると退屈しないということを、ハルカはしみじみ感じている。
「ていうか、おまえ気にならないの? 俺がこんな頼みごとしてんのに、何があったのかとか全然聞かないけど」
「別に」
「そう?」
「俺は、自分に関係のないことには首は突っ込まない主義だから」
 愛想も素っ気もないハルカの返事。泉は、物足りなさを多少感じながらも、それがハルカの良いところだということも感じていた。
 他人のことをあまり詮索しない。原因ではなく、結果だけを重視する。そんなハルカの考え方が、泉は嫌いではなかった。
「それよりあんた、どこで俺の電話番号調べたの?」
「え? ……ああ、それは、薫の携帯をちょっと」
「先生から聞いたの?」
「いや、ハルカの番号載ってたからちょいちょいっとね」
 人の携帯を勝手に見るなんて。
 当たり前のように口にする泉の言葉を、ハルカはあんぐりとした表情で受け止めた。
「いっそ先生にバレて殺されたらいいのに」
「酷っ! ちょっとそれ酷くない? 俺が死んだら美緒が悲しむんだよ? わかってんの?」
「別に俺は悲しくないし」
「美緒は絶対泣いてくれる」
「心配しなくても、美緒を慰める役なら喜んで引き受ける」
「あっそ。大体な、美緒の近況を知るのは薫のためにもなるんだから、この場合は許される範囲内なんだよ」
「……どうでもいいけど、あとでちゃんとメモリーから消しといてよね」
「え? 別にいいじゃん。どうせだからおまえの携帯にも俺の番号残しといてよ。また連絡することあるかもしれないし」
「俺は何の用もないし、あんたにかける気もない」
「うわ、何その言い方。すっげー可愛くないんですけど」
「可愛くなくて結構」
「でも顔は可愛いよな。見事な女顔」
「……おい」
 ハルカは女の子のように綺麗な自分の顔にコンプレックスを抱いている。泉もそれを知っていてハルカを弄くるのだ。ニヤニヤとした表情がそれを証明している。
「今度俺の顔のことを言ったら、殺すから」
「なんで? 可愛いから?」
「だから! それを言うなって言ってるんだよ! わかんないのかよ」
 珍しくハルカが声を荒げるも、泉はそれを飄々と聞き流しては、逆に弄ってくるのだからどうしようもない。反応すれば負けと分かっていても、割り切れない部分だってある。
「仕方ないじゃん、可愛いんだもん」
「……次、同じこと言ったらどうなるかわかっ」
「可愛い」
 どうなるかわかってるのか、と問う前に即答される『可愛い』という台詞。ニヤニヤと嬉しそうな泉の表情とは反して、ハルカの表情は引き攣った。言うだけばかばかしくなってくる。ハルカは小さく溜息を吐くと、それ以上泉の挑発には乗らなかった。
 やはりその辺は、泉よりもハルカの方が冷静で大人である証拠だ。
「とにかく、あんたみたいなバカに知られるほど俺の携帯番号は安くないわけ」
「あ? なんだよ、俺の番号と引き換えなんだから嬉しいだろ?」
「……自分のこと過大評価しすぎなんじゃない?」
「本当可愛くねえなあ、このクソガキ」
 互いにフンとそっぽを向いた。
 元より、美緒のことがなければ、会うこともない二人だ。真逆の性格ゆえ、相容れない。でも、会話のテンポといい、言いたいことを言い合える間柄といい、悪いところばかりでもないことも確かなのだ。お互い、良い刺激になっている。泉もハルカも、互いの前でこそ美緒への想いを素直に表現できているのだ。他の人間の前ではこうはいかない。なんだかんだで、この二人も運命的な出会いをしたのかもしれない。
「あ、美緒にちゃんとケーキ渡してくれた?」
「ああ」
「喜んでた? 美緒、ミルフィーユが一番好きだから、美味しいとこの選んだんだけど」
「まあ、喜んでたけど」
「良かった。ナイス俺!」
 泉が一人でガッツポーズを決めている。
 ハルカは冷めた目で泉を見ながら、箱の中に入っていたケーキを思い出していた。確かに美緒は嬉しそうではあったが、たった一人のための見舞いに対してあの量は普通ではない。
「つーか、ミルフィーユを五個もって、アホじゃない?」
「え? 五個くらい食うだろ」
「……食わないよ、普通は」
「なんだよ、小食なヤツだな。男のくせになよっちいこと言ってんじゃねーよ」
「男とか、そういう意味で言ってるんじゃないんですけど」
 自分の感覚でものを言うところは、相変わらずのようだ。ハルカは呆れて溜息をついた。でも、美緒が喜ぶことだけを一生懸命に考えられる、そんな泉の気持ちは好きだと思った。
 そして、ふと思い出す。さっきまでの、美緒の表情を。
「でも、心から笑ってはいなかった」
「……え?」
「無理して笑ってた。美緒がああいう笑い方する時は、大体心が壊れてる時だと思う」
「そっか……」
「たぶん、俺達じゃどうにもしてやれないだろうね。……美緒の本当の笑顔は、いつも先生の隣にあるから」
 ハルカの言葉に、泉が目を伏せる。
 想像ではなく、実際に美緒に会ってきたハルカは、美緒のそんな様子に酷く心を痛めただろう。酷な頼み事をしただろうか、と一瞬後悔が渦巻いたが、やっぱり頼んだのがハルカであって良かったとも思った。同じように、美緒を想う二人だからこそ、無言の中でも互いの気持ちを共有していた。
「でも、無理でも笑えてるなら良かった……」
「え?」
「いや、なんでもない」
 いつか、美緒の本当の笑顔が戻りますように。泉はただそれだけを何度も何度も願っていた。
 その時、ポケットに入れていた泉の携帯が着信メロディを奏で、泉はそのメロディが誰からのものであるかを悟ると、すぐさま取り出し開いた。携帯の中にある、短いメッセージを読み上げ、フッと笑みを零す。気持ちが緩んだ途端、何故か涙がこみ上げそうになって、目を閉じた。
「……こちらこそ、ありがとうだよ」
 胸の中に留めておくには気持ちが溢れすぎて、泉は小さく零した。
 携帯を閉じるのに名残惜しさを感じつつ、ハルカに向き直り、目の前にいる恋敵に心から感謝した。
「自分からの土産だって言っていいって言ったのに」
「……何? 何か言った?」
 ボソッと小声で呟いた泉の台詞が聞き取れず、ハルカが眉を顰めた。
「おまえって、案外いい奴だよな。ありがとな」
「は? 何急に」
「ありがとう。本当にありがとう」
 鮮やかなほどの綺麗な笑顔を見せて、感謝の言葉を素直に口にする泉に、ハルカはつい押し黙ってしまう。
 泉のこういう素直さには敵わない。ハルカが欲しくてもずっと得られなかったもの、愛情に包まれて育ったからこそ根付く素直な優しさに嫉妬さえ覚えた。
「あ、そうだ。美緒の様子見に行ってくれたお礼に、これから夕飯でも食べに行かない?」
「え……い、いいよ。お腹すいてないし」
「遠慮すんなよ。な、行こう行こう!」
「いいって! いらないって!」
「俺の奢りが嫌なわけない。ってことで、レッツゴー」
「あんたのその自信て、一体どこから出てくるわけ……」
 嫌がるハルカの腕を無理矢理引いて、泉が意気揚々と歩き出す。そんな泉の笑顔が無理をして作った空元気であることを、ハルカは気付いていた。
 本当は美緒が心配でたまらないくせに。
 この場から、一歩だって離れたくないくせに。
 泣きそうなくらい、心が不安で傷ついているくせに……。
 そんな傷ついた心を持っていても、こんな風に鮮やかに笑えることこそ、泉の持っている最大の魅力なのかもしれないと、ハルカはふと思う。

 ――ねえ、美緒。
 君もきっと、そんな彼だからこそ心から惹かれたのだろう? 彼の笑顔や優しさに、救われたのだろう?

 ある意味、敵わない恋敵。でも、他の面では譲らない。それは、ハルカも泉も互いに思っていることだろう。
 美緒の様子を報告するのも残っているし、まあいいか、とハルカは渋々後をついて行った。

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