華水の月

62.遙かひらりと舞う

 ハルカが居なくなった部屋で、美緒はポツンと一人座ったままだった。無理やり胸の中に押し込めていた薫への想いを穿り出されたようで、意識は呆然としていた。
 髪に、ハルカの手の感触が残っている。カレに言われた言葉が頭の中を駆け巡り、答えを探そうとするけれど、まだ彼女の中で何も答えは出なかった。
『そのままのおまえでいい』
 ハルカはそう言ったけれど、こんな風に薫との関係が切れてしまった今では、何がそのままの自分なのかよく分からない。昔の方がきっと、薫の前で自分らしく振舞えていた。愛されているか分からなかった時の方が、自分に対し素直だった。けれど、愛されていると分かったからこそ、その愛おしさを手ばなせなくなってしまったのだ。欲張りになり、貪欲になった。そんな自分を見せて嫌われるくらいならと、そう思うようになった。
 とりあえず、ハルカが持ってきたケーキを冷蔵庫にいれておこうと、箱を持ち上げる。
 その時だった。
 箱の下から、ひらりと一枚の紙が舞い落ちたのだ。それは、さっき美緒がハルカに貸したメモ帳の一枚で、そこにはハルカの字が書き連ねてあった。
『窓の外、見てみろ』
 ただ一言そう書かれているハルカのメッセージに美緒は首を傾げながら、メモを持って窓際へと歩み寄った。そっと窓に手をかけて開けてみる。すると、家の門の前から男の声が聞こえてきた。
「遅いんだよ。何時間待たせんだよ」
 目で確かめるよりも先に、その声色で誰がそこにいるのかを美緒は知った。
 少し茶色い髪。同じ色の瞳は玄関から出てくるハルカを捉えていた。
「泉……くん……」
 動揺しているのか。それとも、そこにいる泉の姿を目にして思わず懐かしさに胸が震えたのか、美緒の手はカタカタと震えだす。
 何故泉がそこに――。
 自分に問いかけることで、美緒の胸中に答えが巡りだし、全ての疑問の答えがストンと胸の中に収まった。ハルカをここへ連れてきたのは泉だ。今の美緒の気持ちに素直に触れ合えるのはハルカだけだと知って、泉はハルカに頼み込んだのかもしれない。ハルカがこの部屋へ来る前から、出て行くまで、泉はずっと外で待っていたのだろう。
 泉がハルカに食ってかかっている様子が見てとれる。するとハルカが目線だけを美緒の方へと向けた。一瞬目が合った気がするが、ハルカは美緒に気付いたのか、それとも気付いていないのか、何の合図を示すことなく視線を戻した。美緒は、泉に気付かれる前に窓をそっと閉め俯いた。
 そこで目にしたのは、さっき見つけた同じメモ帳の一枚だ。美緒に見つけてもらうのを待っているかのように、窓際にポツリと置かれていた。それがハルカによるものだと分かって、美緒は震える指先でメモを開く。

『誰にも弱音を吐かず我慢することだけが、本当の強さじゃない。本当に大事な人にこそ、自分の全てを見せられるのも強さなんじゃないかな。見舞いのケーキは先生の弟から。あいつ、おまえのことすごく心配してたよ。泣きそうな顔してた。自分はそんな顔してるくせに、美緒に笑顔をあげてくれないかって、俺に頭を下げたんだ。なんか少し拍子抜けした。でもその時初めて、おまえがあいつに惹かれる理由が分かったよ。おまえのこと全部受け止めてきたあいつの気持ち、美緒ならちゃんと分かってるよな』

「泉くん……」
 メモを握り締め、再びクッションへと崩れ落ちるように座り込む。
 泉の想いを知ってから、彼との連絡も一切取っていない。いつでも、一番近くで美緒を見守ってくれた人。どんな時でも、美緒を優しく守ってくれた人。美緒の弱いところも甘えたところも全て受け止めてくれた。本気で愛されていると知ってしまったからこそ、もう一緒にはいられないと思った。知らず知らず、彼のことを傷つけていた。
 それなのに、それでも美緒を見離さず、愛してくれる……。どれだけ美緒が泉から離れようと、彼の心はいつも美緒のそばにあった。もう離れられないほど、泉の愛情は美緒を抱き締めていた。
 けれど、愛されていると分かるからこそ、美緒は余計につらくなる。身動きができなくなるのだ。思いのままに動けないのは、泉の気持ちを思えばこそだった。
 手紙を読んだことでまた脳裏に泉の笑顔が掠めた。
 ミルフィーユを五個だなんて、やっぱり泉らしい。目の前にある食べかけのミルフィーユを再びフォークで刺し、口へと運ぶ。それは少しだけ涙の味がした。いつも横取りされて喧嘩して、でもそれが憎らしくも楽しくもあって、思い返せば泉のそばにはいつも温かさが溢れていた。軽く額を叩いては美緒のことをバカという、そんな彼がいないだけでこんなにも寂しい。
『ミルフィーユ美味しかったよ。泉くん、ありがとう。 美緒』
 フォークの代わりに握り締めた携帯から、ただそれだけのメッセージを泉へと送った。
 本当は、『ごめんね』と伝えたい。だけれどそれが泉の心の枷になるかもしれないと思うと、ただありがとうと言うだけが今の美緒ができる泉への誠意だと思った。本当は会いたい。……でももう会う資格はない。
「泉くん、ごめんね……。泉くんから大好きな先生を奪って、ごめんね……」
 今の泉は、以前のように薫に笑顔を向けられているだろうか。
 美緒と薫の関係に亀裂が入りだしたと同時に、泉の中の薫という優しい兄の存在をも奪ってしまったのかもしれない。自分のせいで壊してしまったかもしれない兄弟の絆を憂い、美緒は自分を許すなと何度も心の中で言葉を刻み込む。切なさに胸が苦しくなって、美緒はハルカからの手紙と、泉へのメッセージを送った携帯をもったまま胸を抑え込んだ。ハルカの思いも、泉の思いも全て、遙かひらりと舞う花びらが届くかのように、美緒の心を満たしていた。
 そして改めて思う。
 ――ねえ泉くん。あなたがいないだけで、こんなにも寂しい。


 時は少し遡り、学校では。
 美緒が一週間も学校を休んでいることから、親友のえみをはじめ、たくさんのクラスメートが彼女のことを気にかけていた。えみに、美緒の様子を聞いてくる子もたくさんいる。こんな時、えみは美緒が皆に愛されているのだということを、深く実感する。
 えみにとって美緒は自慢の親友だ。心優しくて、美しくて、可愛くて。憧れるほどの存在でありながらも、他人をけして軽視せず、自分を奢ったりしない美緒のことが大好きで、そんな彼女だからこそ親友になれたのだと思う。美緒とえみの間には、他人には分かりえない深い絆があった。えみが苦しい時、そこにはいつも美緒がいてくれたのだ。今の明るいえみがあるのは、美緒の存在があってこそだと言ってもいい。
 一度美緒の家に見舞いに訪れた時、彼女の顔色は優れず、熱もあるせいか、とてもだるそうだった。『大丈夫』というのは、美緒の口癖だ。だから、彼女の大丈夫という言葉は、鵜呑みにしてはいけない言葉だと分かっている。
 元々美緒は体が弱いことから、すぐ体調を崩すこともえみは知ってはいるが、今回の件は、ただ単なる体の不調でないような気がしていた。――精神的な、何か。それが何なのかは、美緒の口から直接聞いたわけではないから分からないが、なんとなく、恋愛に関してのことではないかということを、頭の良い親友は感じていた。
 美緒の恋愛に関して、えみはこれまで相談をもちかけられたことはない。えみの方からは、いつも美緒に話してばかりいるが、聞き役の美緒からは聞き出せた試しがなかった。でも、美緒の想い人が薫なのではないかということは、薄々感じていた予感でもあった。だからこそ、美緒は簡単に恋愛の話を口にしないのだ。これが、校医への恋でなければ、えみにだって相談してくれたに違いない。罪悪感を感じる恋だからこそ、迂闊に口にできないのだということを、えみも察している。
 そして、この間美緒の口から初めてそれを感じ取った。薫に恋をしていることを、肯定もしなかったが、否定もしなかった。いつか、美緒はきっとえみに全てを話してくれるだろう。話すつもりなのだと、彼女は言っていた。ならば、えみはいつまでも待つつもりでいた。

「美緒、大丈夫なの?」
 昼休み、自分の席で携帯をいじっていたえみの席へ、樹多村綾乃がやってきた。机の前に立ち、えみを見下ろしている。
 えみは、綾乃のことがあまり好きではない。
「あんたに、何か関係あるの?」
「私はただ、大丈夫なのか聞いただけじゃない」
「気になるなら、自分で確かめればいいでしょ」
 冷たいえみの口調に、綾乃が押し黙る。
 えみは、美緒のことを綾乃に話す気など全くなかった。元より、何の理由があるのかは知らないが、綾乃が美緒に対して激しい対抗心を抱いていることを知っている。実は、綾乃が美緒を殴ったことも知っていたのだ。あの時美緒は、転んでケガをしたと言っていたが、綾乃が美緒を呼び出したことも知っていたし、頬についていた傷が爪あとであることも分かっていた。美緒の知らないところで綾乃に問い詰めた時、綾乃は『知らない』とシラを切ったが、その時の態度は余計に質問を肯定しているに過ぎなかった。
 だから、えみは綾乃が嫌いなのだ。大事な美緒を傷つけるだけの存在を、好きになれるはずもない。
「聞けないから、えみに聞いてるんじゃん」
「なんで本人に聞けないのよ。もしかしてあんた、美緒にまた何かしたの?」
「……それは」
 困惑した綾乃の表情から何かを察して、えみの視線が鋭くなった。綾乃は、そんなえみの視線に見透かされまいと、顔を背けた。
「もしかして、美緒が休んでる理由ってあんたなの?」
「私は別に、何も……してないよ」
「じゃあなんでそんな顔すんのよ!」
 えみが、机に手をついて、ガタッ! と立ち上がる。綾乃は、まるで逃げるように背を向けた。
「えみには関係ないから」
「関係なくないよ! あんた今までだって散々美緒に酷いことしてきたじゃない!」
 逃げるように背を向ける綾乃の腕を、えみが思いきり掴んだ。
 顔を顰めて、綾乃がえみの腕を振り払う。
「痛いじゃない!」
「痛い……? 美緒はあんたの何倍も痛かったと思うよ。あの子は優しいから何も言わないけど、あんたのやること為すことにいつだって傷ついてた。大丈夫って笑いながら、あんたのこと許してた。ひどい目に合ってるのに、綾乃の気持ち理解しようって努力してた。私は美緒ほど優しくなんてないから、あんたのことが大嫌いだよ。美緒を傷つけるあんたのこと、一度だって許したいだなんて思ったことない。もう美緒に絡むのはいい加減にしてよ。一体美緒があんたに何したって言うのよ。あの子があんたを傷つけるようなこと、したっていうの?」
 綾乃は目を伏せ、独り言のように呟いた。
「傷つけられてたら、いっそ良かったのに……」
「え……?」
 睨み付けるような瞳がえみを射る。
「綺麗だから、優しいからムカついたんだよ。だから、傷つけたくなったの。美緒が嫌な女だったら、こんなにも妬んだりしなかった。敵わないから憎かったんだよ。私の欲しいもの、最初から全部持ってたんだよ。だから、一つくらい何かを壊したくなったの! それが、そんなに悪いこと?!」
「当たり前でしょ。そんなの逆恨みじゃない」
「いい気味だよ。……美緒なんか、このままずっと学校になんて来なければいい」
 なかば半狂乱になって、綾乃は教室を飛び出した。
 えみは、そんな綾乃の姿を呆然と見つめていた。
「……美緒が、可哀想だよ」
 ポツリ、と出る小さな言葉。休んでいる理由が直接綾乃に関係ないとしても、綾乃が美緒に対してなんらかの後悔を抱いていることを、えみは感じていた。
 ずっと、薫のことだけを見つめてきた綾乃。ひっそりと静かに薫のことを想う美緒とは違い、綾乃はいつだって真っ直ぐすぎるほど激しく薫に対し恋心を抱いていた。それは、彼女の周りにいる人間だったら、すぐに気付けるほどの激しさだ。泉が現れて、泉と美緒の仲が深まると同時に、美緒への敵対心が強くなった綾乃。えみは、彼女の気持ちも少しは理解できていた。泉の存在により、薫との距離が人よりも近い美緒に対し、きっと嫉妬心を抱いていたのだろう。
 でもやはりそれは、逆恨みとしか言いようがない。
 えみは綾乃に対し、やはり嫌悪感を拭いきれずにいた。


「どうしよう……」
 えみの元から逃げ出した綾乃は、暗い階段の踊り場に身を隠していた。暗がりの中で、携帯の液晶がぼおっと彼女の顔を照らしている。写っているのは、美緒に送り付けた写真だった。
 とんでもないことを、してしまったのかもしれない。
 画面に映る、薫と麻里が抱き合う光景を目にし、綾乃の気持ちは後悔に包まれていた。綾乃は心の中で悔いていたのだ。少しのイタズラ心で靴箱に入れた、薫と麻里の写真。あれを見て、美緒が少しは薫から離れてくれたらいいと、そう願って靴箱に入れた。
 美緒が薫のことを好きだという証拠などどこにもないのに、ましてや泉と美緒が恋愛関係にあるとさえ思っているのに、どうにかして美緒を薫から遠ざけたかったのだ。泉に好かれ、泉といつも一緒にいるという境遇だけで、自分よりも薫に近い存在である美緒が許せなかった。自分が美緒に憧れを抱くからこそ、薫も同じように美緒を見るのではないかという不安がぬぐいきれなかったのだ。
 あの写真が美緒にどういう衝撃をもたらすなんてことは、考えていなかった。むしろ、今の綾乃にまともな思考能力を求める方が難しいのかもしれない。
 携帯に収めた写真は、それを見るだけなら、薫と麻里が親密な関係であることを意味づけるが、その後の顛末も見届けている綾乃は、その抱擁が麻里の行動を抑えるためだけのものだと分かっている。会話までは聞こえなかったが、半ば半狂乱になって取り乱す麻里の姿は尋常ではないことを肌で感じたのだ。抱きしめるというよりも、押さえ込むという方が正しく、落ち着いた麻里から薫はすぐに腕を離し、それ以上触れ合うことは一切なかった。
 その後すぐに麻里を迎えにきた佐伯祐介の存在が、綾乃の気持ちを落ち着けた。麻里を支えて保健室を去っていく麻里と祐介を目にし、綾乃の中の麻里に対する危機感は薄れていった。
 ――結城麻里は、佐伯祐介がいる限り問題ない。
 そんな冷静な思考さえ脳裏に過ぎった。綾乃の中で、麻里の存在感が薄れた瞬間だった。
 写真が原因で、美緒がこんなにも休んでいるとは思っていない。元より、二人が付き合っていることなど、綾乃は知る由もないのだから。でも、今まで自分が美緒にしてきた数々の仕打ちを考えると、後ろめたい気持ちでいっぱいになった。
 いつだって、美緒は綾乃に対して優しかった。綺麗で、可愛くて、優しくて。泉への侮辱と一緒に美緒を罵り、意味もなく殴打した後も、ことあるごとに美緒に絡み、嫌がらせばかりをしたというのに、美緒は綾乃を責めず許してくれた。嫉妬心から来る八つ当たりであることを簡単に見透かし、それを余裕で受け流すことのできる美緒は、綾乃よりもずっと大人だった。
 それなのに、自分のしていることは何だろう。
 美緒の顔を見ない日が続くことで、冷静になれる自分がいる分、僅かながらの後悔が胸の中で渦巻いていた。

 美緒に送りつけた写真が、既に薫の手に渡っていることなど、この時の綾乃は知る由もない。

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